五条悟になってワンピース世界に転生したけど、エースだけは絶対に死なせない   作:熊々

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空から落ちてきたものが今夜、湾の石畳に降ります。

降りてきた中に彼が長いあいだ勝手に距離を取っていた相手が混じっています。
混じっている相手の前で、彼の身体の中にずっと畳んでいたカードを今夜、奥から一枚だけ開けます。

開け方を間違えると次の話まで持ちません。
持たせるための開け方を書き手の側もずっと考えていました。

開けたあとに残るものについては今夜は名前を伏せておきます。



第二十七話 もう一回しかない領域

風が、まだ止まっていた。

 

止まったままの風の縁を、ひとつ大きな影が縦に裂いた。

裂いた影の中心に麦わら帽が一枚浮いている。

麦わら帽の縁から下に誰かが両足を投げ出して落ちてくるのが見えた。

落ちてくる足の左右にもう一人ずつ別の人間がついている。

ついている中の一人が右腕で麦わらの胴を抱きしめていた。

抱きしめている右腕は、人間のものより一回り大きかった。

 

(——魚人だ)

 

(——ジンベエか)

 

見聞色の針が下に降りる前に湾の中央広場の縁に立っていた俺の足の指が一度だけ石畳を強く噛んだ。

噛んだ縁から肩の上を流れていた風がやっと動いた。

動いた風の塩気の底に火薬と焦げた木材の煙が薄く流れ込んだ。

流れ込んだ煙の縁を右目の余熱が一拍だけ押し戻した。

押し戻した縁の奥で見聞色の針がもう一段、下に降りた。

 

 

落下した一団の真ん中に麦わら帽の少年がいた。

 

いた、というより一団の真ん中で勝手に手足をばたつかせて落ちていた。

落ちてくる軌道の左右にばたつかせた手足を支える人間が複数いた。

ジンベエ、それから——あの男だ。

 

クロコダイル。

 

クロコダイルが落ちてくる軌道の右側で首にコートの裾を翻したまま麦わらの少年の片足を引っ掛けていた。

引っ掛けている指の動きが二年前に砂漠で見たものと同じだった。

同じ指の動きが海軍本部の頂上戦争のど真ん中で復活していた。

 

(——あの男、シャボンディから先までよく生きていたな)

 

クロコダイルの後ろにもう一段見えた影が女装の派手な髪と、青と黒に塗り分けられたモヒカンと、それから赤鼻のサーカス男だった。

ボンちゃん。Mr.3。バギー。

そしてその上にもう一枚、長い金髪を風に流したイワさん。

 

——インペルダウンだ。

 

落下した一団の重心が空中で一拍だけ整い、整った重心の真下にジンベエの右腕が大きく回った。

 

『——海流一本背負い!』

 

技名が独立行で湾の塩気を縦に裂いた。

 

裂いた塩気の縁でジンベエの右腕が湾の海面を一本上に持ち上げた。

持ち上がった海面が一団の真下にクッションのように回り込んだ。

クッションの上で麦わらの少年の足が、ぽん、と一度跳ねた。

跳ねた足の真下処刑台の少し手前の石畳に一団がそろって着地した。

 

 

戦場の音が一拍だけ呑まれた。

 

呑まれたあとに白ひげ艦隊の方角からドン、と一発、新しい砲撃の音が湾を縦に走った。

走った音をきっかけに湾の音は元の戦場の温度に戻った。

戻った温度の中で海軍兵の輪郭が一斉に処刑台の方を向いた。

一斉に向き直った視線の真ん中で麦わら帽の少年がゆっくり立ち上がった。

 

立ち上がった少年の顔の輪郭があの男に似ていた。

似ているのは目の上の角度と顎の張り方と、それから口の左の端の上がり方だった。

口の左の端を上げる癖は二年前にエース本人が酒場で笑ったときと同じだった。

 

俺の右目の余熱が一拍だけ深く沈んだ。

 

(——こいつが、麦わらか)

 

 

少年が叫んだ。

 

「エース——!」

 

声が湾の塩気を縦に裂いた。

裂いた声の真ん中に嘘がなかった。

 

処刑台の上でエースの喉がもう一度ひゅ、と短く鳴った。

鳴ったあとで、エースの口がゆっくり開いた。

 

「ルフィ……!」

 

声は小さかった。

 

小さいのに、湾の音の真ん中に届いた。

届いた声の縁に、第26話の終わりにあいつが俺に向けて呼んだ「誰、だ」とは別の温度が乗っていた。

乗っていた温度はたぶん兄貴の温度だった。

 

エースの視線が、こちらの右目の奥を一拍だけ撫でた。

撫でて、それから弟の方へ動いた。

 

(——よし、それでいい)

 

兄貴を譲るのに、俺の側で迷いは起きなかった。

起きないのが少し意外で、起きないままでいいかと一拍だけ考えて、考えるのをやめた。

やめた縁で見聞色の針がもう一段、下に沈んだ。

沈んだ針の奥にあの男の弟の足音の波長が薄く立ち上がっていた。

波長は粗くて、まっすぐで、どこにも嘘がなかった。

嘘がない波長の真ん中を、二年前に酒場で笑ったあの男の顔が一拍だけ横切った。

 

 

ルフィが走り出した。

 

走り出した足が中央広場の石畳を浅く蹴った。

蹴った先で海軍中将級の影が一人、ルフィの正面に滑り込んだ。

滑り込んだ中将の右拳が振り上げられた。

 

『——ゴムゴムの銃!』

 

ルフィの右拳が伸びた。

 

伸びた拳が中将の右拳の脇を抜けて中将の顔面の真横を一発、引っぱたいた。

引っぱたかれた中将の身体が湾の方角へ三メートル横に飛んだ。

飛んだ先の海面が一拍遅れてぱしゃ、と低く鳴った。

 

ルフィの足は止まらなかった。

止まらない足が俺の隣を駆け抜けようとした。

駆け抜ける軌道の真横で俺は片膝の重心を一段だけ前にずらした。

ずらした重心の縁にルフィの足が一拍だけ引っかかった。

 

ルフィが顔をこちらに向けた。

 

「——お前、誰だ……!」

 

声は短かった。

 

短いのに嘘がなかった。

嘘がないのが兄貴と同じだった。

 

「お前の兄貴の、知り合いだ」

 

俺は片手を上げて肩の上で軽く振った。

飄々を維持したつもりだった。

維持した声の奥で、二年前に「弟がいるんだ」と笑ったエースの顔が、一拍だけ重なる。

 

「先に行け」

 

肩を一度だけ、ルフィの背中に押した。

押した先でルフィの足が半秒だけ止まった。

止まったあとでルフィの目がこちらの右目の奥を一度撫でた。

撫でた視線の重さは兄貴の視線の半分以下だった。

半分以下の重さでルフィは「わかった」とも「ありがとう」とも言わずにもう一度走り出した。

 

走り出した背中の麦わらが湾の風に一度だけ大きく揺れた。

 

 

ジンベエの足が俺の右後ろで止まった。

 

止まった足がこちらの右目の奥を一拍だけ見た。

 

「あんたは……?」

 

声が太かった。

 

「気にすんな」

 

俺はジンベエの方を見ずに右手を一度だけ振った。

 

「行け」

 

ジンベエは何かを言いかけて、それから何も言わずに走った。

走った背中の右肩が麦わらの背中の左肩と並んで、処刑台の方角へ伸びた。

 

二人の背中が並んで遠ざかっていく軌道を俺は一拍だけ見送った。

見送った先でエースの目がこちらの右目の奥をもう一度だけ撫でた。

撫でた視線に何かを言いたそうな温度があった。

 

俺は唇の左の端を一段だけ上げた。

上げた左の端でエースの視線をいったん受けて、それから前に向き直った。

 

 

向き直った先に、赤犬がいた。

赤犬の右腕は、もう完全に元の太さに戻っていた。

戻った右腕の指が、一度だけ握って開いている。

握って開いた指の関節の音が湾の塩気の上で低く鳴った。

鳴った音の奥で赤犬の右肩が、じわりと熱を上げ始めた。

 

『——若造』

 

声は低かった。

低いまま赤犬の視線がルフィの背中の方角へ流れた。

流れた視線の重さに、見聞色の針が硬く跳ねた。

跳ねた針の端で、赤犬がいまから何をしようとしているかがこちらに先に降りた。

 

(——麦わらを、直接狙う気か)

 

赤犬の右拳の縁にマグマの赤い粒子が薄く立ち上がった。

立ち上がった粒子が拳の関節の縁で渦になった。

渦が回り始めた中心に第25話で湾の半分を焼いた『大噴火』の前兆がもう一度組み上がっていた。

組み上がる速度がさっきより一段速かった。

速くなった速度の縁で見聞色の針がもう一拍、硬く跳ねた。

跳ねた針の奥にルフィの背中とエースの足首の鎖の継ぎ目が、一直線に並んでいた。

 

並んでいた一直線の真ん中に赤犬の右拳の延長線が突き刺さろうとしていた。

 

 

俺は片膝を一気に伸ばした。

 

伸ばした膝の上で肩の上下を一段だけ深くした。

深くした呼吸の底に無下限の境界が一段だけ厚くなった。

厚くなった境界の縁で足の指が石畳を一度強く噛んだ。

噛んだ縁からエースとルフィの間の軌道に滑り込むように出た。

出た先の真横で白ひげが薙刀を持ち直した。

 

『——ガキども、頭ァ下げとけ』

 

嗄れた声が一拍だけ湾の塩気の上で低く落ちた。

 

落ちた声の縁で白ひげの薙刀の角度が一段だけ変わった。

変わった角度の延長線の先に赤犬の右肩があった。

 

赤犬の視線が白ひげの薙刀の角度に一度だけ流れた。

流れた視線の縁がすぐにこちらに戻った。

 

戻った視線の重さに見聞色の針が深く沈んだ。

 

『——貴様まだ立てる気か』

 

赤犬の声が湾の塩気の底に這った。

 

「立てる」

 

俺は片手の指を一度だけ握って開いた。

 

「一回だけ、な」

 

声を一段下げた。

下げた声の奥で二年前にCP9の地下訓練場で初めて開けたあのカードの縁が一拍だけ熱を持った。

 

(——もう一回しか、開けない)

 

開けるかどうかを問う声が俺の喉の奥でもう一度立ち上がった。

立ち上がった声を俺は息で押し戻した。

押し戻した縁で答えはもう出ていた。

 

 

赤犬の右拳が一段、地面に向けて沈んだ。

 

沈んだ拳の縁で湾の石畳が一斉に赤くなった。

赤くなった石畳の継ぎ目からマグマの粒子が縦に立ち上がった。

立ち上がった粒子の量が第25話の三倍はある。

三倍の量を間に合わせるなら、いまの一拍で術式を組み上げるしかない。

 

俺は両手を胸の前で交差させた。

交差させた両手の縁で無下限の境界が一段外に押し広がった。

押し広がった境界の縁が足元の石畳を中心に半円に切り取られた。

半円の縁を湾の塩気の流れの方向にだけ薄く伸ばした。

伸ばした先に処刑台のエースがいた。

 

エースは、半円の外に置いた。

置いたのは、意図だった。

 

(——兄貴は、この外でいい)

 

止めないために、半円の縁を処刑台の手前で曲げた。

曲げた縁の内側にだけ、赤犬と、湾の中央広場の半分と、海軍兵の輪郭、それから黄猿の遠景の足の先までをぎりぎり呑み込んだ。

呑み込んだ縁の真ん中で俺は両手の指を一度だけ強く組んだ。

組んだ指の奥で心臓の鼓動が一段だけ速くなった。

速くなった鼓動を俺は静かに止めにかかった。

 

 

『——術式順転"蒼"』

 

足元の石畳が、半円の中心に向けて一拍、内側に寄った。

 

寄った石畳の継ぎ目から、砂利が中心に向けて流れた。

流れた砂利の真ん中で、赤犬の右足の踵が一センチだけ中央に引かれた。

引かれた踵の上で赤犬の眉が一拍、寄せられる。

寄せられた眉の下で赤犬の右瞼が一段、深く落ちた。

落ちた瞼の縁から、湾の塩気とは別の重さがこちらの右目の奥を撫でた。

撫でた重さは、覚悟ではなく確信だった。

あの男はいまの一拍だけで、こっちが奥のカードを開けにきていることを読みきっていた。

読みきった上で自分の右拳の構築をもう一段、速めにかかった。

速めにかかった構築の縁の温度が、こちらの片膝の関節までじわりと届いた。

 

 

『——術式反転"赫"』

 

寄せた空気が、半円の縁から外側に弾けた。

 

弾けた風圧の縁で、赤犬の上半身が半歩のけぞった。

のけぞった首の角度の上で赤犬の口の端が一段、歪んだ。

歪んだ縁から、初めて、赤犬の喉の奥に戸惑いに似た音が漏れた。

 

『——なんじゃ、これは』

 

声が、低い場所からもう一段下に落ちた。

 

落ちた声の延長線の先で、赤犬の右拳から立ち上がっていたマグマの粒子の柱が、半秒だけ止まった。

止まった半秒の縁を、こちらの見聞色の針が深く拾った。

拾った半秒の中で、俺の片足はもう、半円の中心に向けて踏み込んでいた。

半秒もらえた、それで開けるところまでは届く。

 

 

俺は両手の指を、一度だけ深く組み直した。

 

組み直した指の奥で、自分の心臓の鼓動を最後まで止めた。

止めた鼓動の上で、目を閉じた。

閉じた目の裏で半径50cmまで縮んでいた無下限の境界の輪郭が一拍、大きく息を吸った。

吸い込んだ境界の縁が湾の塩気の上で、半円のまま外に向けて広がった。

広がった縁が、戦場の半分を内側に呑んだ。

呑んだ縁の上に、二年前にCP9の地下訓練場の壁を一度だけ抜けた、あの感覚が薄く乗った。

乗った感覚の縁を、俺は息で押し戻すのをやめた。

 

押し戻すのをやめた瞬間に半円の縁の内側の空気の質が、湾の塩気とは別のものに変わった。

 

『——領域展開』

 

『——"無量空処"』

 

 

湾の半分の時間が止まった。

 

 

赤犬の右拳の縁で立ち上がっていたマグマの粒子の流動が止まった。

止まった粒子は、空中の同じ高さで赤い点のまま固定されていた。

白ひげの薙刀の影が湾の石畳の上で止まる。

止まった影の角度はさっきの角度のまま動かない。

黄猿の遠景の光の粒子が空中で止まり、湾の塩気の中で薄く赤くなったその色のまま固まっていた。

キッドの斧鎌の刃の縁の鉄屑も空中で停止していた。

止まった鉄屑の角度が、半円の縁ぎりぎりで宙に張りついている。

湾の海面の波の山も止まった。

止まった波の山の縁から、水滴が一滴、空中に浮いたまま動かない。

海鳥もまた、湾の上空で翼を広げた格好のまま宙に固定されていた。

戦場の音が、全部、消えた。

 

 

止まった戦場の真ん中で俺の心臓の鼓動も止まっていた。

 

(——心臓が、止まっている)

 

止まった心臓の上で俺の両肩はまだ立っていた。

立っていられるのは無下限の境界が肉体の側に外から張り付いて、止まった鼓動の代わりに身体を保持していたからだった。

保持されている身体の縁で両目だけが開いていた。

開いている両目の真ん中で俺は赤犬の方を見た。

 

見た先で自分の身体の温度が、湾の塩気よりも一段下に落ちていることに気づいた。

落ちた温度の縁を無下限の境界が薄く保温していた。

保温の薄さが領域の維持時間の上限をこちらの側に教えてきた。

教えられた上限は体感でたぶん数秒だった。

数秒のあいだに決められるところまで決めるしかなかった。

 

 

赤犬の身体は止まっていなかった。

 

止まっていないのは領域の効果が「時間を止める」ことではなかったからだ。

領域の効果は半円の中の対象の脳に、無限の情報を注ぎ込むことだった。

注ぎ込まれた情報の量が赤犬の神経系の処理速度を一段、超えた。

超えた縁で赤犬の右膝が湾の石畳の上にゆっくり降りた。

降りた膝の上で赤犬の顔の輪郭が初めてこちらに完全に向き直った。

向き直った視線の奥に初めて湾の温度より一段低い色が落ちていた。

 

『……貴様、なんじゃ、これは』

 

声は低かった。

 

低いまま赤犬の右手が自分の右の眉の上を一度だけ強く押さえた。

押さえた指の関節の縁からマグマの赤い粒子が薄く流れて落ちた。

落ちた粒子は半円の縁の内側で空中に止まった。

止まった粒子の高さが赤犬の膝より一段、低かった。

 

 

演説台の方角でセンゴクの声が湾の塩気の上に、ぽつ、と落ちた。

 

『これは……これは、何じゃ……?!』

 

声の縁が揺れていた。

揺れた縁を俺は片目で一拍だけ拾った。

拾った縁から白ひげの方角に視線を流した。

 

白ひげの薙刀の影は止まっていた。

止まった影の延長線の先で白ひげの輪郭は半円の縁の外にいた。

外にいたのは白ひげが俺の半円の意図を一拍で読んで、自分の足を半歩外に下げていたからだった。

 

(——あの爺さん、間に合った)

 

唇の左の端が一段だけ上がりかけた。

上がりかけた縁を俺は止めた鼓動の上で止めた。

 

 

処刑台の上でエースがこちらを見ていた。

 

エースの目だけが半円の外で動いていた。

動いていた目の真ん中に湾の塩気とは別の温度が薄く落ちていた。

落ちていた温度の縁で、エースの口がゆっくり開きかけている。

 

「アズール……?」

 

声が湾の塩気の上に薄く落ちた。

 

落ちた声を俺は片目で拾った。

拾った縁で止まった鼓動の代わりに、肩の上下が一段だけ深く沈んだ。

 

(——気づいてたか)

 

エースの口がもう一拍、何かを言いかけた。

言いかけた言葉の縁が湾の塩気の上で一拍だけ揺れた。

揺れた縁の真ん中にたぶん、ある一文字が乗っていた。

乗っていた一文字を俺はまだ聞かないことにした。

聞かないために俺は領域の縁をゆっくり、解きにかかった。

 

 

解きにかかった半円の縁が湾の塩気の中で薄くなった。

 

薄くなった縁から止まっていた音が一気に戻ってきた。

戻ってきた音の真ん中に白ひげの薙刀が振り抜かれる風圧の音があった。

振り抜かれた風圧の縁が赤犬の右肩の真上を一拍遅れて横に裂いた。

裂いた縁から赤犬の身体が湾の石畳の上を、二メートル横に滑っていった。

 

赤犬は立たなかった。

立たないまま片膝をもう一度、石畳に深く刺した。

 

 

俺の心臓が戻った。

 

戻った鼓動の最初の一拍が肋骨の内側を強く突いた。

突かれた縁で両膝が一段だけ沈んだ。

沈んだまま俺は片足を一度だけ前に出した。

出した足の指が石畳を一度だけ強く噛んだ。

噛んだ縁から処刑台の方角へゆっくり歩き出した。

 

歩いた先で海軍兵は誰も俺を止めなかった。

止めなかったのは半分の海軍兵がいまの領域の縁をまだ脳の奥で再生していたからだった。

再生している縁の内側で、海軍兵の足は誰一人として動こうとしない。

動かない海軍兵の真ん中を、俺はゆっくり歩いていった。

 

歩いた先のずっと向こうで麦わらの背中が処刑台の階段を駆け上がっていく軌道が、ちらと見えた。

見えた軌道の真横にジンベエの太い背中があった。

二人の背中の角度が処刑台の鎖の継ぎ目の方角に揃っていた。

 

 

処刑台の縁に俺は立った。

 

立った先でエースの足の鎖の継ぎ目に片手をあてた。

あてた指の縁から反転術式の薄い熱を一拍だけ流した。

流した熱の縁で海楼石の鎖の継ぎ目の表面が、ほんの少しだけほどけ始めた。

ほどけ始めた縁からエースの足首の皮膚の色が一段だけ戻った。

戻った縁の上でエースの息がひゅ、と一度深く落ちた。

 

エースの口がもう一度動いた。

 

「……お前」

 

声は小さかった。

 

小さい声の奥でたぶんもうすぐある一文字が出かかっていた。

出かかっている一文字の縁を俺は片手の指の上で一拍、止めた。

 

「いいから」

 

俺はエースの目を見ずに鎖の継ぎ目を見たまま、言った。

 

「いまはまだ、いい」

 

エースの喉の奥で、その一文字がもう一度奥に引っ込んだ。

引っ込んだ縁の上でエースの目の睫毛が一度だけ伏せられた。

伏せた睫毛の縁の温度が湾の塩気よりも一段、温かった。

 

 

そのとき、湾の北の方角の海面が低く揺れた。

 

揺れた海面の縁にひとつ大きな影が薄く立ち上がっていた。

立ち上がった影の輪郭は海軍の艦のものではなかった。

海軍の艦よりも一段低く横に長く、それから輪郭の縁が、不揃いだった。

不揃いな輪郭の上に見たことのない旗が一枚、立っていた。

 

 

白ひげ艦隊の方角で誰かが一度だけ低く、何かを叫んだ。

 

叫んだ声の縁に警告の温度が乗っていた。

乗っていた温度を白ひげの薙刀の角度が一拍、拾った。

拾った薙刀の角度が北の方角へゆっくり向き直った。

向き直った先の海面の影が、一段、近づいている。

 

 

俺はエースの足首の鎖の継ぎ目から、片手を離さなかった。

 

離さないまま片目だけを北の方角に流した。

流した目の縁で見聞色の針が湾の温度より一段、深い場所に沈んだ。

沈んだ針の奥にいままで湾の戦場には、なかった種類の気配があった。

気配の輪郭が不揃いだった。

不揃いなのに笑っていた。

笑っている気配の真ん中にひとつ、誰の名前も乗っていない、低い笑い声があった。

 

 

鎖の縁がほんの少しだけ温かくなった。

 

背後で白ひげの薙刀の角度がもう一度、変わった。

 

別の方角から別の影が、湾に入ってきていた。

 

 

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