五条悟になってワンピース世界に転生したけど、エースだけは絶対に死なせない 作:熊々
夜風に乗って届いた「若くて、空腹そうな」気配。
あれの正体に、翌朝の市場で出くわします。
シャボンディで三人目。
ピンク髪の少女と、山積みのピザと、軽口の応酬。
——どこかで聞いた名前だと思った方は、たぶん当たりです。
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まだまだ続きますのでどうぞよろしくお願いします。
朝のシャボンディ諸島は、夜の喧騒とは別の生き物だった。グローブ24番の市場通りには露店がひしめいていて、果物の山と魚の腹と安酒のにおいが混ざる。観光客が地図を広げ、海賊が朝飯をかきこみ、奴隷商人が早い時間から客を物色している。健全な街じゃない。だが生きている街ではある。
俺は安いコーヒーを片手に、その雑踏を歩いていた。
シャクヤクの店を出てからまだ何刻も経っていない。ローの言葉が頭の隅に残っている。残っているが反芻する気分でもない。朝の光は、夜のうちに考えていたことを薄っぺらく見せる。考えるなら夜がいいし、忘れるなら朝がいい。今日は後者の朝だった。
——昨夜の気配。
若くて空腹そうな、あの気配。
辿るつもりはなかった。ただ市場を抜けて宿に戻る道筋に、その残り香が落ちていただけだ。落ちているなら踏んで通り過ぎるのが筋だろう。覗き込む気はない。気配なんてものは追いかけ始めると癖になる。癖になると寿命が縮む。俺はそういう癖を二十三年間ずっと避けてきた。
そう思っていた。思っていたんだが——。
⸻
屋台の前にピンク色の頭が一つあった。
ピザ屋の屋台だった。マンモスの背中みたいに巨大な鉄板の上で、生地が次々に焼かれている。チーズが弾けてトマトの赤が滲む。観光客が三、四人ほど並んで順番待ちをしていた。香ばしい焦げの匂いが朝の風に乗って通りまで流れてくる。
その列の先で、ピンクの少女が一人ピザを食っていた。
一枚じゃない。足元に空の皿が積まれていた。三、四枚は積まれていた。テーブルの上にも一枚、半分かじりかけが乗っていて、両手にはまた別の一枚が握られている。隣の席の客は皿の山を見て見ぬふりをしながら距離を取っていた。当然だった。あんなものを朝から目撃したら誰だって食欲が消える。
口の周りはトマトソースで汚れていた。頬は栗鼠みたいに膨らんでいた。そのままもう一口かじった。
「……」
俺は足を止めた。止めるつもりはなかったが止まった。ピンクの髪、薄汚れた帽子、肩を出した派手なシャツ、腰に短いブーツ。歳は——見たところ十二か三か。少女と呼ぶには気の強そうな目をしている。少女と呼ぶには口の動きが大胆すぎる。少女と呼ぶには皿が多すぎる。
噂で名前は聞いたことがあった。
ジュエリー・ボニー。最悪の世代の一人。懸賞金一億四千万。シャボンディに上がってきていると、昨夜シャクヤクが言っていた気がする。あの女将の口から名前が出る客は、だいたい厄介な部類だ。今回も例外じゃないらしい。
面識はない。声をかける義理もない。俺はコーヒーを一口飲んで視線を外した。外してそのまま通り過ぎようとした。
「——おい」
少女のほうが先に口を開いた。口の中のピザを呑み込んでから、もう一口かじりながら、俺の背中に投げてきた声だった。
「あんた、変な目してんね」
俺は半歩戻った。
「片目だけ蒼いって、シャボンディに二人もいねえって聞いたぜ。ここ最近の酒場の話題はあんたで持ちきりだ」
「……観光客だ」
「観光客は変な目してねえよ」
少女はピザの最後の一切れを口に押し込み、指を舐めた。それから足元の皿の山を顎でしゃくった。
「座れよ。一杯おごってやる。コーヒーぬるくなってるだろ」
「結構だ」
「つれねえな」
俺はもう一度半歩戻った。今度は彼女の向かいの椅子の前まで。座らずに椅子の背に手だけかけた。
「一つ聞いていいか」
「なんだ」
「お前こそ、何でこんな朝からそんなに食ってんだ」
ボニーは新しいピザを受け取りながらふんと鼻で笑った。
「腹減ってんだから食ってるだけだろ。文句あるか」
「ない」
「だろ」
⸻
それからしばらく、軽口だけが転がった。
天気の話。屋台の値段の話。観光客の財布の薄さの話。海軍が最近うざいという話。彼女はピザを食い続け、俺はコーヒーを温め直してもらった。屋台のおっちゃんは商売熱心で、頼んでもいないのに二杯目を注ぎ足してくれた。たぶん皿の山に怯えて、少しでも常連を増やしておきたいんだろう。
会話は軽い。軽いまま転がしておけば、それで済む話だった。済ませるつもりだった。
だがこちらが一歩引いていると、向こうが一歩踏み込んでくる。世の中はだいたいそういうふうにできている。引く側はずっと引き続けるしかなくなるし、踏み込む側はどこまでも踏み込んでくる。最悪の世代と呼ばれる連中はだいたい後者だ。
「で」
ボニーは三枚目だか四枚目だかのピザを半分まで進めて、ちらりと俺を見た。
「あんた、何なんだ。本当に」
「ただの飲んだくれだ」
「飲んだくれは朝からコーヒーなんか飲まねえ」
「酔いを冷ましてんだよ」
「ふーん」
少女はピザを置いた。両手の指を布で拭って頬杖をついた。汚れた頬の下から、急に大人びた目がのぞいた。
——そういう目をたまにする子だな。
俺は心の中でそれだけ思った。それだけ思ってコーヒーをまた一口飲んだ。子供と大人の境目を行き来する人間は珍しくない。だが、その境目を一秒で跨ぐ人間は珍しい。
「あんた、噂のシャボンディの幽鬼だろ」
「噂は噂だ」
「キッドのとこの店半壊させたって聞いたぜ」
「向こうが先に殴ってきた」
「ハートのトラ男と桟橋で長話してたって聞いたぜ」
「世間話だ」
「ふーん」
ボニーはもう一度ふんと笑って、それから目を細めた。煽る目になった。
「なあ。あんた、本当に強いの?」
⸻
来たな、と思った。
軽口の応酬の、その先。こいつはこういうやつなんだろう。試さずにいられない。引っ張ってみずにいられない。少女の顔をしているのに、海賊の顔も持っている。最悪の世代と呼ばれる連中は、たぶんみんなそうだ。一人の人間の中に二つも三つも顔を抱えていて、どれが本物かはたぶん本人にもわかっていない。
俺はコーヒーを置いた。そしてこっちから一手踏み込んだ。
「お前」
「なんだよ」
「何歳に見せてる?」
——。
ピザが宙に浮いた。
正確には、口元に運ばれかけていたピザの一切れが、彼女の指から落ちた。皿の上ではなくテーブルの上に、ばちゃ、と落ちた。チーズが伸びた。伸びたままテーブルの木目に張りついた。
ボニーは固まっていた。瞬きをひとつしてから、もうひとつしてから、ようやく口を開いた。
「な——」
口の端にトマトソースが残っていた。
「どうしてそれを」
「片眼だけ、呪力の流れが見える」
俺は自分の左目を、人差し指の背で軽く撫でた。
「お前の年齢、ぐるぐる動いてるのが見えてる」
——本当のところ、流れが見えるのは事実だ。だがそこから「年齢を動かしている」と当たりをつけたのは、ただのカマかけだった。カマかけだったが彼女の反応で確信した。最悪の世代の懸賞金は伊達じゃない。だが、少女の表情は伊達でしか作れない。今の彼女の顔は完全に後者だった。
ボニーは数秒黙った。それからゆっくりと頬杖を外した。椅子の上で背を伸ばし、両手の指を小さく組んだ。
笑った。
「……ほう」
少女の顔のまま、海賊の声で笑った。
「ほうほう。シャボンディの幽鬼、噂以上だな」
「褒められても困る」
「困ってる顔じゃねえだろ、そりゃ」
ボニーは指を組んだまま机の上に肘を立てた。そして片方の手だけ、俺のほうに軽く向けた。
——空気が変わった。
⸻
呪力の流れではない、別の力。人の年齢を押したり引いたりする力。その流れが彼女の指先からこちらへ伸びてきた。
伸びてきたはずだった。
俺は手を動かさなかった。左目だけ薄く細めた。
——境界。
無下限の薄い膜が、俺の輪郭の少し外側で静かに立ち上がった。立ち上がって彼女の力を迎えた。迎えて止めた。止めて消した。
一拍だった。
ボニーの指先から伸びた力が、俺の身体に届く前でぷつと途切れた。途切れたというより、距離が無限に引き伸ばされた。彼女の力は俺の輪郭に永遠に届かない。届く前にどこか遠い場所へ落ちていった。
ボニーの目が見開かれた。
「な——」
組んでいた指がほどけた。
「なんだ、それ」
「軽口は、軽口で返してくれよ」
俺は左目をまた閉じた。膜は、立ち上がったときと同じ速さで消えた。立ち上げた事実すら屋台の煙の中に紛れた。
「本気で来られると、こっちも本気で返さなきゃいけなくなる」
声を低めた。低めたつもりはなかったが、勝手に低くなった。本気冷却というやつだ。喉の奥が一瞬だけ別人の声になる。慣れた感覚だった。慣れているがあまり好きじゃない感覚でもある。
ボニーは口を半分開けたまま俺を見ていた。見ていたというより、俺の輪郭の少し外側を見ていた。そこに何があったのか、まだ目で追いかけていた。空気の歪みすら残していない俺の境界を、それでも探し続けていた。
——届いてない。
彼女の唇が、声にならない形でそう動いた気がした。
——私の力が届いてない。
俺はコーヒーをもう一口飲んだ。もう、ぬるかった。
⸻
屋台のおっちゃんが菜箸を取り落とした。かちゃ、と鉄板の縁で菜箸が跳ねた。チーズが焦げる音だけが、しばらく続いた。
並んでいた観光客の一人が、列をそっと外れて別の屋台に向かった。別の客が財布をしまって立ち去った。ピザ屋の前から、さっきまでの賑わいが一段引いた。誰も何が起きたか正確にはわかっていない。だが何かが起きたことだけはわかっている。野生の勘というやつだ。シャボンディに長く居る人間はみんな、この勘を持っている。
ボニーはピザを抱え直した。山積みの皿を両手でかき集めた。立ち上がりながら舌打ちした。
「ち、ちっ」
舌打ちは強がりに聞こえた。
「勝てねえなこりゃ」
「勝ち負けの話じゃない」
「同じことだ」
ボニーはピザの山を抱えたまま、屋台のおっちゃんに銀貨を投げた。釣りはいらねえ、と低く言った。それから俺の横を通り過ぎた。
通り過ぎ際に立ち止まった。俺の顔を横目で見た。汚れた頬の下から、また大人びた目がのぞいた。
「あんた」
「なんだ」
「どこかで、会ったような気がする」
——おや、と思った。
思ったが顔には出さなかった。コーヒーカップの縁を指で軽く撫でただけだった。会ったことはない。少なくとも俺の記憶の中にはない。だが彼女の中にはあるらしい。彼女の年齢が「ぐるぐる動いている」というのが本当なら、俺の知らないどこかの彼女が俺を知っていてもおかしくはない。
「気のせいだ」
「だろうな」
ボニーは小さく笑った。笑ってピザを抱え直した。雑踏の中にピンクの頭が消えていった。消える瞬間まで、彼女は一度もこちらを振り返らなかった。
⸻
屋台の前には俺と、おっちゃんだけが残った。
おっちゃんはまだ菜箸を拾っていなかった。鉄板のチーズが黒く焦げていた。煙が立ち上って朝の光に溶けた。商売人の顔ではなく、完全に通行人の顔をしていた。
俺はカウンターに銀貨を二枚置いた。
「すまんな」
「……」
「焦げた分と、列が散った分だ」
おっちゃんは銀貨を見て、それから俺の顔を見た。見てまた銀貨を見た。それから、おそるおそる口を開いた。
「兄ちゃん」
「ん」
「兄ちゃん、あの蛇姫みたいなお嬢さんに何したんだ」
——蛇姫。たとえがずいぶん遠くから飛んできた。たぶん新世界の話か何かだろう。聞いたような名前だが、顔は知らない。誰かと比べられるほど派手な振る舞いをしたつもりはないんだが、屋台のおっちゃんの目には派手に映ったらしい。
俺は思わず片頬だけで笑った。
「軽口を、軽口で返した」
「あれが軽口かよ」
「向こうがそう言った」
おっちゃんは菜箸をようやく拾った。拾って鉄板の焦げを、ぱきりと剥がした。剥がしながらまだ俺の顔をちらちら見ていた。商売道具を持っても、まだ商売の顔に戻れていなかった。
「兄ちゃん、あんた」
「うん」
「あんた、何者だ」
——既視感のある問いだった。
数日前の酒場のマスターにも似たようなことを言われた気がする。あのときの答えを、俺はもう忘れかけていた。忘れかけていたが思い出した。思い出してそのまま口に出した。
「ただの、飲んだくれだ」
おっちゃんはそれを聞いてふっと笑った。笑って首を振った。
「飲んだくれは、銀貨を二枚も置いていかねえよ」
「酔いが回ってる」
「コーヒーで?」
「強いコーヒーだ」
おっちゃんはもう何も言わなかった。焦げたチーズをゆっくりと剥がしていた。剥がし終えた頃には、新しい客が一人また屋台に近づいてきていた。商売は再開する。シャボンディはどんなことがあっても止まらない。止まる街は売れない街だ。
⸻
俺は屋台に背を向けた。
朝の光はもう一段高くなっていた。市場の奥から新しい客の声が上がっていた。果物売りが声を張り、漁師が魚の腹を叩いていた。シャボンディはまた、何事もなかったかのように騒がしくなっていく。
ピンクの頭はもうどこにも見えなかった。
代わりに海のほうから、潮の匂いが流れてきた。桟橋のほうの空に鳥が群れていた。群れていて騒がしかった。鳥が騒ぐ朝はろくな船が来ない。漁師町のじいさんが昔そんなことを言っていた気がする。
——明日にはもう、シャボンディはもっと騒がしくなるな。
俺は左目を軽く撫でた。撫でてコーヒーカップを、ようやくゴミ箱に投げ込んだ。
夜が明けるたびに街は重くなる。重くなって何かを呼び寄せる。
呼び寄せられる側になるのは、勘弁してほしいんだが。
⸻
シャボンディ三人目、ジュエリー・ボニー。
ピザと軽口と、ほんの少しの「届かない」感触。
街が騒がしくなる前夜の、最後の朝の話でした。
★★★
ここまで読んでくださってありがとうございます。
ボニーとの軽口、楽しんでいただけたら嬉しいです。
「ピザ吹き出すボニー、可愛い」と思った方は★やお気に入り登録で教えてもらえると、書き手はピザを一枚多く焼く気力が湧きます。
★★★