五条悟になってワンピース世界に転生したけど、エースだけは絶対に死なせない 作:熊々
セリフ多めで戦闘はありません。けれど読み終わったあと、たぶん少しだけ夜が静かになります。
よかったら最後までお付き合いください。
気配の不在のような気配。あれを辿って俺は北へ向かった。
シャボンディは夜になると別の街になる。昼の喧騒を脱いで油と酒と潮の匂いだけを残す。グローブ番号でいうと13番のあたり。観光客が踏み込まない区画で街灯の光は弱く、影の方が濃い。倉庫街。波止場のすぐ裏。
潮風に別の匂いが混じっている。消毒薬。あるいはそれに似た薬品の匂い。俺は足を止めた。
(——医者がいる)
前世の記憶の方が先に反応した。手術室で何百回と嗅いだ匂いだ。アルコール、ヨード、麻酔の蒸気——それらを薄めて潮で割ったような独特の混合臭だった。鼻が覚えている。脳の前世側が覚えている。海賊の街でこの匂いに行き当たるのは妙な話で、しかも質が高い。場末のヤブ医者の薬棚から漂うものではない。施術中の現場の匂いだ。
気配は廃倉庫の三つ目の中。屋根のトタンに穴が空いていてそこから光が漏れている。光は青い。電灯ではない。もっと違う、人工的でないしかし自然光でもない、曖昧な青だった。
扉の前で一度息を整えてから俺はそれを開けた。
扉に手をかける直前、迷いがなかったかと言えば嘘になる。気配の主が誰であっても、施術中の医者を背後から覗くのは礼儀を欠く行為だった。前世の俺が一番嫌った種類の客の入り方だ。けれど引き返す理由もなかった。気配の質が悪くない。殺気がない。緊張だけがある。緊張だけの気配は、迷惑をかけても殺されはしない。
⸻
鉄扉が軋む。
中は思ったより広かった。倉庫の梁が剥き出しで床にはシートが敷かれその上に簡易の手術台。台の上にいるのは男——ハートの海賊団の制服を着た若い男だ。腹に深い裂傷。手術中。
台のそばにもう一人立っていた。背の高いひょろりとした男。黒のフードに金のスポット模様。胸まで開けたコート。剣を背負っている。指が長い。手袋が血で濡れている。その手の周囲だけ空気が球状に切り取られたように歪んでいる。
青い、あの光の正体だ。
『——ROOM』
独立した一行のように男が低く呟いた。球の中で若い男の傷口がゆっくりと閉じていく。針も糸も使わずに。組織が組織に戻っていく。前世の医者だった俺の脳がその光景を見て一瞬で固まった。
(——なんだ、それは)
トラファルガー・ロー。顔は新聞で何度か見ている。最近シャボンディに入ったらしい新人。最悪の世代の一人。能力はオペオペの実——と賞金稼ぎの間で噂になっている。噂のうち、たぶん七割は誇張だろうと俺は思っていた。残り三割が、どうやら本物だ。
ローが振り返りもせずに口を開いた。
「あー、悪いな。今、手が離せない」
低く間延びした声。背中越しの声なのに耳の中で勝手に立体になる。声が立つ男だ。
「邪魔するつもりはない」と俺は言った。
「気配を辿ってきただけだ。終わるまでそこで待たせてもらう」
ローは首だけをこちらに向けた。帽子の下から薄く笑っているような笑っていないような目がのぞく。
「気配を辿る、ね。穏やかな言い方だ。普通そういうのは『付け回した』って言うんじゃないか」
「人聞きの悪いことを言うな」
「事実だろ」
「事実は丁寧に言い換えるためにある」
「初めて聞く哲学だ」
ローが鼻で笑った。手元の球が一度膨らみ、また縮む。若い男の腹の傷が最後の数センチを閉じる。終わった、と俺の前世の医者が言った。十分どころじゃない。完璧な縫合だ、いや、縫合ですらない、完璧な再構築だ。前世の俺が自分のメスで一生かけてもこの精度には届かなかっただろう。
「シャチ、起きろ」
台の上の男が薄く目を開ける。
「……船長、終わった、ですか」
「終わった。動くな、まだ立つな。ベポ、こいつを下げて寝かせろ」
倉庫の隅から白い毛皮の生き物が出てきた。直立している。熊だ、たぶん。
「すみません!」
ベポと呼ばれた熊が頭を下げる。誰に対してかわからない謝罪。たぶん俺に対してだ。礼儀正しい熊だった。
「すみませんって、何が悪いんだ」
「いや、その、なんとなく、です!」
「お前、もう少し堂々としろ」
「すみません!」
ローが軽く息を吐いた。慣れた呆れ方だ。シャチという男を支えてベポは奥へ引っ込んだ。倉庫に俺とローだけが残った。
ローがようやくこちらに正面から向き直る。青い球——ROOMの直径が広がって俺の足元まで届いた。
⸻
ROOMの中に入った瞬間、空気の質が変わった。
正確に言うと空気の「位置情報」が書き換え可能になった。前世の医者で、今世は呪術を使う男として俺はそれを直感で理解した。この球の中ではローはあらゆるものを切り入れ替え取り出せる。臓器も、人格も、たぶん俺の右目も。
俺は動かなかった。動けば敵意になる。動かないうちは観察だ。観察で済むなら、それが一番いい。
ローはこちらを見ている。視線が俺の顔の上を二往復してから右の眼窩で止まった。止まったまま動かない。三秒、四秒。医者の視線だ。患者を見るときの目の置き方だった。
「……君のその右目」
ローが言った。
「何だ、それは」
「目だ」
「ふざけるな。神経系じゃないだろ、それ」
「医者か」
「元、な」とローは即答した。
「今は外科医を名乗ってる」
俺は少しだけ笑いそうになってこらえた。笑う場面ではない。けれど可笑しかった。世界の海でいきなり同業者に当たる確率は低い。低い確率を引き当てたとき、人は笑いそうになる。
「俺もだよ。前世がな」
「前世」
ローは聞き流した、ように見えた。けれど目だけがほんのわずか動いた。聞き流す医者は目を動かさない。聞き逃さなかった医者の目だ。覚えておく、と俺は思った。覚えていてくれる相手は信頼できる。覚えていないふりが上手い相手は危険だ。ローは前者だった。
ローは続けた。
「君の右目は視覚の構造をしていない。網膜から視神経に行ってない。もっと別の——感覚器が、視神経を経由せずに、直接、脳幹に繋がっている構造だ。ROOMの中でなら、それくらいわかる」
「鋭いな」
「鋭いんじゃない。俺がそういう医者なんだ」
返しが速い。短い。ローのリズムだ。話すというより刻む話し方。
俺は右目の縁に指を当てて軽く叩いた。
「これがあるから術式が撃てる。両目だったらもっと無茶できたんだろうな」
「術式」とローはもう一度繰り返した。
「変な言葉を使う男だ」
「俺の故郷の言葉だ」
「故郷、ね」
ローは小さく笑った。今度は本当に笑った、と思う。一秒未満だったけれど。
(——会話が成立する男だ)
成立しすぎる、とも言える。シャボンディに来てから初めてだ。レイリーは別格として、ここまで噛み合う相手は珍しい。噛み合うということは、相手も同じだけ噛み合っているということで、つまり俺も向こうから読まれている。等価交換だった。
「片眼か」
ローが言った。視線はもう右目から外れている。
「長時間戦闘で疲労が早いだろ。両目で処理する前提の構造を片目で全部受け止めてる。脳側の負荷が異常だ。それと——片目を狙われたら、一気に崩れる」
俺は答えるべきかためらった。ためらった時点でローはもう答えを得ている。そういう男だ。隠しても無駄だし、隠そうとした素振りそのものが情報になる。なら最初から渡した方が早い。
「そういうことだ」と俺は認めた。
「狙われたら、終わる」
「正直だな」
「医者には嘘をつかない主義だ」
「俺は医者じゃない。今は海賊だ」
「元医者は一生医者だよ」
ローは答えなかった。帽子のつばを少し引き下げた。それが答えのかわりだった、と俺は受け取った。手元のメスを一本くるりと回す。指の動きが滑らかすぎる。あの指が患者の腹の中で動いていたわけだ。納得はする。納得はするが、目の前で見ると別の感想が湧く。
怖い男だ。
それは前世の俺の感想でもあり、今世の俺の感想でもあった。前世で同業者を見たときの感想と、今世で強者を見たときの感想がここまできれいに重なるのは珍しい。たいていの相手はどちらかにしか刺さらない。両方に刺さる男は、たぶん俺と似た形をしている。似た形をしている人間は、好きにはなれないが嫌いにもなれない。距離だけが残る。今、ローと俺の間にあるのは、そういう距離だった。
⸻
沈黙の中でROOMが一度小さくなった。
ローが別の話題を投げてきた。
「君、政府の裏ルートで、別名で呼ばれてるな」
心臓がほんの一瞬だけ早く打った。表情には出さなかったはずだ。出さなかったはずだが、目の前の男はROOMの中の俺の心拍まで読んでいるのかもしれなかった。
「やめろ」
俺は言った。
「その名前は呼ぶな」
「了解」
ローはあっさりと頷いた。驚いたのはその引き際の速さの方だ。普通、知っていることを口にしたい人間はもう一押ししてくる。確認の意味でもう一回名前を出してくる。ローはそれをしなかった。知っていて口にしないという判断ができる男だ。賢い、というより、品がある、に近い。海賊にこの形容は似合わないが、ローには似合った。
「君は何で生きてる」
ローが訊いた。質問の角度が変だ。
「何で、というのは」
「目的だ。海賊じゃないだろ。海軍でもない。革命軍でもなさそうだ。なら、何で動いてる」
俺は少しだけ考えて答えた。
「探してる人間がいる」
「ふうん」
「それだけだ」
「単純な動機だ」
「単純な方が長持ちする」
ローは小さく頷いた。納得したのか、しないのか、わからない頷き方だった。たぶん納得はしていない。けれど追わない。追わないという判断を即座に出せるところが、この男のいちばん怖い部分だった。
「君は」
俺は逆に訊いた。
「何で生きてる」
ローは少しの間、答えなかった。ROOMが、ぱちんと音を立てて消えた。青い球が空気に溶けて倉庫の梁の影が戻ってくる。空気の重さが急に普通に戻った。
「答えると長くなる」とローは言った。
「短くしてくれ」
「殺したい男がいる」
「単純だな」
「単純な方が長持ちする、らしいぞ」
俺は、ふっと笑った。やられた。
⸻
「面白い男だな」とローが言った。
「お互い様だ」
「マリンフォードで会うかもしれんな」
俺はその単語に少しだけ反応した。ローは見ていた。見て、また聞き流すふりをした。聞き流すふりをしながら、やっぱり目で覚えていた。
「らしいな」
俺はそれだけ返した。ローは背を向けて奥の通路へ歩き出した。扉の前で一度だけ振り返った。
「片目、大事にしろ」
医者として言ったのか、海賊として言ったのか、判別できない声色だった。たぶん、どっちもだ。
扉が閉まる。倉庫に俺だけが残った。頭の中に、ローの言葉だけが残った。
——片目を狙われたら、一気に崩れる。
わかっている。ずっとわかっていた。わかっていたものを他人の口から聞かされるのは、わかっていたものを再確認する作業ではなく、わかっていたものを「他人にも見えていた」と確認する作業だった。後者の方がずっと重い。世界の中にもう一人、俺の弱点を見抜いた男がいる。それだけで世界の構造が少しだけ変わる。
⸻
外に出ると海が見えた。
波止場の向こう、月明かりの中に奇妙な形の影がある。長い、円筒形の——船にしては低い。潜水艦だ。ハートの海賊団の船。表面に金のスポット模様。さっきのコートと同じ柄だ。
あれで海の底を移動するのか、と俺は思った。便利な男だ。便利で、面倒な男だ。
潜水艦というのは前世の俺の世界にもあった乗り物で、けれどここまで自由には動かせなかった。水深と圧力と酸素の問題があったし、何より浮上のタイミングを誤れば乗員ごと沈む。海賊の船としてあれを選ぶのは、合理的というより異常だ。異常な選択を平然と日常として運用できる男が、さっきまで俺の前で手術をしていた。納得した。あの精度の縫合をする手なら、潜水艦の整備くらいはできるだろう。
俺は右目の縁にもう一度指を当てた。ローの言葉が耳の奥でゆっくり再生される。
両目だったら、と何度も思った。両目で生まれていれば術式の出力はもっと安定したし長時間戦闘でも疲労しなかった。けれど俺はそれを「ハンデ」とは呼ばない。呼んでしまったらその瞬間に弱点になる。今のところこれは「仕様」だ。仕様の範囲で動く分には誰にも崩されない。
(——ただし、マリンフォードでは違う)
あそこには世界の上位の戦闘力が一箇所に集まる。海軍本部、七武海、白ひげ海賊団。誰か一人でもローと同じ精度で俺の右目の構造を見抜く者がいたら——崩される。
ローは見抜いた。ローはたぶんマリンフォードに来る。
来て、敵か味方かはまだわからない。けれど少なくとも一人、あの場で俺の右目を最初から識別している男がいる。それは脅威でもあり、保険でもある。両方の側に置いておく男として、ちょうどいい距離感だった。
答えは出ない。出さなくていい、と俺は思った。答えはマリンフォードで出す。今夜は出さない。
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シャボンディの夜風が波止場の方から吹いてきた。潜水艦の影が少しだけ揺れた。
街の中央の方——別の方角——でまた気配が一つ動いた。さっきのローのものとは違う種類の気配だ。
若い。それから、空腹そうだ。
(——明日も忙しくなりそうだ)
俺はシャクヤクのバーに戻る道を歩き始めた。
歩きながら、もう一度だけ右目に指を当てた。冷えていた。少し冷えすぎていた。
明日になればまた誰かに会う。シャボンディの夜は、ひとに会わせる夜だ。
夜はまだ、終わらない。
ローという男の温度感を書きたかった回でした。
原作のローはセリフのリズムが独特で、寡黙なのに饒舌、医者なのに海賊、という二重性で動いている男です。
アズールと並べたとき、二人とも医者の輪郭を持っているのに、滲ませる方向が真逆になる——そこを一場面で見せたかった。
次回・第19話。シャボンディの三人目に会います。ローでも、レイリーでも、シャクヤクでもない、少しだけ変わった少女です。空腹そうな気配、とだけ書いておきます。
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