五条悟になってワンピース世界に転生したけど、エースだけは絶対に死なせない 作:熊々
そこにはもうひとりの「蛇姫の知人」がいて、たぶん彼の右目をじっと見ます。
じっと見られたあとに渡される言葉は、これまで彼が背負ってきた「D」という一文字を、ほんの少しだけ別の方向に傾けるかもしれません。
戦闘らしい戦闘はありません。
ただ視線が一度だけ正面でぶつかります。
寄り道なのか分岐なのかは読み終えたあとで決めてもらえれば。
夜のうちにどうぞ。
夜明けは、思ったより静かに来た。
水平線の縁が薄く灰色に変わってその上に橙が一筋だけ落ちる。海鳥はまだ鳴かない。風だけが帆をゆっくり膨らませて、舳先がほんの少し前に押された。
俺は一人で舵を握っていた。
手のひらが少しだけ冷たかった。
シャボンディから女ヶ島の方角へ。
位置はだいたい掴んでいた。詳しい海図はなかったが、レイリーがいつだったか酒の席で「あそこは女しか入れねえ。男が踏むと喰われる」と笑って語ったことがあって、そのときの笑い方が嘘の笑い方ではなかった。だから島の存在だけは、信じていた。
懐に手を入れた。
指先がシャクヤクの渡した包みに当たった。
黒い布の包み。
握った感触で中身が金属だということはもう分かっていた。
分かってはいたが、開けるのを昨夜から先送りにしていた。
ここで開けるのがちょうどよかった。
帆布の影に座り直して、膝の上で布をほどいた。布は古い油の匂いがした。
布の畳まれ方が几帳面でシャクヤクの指先の癖がそのまま残っていた。
畳み目の角がきっちり揃っていて手放すのに少し時間をかけた人の畳み方だった。
ほどいた指先で布の重さを軽く測った。空の布の重さよりも少しだけ重かった。
中から出てきたのは片刃の小刀だった。
鞘ごとで、長さは肘から指先までよりほんの少し短い。鞘は黒い革で口金に小さな魚の鱗のような紋様が一つだけ打たれていた。見覚えのある紋様だった。
(——あのジジイ、こんなもん隠してたのか)
胸の内側で短く笑った。
笑ってからゆっくり鞘を払った。
刃は短く薄く湾曲がほとんどない。直線に近い。光を反射しない加工が刃面に施されていて、抜いた瞬間に空気の温度がわずかに下がったように感じた。
気配を吸う刀だった。
レイリーが暗殺者時代に使っていた予備刀。それを後年に本人の手で改造したものだ。鞘に収めているあいだは持ち主の気配ごと薄める。抜いた瞬間に殺気が外へ出る。そういう作りだ。説明されなくても分かった。前世の手のひらが覚えていた、種類の重さだった。
しばらく刃を眺めた。
眺めながらシャクヤクの台詞をもう一度頭の中で再生した。「これを開けるのは、お前さんが本当に独りになる夜でいい」。
独りには、もうなった。
鞘に戻して腰の左側に差した。差した位置がしっくりくるまでに二度だけ位置を直した。直し終えた頃には水平線の上に島の輪郭が出ていた。
緑が濃い。
山がひとつ急角度で立ち上がっている。
山の中腹に古い石造りの何かが見えた。宮殿のようでもあり神殿のようでもあった。
女ヶ島。
俺はもう一度、左腰の鞘の位置を確かめた。
確かめてから小さく息を吐いた。
吐いた息の白さが朝の光のなかで一瞬だけ形を持って消えた。
⸻
島影に近づいたところで帆を畳んで岩礁の陰に船を寄せた。
港らしい港は遠くに見えた。船着き場には女ばかりが立っていて武装している。槍と弓。槍の穂先がよく磨かれていた。
正面から入る島ではなかった。
無下限の境界を一段薄く張り直した。
——見聞色、絞る。
自分の気配を呼吸ごと境界の内側に吸い込ませる。武装色は薄く皮膚の表面で止めておく。これで島側の見張りからは「そこに何もない」と見える。完璧ではないがしばらくは保つ。
岩を伝って上陸した。
足裏で踏んだ土は乾いていて少しだけ赤かった。火山灰の混じった土だ。山道は人の手で整えられていて要所に蛇の彫像が立っていた。蛇は目に色硝子をはめ込まれていて朝日を受けると黄色く光った。
光った石の目を一つ過ぎるごとに島の空気がほんの少しだけ重くなった。
人間の手で長く磨かれた島だった。
踏んでいる足音が自分のものとは思えないくらい静かに島へ吸われていった。
吸われていく足音の代わりに耳の奥で誰かの呼吸が増えていくのがわかった。
宮殿の影に近づいた頃、声が二つ降ってきた。
「姉様、本当に毎朝こんなところまで歩かれるのですか」
「歩く。歩かねば剣が鈍る」
二つめの声で、足が止まった。
低くて、よく通る、芯の強い女の声だった。
俺は岩の陰に体を寄せて、境界を一段締め直した。
中庭に出てきた女が、二人。
一人は背の高い、黒髪の女だった。
髪は長く腰よりも下まで落ちていて、朝の光が髪の上で液体のように滑った。白いスーツドレス。袖は肘までで、首筋には蛇の形をしたイヤリングが揺れている。手にはサランダ——蛇の杖。
もう一人はそれより少しだけ背の低い女で、髪に金の縁取りのある飾りをつけていた。妹だ。確か、サンダーソニア。
黒髪の女のほうは、見間違いようがなかった。
ボア・ハンコック。
世界で最も美しい女と呼ばれている女。
岩陰で、俺は短く息を整えた。
整えた途端、ハンコックの足が止まった。
「妹よ」
「はい、姉様」
「血の匂いがするわ」
「……血?」
「正確には、血を扱い慣れた者の匂い。男よ」
サンダーソニアの顔色が変わった。
変わって、すぐに弓を構えた。
俺は息を止めた。
止めても遅かった。
ハンコックの目はもう、岩陰のこちらをまっすぐ捉えていた。
「出てきなさい」
声が低く、地面の下から這うような響き方をした。
俺は迷ってから、岩陰から一歩だけ前に出た。
「男!?」
サンダーソニアが叫んだ。
ハンコックは叫ばなかった。叫ばずに、ただ片眉だけ上げた。
「女ヶ島に男だと?」
声は怒っているわりに、目の奥は冷静だった。
こちらを観察している目だ。
俺は両手を広げた。
「敵意はない。通りすがりだ」
「通りすがる場所ではないわ、ここは」
ハンコックがサランダを軽く床に打ち付けた。
打ち付けた先で、空気が一瞬、ピンと張った。
「メロメロ甘風(メロメロメロウ)」
桃色の光が、ハンコックの指先からこちらへ伸びた。
光は俺に届かなかった。
伸びた光は俺の体の三十センチほど手前で、見えない壁にぶつかったように散った。散った光は地面に落ちる前に、空気に溶けた。
ハンコックの目が、初めてほんの少しだけ大きくなった。
「……届かない?」
口の中で呟いた声だった。
呟いた声を、彼女自身がうまく信じられていなかった。
「私の力が、届かない?」
サンダーソニアのほうが動揺した。一歩、後ろに下がった。
ハンコックはもう一度サランダで床を打って、こちらをまっすぐ見据えた。
「ありえない。私の魅了は、私を美しいと感じた者に必ず届く。お前——、私を美しいと思わなかったというのか」
俺は少しだけ、間を置いた。
置いてから、苦笑を返した。
「美しいと思った。普通に」
「ならば、なぜ届かない」
「届く距離まで、行かせなかっただけだ」
ハンコックが黙った。
黙ったまま、彼女の視線が俺の右目に落ちた。
落ちて、そこで止まった。
蒼い右目。
左目は黒。
左右で違う色を、彼女はたぶん初めて見た。
「お前、何者だ」
「ただの通りすがりだ。さっきから言ってる」
「通りすがりは、私の力を防がない」
「届かないものに当たり続けてきた人は、世界が狭く見える」
そう返したのは、半分は反射だった。
返してから、自分の声が思ったより穏やかだったことに気づいた。
ハンコックが少し、黙った。
サランダの先で、床の埃が一粒だけ転がった。
「……生意気な男だ」
そう言ったとき、彼女の頬の輪郭がほんの一瞬だけ、温度を持った。
本人は気づいていなかった。妹も気づいていなかった。
(——たぶん俺だけが、気づいた)
気づいたふりは、しなかった。
「俺のことは、忘れてくれていい」と俺は言った。
「今は」
「今は、とは」
「いずれ別の場所で、別の戦場で、もう一度顔を合わせる気がする。そのときに思い出してくれれば、それで足りる」
ハンコックの目が、また少し細くなった。
細くなった目で、しばらく俺の輪郭を測った。
測ってから、サランダを地面から離した。
「行け」と彼女は言った。
「ただし、私の島で何かを取ったら殺す」
「取らない」
「立ち去る前に、名を聞こう」
少し考えた。
「アズール」
「……アズール」
繰り返した彼女の声にはもう怒りは混じっていなかった。
ただ一度確かめておくという温度だけがあった。
俺は手を軽く挙げた。
「またな、蛇姫」
背を向けて歩き出した。
歩き出した背中の方向でサンダーソニアの「姉様、よろしいのですか」という小さな声が聞こえた。
ハンコックは答えなかった。
答えないことで答えていた。
歩く足の裏で島の土が一度だけ強く返事をした。
返事をした土の感触が踝の上のほうまで短く伝わった。
(——あの女、また会うな)
胸の内側でそう置いてからもう振り返らなかった。
⸻
山道を降りる途中で岩の上に年老いた女が一人座っていた。
座っているというよりも待っていた。
待たれていることが最初の一秒で分かった。
「お前さん、シャクヤクの店の坊やだろう」
しわがれた声だった。
背は曲がっていて髪は白く目だけがやけに澄んでいた。
(——シャクヤクさんのお姉さん筋か)
俺は足を止めて軽く頭を下げた。
「ノコエス・グロリオサ」と老女は名乗った。「島の者はニョン婆と呼ぶ。お前さんも、それでよい」
「お邪魔してます」
「邪魔ではない。久しぶりに、面白い顔が島に来た」
俺はその「面白い」の置き方が、気になった。
褒め言葉として置かれた「面白い」ではなかった。
試している側の人間が、相手を一度だけ秤に載せるときの「面白い」だった。
ニョン婆は隣の岩を軽く叩いた。座れ、ということだった。
座った。
しばらく二人で、海のほうを見ていた。
海面の遠くで、鳥が一羽だけ低く飛んだ。
飛んだ鳥が島の影に消えるまで、誰も口をきかなかった。
潮の匂いが二人のあいだに薄く流れた。
流れたあいだに、ニョン婆が一度だけ短く息を吐いた。
吐いた息のあとで彼女が口を開いた。
「片目だけ蒼いねえ」
ニョン婆がぽつりと言った。
「レイリーの坊やが昔、似た目をした男を語っていたよ」
俺の手のひらが少しだけ強く膝を握った。
「誰のことだ」
「ロジャー」
風が一度、岩のあいだを抜けた。
「ゴール・D・ロジャー」と彼女は繰り返した。「あの男は両目とも黒かったがね。目の中に置いてた光だけがお前さんの蒼に少し似ている」
俺は答えなかった。
答え方をすぐには選べなかった。
ニョン婆が続けた。
「お前さんの『D』はたぶんあの男から預かったメッセージの一部だよ」
「メッセージ」
「『面白い時代を生きろ』」
ニョン婆は笑わずに言った。
笑わずに言ったのに語尾が少しだけ笑っていた。
「お前さんが生まれる前にレイリーがあの男から預かった言葉だ。レイリーは長いあいだその言葉を渡す相手を探していた。坊やを見つけたとき、ようやく見つけたって言っていた」
「……レイリーから直接聞いたことはない」
「あの男は言葉が少ない。だが目で渡している。お前さんが生まれた島でレイリーが拾ったのはたぶん偶然じゃない。『D』の名前はあの男たちのあいだで長く語られてきた何かの印だ」
(——D。Dの一族。俺はなぜここに転生したのか)
胸の内側で整理しきれない問いが一度だけ転がった。
転がったが口には出さなかった。出すにはまだ早かった。
ニョン婆はこちらの沈黙を急かさなかった。
急かさないまま彼女は海の向こうに目をやって一拍だけ間を置いた。
置いた間のあいだに、波が二度ほど岩に当たって戻った。
しばらくしてしわの寄った手が俺の肩に軽く置かれた。
手のひらは思ったよりもあたたかかった。
重さがほとんどないのに肩の骨にちゃんと届く置き方だった。
「マリンフォードへ向かうんだろう」
「ああ」
「あそこにはお前さんと同じ目をする男たちがまだ何人かいる。『D』の名前を持つ男たちだ。どっちの側につくかで世界が少しだけ揺れる」
「揺らしに行く」
ニョン婆が声を出して笑った。
岩の上で肩を一度だけ上下させて笑った。
「そうかい。じゃあお前さんは合格だ」
「なんの」
「それは言わん。言ったら面白くない」
立ち上がった彼女の背中は思ったよりも小さかった。
小さい背中が山道を上っていって一度だけこちらを振り返った。
「面白い時代をちゃんと生きておいで」
俺は答える代わりに軽く頷いた。
頷いたとき左腰の鞘がほんの少しだけ重くなった気がした。
気がしただけで実際の重さは変わっていなかった。
ただ、自分の側の重さの感じ方がほんの少しだけ変わっていた。
⸻
船に戻った。
帆を上げ直して、舵を握った。
握ったときの手のひらは、来たときよりもほんの少し乾いていた。
水平線の方角を確かめた。
確かめた先に、まだ見えないが、確実にある島があった。
海軍本部、マリンフォード。
岩礁を離れる船底の下で、海の色が一段だけ深くなった。
深くなった海の上を、自分の影が薄く滑って前へ進んだ。
進んだ先で、空と海の境が一本の細い線になっていた。
(——D。ロジャー。レイリー。シャクヤク。エース。麦わら)
繋がっているその線の真ん中に、俺自身が立っていることに気づいた。
気づいたがそれで足が止まることはなかった。
蛇姫の島が水平線でだんだん小さくなっていった。
舳先が、また一拍だけ前に押された。
押された方向の空が、来たときよりもほんの少しだけ青を深めていた。
青の濃さが、正面の方角に向かってまっすぐ引かれていた。
⸻
海風が塩よりも少しだけ鉄の匂いを帯び始めていた。
帯び始めた風が顔の右側を一度だけ強くなでていって、それから穏やかな速度に戻った。
戻った風のなかで小さく目を閉じて開けた。
開けた目の奥に、ニョン婆の白い髪と、ハンコックの一瞬だけ温度を持った頬の輪郭が、順に薄く浮かんで消えた。
船底に置いた小刀が夜露でうすく濡れていた。
濡れた革鞘の縁を指の腹で一度だけなぞった。
なぞった指先がほんの少しだけ冷たくて、けれど不思議と落ち着く冷たさだった。
水平線の上で、海鳥が一羽だけ低く鳴いた。
鳴いた声が風に流されて、すぐに聞こえなくなった。
ニョン婆の手の温度はまだ肩のあたりに残っていた。
⸻
いかがだったでしょうか。
ハンコックを書くのは思っていたよりずっと難しかったです。
彼女は本当はとても繊細な人で、強さの後ろに長い長い古傷がある人だと自分は読んでいて、それを今回のような短い邂逅で表に出しすぎるのは違うなと思いました。
ではまた。