五条悟になってワンピース世界に転生したけど、エースだけは絶対に死なせない   作:熊々

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赤と赤がぶつかります。
彼のカードが一枚、夜の半ばに抜かれます。

そのカードを抜いたあとの彼の身体のことは、抜いてから書きます。
広場の石畳が少しだけ抉れる予定です。

それから、もう一つ。
ずっと前のどこかの島で植えられた小さな種が、今夜の戦場のどこかで芽を出します。

続きが気になる夜を、お届けします。


第二十五話 赤い手

白い髭の老人が踏み出した一歩で、湾の空気が一段、底に落ちた。

落ちたまま戻ってこない。

その底のまま、二歩目が来た。

 

二歩目が来たときに、湾の海面が下から内側に膨らんだ。

 

『——震震の実』

『大震動』

 

声は短かった。

短いのに、広場の石畳の継ぎ目が一斉にずれた。

継ぎ目がずれた音が軽くて高い。

そのあとに、低い音が遅れて来た。

海面が割れた。

割れた海面の縁から、空気の壁が立ち上がる。

海軍の包囲網が一拍だけ崩れた。

崩れた一拍を、白ひげの艦隊が逃さなかった。

氷の道の上を駆ける足音が、一斉に湾の奥へ動いた。

俺はその一拍を、別の用事に使った。

 

⸻

 

(——青雉、来るぞ)

 

見聞色の針が湾の北端で硬く跳ね返る。

跳ね返り方が氷の質感だった。

 

『——アイスエイジ』

 

声が広場のどこかで響いたときには、もう海面の半分が白くなり始めていた。

白ひげ艦隊の二隻が氷の縁に挟まれて足を止めた。

止めた縁から、逃げ場を探す気配が走った。

 

俺の足元の石畳の縁にも白い線が伸びてきた。

俺は足を蹴った。

石畳を一度だけ強く押して、中空に逃げた。

 

無下限を踵の下に薄く張り直す。

張り直した境界の下で氷の白が地面を舐めて広がっていった。

俺の靴底の下、二センチで止まっていた。

 

(——間に合った)

 

中空の一拍を借りて、俺は内ポケットに右手の指を当てた。

畳まれた紙の角が布越しにまだ固い。

抜く時じゃない。

抜くのは、もう少し先だ。

 

⸻

 

着地した先で海軍兵が三人、棒立ちになっていた。

 

「な、宙……?!」

「いま宙を蹴って戻ってきたぞ……!」

 

声が震えていた。

震えている声に俺は短く頷いてみせて横を抜けた。

抜けたときに兵の一人がやっと無線を口に当てた。

 

『あ、新しい情報追加!

シャボンディの幽鬼、空中戦闘可能!

無下限の空中再展開を確認!』

 

無線の向こうの声は、もう何も返さなかった。

返す言葉を探している間に俺はもう次の角を曲がっていた。

 

⸻

 

広場の左、火薬庫の屋根の方角。

色の違う赤が一つ視界の端で揺れた。

 

ユースタス・キッドの赤じゃない。

キッドの赤はもっと血の色に近い。

こっちの赤はもう少し金属に近い。

斧鎌が振り下ろされた音が、続けて三回した。

 

『——リパルス!』

 

その声でPXの胴体が一体、宙を舞った。

舞ったまま、港湾の倉庫の壁に突き刺さった。

壁の漆喰が崩れた。

 

キッドが暴れている。

 

俺は方角だけ確認して、視線を切った。

あの男はあの男で勝手に動いていてくれた方が助かる。

 

逆方向、広場の右。

帽子の縁が屋根の上で一度だけ揺れた。

トラファルガー・ローが手を伸ばすと、そこに半透明の球体が膨らんだ。

 

『——ROOM』

 

球の中で海軍兵の身体がいくつか別の海軍兵と入れ替わった。

入れ替わった兵がいきなり仲間に剣を向ける形で固まる。

固まった一拍でもう一拍、ローの指が動いた。

 

『——シャンブルズ』

 

兵の身体がまた入れ替わる。

入れ替わるたびに包囲網の整列が崩れていく。

派手じゃない。

派手じゃないのに、戦線がほどけていく。

 

俺はそれだけ確認して視線を中央に戻した。

 

(——あいつらはあいつらで動く。俺は俺の方角だ)

 

⸻

 

中央広場の方角に、もう一度見聞色を絞った。

 

エースの位置はずっと同じ。

処刑台の上。

肩の角度はさっきから変わっていない。

顔は伏せられたままだ。

 

その手前。

湾の内側。

広場の中央。

 

重さの種類が一つだけ別格な気配が、ゆっくりこちらに歩いてきていた。

歩幅は広くない。

ただ、踏むたびに石畳の継ぎ目が軽く焦げた。

 

(——来たか)

 

俺は息を一度だけ深く入れた。

入れた空気の温度が口の中で生温かい。

生温かいのは、もう向こうの体温が広場全体に滲み始めているせいだ。

 

⸻

 

赤犬・サカズキ。

 

軍服の縁の白だけが妙にくっきり見えて、その内側の肉の重さが軍服越しでも分かる種類だった。

左肩の犬の刺繍がこちらから視ると生きた目で俺を見ていた。

 

赤犬の歩みが、俺の十メートル手前で止まった。

止まって、口の片端だけ動かした。

 

『三億二千万——にしては随分と派手な動きじゃのう』

 

声は低い。

低いまま広場全体に届いた。

電伝虫を経由していない。

肺と覇気だけの声だった。

 

「派手な動きの覚悟で来たんでね」

 

俺は左手を腰の鞘から離して、両手を体側に下ろした。

赤犬の視線が俺の右目の布で一度止まった。

 

『貴様、CP9の七番員じゃろう。

離反者がなぜここに』

 

「もう辞めたんだ、その仕事は」

「処刑、やめてもらおうかと思って」

 

俺は声のトーンだけ二段下げた。

飄々を作った声じゃない。

作った声を一度脱いで平のところに戻した声だ。

 

赤犬の右の眉が半分だけ動いた。

 

『そりゃあ、無理な相談じゃ』

 

赤犬の右拳がゆっくり胸の前まで上がった。

拳の表面が軍服越しに赤く熱を持ち始める。

 

「だろうな」

 

俺も右手を上着の裾からゆっくり外した。

 

⸻

 

赤犬の拳から、最初の一発が来た。

 

予備動作はほぼ無い。

腕が真っ直ぐ、こちらの胸の高さに落ちてきた。

 

『——大噴火』

 

声が来たときには、もう眼前にマグマの塊があった。

 

塊じゃない。

噴出。

腕の延長線上の空間が赤い液体で満ちていく速度の方が、俺の網膜の追跡より速い。

俺は無下限を身体の前面の半径一メートルだけに集めた。

赤い液体が無下限の境界の手前で止まった。

止まった液体が境界の周りを沿って流れていく。

流れていった先で港湾の石畳に直接落ちた。

落ちた石畳が一拍で熔けた。

熔けた石が後ろの倉庫の壁に飛んだ。

壁が一面赤く崩れた。

 

「(——重ぇ)」

 

俺は口の中で短く呟いた。

呟いた息がもう生温い。

 

⸻

 

赤犬の二発目が来る前に、俺の方が先に動いた。

 

ここで蒼を撃つ。

蒼で、あの男を無限の点に押し込む。

 

『——術式順転"蒼"』

 

俺は左の掌を赤犬の方に向けた。

向けた掌の中央に、青い負圧の球が生まれた。

 

球が膨らむ前に、もう赤犬の上半身がこちらに引き寄せられ始めた。

軍服の縁が空気と一緒に俺の方へ流れる。

赤犬の右足の踵が石畳から半センチだけ浮いた。

 

そのまま無限の点に押し込む。

押し込んで潰す。

押し込めるはずだった。

 

赤犬の身体の輪郭が、その途中で揺れた。

赤犬の身体の右半身が、軍服の中で赤い液体に変わっていた。

 

液体は固体じゃない。

固体じゃないものは点に押し込めない。

押し込んだ負圧の中央を赤い液体がすり抜けていった。

すり抜けた液体が俺の左肩の上を掠めた。

無下限の境界の薄かった部分。

そこにほんの数滴、赤いものが触れた。

軍服の上の布が一瞬で焦げて肩の皮膚にまで熱が届いた。

 

「く——」

 

短く呻いて左肩を引いた。

 

(——なるほど、固体じゃないと食えないか)

 

俺は半歩、後ろに下がった。

下がった靴底の下で石畳の継ぎ目がもう一度ずれた。

 

赤犬はすり抜けた身体を地面に降ろし直した。

降ろし直した瞬間に軍服の中の身体がまた固体に戻った。

 

『……ほう』

 

赤犬の口の片端がもう少しだけ動いた。

 

『その術式、見たことがない』

 

「だろうな」

 

俺は次の一手をもう決めていた。

 

⸻

 

蒼が効かないなら反転で叩く。

 

『——術式反転"赫"』

 

俺は今度は右の掌を赤犬の右肩に向けた。

向けた掌の中心に赤い正の質量が瞬間的に圧縮された。

圧縮された質量が湾の海水を一度だけ外周一メートルだけ外に弾き飛ばした。

弾き飛ばされた海水が雨になって石畳に落ちた。

落ちる前に、赫が撃たれていた。

 

赤犬の右肩の軍服が爆ぜた。

爆ぜた軍服の下の赤犬の右肩の肉が内側から押し出された。

肉の縁から赤犬本来のマグマが外に滲んだ。

 

赤犬が初めて半歩、後ろに下がった。

 

「あ……」

「あ、赤犬大将に、当てた……?!」

 

港湾の海軍兵の列で声が上がった。

上がった声が震えていた。

 

『——若造』

 

赤犬の声が、初めて低くなった。

さっきまでの低さじゃない。

喉のもっと底に沈んだ低さだった。

 

『その術式、二つ、別物じゃな』

 

「ああ」

 

俺はもう答えだけ短く返した。

返してから左手を初めてシャクヤクの小刀の柄に触れた。

 

触れただけ。

抜きはしない。

抜くのは次の一発のあとだ。

 

⸻

 

赫の余韻が石畳の上でまだ熱を持っていた。

その余韻の上に俺はもう次の構えを乗せていた。

 

蒼と赫を合わせる。

負と正をぶつける。

ぶつけて生まれる架空の質量。

 

(——一発)

 

口の中で短く決めた。

 

赤犬の再生がもう右肩の縁で始まっていた。

あの男の身体は撃ち抜いても撃ち抜いた先から戻ってくる。

戻ってくる前に、もう一段深く撃つしかない。

 

俺は両手を、胸の前で合わせた。

合わせた両手の間に赤い光球が生まれた。

 

『——虚式』

 

声が自分の口から勝手に出た。

 

『"茈"』

 

⸻

 

光球が膨らんだ。

 

膨らんだ光球の中で青と赤が互いに食い合っていた。

食い合いながら片方が片方を決して飲み込まない。

飲み込まないまま二つが一つの色に変わっていった。

 

赤いただ赤い、底のない赤。

 

俺はその赤を両手で押し出した。

押し出された赤が赤犬の正面を撃ち抜いた。

 

⸻

 

撃ち抜いた、という動作は目では追えなかった。

 

光球が消えた次の瞬間に赤犬の右腕が肩から消えていた。

 

軍服の右袖が肩の縁でばさりと垂れた。

袖の中身はもう、何も無い。

 

赤犬の右肩から下、それまであった重さの全部が無くなっていた。

無くなった先の空間が赤い線として湾の沖まで一直線に伸びた。

伸びた赤い線の上で湾岸の石畳が半円形に抉れた。

抉れた石畳の縁が内側に向かって一拍遅れて崩れた。

 

倉庫の壁がもう三棟、同時に倒れた。

倒れた壁の向こうの海面が抉れた縁の内側に轟音を立てて流れ込んだ。

港湾の半分が湾岸ごと沖の方へ削れた。

 

削れた境界線の手前で、俺はまだ立っていた。

 

⸻

 

戦場の音が、一拍だけ止まった。

 

白ひげ艦隊の足音も海軍兵の砲門の音もキッドの斧鎌の音も、ローのROOMの中の入れ替わりの音も。

全部一拍だけ止まった。

 

止まった一拍の中で赤犬の右袖だけが軍服の縁で軽く揺れていた。

 

その揺れをいちばん最初に見たのは大将台のセンゴクだった。

センゴクの目が、半分だけ見開かれた。

 

『……あれは』

 

センゴクの声が、初めて揺れた。

 

『反転と、順転の——合一じゃと……?!』

 

声は誰にも答えを求めていない。

ただ目の前で起きたことに口の方が先に追いついただけの声だった。

 

その隣で白ひげが薙刀の柄を初めて握り直した。

 

『……グララ』

 

笑いの種類がそれまでとは少し違った。

 

『面白え若造じゃ』

 

声はそれだけだった。

 

⸻

 

俺は両手をまだ胸の前で合わせたままだった。

合わせた手の間から赤い余光がまだ薄く漏れている。

漏れている余光を俺は両手をゆっくり開いて空中に逃がした。

 

逃がした次の瞬間右目の奥で、何かがぱきりと音を立てた。

音と一緒に視界の右側が半分赤に染まった。

 

(——出血、か)

 

右目の縁から温いものが頬を伝った。

頬を拭う余裕は今無かった。

拭ったところで止まる種類の血じゃない。

眼球の内側の細い管が一本、確実に切れた感触だった。

切れたものは元には戻らない。

戻らないものを抱えたまま、まだあと一発か二発、撃つことになる。

 

(——やっぱり、片目だと反動が桁違いだな)

 

膝の力が、ゆっくり抜けていった。

抜けていく膝を、左の踵で押さえた。

押さえた踵が石畳の上で半センチだけずれた。

ずれた踵の下で無下限の境界が半径五十センチまで縮んでいた。

さっきまで一メートル張れていたものが、半分。

半分のさらに半分まで、たぶん数分で落ちる。

——両目あったときの茈は、ここまで身体に来なかった。

両目あったときには、撃ったあとに少し息が乱れて、それで終わりだった。

今は撃った先から境界そのものが内側に喰われていく。

喰われていく境界の縁を、自分で見ながら立っていなければならなかった。

 

縮んだ境界の中で、俺は片膝をつかなかった。

つきたかった。

つきたいのを全部、左の踵で押さえた。

立っていろ、と自分に言う。

立っていれば、それだけで戦場の一部の重さは引き受けられる。

膝をついた瞬間、ハンコックの肩にも余分な視線がもう一つ乗る。

それは絶対に、避けたかった。

 

⸻

 

赤犬の右袖の中で、何かが再び動き始めた。

 

軍服の右肩の縁から、赤い液体がにじみ出た。

にじみ出た液体が軍服の中で肉の形をゆっくり取り戻し始めていた。

 

赤犬の腕が戻ってくる。

戻ってくる速さは原作で見たどの場面よりわずかに遅い。

それでも、戻ってくる。

戻ってくる肉の上で赤犬はもう立ち上がっていた。

 

『……面白い、お前』

 

声は低いままだった。

 

『二発目、もろうとくぞ』

 

赤犬の左腕が、今度は胸の前で構えられた。

 

⸻

 

俺は息を一度だけ深く入れようとした。

入れた息が半分だけ肺に届いた。

届かなかった半分が喉の途中で止まった。

 

(——間に合うか)

 

無下限の境界をもう一度前面に集める。

集めようとした境界の縁が薄い。

薄いまま揺れている。

 

赤犬の左腕が上がりきった。

上がりきった瞬間。

俺と赤犬の間に、別の影が割って入った。

 

⸻

 

長い黒髪。

紅い唇。

肩を露出した白いマント。

 

ボア・ハンコック。

 

七武海。

女ヶ島の蛇姫。

 

その背後の沖の方角に、女ヶ島の艦影がいくつも並んでいた。

帆の縁に蛇の紋章が小さく揺れている。

艦の数は六、七隻。

ここに来るまでにあの艦隊が海軍の包囲線をどう抜けてきたのか、説明できる人間は今この戦場には一人もいなかった。

それでも艦は、もうそこにあった。

 

ハンコックが広場の縁に降り立ったとき、湾岸の海軍兵の列が一拍だけ言葉を失った。

失った一拍の中で兵の何人かが膝の力を半分だけ抜いた。

覇王色の重みじゃない。

重みより前に、この女が今この戦場にいる、という事実そのものが、兵の判断回路を一度止めていた。

 

ハンコックの細い右腕が赤犬の左拳の前に横に伸ばされていた。

 

『待ちなさいサカズキ』

 

声は短かった。

短いのに、赤犬の左拳が止まった。

止まった拳の前でハンコックの手のひらがゆっくり赤犬に向けられた。

 

『その男は、わたくしの——』

 

ハンコックの声が、最後まで続かなかった。

続かなかった分をハンコックは口の中だけで飲み込んだ。

飲み込んだ分を誰かが察したのはその場でたぶん俺一人だった。

 

⸻

 

『七武海が……?!』

 

海軍側の伝令兵が無線を握ったまま叫んだ。

 

『ハンコック、貴様、何をして——』

 

『黙りなさい』

 

ハンコックは、伝令兵の方を見もしなかった。

 

『——メロメロ甘風』

 

ハンコックの細い指の間から桃色の輪がふわりと空気に放たれた。

放たれた輪が赤犬の左半身をさっと撫でた。

 

赤犬の左肩から下半身の半分まで。

軍服の上の肉が灰色の石に変わった。

 

完全な石化じゃない。

半身、それも左半身だけ。

それでも赤犬の左拳の動きはそこで止まった。

 

『……ハンコック』

 

赤犬の声が、初めてハンコックの名前を呼んだ。

 

『貴様、七武海の身分を、捨てる気か』

 

『わたくしの心は』

 

ハンコックの声は静かだった。

 

『最初から、そなたではないのです』

 

⸻

 

ハンコックは赤犬から、視線を切った。

切った視線の先に、俺がいた。

ハンコックの目が俺の右目の血を確認した。

確認したあと、ハンコックの肩が半分だけ下がった。

 

『立てるか、お前』

 

声のトーンが女ヶ島で聞いたときより少し低かった。

 

(——なんで、こいつが)

 

俺は口の中で半分だけ笑った。

笑った口の端から温い空気が漏れた。

 

「悪いな、蛇姫」

 

俺は左の踵をゆっくり戻した。

戻した踵で石畳を一度だけ押した。

膝が片方、つきかけた。

つきかけたところで止めた。

 

ハンコックの細い指が俺の右腕の肘の手前まで伸びてきて、そこで止まった。

触れない。

触れずにただ近くにある。

その距離だけで十分だった。

俺は反転術式を右目に集めた。

集めた術式が右目の奥で温く回り始めた。

血がゆっくり止まり始める。

止まる代わりに、別の場所の何かが削れていく感覚があった。

時間と引き換えだ。

代償の中身は、後で考える。

 

⸻

 

俺とハンコックが、並んで立っていた。

並んだ二人の影が湾岸の半分まで抉れた縁の上に長く伸びていた。

その影の長さを戦場の何人かが見ていた。

 

白ひげが薙刀の柄で地面を軽く叩いた。

キッドが屋根の上で口を歪めた。

ローが帽子の縁をもう一度つまんだ。

 

センゴクの目がまだ見開かれたままだった。

 

⸻

 

赤犬の右肩から新しい肉が軍服の袖の中に戻り始めていた。

戻った肉の縁がもう完全に元の形に近かった。

赤犬の左半身の石化も内側から徐々に剥がれていった。

 

『——次はもう止めん』

 

赤犬の声がそれだけ低く落ちた。

 

戦場の止まっていた音が、また動き始めた。

砲門の音。

氷の砕ける音。

キッドの斧鎌の音。

 

⸻

 

俺はもう一度、処刑台の方を見上げた。

 

見上げた先で。

処刑台の上の男が初めてこちらを見ていた。

 

肩の角度が変わっていた。

さっきまで伏せられていた顔が上がっていた。

顔の上の目が湾の中央広場の俺の方にまっすぐ向いていた。

 

顔の表情は遠くてまだはっきり見えない。

それでも、目だけは見えた。

 

(——よお、バカ兄貴。迎えに来たぞ)

 

胸の中だけでそれは言った。

 

エースの目が、半秒だけ見開かれた。

口が何か形を作りかけた。

「お前は……」——そう動いたように見えた。

最後まで音にはならなかった。

音にしようとした息が処刑台の高さで途中で止まったのが、こちらにも分かった。

止まった息のあとでエースの肩がほんの少しだけ動いた。

動いた肩の角度は、さっきまで全部諦めていた人間の角度ではもう、なかった。

その口の動きを戦場の喧騒がすぐに消した。

 

センゴクが演説台の上で再び声を張った。

声の内容は俺の耳にはもう届かなかった。

エースの口の動きの形だけ俺の方の網膜の奥に残った。

 

⸻

 

赤い光が湾を照らした。

光が消えると、戦場の温度が一段下がっていた。

処刑台の鎖が、ほんの少しだけ揺れた。

 

 




カードを一枚抜きました。

抜いたあとの彼の身体が何分もつのか、書きながらこちらも少し怖かったです。
たぶんあと数十分はもちません。
反動の中身は次回以降にもう少し詳しく書きます。

ずっと前に植えた種は今夜、芽を出しました。
芽の伸び方は書く前に想像していたより、ずっと静かな伸び方になりました。

処刑台の上の男が彼を初めて見ました。
あの目の見開き方を書くのに、書きかけては消して、書きかけては消して、最終的に半秒だけにしました。
半秒で十分だと思いました。

赤犬の腕は戻ります。
戻ったあとの赤犬が次にどこを狙ってくるかは、もう書く側にも見えてきています。


★や、お気に入り登録、本当に次の一話の速度に直結します。
夜更かしさせてしまった方ごめんなさい。明日のコーヒー、いつもより一杯多めでお願いします。

それではまた。
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