五条悟になってワンピース世界に転生したけど、エースだけは絶対に死なせない 作:熊々
今回は戦場の話を一度離れます。
シャボンディに戻ったアズールが、十年前のある夜を思い返す回です。当時十三歳。彼にとって最初の任務でした。
そして現在のシャクヤク。夜のバーでの、少しだけ温度の高い会話を書いています。
続きが気になる夜を、お届けします。
シャボンディ諸島の夜は、油の匂いがする。
樹液が燃える匂いと、港から流れてくる船舶用の重油の匂い。それが混ざって雨上がりの夜にだけ薄く漂う。俺はこの匂いが嫌いじゃない。むしろ「帰ってきた」と体に教えてくれる。
エニエス・ロビーから戻って二日。司法の島で着けた埃も潮も煙の匂いも、潮風と雨でひととおり落ちた。落ちないものもある。指先と袖口に残る、火薬の匂い。バスターコールの撃ち残し。これだけは、洗っても二日は抜けない。
シャクヤクのバーの裏口を開けた。
「ただいま」
声を低めに出した。客の前で出さない声色。家の中だけの声。
「おかえり、アズくん」
カウンター越しに振り向いたシャクヤクは相変わらずだった。深い赤の口紅。長い黒髪を肩に流してエプロンの紐を腰の後ろで結んでいる。エニエス・ロビーのバスターコールから二日。俺の顔を見てもシャクヤクは驚かない。
「肩」
短く言われた。
「うん。あと太腿」
「脱ぎなさい」
「……いや、そういう流れじゃないでしょ」
「アズくん」
二音で名前を呼ばれると弱い。俺は素直にコートを落として、カウンターのスツールに座った。シャクヤクが棚から箱を出す。包帯と消毒。慣れた手つき。
肩の傷は浅い。指銃が無下限の縁を貫通寸前で止まった——その縁の擦過。太腿の方も似たようなものだ。普通の人間なら一週間。俺は明日には塞がる。
シャツを片肩だけ脱ぐとシャクヤクの指先が傷の縁をなぞった。爪の腹で軽く触れて深さを確かめる手つきだ。十年で何度されたかわからない。痛みはない。
「カリファちゃんは無事だったの」
布を消毒液に浸しながらシャクヤクが言った。
「気絶させて壁際に座らせてきた。眼鏡も拾って胸ポケットに刺しといた」
「アズくん、そういうとこよね」
「どういうとこ」
「別れ際までちゃんとしてるとこ」
シャクヤクが笑った。布が肩に当たってしみる。
⸻
カウンター奥の席で新聞をめくる音がした。
レイリーだった。脚を組んで、手元のグラスにラム酒。新聞は今日の朝刊。一面はもちろん「司法の島、煙に包まれる」。バスターコールの煙の写真が、大きく刷られていた。
「坊主」
「なに」
「お前、十三の頃の話覚えてるか」
紙面から目を上げないまま、レイリーが言った。俺は包帯を巻かれている肩を見た。
(——あの夜の話、ジジイがまた持ち出すか)
「覚えてる」
「あの頃のお前、刀の柄を握る手が震えてたぞ」
「うるさいよ」
「いや、ほめてんだ」
レイリーが新聞を畳んだ。畳んだ新聞をカウンターに置く音が、思いのほか大きく響いた。シャクヤクが、笑わない目で俺を見た。
「アズくん。覚えてるならちょうどいいわ。あの夜の話、しなさいよ。包帯巻く間、私聞いとくから」
「……オーダーかよ、それ」
「オーダーよ」
仕方ない。新聞の上のレイリーは、もうこちらを見ていない。シャクヤクの指は、俺の太腿の包帯に移っている。逃げ場はなかった。
俺は天井を見上げた。天井の木目はあの頃と変わっていない。シャボンディの樹液で黒ずんで、節があって、見るたびに同じ模様。十年前もこの天井を見ていた。
⸻
——十年前。
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その夜の僕は十三歳だった。
シャクヤクのバーの二階。ろうそくの火を一本だけ点けて依頼書を読んでいた。紙は薄い羊皮紙。インクは紫がかった黒。書き手の指紋は残っていない。手練れの依頼書だった。
> 標的:マリージョア所属貴族、テオドール・サンクレイア卿
> 罪状:奴隷の私的虐殺、計四十三名
> 依頼主:政府内部告発者(匿名)
> 報酬:五千万ベリー
四十三。僕はその数字を二度読んだ。
四十三人。名前は書かれていなかった。罪状の欄に「私的虐殺」とだけ。年齢も性別も国籍もない。記録に残らないように殺された人間はこうやって数字だけになる。
(——四十三人を数字にした男か)
依頼書をろうそくの火にくべた。紙の端から橙色の輪が広がって、紫黒のインクが灰になっていく。火が指先に近づいた。無下限の縁を一瞬だけ薄くして、灰だけ落とした。
腰に二振りの刀を差した。一振りは「闇」。もう一振りは予備。「闇」は呪具改造の片刃で、鞘ごと気配を吸う。十三の僕の身長には、少し長すぎた。
階段を降りた。バーは閉店後だった。シャクヤクがカウンターを布で拭いていた。彼女はもう、僕が降りてくる音だけで全部わかる。振り返らずに背中越しに言った。
「いってらっしゃい、アズくん」
「いってきます、シャクヤクさん」
「血、ちゃんと落としてから帰ってきてね」
声は柔らかかった。叱るでもなく止めるでもなく。普段の「お肉、解凍しといて」と同じ温度で彼女はそう言った。僕は頷いて裏口から出た。
⸻
マリージョアは雲の上にある。
正確にはレッドラインの中腹に切り込まれた人工の都市。聖地と呼ばれる。世界政府が認める「人ではない人」が住む街。サンクレイア卿の屋敷は聖地の縁にあった。聖地から少し外れて世俗の貴族が天竜人の真似事で建てた白亜の屋敷。僕はそこに屋根づたいに入った。
無下限の縁を全身に薄く纏ったまま、足音を消す。気配は刀「闇」が吸ってくれる。屋敷の警備兵は、僕の通った後ろを通り過ぎても何も見ない。視線が滑る。「そこに人がいる」という認識が、最初から発生しない。
これが、僕の最初の任務の手応えだった。
(——気配を消すってのは、こういうことか)
中庭を見下ろす二階の渡り廊下に、僕は立っていた。中庭で、サンクレイア卿は奴隷を殴っていた。
⸻
奴隷は、十歳くらいの少年だった。
首に革の輪。輪には鎖。鎖は地面の鉄環に繋がれていた。少年は両膝をついて、両手で頭を庇っていた。サンクレイアは銀の握りの杖で、少年の背中を打っていた。一打ごとに、布のような音がした。少年はもう声を出していなかった。
「数えろ」
サンクレイアが言った。声は太くねばついていた。
「数えろと言ったぞ、家畜」
少年は数えなかった。数えられなかった、が正しい。背中の布は黒く濡れていた。
僕は視界の端で、ろうそくの火が一本だけ燃えるような感覚を覚えた。
(——あ。これか)
冷却モード、というやつが来た。声のトーンが二段下がる、と前世の自分が形容した感覚。怒りじゃない。怒りはもっと熱い。これは違う。これは世界の温度がそのまま下がる感覚だった。手のひらの汗が引いた。心拍が十も下がった。視界がやけに澄んでいた。
僕は渡り廊下から、中庭に降りた。
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『——術式順転"蒼"』
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声は、出さなかった。
唇の中で唱えただけだ。それでも、無下限の引力は発動した。半径三メートル。中庭の真ん中。サンクレイアの周りの空気が、ほんの少しだけ内側に吸い込まれた。
「な——」
サンクレイアが、振り返った。僕はその顔を見上げた。汗の浮いた額。脂ぎった頬。怯え始めた目。「人ではない人」の真似をしてきた男の、ただの人間の顔。
「四十三人」
僕は言った。声は自分でも驚くほど低かった。
「数えるべきは、あんただったよ」
サンクレイアの杖が、僕に向かって振り下ろされた。杖は、僕の頭の三センチ手前で止まった。永遠に届かない壁にぶつかったまま、男の腕が震えた。
「化け物が」
サンクレイアが呟いた。命乞いでもなく、命令でもない。ただ、知らない単語を口にした、という顔だった。
⸻
『——無限消失(むげんしょうしつ)』
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それが、僕の初めての名乗りだった。
僕は無下限の極小の点を、サンクレイアの胸の中心に置いた。点は人間の輪郭ごと、無限の彼方へ「ずれた」。直接目で見たわけじゃない。
ただ、振り下ろされた杖の先が宙で止まったまま——握っていた手がなくなっていた。腕も肩も胸も頭も。中庭の石畳の上に、銀の握りの杖だけが落ちた。カランと軽い音がした。
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中庭は、しんとしていた。
——後に屋敷の警備兵の一人が、町の酒場でこう証言したらしい。「触れた瞬間に消えたんだ。影も音も血も何もなかった」「俺たちは最初からあそこに人がいなかった気がした」と。僕はその話を、十年経ってからレイリー越しに聞いた。
少年が顔を上げた。両目が大きく開いていた。鎖は繋がれたまま。彼の目に僕がどう映ったかはわからない。僕は鎖の鉄環に手を当てた。
『——順転"蒼"』
鉄環が内側に潰れた。鎖が外れた。少年の首の革はナイフで切った。
「歩けるか」
少年は頷いた。
「裏門に荷馬車がある。御者は買収済みだ。乗れ」
少年は僕を見上げた。何か言いかけて声が出ないことに気づいて、もう一度頷いた。僕は中庭の隅に転がった銀の握りの杖を一瞥した。
(——血、ちゃんと落としてから帰ってきてね、か)
血は出ていなかった。「無限消失」の決まり手は血を残さない。だから僕は少年を逃がしたあと、井戸の水で手だけ洗って屋敷を出た。水は冷たくて、十三の手の甲が少しだけ赤くなった。
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——シャボンディ。
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帰り着いたのは、明け方だった。
シャクヤクのバーの裏口。鍵は開いていた。彼女はカウンターの奥で、もう次の朝の仕込みを始めていた。鍋の湯気が天井に上っていた。
「おかえり、アズくん」
「ただいま、シャクヤクさん」
「血」
「落としてきた」
「ほんと?」
シャクヤクが振り返った。彼女は僕の手を取って甲を裏返して爪の間まで見た。それから頷いた。
「えらい」
その一言だけだった。僕はカウンターのスツールに座った。シャクヤクが温めた牛乳をグラスに注いだ。砂糖をひとつまみ入れて、混ぜずに、ことんと僕の前に置いた。
レイリーが奥の席で新聞を広げていた。彼の前にもラムのグラスがあった。彼は新聞越しにこちらを見もしないで言った。
「やりやがった、こいつ」
「……うるさいよ、ジジイ」
「政府の上の連中、震えてるとよ」
「ふうん」
「『シャボンディに新しい幽鬼が出た』『十三の小僧らしい』『ありえねえ』——だとよ」
レイリーが新聞を畳んだ。畳んだ縁で僕の頭を軽く叩いた。
「お前、すげえな」
僕は牛乳のグラスを両手で持った。グラスが思ったより熱かった。指の腹に温度がじんわり残った。熱い、とようやく思った。冷却モードがゆっくり戻ってきていた。
⸻
シャクヤクがカウンター越しに身を屈めて僕の耳元で言った。
「アズくん、すごかったんだって? 政府の上の連中が震えてるって聞いたわ」
声は艶っぽかった。からかいの匂いがあった。僕はグラスから顔を上げられなかった。
「……シャクヤクさん、あの」
「なに?」
「俺、今日ちゃんと血、落としてきました」
シャクヤクは笑った。それから僕の頭の上に手を置いた。掌は温かかった。
「えらいわよ、アズくん。本当に」
⸻
——現在。
⸻
天井の木目から視線を戻した。
シャクヤクが太腿の包帯を巻き終わったところだった。彼女の指先が布の端を肌に押し付けて止めた。少しだけ止め方が長かった。
「終わり」
「ありがと」
レイリーが新聞をもう一度開いていた。
「あの頃のお前は、刀を握る手が震えてた」
「知ってる」
「今は震えなくなったな」
「うん」
「お前、ちゃんと進んでるよ、坊主」
レイリーは新聞越しにそれだけ言った。俺は笑った。冷却じゃない方の普通の笑いが出た。
「ジジイが褒めると、明日は雨だな」
「言ってろ」
⸻
シャクヤクが包帯の余りを箱に戻した。それからエプロンの紐を解いた。腰の後ろの結び目がほどける音がした。
「アズくん」
「はい」
「今夜、うちに泊まりなさい」
「……は?」
「上の部屋、空いてるから。ベッド、二つあるし」
「……二つ」
「今夜は、ね」
シャクヤクは目だけで笑った。口元は笑っていない。これは彼女の中でも一番きわどい温度の冗談で、半分だけ本気だというやつだ。十年付き合うとわかる。
俺は天井をもう一度見上げた。木目はあの頃と同じだった。
「あー……はい」
素直に頷いた。レイリーが新聞の影ではっきりと笑った気配があった。
⸻
裏口の窓の外で汽笛が鳴った。
港の方からだった。深く長く二度。新世界航路の便ではなかった。グランドラインの入口シャボンディに着岸する船の汽笛。最近こいつが増えていた。
シャクヤクが新聞の隅を指で叩いた。
「見た? これ」
俺は新聞を覗き込んだ。レイリーが読んでいた紙面の隅。小さな見出しがあった。
(——ああ、もう来るのか)
シャクヤクがグラスを片付けながらつぶやいた。
「賑やかな朝がもうすぐ来るわよ」
「……だろうね」
「アズくん」
「うん」
「あなた、また忙しくなるわよ」
俺はコートをスツールの背から取った。袖を通しながら肩の包帯の上から軽く押さえた。傷はもう塞がりかけていた。シャクヤクが裏口の鍵を内側から落とした。コトン、と小さな音がした。
裏口の窓の向こう。シャボンディの夜。
油の匂いがいつもより少しだけ濃かった。
港の灯りが揺れていた。
明日、何かがシャボンディに来る。
読んでいただきありがとうございました。
今回は戦場の話を一度引きました。書きながら自分でも、十三歳の彼の手が震えていた感触を思い出していました。冷却モードが初めて発動した夜、というのは、彼にとって人生で一番静かな夜だったと思います。
シャクヤクの包帯のシーンは、書いていて温度がじわじわ上がってしまって、何度か削りました。あれくらいで、ちょうどいいかもしれません。
次回、第17話。シャボンディに集まり始めた最悪の世代。アズールが三人と立て続けに出会います。誰、というのは本文で読んでください。
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書いている甲斐があります。次回も読んでください。