マブラヴ・インサート 〜白き少佐の因果強化計画〜 作:きのこ大三元
この回では、横浜基地の穏やかな日常の中にある“違和感”や、この世界特有の歪みを少し強めに描いてみました。
真白の立ち位置や周囲との距離感も、ここから少しずつ変わっていきます。
短い幕間ですが、今後への前振りとして楽しんでいただけていれば嬉しいです。
今後は基本的に、
毎週水曜日・土曜日の19時投稿となります。
引き続き、よろしくお願いいたします。
10月25日 昼過ぎ
横浜基地・B19フロア付近
<< 神宮寺 真白 >>
「……はぁ」
誰もいない通路で、思わず息が漏れた。
横浜基地の地下は、地上よりもずっと静かだった。
低い照明。
無機質な壁。
どこか遠くで響く機械の駆動音。
その全部が、今の自分には妙に重く感じられた。
午前中のシミュレーター適性確認。
初めて乗ったはずの不知火。
それなのに、身体は動かし方を知っていた。
白銀武の因子。
戦術機の感覚。
XM3の発想。
まりもさんや伊隅大尉の視線。
夕呼副司令の、あの楽しそうで危険な目。
ひとつひとつは、自分がやると決めたことだ。
BETAに対抗するには必要だ。
前線の衛士を一人でも多く生かすためには、XM3が必要だ。
白銀武がいないこの世界で、誰かがその役割を背負わなければいけない。
それは、分かっている。
分かっているのに。
「……ちょっと、重いな」
小さく呟いた声は、通路の壁に吸い込まれていった。
少佐相当。
特務技術顧問。
白銀武の代役。
新型OSの鍵。
夕呼副司令の管理下に置かれた重要隔離対象。
肩書きだけが、どんどん増えていく。
けれど、中身の自分は何も変わっていない。
昨日まで普通に暮らしていた、ただの人間だ。
怖いものは怖い。
疲れる時は疲れる。
期待されれば、押し潰されそうにもなる。
「……自分は、白銀武じゃないんだけどな」
言ってから、少しだけ苦笑する。
そんなことは、自分が一番分かっている。
それでも、今は進むしかない。
そう思って歩いていると、いつの間にか足はB19フロアの方へ向かっていた。
霞のいる部屋。
00ユニットに関わる、横浜基地でも特に特殊な場所。
本来なら、気軽に来ていい場所ではない。
だから、ここへ来る前にピアティフ中尉へ許可は取ってある。
もちろん、夕呼副司令にも話は通っている。
――休憩? いいわよ。ただし、霞のところに行くなら監視付き。あんた、自分が観察対象だって自覚しなさい。
そう言われた時の、夕呼副司令の顔を思い出す。
たぶん、休憩という名目の観察だ。
真白と霞が接触した時、何が起こるのか。
霞がどう反応するのか。
自分の精神状態がどう変わるのか。
あの人なら、全部記録するだろう。
それでも。
今は、あの静かな部屋に行きたかった。
戦術機も、XM3も、少佐という肩書きもない場所。
ただ、社霞という少女がいる場所へ。
「……失礼します」
扉の前で軽く息を整え、ノックしてから中へ入る。
部屋の中は、相変わらず薄暗かった。
淡く光るシリンダー。
静かに並ぶ機器類。
わずかに響く電子音。
そして、その近くに、霞が立っていた。
紫がかった髪。
無表情に近い顔。
けれど、その赤い瞳は、入ってきた自分をまっすぐ見ていた。
「……真白さん」
「こんにちは、霞」
なるべく普段通りに笑ったつもりだった。
けれど、霞はじっとこちらを見る。
数秒。
何かを確かめるような沈黙。
それから、ぽつりと言った。
「……疲れています」
「え?」
「顔が、少し重いです」
思わず頬に手を当てる。
「そんなに出てるかな」
「はい」
即答だった。
霞は少しだけ首を傾ける。
「白いです。でも、今日は……少し曇っています」
その言葉に、胸の奥が少しだけ詰まった。
霞には、何かが見えている。
自分でもうまく言葉にできない疲れや不安を、彼女は色のように感じ取っているのかもしれない。
「……そっか。霞には、分かっちゃうんだな」
「はい」
短い返事。
でも、そこに責める響きはなかった。
ただ、事実をそのまま伝えているだけ。
それが少しだけ、ありがたかった。
「今日は、戦術機に乗ったんです」
「……はい」
「初めてのはずなのに、動かせました。自分でも、ちょっと怖いくらいに」
「怖い、ですか」
「はい」
自分は小さく頷いた。
「動けることが、怖いんです。自分の力じゃない気がして。誰かの経験を借りて、誰かの席に座ってるみたいで」
白銀武。
この世界にいない、本来の主人公。
その名前を、ここでは口にしなかった。
けれど、霞は何も言わずにこちらを見ていた。
たぶん、分かっている。
少なくとも、何かを感じ取っている。
沈黙が落ちる。
重くなりかけた空気を変えたくて、自分は慌ててポケットに手を入れた。
「あ、そうだ」
「……?」
「今日は、ちょっと面白いものを持ってきたんです」
取り出したのは、小さなヨーヨーだった。
元の世界から、なぜかスマホと一緒に持ち込まれていたもの。
本筋には関係ない。
戦術にも、因果にも、オルタネイティヴ4にも関係ない。
ただの遊び道具。
霞は、それをじっと見つめた。
丸い本体。
指に巻く糸。
手の中に収まる小さな道具。
しばらく観察してから、霞は静かに言った。
「……武器ですか」
「違います」
思わず、少し笑ってしまった。
「遊び道具です」
「遊び道具」
「はい。元の世界では、子供も大人も遊んだり、技を練習したりするものなんです」
霞は、まだヨーヨーを見つめている。
「……投げますか」
「投げるというか、落とします」
「落とす」
「はい。見ててください」
自分は指に糸をかけ、ヨーヨーを構える。
久しぶりに触る感覚。
けれど、不思議と手に馴染んだ。
戦術機の操縦桿とは全然違う。
重さも、意味も、何もかも違う。
それなのに、今はこの小さな重さが少し安心できた。
「まずは、スリーパーです」
軽く手首を振る。
ヨーヨーが真下へ落ちた。
糸の先で、静かに回転し続ける。
霞の目が、わずかに動いた。
「……止まっていません」
「下で回ってるんです」
「戻ってきません」
「戻します」
手首を軽く引く。
ヨーヨーは糸を巻き取りながら、すっと手元へ戻ってきた。
霞が瞬きをする。
「……戻りました」
「はい。ちゃんと戻ってきます」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
戻ってくる。
ヨーヨーは、手を離れても戻ってくる。
けれど、自分はどうだろう。
元の世界に戻れるのか。
あの部屋に。
あの日常に。
何も知らずに眠れた場所に。
そんなことを考えかけて、首を振る。
今は、それを考える時間じゃない。
「次は、ブランコです」
もう一度ヨーヨーを落とし、糸を指にかけて形を作る。
小さな三角形の中で、ヨーヨーが揺れる。
「……揺れています」
「ブランコみたいでしょう?」
「ブランコ」
霞が小さく復唱する。
その声が、少しだけ柔らかく聞こえた。
「最後に、もう少しだけ難しいのを」
「難しいもの」
「はい。スパイダーベイビーです」
糸を複雑にかけ、ヨーヨーをその間に通す。
一度、少し引っかかりかけた。
けれど、なんとか形になる。
糸の中で、ヨーヨーが蜘蛛の巣のように収まった。
「……できた」
思わず、少しだけ得意げな声が出てしまった。
霞がこちらを見る。
「……少し、得意そうです」
「えっ」
「顔が、得意そうです」
「そ、そんなに出てました?」
「はい」
真顔で言われて、少し恥ずかしくなる。
「……これは、ちょっとだけ得意です。たぶん」
「たぶん」
霞が、ほんの少しだけ首を傾けた。
それが妙に可愛らしくて、自分は小さく笑った。
「触ってみますか?」
そう聞くと、霞はヨーヨーを見つめたまま、少しだけ間を置いた。
「……いいのですか」
「もちろんです」
自分はヨーヨーを霞へ差し出す。
霞は両手でそっと受け取った。
まるで壊れやすいものを扱うような手つきだった。
「指に、糸をかけます」
「はい」
霞の小さな指に、そっと糸を通す。
細くて、冷たい手だった。
「痛くないですか?」
「……大丈夫です」
「じゃあ、軽く下に落としてみてください。投げるというより、まっすぐ落とす感じで」
霞は小さく頷いた。
けれど、手元が少し迷っている。
どう動かせばいいのか分からないらしい。
「少し、支えますね」
「……はい」
自分は霞の横に立ち、彼女の手元にそっと手を添えた。
触れた瞬間、霞がわずかに瞬きをする。
逃げる様子はない。
拒む様子もない。
ただ、じっと自分の手とヨーヨーを見ている。
「ここを、こう持って……手首はあまり力を入れなくて大丈夫です」
「力を、抜く」
「はい。そうです」
一緒に手を動かす。
ヨーヨーが霞の手から落ちた。
少し軸はぶれたが、糸の先でちゃんと回っている。
「……」
霞の目が、わずかに見開かれた。
「回っています」
「はい。成功です」
「……戻りますか」
「戻ります」
「どうすれば、戻りますか」
「少しだけ、手を引きます」
自分は霞の手元を支えたまま、軽く上へ引く動作を教える。
ヨーヨーが糸を巻き取り、霞の手元へ戻ってきた。
ぱし、と小さな音。
霞の手の中に、ヨーヨーが収まる。
「……戻ってきました」
その声は、いつもよりほんの少しだけ明るかった。
表情はほとんど変わらない。
けれど、口元がわずかに緩んでいるように見えた。
「はい。ちゃんと戻ってきました」
「……不思議です」
「不思議ですよね」
「離れても、戻ってきます」
その言葉に、胸の奥がまた少しだけ揺れた。
「……そうですね」
自分は小さく頷いた。
「戻ってくるって、少し安心しますね」
霞はヨーヨーを手の中で見つめていた。
「真白さんも」
「え?」
「戻ってきますか」
一瞬、言葉に詰まった。
霞は、こちらを見ている。
感情の読みにくい瞳。
けれど、その奥には確かに何かがあった。
不安。
確認。
それとも、ただの質問。
分からない。
でも、軽く流していい言葉ではなかった。
「……戻ってきます」
自分は、ゆっくり答えた。
「少なくとも、霞にまた会いに来ます」
霞は数秒だけ黙っていた。
それから、小さく頷く。
「……はい」
その返事を聞いた瞬間、自分の胸の中にあった重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
XM3。
白銀武の代役。
夕呼副司令の計画。
周囲の期待。
それらが消えたわけではない。
でも、今この瞬間だけは。
小さなヨーヨーが回って、戻ってくるのを二人で見ているだけだった。
それが、どうしようもなくありがたかった。
同時刻
横浜基地・香月副司令執務室
<< 香月 夕呼 >>
「……へぇ」
モニター越しの映像を見ながら、夕呼は小さく声を漏らした。
画面には、霞の部屋が映っている。
神宮寺真白。
社霞。
そして、真白が持ち込んだ小さな道具。
「遊び道具、ね」
夕呼は椅子に背を預け、薄く笑った。
隣に立つピアティフ中尉が、端末に視線を落とす。
「副司令。記録しますか?」
「当然。真白と霞の接触記録として残しておきなさい」
「……遊んでいるだけに見えますが」
「遊びも観察対象よ」
夕呼はモニターから目を離さない。
霞がヨーヨーを手にしている。
真白がその手元を支えている。
接触。
拒絶反応なし。
精神状態、安定。
霞の表情、わずかに変化。
「霞があんな顔をするなんてね」
「表情変化、確認できます」
「真白の方も、さっきより落ち着いてる」
「バイタルも安定傾向です」
「戦術機でも、因果でも、00ユニットでもない。ただの遊び道具でこれなら……」
夕呼は、楽しそうに目を細めた。
「やっぱり、あの子の価値は戦力だけじゃないわね」
ピアティフ中尉は、少しだけ画面を見る。
そこには、霞の手の中へ戻ってきたヨーヨーを見て、真白が安心したように笑う姿が映っていた。
「精神的な緩衝材、ということでしょうか」
「それもある。けど、それだけじゃないわ」
夕呼は指先で机を軽く叩く。
「霞が真白を受け入れ始めてる。真白も霞の前では警戒が緩む。お互いに安定装置になり得る」
「危険性は?」
「もちろんあるわよ」
即答だった。
「真白は因果的に異常。霞は00ユニットに近すぎる。下手に共鳴すれば何が起こるか分からない」
「では、接触制限を?」
「しないわ」
夕呼は笑った。
「あの二人が互いに安定するなら、使わない手はないもの。ただし、監視は続ける」
「了解しました」
ピアティフ中尉が端末に記録を追加する。
夕呼は、もう一度モニターを見る。
画面の中で、霞がヨーヨーを返そうとしている。
真白は少し困ったように笑っている。
ただの休憩。
ただの遊び。
けれど、横浜基地では、そんなものですら意味を持つ。
「さて」
夕呼は小さく呟いた。
「明日のXM3テスト、少し面白くなりそうね」
10月25日 昼過ぎ
横浜基地・B19フロア・霞の部屋
<< 神宮寺 真白 >>
「そろそろ、戻ります」
少し名残惜しかったけれど、長居はできない。
自分はヨーヨーを受け取り、ポケットへしまった。
霞は、じっとこちらを見ていた。
「……もう、行きますか」
「はい。あまり長くいると、夕呼副司令に怒られそうなので」
「博士は、見ています」
「あ、やっぱり」
思わず苦笑する。
予想はしていた。
というか、見ていないはずがない。
「たぶん、今も記録されてますね」
「はい」
「……遊んでただけなんですけどね」
「遊びです」
霞が小さく言う。
「でも、少し……楽しかったです」
その言葉に、自分は息を止めそうになった。
霞の声はいつも通り静かだった。
けれど、その中にほんの少しだけ温度があった。
「そっか」
自然と笑みがこぼれる。
「それなら、持ってきてよかったです」
霞は、ヨーヨーをしまった自分のポケットを見た。
「また、見られますか」
「もちろんです」
「……明日も、来ますか」
その一言は、とても小さかった。
けれど、自分にははっきり聞こえた。
明日も、来ますか。
霞が、自分からそう聞いた。
それがどれくらい大きなことなのか、たぶん自分には全部は分からない。
でも、少なくとも嬉しかった。
「迷惑じゃなければ、また来ます」
霞はすぐに答えた。
「……迷惑では、ありません」
「じゃあ、また明日」
「……はい」
霞は小さく頷いた。
そして、少しだけ間を置いてから。
「……バイバイ」
そう言った。
その言葉を聞いた瞬間、自分は足を止めた。
バイバイ。
別れの言葉。
終わりの言葉。
もちろん、悪い言葉じゃない。
元の世界でも、何度も聞いた普通の言葉だ。
けれど、なぜか霞がそれを口にすると、少しだけ寂しく聞こえた。
この薄暗い部屋で。
ずっと一人で、誰かを見送り続けてきたような少女が言うと。
それは、ただの挨拶ではなく、本当に何かが終わってしまう言葉のように聞こえた。
だから、自分は少しだけ笑って、首を横に振った。
「霞」
「……はい」
「そこは、バイバイじゃなくて……またね、です」
「また、ね」
霞が小さく復唱する。
「はい」
自分はポケットの中のヨーヨーに、そっと触れた。
「バイバイだと、そこで終わりみたいでしょう?」
「……終わり」
「でも、またね、なら……また会える気がするんです」
霞は黙って、自分を見ていた。
「おまじないみたいなものです」
「おまじない」
「はい。また会えるようになる、おまじないです」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
子供っぽいことを言っている自覚はある。
けれど、霞にはそれくらいでいい気がした。
難しい理屈でも、作戦でも、因果でもなく。
ただ、次も会えると信じるための言葉。
それを、霞に渡したかった。
「だから……またね、霞」
霞は、しばらく何も言わなかった。
けれど、赤い瞳がわずかに揺れる。
そして、本当に小さな声で。
「……また、ね」
そう言った。
たどたどしい言葉だった。
けれど、確かに霞の口から出た言葉だった。
「はい。また明日」
自分は笑って、今度こそ扉へ向かう。
出る前に、もう一度だけ振り返る。
霞は、さっきと同じ場所に立っていた。
けれど、最初に入ってきた時より、ほんの少しだけ空気が柔らかくなっている気がした。
「霞」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「……何も、していません」
「してくれましたよ」
そう言うと、霞はわずかに瞬きをした。
「自分、少し楽になりました」
霞は黙っていた。
けれど、ほんの少しだけ、口元が緩んだように見えた。
「……よかったです」
その声を聞いて、自分は静かに部屋を出た。
扉が閉まる直前。
本当に小さな声が、背中に届いた。
「……またね、真白さん」
自分は振り返り、笑って答える。
「はい。またね、霞」
扉が閉まる。
廊下に戻ると、無機質な空気が肌に触れた。
さっきまでと同じ通路。
同じ照明。
同じ機械音。
けれど、来た時よりも少しだけ、息がしやすくなっていた。
ポケットの中のヨーヨーに、そっと触れる。
離れても、戻ってくるもの。
バイバイではなく、またね。
終わりではなく、次へ続く言葉。
自分は元の世界に戻れるか分からない。
白銀武の代役を、どこまで務められるかも分からない。
XM3が完成しても、すべてを救える保証なんてない。
それでも。
「……またね、か」
その約束だけは、守りたいと思った。
明日。
また霞に会う。
そして、XM3のテストを進める。
今度はきっと、霞もそこに関わることになる。
戦術でも、因果でもない小さな遊びが。
たった一つの言葉が。
次の一歩へ繋がっていく。
そんなことが、この世界にもあっていい。
――幕間1.本作用語メモ――
■ XM3α版
本作におけるXM3の試作段階。
まだ完成形ではなく、真白や霞、ピアティフの協力で調整が進められる。
■ ピアティフ中尉
夕呼副司令の補佐を務める国連軍士官。
事務処理やスケジュール管理、実験補助などで真白を支える。
■ ヨーヨー
真白が元の世界でも知っていた遊び道具。
本編では霞との距離を縮める、戦争から少し離れた小さな日常として扱われる。