マブラヴ・インサート 〜白き少佐の因果強化計画〜 作:きのこ大三元
10月28日 昼前
横浜基地・居住区連絡通路
<< 神宮寺 真白 >>
昼前の横浜基地は、妙に落ち着かない空気をしていた。
朝の訓練が一段落し、昼食にはまだ少し早い時間。
人通りは完全に途切れているわけではない。けれど、居住区からB19方面へ抜ける連絡通路は、他の主要通路に比べると明らかに静かだった。
低い照明。
規則正しく響く空調の音。
遠くから聞こえる機材の駆動音。
横浜基地は眠らない。それでも、場所と時間を選べば、人の気配は驚くほど薄くなる。
「……やっぱり、先に霞に謝った方がいいかな」
自分は、通路の途中で足を止めた。
朝のことを思い出す。
扉の向こうに立っていた霞。
真那さんと自分を見た瞬間の、真っ赤になった顔。
そして、あの一言。
――真白さんの中が、うるさいです。
――ぐちゃぐちゃです。
――見てはいけないものが、流れてきました。
「……刺さるなぁ」
思い出しただけで、胸の奥が痛む。
怒っていたというより、戸惑っていたのだと思う。
霞は余計なものまで読んでしまう。
自分の混乱。
真那さんとの距離。
言葉にしづらい感情の残滓。
そういうものが、一気に霞へ流れてしまったのかもしれない。
それは、自分のせいだ。
副司令室へ報告に行かなければならない。
月詠真那中尉に強化の兆候が出たこと。
朝の修羅場。
霞に見られたこと。
神代さんたちに見られたこと。
どれも夕呼副司令に隠していい話ではない。
でも、その前に霞に一言謝るべきかもしれない。
そう考えて、少しだけ遠回りの通路を選んだ。
今思えば、それがよくなかった。
「……自分、ほんとに判断が甘いな」
小さく呟きながら、歩き出す。
夕呼副司令にも言われていた。
自分は思っている以上に目立つ。
特にこの世界では、若い男というだけで目立つ。
それはもう、嫌というほど分かっている。
PXでの視線。
通路ですれ違う女性兵たちの反応。
隠しきれていない好奇心。
中には、軍人としての礼儀の奥に、別の感情を滲ませる人もいた。
この世界では、それが普通なのかもしれない。
男は貴重。
若く、健康で、衛士適性まである男なら、なおさら。
頭では分かっている。
分かっているけれど――。
「……やっぱり、慣れないな」
その時だった。
背後で、わずかに空気が動いた。
「――っ!?」
反応するより早く、口元を押さえられた。
声が、喉の奥で潰れる。
「んっ……!?」
腕を掴まれる。
身体が後ろへ引かれる。
足がもつれた。
視界が揺れる。
次の瞬間、自分は通路脇の物陰へ乱暴に引き込まれていた。
「暴れないで」
耳元で、低い声が囁いた。
女性の声だった。
もう一人いる。
感覚で分かった。
自分の腕を押さえている力。
肩を壁に押しつける力。
二人。
女性が二人。
「ん、っ……!」
振りほどこうとする。
けれど、うまく力が入らない。
自分の身体は、以前より確かに変わっている。
白銀武の因子の影響なのか、普通の人間よりは動けるはずだった。
でも、完全に不意を突かれた。
それに、相手は訓練を受けた軍人だ。
二人がかりで押さえつけられれば、そう簡単には動けない。
「おとなしくして」
冷たいものが、首筋に触れた。
刃物。
そう理解した瞬間、身体から力が抜けた。
喉が固まる。
呼吸がうまくできない。
さっきまで遠くに聞こえていた空調の音が、急にやけに大きく聞こえた。
「……ずっと目をつけてたんだ」
口元を押さえていた手が少しだけ緩む。
けれど、声は出ない。
出したら、首筋の刃がどうなるか分からなかった。
「若い男が、こんな通路を一人で歩いてるなんて不用心だよね」
「しかも少佐待遇だって? 副司令のお気に入り?」
もう一人が、くすりと笑った。
その笑い声が、耳の奥にねっとり残る。
「大人しくしてくれれば、痛い目には遭わないから」
「ちょっと付き合ってくれるだけでいいの。ね?」
言葉の意味が、頭の中に遅れて入ってくる。
理解した瞬間、胃の奥が冷たくなった。
違う。
これは、いつもの距離感の近さとは違う。
冗談でもない。
好意でもない。
自分を人間として見ていない。
珍しいもの。
貴重なもの。
使えるもの。
奪ってもいいもの。
そんな目だった。
「……っ、ぁ……」
助けを呼ばなければ。
そう思った。
けれど、声が出ない。
喉が震えるだけで、言葉にならない。
刃物の冷たさ。
壁の硬さ。
腕を押さえる指の痛み。
それだけが、異様にはっきりしていた。
「震えてる」
「可愛いじゃない」
ぞっとした。
全身の血が引く。
逃げたい。
逃げなきゃ。
でも、足が動かない。
頭の中で何度も叫ぶ。
誰か。
誰か助けて。
まりもさん。
夕呼副司令。
霞。
真那さん。
誰でもいい。
誰か――。
「……助け……」
声にならない声が、喉から漏れた。
その瞬間。
通路の奥から、鋭い声が響いた。
「貴様ら――そこで何をしている」
空気が凍った。
自分を押さえていた二人の動きが、ぴたりと止まる。
視線だけを、通路の方へ向ける。
赤。
まず目に入ったのは、赤い斯衛の制服だった。
薄暗い通路の中で、その色だけが異様にはっきりと見えた。
月詠真那中尉。
その背後には、神代少尉、巴少尉、戎少尉の三人が控えていた。
四人とも、こちらを見ている。
いや、正確には、自分を押さえている二人を見ていた。
真那さんの目は、見たことがないほど冷たかった。
「その手を離せ」
低い声。
怒鳴っているわけではない。
けれど、通路全体を支配するような声だった。
「ちっ……」
自分を押さえていた一人が、小さく舌打ちする。
もう一人が、刃物を引いた。
首筋から冷たさが消える。
その瞬間、自分はようやく息を吸えた。
「運が良かったわね、少佐殿」
そう言い捨てて、二人は自分から離れた。
そして、早足で通路の奥へ向かおうとする。
しかし。
「神代。巴。戎」
「はっ」
真那さんが短く命じる。
次の瞬間、三人の部下が動いた。
速かった。
逃げようとした二人が反応するより早く、神代少尉たちがその進路を塞ぐ。
「なっ――」
「抵抗はおやめください」
神代少尉の声は静かだった。
けれど、その静けさがかえって怖い。
巴少尉が一人の腕を捻り上げ、戎少尉がもう一人の退路を完全に断った。
短いもみ合い。
押し殺した呻き声。
金属片が床に落ちる音。
刃物だった。
それが通路の床を滑り、乾いた音を立てて止まった。
自分は、それを見た瞬間、膝から力が抜けそうになった。
けれど、倒れる前に、真那さんがこちらへ歩み寄ってくる。
「神宮寺少佐」
呼ばれて、ようやく自分が息をしていることに気づいた。
「お怪我はありませんか」
「……い、え……」
声が震えた。
自分でも驚くほど、情けない声だった。
「怪我は……多分……」
「首を見せてください」
真那さんは、ゆっくりと自分の顎に手を添えた。
乱暴ではない。
とても慎重な手つきだった。
首筋を確認し、腕、肩、手首を見る。
「浅い傷もありません。刃が触れただけのようです」
「……よかった」
そう言った瞬間、自分の身体が震えた。
今になって、恐怖が追いついてきた。
呼吸が速くなる。
心臓が、痛いくらいに鳴っている。
さっきの刃物の冷たさが、まだ首に残っている気がした。
「……っ」
堪えようとした。
けれど、無理だった。
視界が滲む。
情けない。
少佐なのに。
白銀武の代わりに、この世界を変えるなんて言っているのに。
誰かを助けたいなんて言っているのに。
こんなところで、何もできずに震えている。
「……少し」
自分は、掠れた声で言った。
「少しだけ……胸を、貸してください……」
真那さんの目が、わずかに揺れた。
けれど、すぐに静かに頷いた。
「はい」
その一言のあと、真那さんは自分をそっと抱き寄せた。
赤い斯衛の制服。
その胸元に額が触れる。
軍服の布の感触。
微かに香る、清潔な匂い。
硬くて、けれど不思議と安心する腕。
「……怖かった、です」
言葉にした瞬間、涙が溢れた。
「本当に……怖かった……」
「はい」
真那さんは、それ以上余計なことを言わなかった。
ただ、自分の背中に手を置いてくれた。
強く抱き締めるのではなく、逃げ場を作るように。
けれど、確かに支えるように。
「もう大丈夫です」
その声で、余計に涙が出た。
啜り泣きが止まらない。
通路の片隅で、いい大人が、しかも少佐待遇の人間が、女性士官の胸を借りて泣いている。
普通なら、恥ずかしくてたまらない光景だ。
でも今は、そんなことを気にする余裕なんてなかった。
しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いてきた。
真那さんは、まだ自分を支えてくれていた。
「……すみません」
「謝る必要はありません」
即答だった。
「ですが……自分が、油断していたから」
「違います」
真那さんの声が、少しだけ強くなった。
自分は思わず顔を上げる。
真那さんは、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「悪いのは、貴方ではありません」
その言葉が、胸の奥に深く刺さった。
「ですが……」
「真白さん」
名前で呼ばれた。
静かに。
けれど、逃げ道を塞ぐように。
「この基地は、日本の前線基地です。規律はあります。軍法もあります。ですが同時に、人類が追い詰められた時代の歪みも抱えています」
真那さんは、視線だけを通路の奥へ向けた。
神代少尉たちに拘束された二人の姿は、もう見えない。
「若い男性は貴重です。まして貴方は、香月副司令の管理下にある重要人物であり、衛士としても特異な存在です」
「……はい」
「だからこそ、貴方を人としてではなく、都合のよい資源のように見る者もいる」
その言葉は、冷たかった。
けれど、現実だった。
夕呼副司令にも言われた。
自分は戦略資源だと。
もちろん、夕呼副司令は自分を壊さないように管理しようとしている。
でも、すべての人間がそうではない。
中には、欲望や焦りや歪んだ理屈で、自分を奪おうとする者もいる。
それを、今日初めて突きつけられた。
「今後は、お一人で人気の少ない場所を歩くことは控えてください」
「……はい」
「移動の際は、可能であれば私か、私の部下にお声がけを」
「そこまでしてもらうのは……」
「必要です」
言い切られた。
真那さんの目は揺れない。
「真白さんは、ご自身の価値を軽く見すぎています」
「……価値、ですか」
「はい」
真那さんは、少しだけ眉を寄せた。
「貴方は、戦力としても、香月副司令の計画においても、そして……」
そこで、言葉が一度止まった。
真那さんは、ほんのわずかに目を伏せる。
「私にとっても、失うわけにはいかない方です」
胸の奥が、熱くなった。
さっきまで冷え切っていた身体に、少しずつ温度が戻ってくる。
「……ありがとうございます、月詠さん」
「礼には及びません」
そう言って、真那さんはいつものように姿勢を正した。
けれど、その表情にはまだ怒りが残っている。
静かな怒り。
自分を傷つけようとした者たちへ向けられた、冷たい怒りだった。
「……あの人たちは」
自分は、恐る恐る尋ねた。
「どうなるんですか?」
真那さんは、少しだけ沈黙した。
そして、静かに答える。
「あのような不届き者たちは、二度と真白さんの前に現れることはありません」
「……」
「それ以上は……お聞きにならない方がよろしいかと」
その言葉に、背筋が少し冷えた。
警務隊に引き渡されたのか。
配置転換になるのか。
あるいは、もっと重い処分が下るのか。
自分には分からない。
けれど、真那さんの声には、冗談も誇張もなかった。
本当に、二度と見かけることはないのだろう。
自分は、それ以上聞かなかった。
聞くべきではないと思った。
「部屋までお送りします」
「……お願いします」
真那さんが歩き出す。
自分もその隣を歩く。
少し後ろには、いつの間に戻ってきたのか、神代少尉、巴少尉、戎少尉の三人が控えていた。
彼女たちは何も言わない。
けれど、その立ち位置だけで、自分を守っているのが分かった。
昼前の通路を歩く。
さっきまで怖くてたまらなかった場所。
けれど今は、赤の制服が隣にある。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
「……月詠さん」
「はい」
「自分、強くならないと駄目ですね」
真那さんはすぐには答えなかった。
少し歩いてから、静かに言う。
「強くなることは、大切です」
「はい」
「ですが、すべてを一人で背負う必要はありません」
その言葉に、足が止まりかけた。
真那さんは前を見たまま続ける。
「真白さんは、誰かを救おうとしている。ならば同時に、誰かに守られることも覚えてください」
「……守られることも」
「はい」
真那さんは、ほんの少しだけこちらを見る。
「貴方が倒れれば、救えるはずの未来も失われます」
重い言葉だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
自分は、ずっと白銀武の代わりにならなければと思っていた。
原作の悲劇を変えなければ。
未来を変えなければ。
人類を救わなければ。
でも、自分一人で全部できるはずがない。
自分は白銀武じゃない。
ただ、この世界に放り込まれた神宮寺真白だ。
だからこそ、誰かに支えられながらでいいのかもしれない。
「……分かりました」
自分は小さく頷いた。
「なるべく、一人で無茶しないようにします」
「なるべく、では困ります」
「……努力します」
「それならば、よろしい」
少しだけ、真那さんの声が柔らかくなった気がした。
やがて、自分の部屋の前に着いた。
扉の前で立ち止まる。
まだ少し足が震えていた。
けれど、さっきほどではない。
「今日は、一度休んでください」
真那さんが言う。
「香月副司令には、私から一報を入れます」
「夕呼副司令に……」
「必要なことです」
「……怒られますかね」
「怒るでしょうね」
即答だった。
自分は思わず苦笑した。
「ですよね……」
「ですが、それは貴方を責めるためではないはずです」
真那さんは、そう言った。
「香月副司令も、貴方を失うわけにはいかないと理解しているでしょうから」
夕呼副司令の顔が浮かぶ。
きっと、まずは怒る。
次に、状況を分析する。
その後で、基地内の警備体制や、自分の移動管理について容赦なく手を入れるだろう。
そしてたぶん、最後にこう言う。
――だから言ったでしょ。あんたは目立つのよ。
そんな声が聞こえた気がして、自分は小さく息を吐いた。
「月詠さん」
「はい」
「助けてくれて、本当にありがとうございました」
自分は、深く頭を下げた。
真那さんは、一瞬だけ困ったように眉を動かした。
そして、静かに答える。
「私は、当然のことをしたまでです」
「それでも、ありがとうございます」
「……はい」
真那さんは、少しだけ目を伏せた。
その頬が、ほんのわずかに赤い気がしたのは、気のせいだろうか。
「では、私は香月副司令へ連絡を入れます」
「はい」
「おそらく、後ほど呼び出しがあるでしょう。それまでは部屋にいてください」
「……了解です」
「よろしい」
そう言って、真那さんたちは通路の奥へ去っていった。
赤い制服が、低い照明の向こうへ消えていく。
自分はしばらく、その背中を見送っていた。
部屋に入る。
扉を閉める。
鍵をかける。
その音を聞いて、ようやく膝から力が抜けた。
「……怖かった」
誰もいない部屋で、もう一度呟く。
首筋に手を当てる。
傷はない。
でも、あの冷たさはまだ残っている。
自分はベッドに腰を下ろした。
この世界は、BETAだけが怖いわけじゃない。
人類が追い詰められた世界。
倫理も、常識も、少しずつ歪んでいる世界。
男が貴重で。
関係が戦力になって。
自分の能力が、人の距離感を狂わせるかもしれない世界。
その危うさを、今日初めて、本当の意味で思い知った。
「……自分のせい、なのかな」
小さく呟いた。
けれど、すぐに真那さんの声が蘇る。
――悪いのは、貴方ではありません。
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……ありがとう、月詠さん」
涙は、もう出なかった。
けれど、今は副司令室へ行けそうになかった。
夕呼副司令には、きっと呼び出される。
その時、自分はもう一度説明しなければならない。
月詠真那の強化のこと。
霞のこと。
そして、今起きたこと。
全部。
隠さずに。
「……あんたはもう、自分だけの身体じゃないのよ」
そんな声が、まだ聞いてもいないはずなのに、頭の奥で響いた気がした。
この日以降。
あの二人を、基地内で見かけることは二度となかった。
何があったのか。
誰が、どこまで動いたのか。
自分は知らない。
そして、聞かなかった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
昼でも、夜でも。
人気の少ない通路を歩く時。
自分の少し後ろには、いつも赤い影があった。
それは監視ではなく。
警戒でもなく。
きっと――庇護と呼ぶべきものだった。
それは、神宮寺真白がこの世界の歪みを、初めて自分の身で思い知った日。
そして、月詠真那の「守る」という言葉が、初めて現実の行動として示された日だった。
――本作用語メモ11.5――
■ 人的資源
戦時下で、人間そのものが貴重な戦力・社会資源として扱われる考え方。
本作では、若い男性である真白の危うい立場を示す言葉として使われる。
■ 警務隊
基地内の規律や事件対応に関わる部隊。
本作では、基地内で起きる問題の処理先として名前を出せる。