五条悟になってワンピース世界に転生したけど、エースだけは絶対に死なせない 作:熊々
第23話はマリンフォードへ向かう海上の夜です。
一人の小型船と満月と止んだ風と、懐の電伝虫が一度だけ低く鳴ります。
戦闘はありません。
ただ覚悟だけが夜のあいだに少し深くなります。
ここまで彼の右目を見てきた人々の名前を、彼自身が一度だけ星の下で並べ直します。
そのあとで彼は立ち上がります。
夜のうちにどうぞ。
風が、止んだ。
帆がゆるく垂れてロープがほんのわずかに鳴った。それきり船の上は静かになった。海面はガラス板に油を一枚薄く引いたような光り方で、月だけが妙にはっきりしていた。雲は遠くにあった。星は数えられるほどしかなかった。
俺は一人で舵を握っていた。
正確には、握っていなくてもよかった。風がないのだから舵は効かない。それでも手は離せなかった。離した瞬間に、海と自分のあいだの何かが切れる気がした。
女ヶ島を出たのは数時間前だ。
ニョン婆の手の温度はまだ肩のあたりに残っていた。あの感触は不思議なもので、温かいというより置かれた場所が一段だけ重くなる、そういう温度の置き方だった。指でなぞればすぐ消えるはずなのに、なぞる気にはならなかった。消えたら消えたでたぶん俺は少し困る。困ると思っている自分にも少し驚いた。
懐の包みはシャクヤクから渡されたままだ。
中身は確認していない。今夜のうちに開ける気はなかった。
見聞色を、薄く伸ばした。
海の上だと見聞は少しだけ遠くまで届く。陸の喧騒がない分、人の気配は粒のように飛んで見える。北西の方角にまだずいぶん遠いが、海の縁にいくつか「重い」気配が並んでいた。一つではなくいくつか。それが帯のように繋がっていた。海軍の旗艦級が三つ。それより小さい船影がその周囲に十数。さらに奥にはもっと荒い気配の塊がいくつか待機している。
——海軍の包囲網だ。
——もう一段奥には、白ひげの艦隊もいる。
距離は遠い。けれど、線として確実に張られていた。線のこちら側と向こう側で、海の色が違って見えるくらいに。
(——時間が、いよいよ近い)
俺は短く息を吐いた。
吐いた息が白くならない程度に夜は暖かかった。あと半月もすればこの海域でも吐いた息は白くなるだろう。そのころ俺がどこにいるかは今夜の動き次第だ。生きていればたぶんどこかの港で熱い茶を飲んでいる。死んでいれば海の底で塩漬けになっている。それだけの話だった。
⸻
電伝虫が、低く鳴いた。
懐の中でいつも持ち歩いている小さな方の電伝虫だ。シャボンディでシャクヤクから渡された一台で、番号を知っているのは数人しかいない。鳴き方が急ぎではなかった。急ぎではないが起きていることを前提にした鳴き方だった。
俺は受話器を取った。
「アズくん」
低い声だった。
電伝虫越しでもシャクヤクの声はシャクヤクの声で、年齢のわりに若く夜のわりに艶があった。
「シャクヤクさん」
「夜遅くにごめんなさいね。レイリーが——、戻ってきたわよ」
短い間が落ちた。
俺は受話器を持ち替えた。
「黄猿は」
「引いた、と本人が言ってる」
「……生きてんのか、ジジイ」
「両足で立ってる。片方の眉だけ、少し焦げてるけど」
俺は鼻で笑った。笑ったあとで、笑った自分に少しだけ驚いた。
「どんなやり方で引かせた」
「互いに賞金首にもならないやり方で、ですって。本人の言い分よ」
「ジジイらしいな」
「ええ、本当に」
電伝虫の向こうで、シャクヤクが小さく息を吐いた。受話器の表面が一瞬曇った気がした。
「アズくん」
「うん」
「ひとつだけ言わせて」
「うん」
「あんたが帰ってこないとは、私は思ってないからね」
(——重いな、これ)
返事を、すぐにはしなかった。
しなかったというより、できなかった。喉のあたりに覚えのある冷たい栓が一瞬だけ落ちた。前世で何度も経験した感覚だ。手術台の前で家族に「お願いします」と頭を下げられた、あの瞬間に近い。あの「お願いします」は丁寧な言葉のなかで一番重い言葉だ。重いから医者は何度でも腹をくくり直す。
俺はゆっくり息を吸った。
「うん。帰ります」
「血、ちゃんと落として」
「ああ」
電伝虫がぷつ、と切れた。
切れたあと海風がまた吹き出した。止まっていたものがふっと戻ったように帆が一度だけ膨らんだ。
俺は受話器を懐に戻した。
胸の内側で何かが一段重さを増した。
「血、ちゃんと落として」というのはシャクヤクの口癖だ。
口癖というには重い。たぶん誰かを失ったことのある人の口癖だ。失った場面を直接見たわけではないが、あの言い方の角度は見た側の角度をしている。前世で同じ角度の言葉を何度か病室の外で聞いた覚えがある。
帰ると一度言った。言ったからには戻る。その単純な約束を今夜のうちに体に染み込ませておく必要がある。たぶんあの人は、その約束を破る男を一番嫌う。
⸻
舵を木の留め具に固定して、船底に降りた。
シートを一枚めくる。
その下に装備一式を並べてある。普段なら船宿のクローゼットに置いておく類のものを、今夜は全部手の届く場所に出してきた。並べたのは儀式に近い意味だ。並べて見てもう一度数えて、それで初めて持っていく覚悟が固まる。前世の手術前の器具確認とたぶん同じ理屈で俺はこれをやっている。
刀「灯」。
鞘の表面が薄く焦げたような色をしている。呪具改造の遠距離斬撃用で、抜くと刀身の周りに一拍だけ熱がにじむ。試し斬りで二十メートル先の岩を斬ったことがある。
刀「闇」。
こちらは反対に鞘の表面が冷たい。気配を吸う性質に振った暗殺用で、抜くと自分の存在感が半分くらいまで薄くなる。前世の癖が一番素直に出る一振りだ。柄の革は二度替えてある。最初に巻いたやつは血を吸いすぎて固まった。二度目に巻いたのはシャボンディの裏通りの革職人に頼んだ細い紐で、握ると指の腹に微かに沈む。沈み方が今夜は妙にはっきり感じられた。
二振りを順に、手のひらで握り直した。
握り方を、肉体に思い出させた。
それから、シャクヤクの包みを開けた。
中身は、小刀だった。
鞘ごとずっしりと重い。鞘の表面に細かい彫りが入っていて月にかざすと、線が一拍だけ動いて見えた。
「……レイリーの仕事だな、これ」
口の中で呟いた。
刃を、ほんの少しだけ抜いた。
刃の表面が青黒い。並の鋼ではない。気配を吸う方向に振った片刃で、抜いた瞬間に船底の空気が一段だけ静かになった。
(——闇と同じ系統。たぶん、二刀の補助に使えって意味だ)
鞘を戻した。
腰の後ろに差した。差した位置がしっくり来た。レイリーはたぶん俺の構えを覚えていて、それに合わせて鞘の角度を作っていた。彫りの深さも左手で抜きやすい角度で入っていた。礼を言う相手は戻ってきたらしい。礼の言い方を今夜のうちに考えておく時間はない。たぶん帰ってから酒で済ませることになる。
——そういうところが、ジジイなんだ。
装備の確認を続けた。
反転術式。
自分の傷は治せる。骨が折れても内臓が破れても、時間さえあれば戻せる。ただ他人の傷は治せない。そこは前世の医者の手と今世の呪術師の手で繋がらなかった。何度試しても繋がらなかった。だから「救う」は俺の場合、斬って奪って引きずり出すという形でしか成立しない。優しい救い方は俺の手のひらには載らない。
覇王色。
出力は問題ない。問題ないが、頂上戦争の海域には覇王色持ちが何人も並ぶ。「ぶつかる」前提で考える必要がある。
武装色と、見聞色。
これは常用域に入っている。意識しないでも、ある程度は出ている。
無下限。
常時、肌の表面に薄く張ってある。これがある限り並の攻撃は俺に届かない。
蒼。
引き寄せる方。これも常用域。重い物を一点に集める。海軍が壁を一枚崩したいときに撃つ、たぶんそういう使い方になる。
赫。
収束と発散を同時に起こす。これも撃てる。撃てるが、当てる対象を選ぶ。
——ここまでが、平常運転だ。
俺は最後の一行を、声に出さずに数えた。
茈。
無量空処。
⸻
(——茈を撃つ。たぶん、撃つことになる)
船底に座ったまま、俺は天井の梁を見上げた。
見上げたところで星は見えない。けれど目線を上げる動作は必要だった。胸の中の重みを首から背中の側に逃がすために、あの動作はわりと効く。前世の手術前にも何度かやった覚えがある。
(——茈を撃ったあと、十分は子供にも勝てない)
茈は蒼と赫を同時に撃つ。引き寄せと収束発散を同じ点に重ねる。理論上は撃った瞬間に何が来ても全部消える。理論上はだ。撃ったあとの俺は術式の出力が一気に底をつく。十分間、無下限すら薄くなる。十分間、ただの男になる。
(——そして、無量空処も)
無量空処は撃つではなく見せる。
相手の脳に「無限の情報」を一瞬で流し込む。流し込まれた相手は止まる。動けなくなる。だが撃ったあとの俺はもっと壊れる。三十分から一時間、無下限ごと焼き切れる。その間に並の海兵に首を狩られたら、それで終わりだ。
——それでも撃つ。
俺はそう決めていた。
決めていたが、決めたことを今夜のうちにもう一度自分の胸の真ん中に落とし直しておく必要があった。覚悟は一度で決まらない。一度決めてもう一度決めて、それでようやく刃が走る速さに馴染む。前世の医療現場でも同じだった。インフォームド・コンセントは一度では足りない。本人にも家族にも医者自身にも足りない。
エースを生かすためなら十分の無防備くらい安い。
一時間の無防備でも安い。
天秤に載せたら、向こう側のほうが圧倒的に重い。
向こう側にあるのは一人の男の命と、その男のために動いている艦隊一つ分の意志と、その意志を抱きしめてシャボンディで待っている人間が少なくとも一人いるという事実だ。
こちら側にあるのは俺の十分間と一時間だけだ。
天秤は揺れない。揺れない以上、撃つ。
(——前世で、救えなかった顔がいくつかある)
ふっと、視界の隅に浮かんだ。
名前は思い出せない。顔だけ覚えている。手術台の上でこちらを見ていた目の角度。閉じる前の目の最後の一拍。あれは責めていなかった。責めていなかった分だけ俺の側に長く残った。残ったまま消えなかった。消えなかったから俺はたぶん、二度目の人生でも医者の手を捨てきれなかった。捨てきれないまま刃を握っている。
その何人分かが今夜だけ妙にはっきりしていた。
(——今度は救う。今度こそ)
口の中で言った。
言ったあとで自分の口の中の温度が一段下がった気がした。覚悟は熱くなるものだとどこかで思っていたが、実際は逆だった。覚悟は冷たくなる。冷たくならないとたぶん刃は走らない。
シートを戻して、船底から上に戻った。
⸻
舵に手を置き直したとき、夜風がもう一度ふっと吹いた。
弱い風だった。けれど、止まっていた帆がもう一度だけ膨らんだ。
俺は船首のほうへ歩いた。
舳先に近い場所に座って、星を見上げた。
——レイリー。
渋い口調で酒の席で「面白い時代を生きろ」と言った男。あのとき俺の右目をじっと見て、それから笑って酒を注いだ。あの注ぎ方の角度をたぶん俺は一生忘れない。
——シャクヤク。
シャボンディの「派閥のおかみ」。包帯の巻き方が雑なのに、雑な巻き方ほどよく止血できる。「血、ちゃんと落として」と二度言った人。あの二度目のほうがたぶん本気だった。
——カリファ。
眼鏡が曇る女。最初は敵で途中からよくわからない関係になった。あの曇り方をまだ全部は説明されていない。説明されていないことのほうが今は心地いい。
——ルッチ。
最上階の圧。あの男を「保留」にしているのは俺の側の弱さだ。いずれ落とし前はつける。今夜じゃない。
——エース。
バーで隣に座った男。「死ぬなよ」と俺に言った男。立場が逆だと俺は今でも思っている。立場が逆だから今夜こちらが動く。
——ロー。
医者の手をしている男。あの手の使い方を俺はたぶん少しだけ羨ましいと思っている。羨ましさを頂上戦争のあとで本人に言うかどうかは、まだ決めていない。
——ハンコック。
届かない石化をずっとこちらに向けてきた女。届かないことをたぶんあの人は知っている。知っているうえで撃ってくる。あの強さはたぶん本物の強さだ。
——ニョン婆。
肩の温度を置いていった老婆。あの温度はまだ消えていない。消えないうちに、上陸する。
(——全員、繋いでくれた)
俺は星から目を離した。
離して、舳先の先のほうを見た。
(——あとは、俺の番だ)
⸻
水平線の彼方に、影が見えた。
最初は、雲のかたまりかと思った。
よく見ると違った。雲ではなかった。陸だ。海軍本部マリンフォードの島影だった。月明かりに白い壁が薄く反射していた。壁の向こうにもっと細い影がいくつか立っていた。処刑台の足のほうだ。たぶん上のほうの輪郭は、ここからではまだ見えない。
俺は、立ち上がった。
コートの襟を立てて、首筋にかかる夜風を一段だけ遮った。
無下限を、全身に薄く広げた。
広げた瞬間、肌の表面の一ミリ手前にもう一枚の境界ができた。風がそこで一拍だけ屈折した。
海は、不気味なほど静かだった。
止んでいた風が、また止まった。
島影は、まだ遠い。
朝までには、まだ時間がある。
時間がある分、覚悟は深くなる。
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【後書き】
戦闘なしの前夜回でした。
頂上戦争はあと数話で突入します。
ここまで溜めた重さをぜんぶ持って上陸させたかったので、第23話は本人の覚悟と、これまで関わってきた人々の名前をもう一度だけ並べ直す回にしました。
電伝虫の一通の電話で夜が一段だけ重くなる、その重さの分だけ書きました。
彼の手札のうち、まだ本編で見せていない一段奥のカードが二枚あります。
今夜そのうちの少なくとも一枚は、たぶん抜くことになります。
抜いたあとの彼は十分なのか一時間なのか、ただの男に戻ります。
ただの男に戻った彼を誰が守るのかは、まだ書いていません。
次回、第24話。
マリンフォード、突入です。