機動戦士ガンダム ハマーン様、恋をする 14歳の少女が、愛したクズ男に捨てられて、最強の女帝に覚醒するまでの4年間。 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
――宇宙世紀0089 小惑星アクシズ・第一次ネオ・ジオン抗争 終局――
宇宙(そら)には、季節がない。
けれど私は、いつからか自分の指先で季節を数えるようになっていた。
真珠色(パール)。銀色。そして、この、拭い去れない紫。
女帝の椅子は、思っていたよりもずっと冷たい。マハラジャ・カーンの娘として生まれ、ザビ家の遺児を抱き、千の亡霊を統べてきたこの手には、もう震えなど残っていない。かつてゲルググのコックピットで、恐怖に凍りついて操縦桿を握れなかったあの少女は、どこにもいない。私が、私自身の手で、殺したのだ。
――あるいは、あの男が。
「閣下。ジュドー・アーシタが接近します」
副官の声が、玉座の間の静寂を裂く。ダブルゼータ。エゥーゴが遺した、あの忌々しいほど眩しい光。かつてカミーユ・ビダンにそうしたように、宇宙は懲りずに「若者」という名の刃を私に差し向けてくる。
私は立ち上がった。紫のケープが、キュベレイのバインダーのように広がる。
「行くわ。……この抗争を、私の手で終わらせる」
出撃の前に、私は一度だけ、あの部屋に立ち寄った。
ミネバ・ラオ・ザビ。ザビ家最後の遺児。かつて3歳で私の膝の上に座り、クレヨンの匂いをさせていた少女は、もう自分の足で立ち、自分の言葉で私を見上げるまでに育っていた。
「摂政。……行ってしまうの」
「ええ。すぐに戻るわ」
嘘だった。私にはわかっていた。この出撃が、女帝ハマーン・カーンとしての最後の航海になることを。ニュータイプの感覚が、そう告げていた。
私は、彼女の前に膝を折った。かつて誰かが、搬入路でぶつかった14歳の私に、そうしてくれたように。
「ミネバ様。……いいえ、ミネバ。ひとつだけ、覚えておいて」
「なあに」
「あなたは、ザビ家の偶像である前に、一人の人間よ。私は、あなたに『ジオンを背負え』と教え込んできた。……それは、たぶん、間違いだった」
彼女の瞳が、揺れる。3歳の頃と変わらない、澄んだ光。私がとうに失くしてしまった、真珠色の光。
「私を反面教師にしなさい。私のように、誰かの『代用品』を演じて生きては駄目。……あなたは、あなた自身の色で、生きるの」
かつて、あの男が私に願ったことを――「ミネバを、自由という名の嘘ではなく、本当の自由の中で育てたかった」と言った、あの男の遠い声を――私は今、自分の口で、この子に手渡していた。
4年遅れの、けれど、確かな贈り物として。
ミネバは何も言わず、ただ私のケープの裾を、そっと握った。震えていた。かつての私の指先が、そうであったように。
私はその手を、優しく、けれど決定的に、解いた。
「さようなら」とは、言わなかった。それだけが、私に残された、最後の優しさだった。
キュベレイのコックピットに滑り込むと、いつも思い出すことがある。
アクシズの技術区画。青白いホログラムの光。設計図を挟んで、私と誰かが肩を並べて笑っていた、あの日の温度。
私はこの機体を「憎しみ」で動かすのだと、かつて自分に言い聞かせた。あの男に教わった機動(ステップ)で、いつかあの男の喉元を掻き切るのだと。
けれど――今ならわかる。
私がキュベレイに注ぎ込んだのは、憎しみなどではなかった。それは、行き場を失くした「祈り」の残骸だ。誰にも届かず、誰にも受け取ってもらえなかった、一人の人間の、あまりにも純粋で、あまりにも身勝手だった祈り。
シャア・アズナブル。
グリプスの光の中で、あなたの金色の機体は爆炎に消えた。私はあの時、確かに呟いたのだ。「シャア……私と、来てくれれば……」と。
けれど、あなたは来なかった。生きているのか、死んだのかさえ、私にはもうわからない。ただ、あなたが最後まで私の隣を選ばなかったことだけが、絶対零度の真実として、この胸に凍りついている。
(……あなたは、私を自由にしたつもりだったのでしょうね)
(けれど、あなたが私に贈った「自由」とは、たった一人で玉座に縛りつけられて、この宇宙の重さを背負い続けることだった)
(それを、あなたは知っていて、逃げたのだわ)
ファンネルを、放つ。
10基の光の鱗粉が、暗黒の宇宙に散る。ダブルゼータの装甲を掠め、火花を撒き散らす。ジュドー・アーシタ――お前の光は、眩しすぎる。まるで、私が捨てたはずの「真珠色」の残響のようだ。
「ハマーン! あんたは、それでいいのかよ!」
通信回線の向こうで、少年が叫ぶ。ニュータイプの共鳴が、彼の剥き出しの魂を私の脳裏に叩きつけてくる。まっすぐで、汚れていなくて、痛いほどに温かい。
――ああ。
その温度を、私はどこかで知っている。
放課後の廊下で憧れの人を待ち伏せしていた、桃色の髪の少女。真珠のように白かった指先。「私、貴方のために世界で一番強くなる」と誓った、あの日の私。
「人は生きる限り、一人(ひとり)だよ、ジュドー」
私は言った。それは、彼への言葉であると同時に、自分自身への、最後の答え合わせだった。
「人類そのものもそうだ。……私は、それを証明するために、ここまで来たの」
嘘だ。
本当は、証明などしたくなかった。誰かに「そうではない」と、否定してほしかった。あの技術区画で、あの図書室で、私の指先の震えを見て見ぬふりをしたあの男に――ただ一度でいいから、「君は一人ではない」と、嘘でもいいから言ってほしかっただけなのだ。
けれど、その言葉は、ついに誰の口からも零れなかった。
キュベレイのビーム・サーベルと、ダブルゼータのそれが激突する。
白磁の亡霊と、黄金の若者。私が壊したかった過去と、私が壊せなかった未来。
10基のファンネルを、全方位へ散らす。かつてララァ・スンがエルメスで舞い、あの男が「刻(とき)を見た」と言った、あの優雅な死の舞踏。私はそれを、憎しみで模倣し、孤独で磨き上げた。銀色の糸のようなビームが、ダブルゼータの死角という死角を縫っていく。
けれど――この少年は、堕ちない。
「そんなもんで、俺は止まらねえ!」
ハイメガキャノンの閃光が、私のファンネルを2基、まとめて焼き払った。荒削りで、無様で、けれど、生きることを一片も疑っていない光。まぶしい。あまりにも、まぶしすぎる。
(……ああ。かつての私も、こんな光を、放っていたのかしら)
キュベレイが加速する。バインダーが波打ち、私の激昂に呼応して大きく開く。至近距離。ビーム・サーベルが、ダブルゼータの右肩を掠め、装甲を溶かす。火花が、暗黒の宇宙に散る。
コックピット越しに、私たちの視線が交差した。
ジュドー・アーシタ。お前の瞳には、恐怖がない。あるのは、ただ、私を「哀れんでいる」という、耐えがたい光だけ。
「あんた、本当は……戦いたくなんか、ねえんだろ!」
その言葉が、サイコミュを通じて、私の魂の一番柔らかいところを――紫の下に隠した、あの真珠色を――まっすぐに貫いた。
「黙りなさい、小僧が!」
私は叫んだ。けれどその叫びは、怒りではなく、悲鳴に近かった。図星を突かれた、14歳の少女の。
視界が歪む。
ニュータイプの共鳴が、戦場を「あの場所」へと塗り替えていく。誰もいない、夕暮れの図書室。オレンジ色の西日が差し込み、埃が光の粒のように舞っている。本棚に並ぶ、古いモビルスーツの設計図。
そこに、私はいた。
まだ真珠色のマニキュアを塗ったばかりの、拙い手つきの、14歳の私が。誰かの背中を、まっすぐに見つめて。
(……見て。私の爪が、もう真珠色ではいられないのを)
(あなたが私を突き放したあの夜から、私の心には、拭い去れない紫の影が落ちたのよ)
(けれど、ねえ、シャア)
(一番奥の、一番柔らかいところには)
(まだ、あの真珠色が、消えずに残っているの)
「往きなさい、ジュドー・アーシタ」
私は、最後のアクチュエーターを駆動させた。
彼の差し伸べる救いの手を、私は取らなかった。かつて、あの男が私の手を取らなかったように。それは復讐ではない。ただ、私という人間の生き方が、最後まで、そういう形でしかなかったというだけのこと。
キュベレイのバインダーが、大きく、大きく開く。
それは「胎動」の震えでも、「拒絶」の羽ばたきでもなかった。
行き場のない絶望を、ただ静かに包み込むための――孤独な翼。
「私が愛したこの宇宙を、あなたたち若者が、真珠色に塗り替えていけるというのなら」
「……それも、悪くないのかもしれないわね」
白磁の機体が、加速する。アクシズの冷たい壁面が、視界いっぱいに迫ってくる。
私は、コックピットの中で、自分の指先を見た。
紫色に染まりきった、女帝の爪。
けれどその一瞬、月光にも似た無機質な光を反射して、それはほんのわずかに、真珠色に――あの、独りぼっちの摂政と搬入路でぶつかった、14歳の初恋の色に、輝いたような気がした。
「さよなら」
誰に告げたのか、自分でもわからない。
シャアにか。ミネバにか。ジュドーにか。それとも、真珠色の指先で憧れの人を待ち伏せていた、あの日の、愚かで純粋だった少女にか。
「……私たちは、本物を探していた」
「けれど、見つけたのは――別々の孤独だった」
宇宙世紀0089。
第一次ネオ・ジオン抗争は、終結する。
アクシズの女帝、ハマーン・カーン。享年22。
彼女がその紫色の指先で、最後に何を掴もうとしたのか。それを知る者は、この宇宙のどこにもいない。
ただ――
崩れゆくアクシズの片隅、かつて二人きりで設計図を囲んだ図書室の窓辺に、一滴の真珠のような光が、鎮魂歌(レクイエム)のように、ほんの一瞬だけ、灯って消えた。
代用品の季節は、終わった。
そして、少女が守り抜こうとした「本物」の宇宙は――彼女が一度も手に入れられなかったその温度は――若者たちの手に託され、今、静かに、次の刻(とき)を刻み始めている。
(……ねえ、シャア。あなたは今、どこにいるの)
(あなたの逃げた先に、本物の光は、あったのかしら)
崩壊するアクシズの残響の彼方――遥か地球圏の片隅で、その時、一人の男が空を見上げていた。
グリプスの光に飲まれ、消息を絶ったはずの、紅い亡霊。金色の仮面をかなぐり捨て、まだ誰にも知られぬ場所で、次の「刻」を待つ、キャスバル・レム・ダイクン。
彼はふと、胸の奥に走った微かな痛みに、手をやった。
かつて、銀色の爪が引き裂いた、あの夜の傷跡。もうとうに塞がったはずのそこが、今、確かに疼いた。まるで、遠い宇宙の彼方で、一つの魂が燃え尽きたことを告げるかのように。
「……ハマーン」
その名を、彼は誰にともなく呟いた。仮面のない素顔で。
「君は――君だけは、最後まで、私の隣を諦めなかったのだったな」
答える声は、もう、どこからも返ってこない。
紅い彗星が再び宇宙を焼き、地球の重力に魂を引かれた者たちへの断罪を掲げて立ち上がるのは、これよ4年の後。
けれどその時、彼の隣に、真珠色の少女の姿は――もう、ない。
彼は生涯、そのことに気づかぬふりを続けるだろう。
それが、彼女を最も深く愛した男の、最も卑怯で、最も誠実な、たった一つの弔い方だったのだから。