……一頻りやることをやった後。
お互いに寝落ちてしまい──そして目が覚めた。
何も着ていないので、肌寒かったのかもしれない。
唐突に空腹感に襲われた。仮にも陸上部だった彼女の体力にはついていくだけで精一杯だ。
「……あ、起きた」
現に、先に起きて俺の寝顔を眺めていたらしい。
「……腹減ったな」
「喉ガラガラ。なんか飲みたいかも」
「お茶くらいしか無いな今。なんか買いに行くか?」
「ん。ボクも夜風に当たりたい気分」
時計を見ると、夜の10時。
昼間の疲労もあるし、このくらいで勘弁しておこう。明日に響くかもしれない。
「シャワー浴びるか……べとべとのまま寝ると気持ち悪かったし」
「一緒に浴びちゃう?」
「またしたくなるから却下」
「えー……? ……もしかして、ボクのこと、もう飽きちゃったの?」
「アホか、無限ループになっちまうからだろ」
「……それって」
「いちいち恥ずかしがるんじゃねーよ。俺まで恥ずかしくなるだろ」
無限ループの意味を理解したのか──シーツを引っ張り胸元を隠すミライ。
「……ボクは無限ループでも良いけどね?」
「オメーは朝から部活だろ……」
「サボっちゃってもいいけど。寝坊したって言えば良いし」
「オメーな……」
「なんなら──もう、部活もやめようかなって思ってるんだ」
俺は思わず黙ってしまった。
ミライが陸上部をやめる?
考えた事も無かった。あれだけ走る事に固執して、走れなくなったときは死ぬ程落ち込んで、そして──今だって縋るような思いでマネージャーとして陸上部に入っているんじゃないかとまで思っていたからだ。
「ただ──何となく惰性でマネージャーやるのがイヤになったから、かな」
「……本当に、やめちまうのか?」
「ぶっちゃけあの先輩が居たから入ってたようなモンだし。こんな事になったならもう、無理して残る理由もないんだよね」
「……マネージャー、楽しくなかったのか?」
「……楽しくなかったに決まってるじゃん」
臆面も無く──ミライは言った。
「何かの形で陸上続けようとは思ってたよ。それこそ選手をサポートできればそれで良いって思った。でも、来る日も来る日も他の皆が目の前で走ってる姿を見てるだけで……ボクは何やってるんだろうって……」
シーツを捲り上げ、彼女は──未だに大きな傷を残している太腿を見せた。
「……ブランクもあるし……やっぱり、何度全力で走っても、途中で脚が停まっちゃう。いきなりピタって脚が停まって、転んじゃってさ……」
「オマエ、試したのか……!? そんな危ない事──」
「……どうなるか分かってても、止められないんだ。でも……ダメだった。だったらもう、諦めるしかないじゃん」
俺は──頭を抱えそうになった。
結局、表面上どれだけ傷が癒えたように見えても。歩けるようになっても。
彼女の心の傷は癒えないままだった。
ミライの症状は──所謂イップスというやつだ。
甚大なダメージを受けた脚を、無意識に脳が庇ってしまうのだ。
「それにね。今更復帰したって、今全力でトレーニングしてる子達には追いつけないよ。何よりボク自身が……衰えた自分の走りを感じたくないんだ」
にし、とミライは力無く嗤ってみせる。
「幻滅したでしょ? ……もう頑張るのとか疲れちゃったんだ。走ってる他の子を見ると……苦しくなってきちゃう。なのに、あんな先輩の為に……下心でマネージャー続けてさ。バッカみたいだよね」
「下心でも、頑張ってきたのは……事実なんじゃないか」
「塗り潰したかったんだよ。恋とか、愛とか、キラキラしたもので──惨めなボク自身を塗り潰したかった」
そんな事は無い、と言い切れなかった。
人生の合間に走っているのではなく、走っている合間に人生をやっているような少女だった。
だから──走りを奪われた時、ミライは生きる意味を奪われたも同然だった。
あれだけ嘆き悲しんだのも、絶望したのも、彼女にとっての生き甲斐が全部砕けてしまったからだった。
だからミライは埋めようとしたのだろう。走り以外で、彼女の中の欠けた大きな穴を。
「こんな醜いボク、キミに見てほしくなかった。あの頃のボクはもう居ない。キミが全力でサポートしたがってたボクは、もう居ない。ボクの事なんて忘れて、もっと良い人と付き合って、そのまま何処にでも行っちゃえって思ったよ」
「……」
「でも結局、ボク……キミに頼っちゃった……ワガママ言って……ホント、ボクってサイテーだ」
だけど──だからこそ俺は放っておけない。
ミライの肩を抱き寄せた。
「……サイテーなのは、俺も同じだろ」
「え?」
「お前は散々自分の事を腐してるけど、俺も大概だぞ。例の先輩と変わらん」
「違う。そんなことない。だってキミは……ボクが一番辛い時にも一緒に居てくれた。……なんで、ボクの為に、ここまでしてくれるのさ。ボクなんかの為に」
「先に言っておくぞ。オマエがどうなろうが、オマエがどう思ってようが幼馴染なのは変わらねーよ」
そう。それだけは事実だ。
ずっと隣に住んでいて、ずっと同じ学校で過ごして来た。
辛い時も、嬉しい時もずっと近くに居た。兄妹と思ってしまうほどに。
「お前が嬉しけりゃ、俺も嬉しい。お前が悲しかったら、俺も悲しい。ただそれだけの……単純な話だろ」
「……なにそれ。答えになってるのか、なってないのか……」
「十分答えになってるだろ」
好きだとか嫌いだとか、友情とか恋愛だとかそれ以前の問題だ。
きっと──これだけは死ぬまで変わらないのだと思う。
どれだけ道を違えても──決して曲がらないと思う、と断言できる。
「だから……これからは俺をもっと頼れ。オマエが……そこまで思い詰めてたのに気づけなかったのは……正直悔しい」
正直、俺も上手くやれていると思ってしまっていた。
高校に入って普通に友達も居るし、陸上部でマネージャーをやっているしで、すっかり立ち直ったものだと思ってしまっていた。
だけど、違った。あれだけの傷がそう簡単に癒えるはずがなかった。
他でもない俺が──目を逸らしてしまっていた。
ミライ自身の言葉を言い訳にして。
「走れなくっても、本当は部活行きたくなくっても……他にまた好きなヤツができても、俺は……お前が嬉しかったら嬉しいし、お前が悲しかったら悲しい」
「……何処まで本気なんだか……いや、本気だよね」
「だからもうちょっと俺を信用しろよ相棒」
「……相棒、か」
中学の頃の事を思い出す。
トレーニングを考えて、それに合わせた食事も考えて。
自主練にも付き合って──二人で全国獲ろうって意気込んで。
確かにあの時、俺達は通じ合っていた。
「……全く、キミには敵わないよ。ちょっとボクの事が好きすぎるんじゃない?」
「揶揄ったら良い顔するからな」
割と本気で頬を抓られた。
「……いだい」
「全く。他の娘だったら、今ので全部パーだからね。絶交宣言されてもおかしくないよ」
「そんなに悪かったかよ」
「悪い。あーあ、ご機嫌でいる理由無くなっちゃったよ。これは何か良いものを奢って貰わなきゃダメだね」
「あれだけ付き合ったのに……」
「走れないボクは……気分屋で、癇癪持ちな──ただのメンドーな女の子なのですっ」
「よーく知ってる。走ってない時のオマエもずっと見てるんだぞこちとら」
「……そうだね」
それで気をよくしたのか、ミライは起き上がる。
そして俺の手を引っ張るのだった。
「ねえ、シャワーやっぱり一緒に浴びようよ」
……無限ループになっても知らんぞ俺は。