マブラヴ・インサート 〜白き少佐の因果強化計画〜   作:きのこ大三元

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第11.5話「未遂……」

10月28日 昼前

横浜基地・居住区連絡通路

<< 神宮寺 真白 >>

 

 昼前の横浜基地は、妙に落ち着かない空気をしていた。

 朝の訓練が一段落し、昼食にはまだ少し早い時間。

 人通りは完全に途切れているわけではない。けれど、居住区からB19方面へ抜ける連絡通路は、他の主要通路に比べると明らかに静かだった。

 低い照明。

 規則正しく響く空調の音。

 遠くから聞こえる機材の駆動音。

 横浜基地は眠らない。それでも、場所と時間を選べば、人の気配は驚くほど薄くなる。

「……やっぱり、先に霞に謝った方がいいかな」

 自分は、通路の途中で足を止めた。

 朝のことを思い出す。

 扉の向こうに立っていた霞。

 真那さんと自分を見た瞬間の、真っ赤になった顔。

 そして、あの一言。

――真白さんの中が、うるさいです。

――ぐちゃぐちゃです。

――見てはいけないものが、流れてきました。

「……刺さるなぁ」

 思い出しただけで、胸の奥が痛む。

 怒っていたというより、戸惑っていたのだと思う。

 霞は余計なものまで読んでしまう。

 自分の混乱。

 真那さんとの距離。

 言葉にしづらい感情の残滓。

 そういうものが、一気に霞へ流れてしまったのかもしれない。

 それは、自分のせいだ。

 副司令室へ報告に行かなければならない。

 月詠真那中尉に強化の兆候が出たこと。

 朝の修羅場。

 霞に見られたこと。

 神代さんたちに見られたこと。

 どれも夕呼副司令に隠していい話ではない。

 でも、その前に霞に一言謝るべきかもしれない。

 そう考えて、少しだけ遠回りの通路を選んだ。

 今思えば、それがよくなかった。

「……自分、ほんとに判断が甘いな」

 小さく呟きながら、歩き出す。

 夕呼副司令にも言われていた。

 自分は思っている以上に目立つ。

 特にこの世界では、若い男というだけで目立つ。

 それはもう、嫌というほど分かっている。

 PXでの視線。

 通路ですれ違う女性兵たちの反応。

 隠しきれていない好奇心。

 中には、軍人としての礼儀の奥に、別の感情を滲ませる人もいた。

 この世界では、それが普通なのかもしれない。

 男は貴重。

 若く、健康で、衛士適性まである男なら、なおさら。

 頭では分かっている。

 分かっているけれど――。

「……やっぱり、慣れないな」

 その時だった。

 背後で、わずかに空気が動いた。

「――っ!?」

 反応するより早く、口元を押さえられた。

 声が、喉の奥で潰れる。

「んっ……!?」

 腕を掴まれる。

 身体が後ろへ引かれる。

 足がもつれた。

 視界が揺れる。

 次の瞬間、自分は通路脇の物陰へ乱暴に引き込まれていた。

「暴れないで」

 耳元で、低い声が囁いた。

 女性の声だった。

 もう一人いる。

 感覚で分かった。

 自分の腕を押さえている力。

 肩を壁に押しつける力。

 二人。

 女性が二人。

「ん、っ……!」

 振りほどこうとする。

 けれど、うまく力が入らない。

 自分の身体は、以前より確かに変わっている。

 白銀武の因子の影響なのか、普通の人間よりは動けるはずだった。

 でも、完全に不意を突かれた。

 それに、相手は訓練を受けた軍人だ。

 二人がかりで押さえつけられれば、そう簡単には動けない。

「おとなしくして」

 冷たいものが、首筋に触れた。

 刃物。

 そう理解した瞬間、身体から力が抜けた。

 喉が固まる。

 呼吸がうまくできない。

 さっきまで遠くに聞こえていた空調の音が、急にやけに大きく聞こえた。

「……ずっと目をつけてたんだ」

 口元を押さえていた手が少しだけ緩む。

 けれど、声は出ない。

 出したら、首筋の刃がどうなるか分からなかった。

「若い男が、こんな通路を一人で歩いてるなんて不用心だよね」

「しかも少佐待遇だって? 副司令のお気に入り?」

 もう一人が、くすりと笑った。

 その笑い声が、耳の奥にねっとり残る。

「大人しくしてくれれば、痛い目には遭わないから」

「ちょっと付き合ってくれるだけでいいの。ね?」

 言葉の意味が、頭の中に遅れて入ってくる。

 理解した瞬間、胃の奥が冷たくなった。

 違う。

 これは、いつもの距離感の近さとは違う。

 冗談でもない。

 好意でもない。

 自分を人間として見ていない。

 珍しいもの。

 貴重なもの。

 使えるもの。

 奪ってもいいもの。

 そんな目だった。

「……っ、ぁ……」

 助けを呼ばなければ。

 そう思った。

 けれど、声が出ない。

 喉が震えるだけで、言葉にならない。

 刃物の冷たさ。

 壁の硬さ。

 腕を押さえる指の痛み。

 それだけが、異様にはっきりしていた。

「震えてる」

「可愛いじゃない」

 ぞっとした。

 全身の血が引く。

 逃げたい。

 逃げなきゃ。

 でも、足が動かない。

 頭の中で何度も叫ぶ。

 誰か。

 誰か助けて。

 まりもさん。

 夕呼副司令。

 霞。

 真那さん。

 誰でもいい。

 誰か――。

「……助け……」

 声にならない声が、喉から漏れた。

 その瞬間。

 通路の奥から、鋭い声が響いた。

「貴様ら――そこで何をしている」

 空気が凍った。

 自分を押さえていた二人の動きが、ぴたりと止まる。

 視線だけを、通路の方へ向ける。

 赤。

 まず目に入ったのは、赤い斯衛の制服だった。

 薄暗い通路の中で、その色だけが異様にはっきりと見えた。

 月詠真那中尉。

 その背後には、神代少尉、巴少尉、戎少尉の三人が控えていた。

 四人とも、こちらを見ている。

 いや、正確には、自分を押さえている二人を見ていた。

 真那さんの目は、見たことがないほど冷たかった。

「その手を離せ」

 低い声。

 怒鳴っているわけではない。

 けれど、通路全体を支配するような声だった。

「ちっ……」

 自分を押さえていた一人が、小さく舌打ちする。

 もう一人が、刃物を引いた。

 首筋から冷たさが消える。

 その瞬間、自分はようやく息を吸えた。

「運が良かったわね、少佐殿」

 そう言い捨てて、二人は自分から離れた。

 そして、早足で通路の奥へ向かおうとする。

 しかし。

「神代。巴。戎」

「はっ」

 真那さんが短く命じる。

 次の瞬間、三人の部下が動いた。

 速かった。

 逃げようとした二人が反応するより早く、神代少尉たちがその進路を塞ぐ。

「なっ――」

「抵抗はおやめください」

 神代少尉の声は静かだった。

 けれど、その静けさがかえって怖い。

 巴少尉が一人の腕を捻り上げ、戎少尉がもう一人の退路を完全に断った。

 短いもみ合い。

 押し殺した呻き声。

 金属片が床に落ちる音。

 刃物だった。

 それが通路の床を滑り、乾いた音を立てて止まった。

 自分は、それを見た瞬間、膝から力が抜けそうになった。

 けれど、倒れる前に、真那さんがこちらへ歩み寄ってくる。

「神宮寺少佐」

 呼ばれて、ようやく自分が息をしていることに気づいた。

「お怪我はありませんか」

「……い、え……」

 声が震えた。

 自分でも驚くほど、情けない声だった。

「怪我は……多分……」

「首を見せてください」

 真那さんは、ゆっくりと自分の顎に手を添えた。

 乱暴ではない。

 とても慎重な手つきだった。

 首筋を確認し、腕、肩、手首を見る。

「浅い傷もありません。刃が触れただけのようです」

「……よかった」

 そう言った瞬間、自分の身体が震えた。

 今になって、恐怖が追いついてきた。

 呼吸が速くなる。

 心臓が、痛いくらいに鳴っている。

 さっきの刃物の冷たさが、まだ首に残っている気がした。

「……っ」

 堪えようとした。

 けれど、無理だった。

 視界が滲む。

 情けない。

 少佐なのに。

 白銀武の代わりに、この世界を変えるなんて言っているのに。

 誰かを助けたいなんて言っているのに。

 こんなところで、何もできずに震えている。

「……少し」

 自分は、掠れた声で言った。

「少しだけ……胸を、貸してください……」

 真那さんの目が、わずかに揺れた。

 けれど、すぐに静かに頷いた。

「はい」

 その一言のあと、真那さんは自分をそっと抱き寄せた。

 赤い斯衛の制服。

 その胸元に額が触れる。

 軍服の布の感触。

 微かに香る、清潔な匂い。

 硬くて、けれど不思議と安心する腕。

「……怖かった、です」

 言葉にした瞬間、涙が溢れた。

「本当に……怖かった……」

「はい」

 真那さんは、それ以上余計なことを言わなかった。

 ただ、自分の背中に手を置いてくれた。

 強く抱き締めるのではなく、逃げ場を作るように。

 けれど、確かに支えるように。

「もう大丈夫です」

 その声で、余計に涙が出た。

 啜り泣きが止まらない。

 通路の片隅で、いい大人が、しかも少佐待遇の人間が、女性士官の胸を借りて泣いている。

 普通なら、恥ずかしくてたまらない光景だ。

 でも今は、そんなことを気にする余裕なんてなかった。

 しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いてきた。

 真那さんは、まだ自分を支えてくれていた。

「……すみません」

「謝る必要はありません」

 即答だった。

「ですが……自分が、油断していたから」

「違います」

 真那さんの声が、少しだけ強くなった。

 自分は思わず顔を上げる。

 真那さんは、真っ直ぐにこちらを見ていた。

「悪いのは、貴方ではありません」

 その言葉が、胸の奥に深く刺さった。

「ですが……」

「真白さん」

 名前で呼ばれた。

 静かに。

 けれど、逃げ道を塞ぐように。

「この基地は、日本の前線基地です。規律はあります。軍法もあります。ですが同時に、人類が追い詰められた時代の歪みも抱えています」

 真那さんは、視線だけを通路の奥へ向けた。

 神代少尉たちに拘束された二人の姿は、もう見えない。

「若い男性は貴重です。まして貴方は、香月副司令の管理下にある重要人物であり、衛士としても特異な存在です」

「……はい」

「だからこそ、貴方を人としてではなく、都合のよい資源のように見る者もいる」

 その言葉は、冷たかった。

 けれど、現実だった。

 夕呼副司令にも言われた。

 自分は戦略資源だと。

 もちろん、夕呼副司令は自分を壊さないように管理しようとしている。

 でも、すべての人間がそうではない。

 中には、欲望や焦りや歪んだ理屈で、自分を奪おうとする者もいる。

 それを、今日初めて突きつけられた。

「今後は、お一人で人気の少ない場所を歩くことは控えてください」

「……はい」

「移動の際は、可能であれば私か、私の部下にお声がけを」

「そこまでしてもらうのは……」

「必要です」

 言い切られた。

 真那さんの目は揺れない。

「真白さんは、ご自身の価値を軽く見すぎています」

「……価値、ですか」

「はい」

 真那さんは、少しだけ眉を寄せた。

「貴方は、戦力としても、香月副司令の計画においても、そして……」

 そこで、言葉が一度止まった。

 真那さんは、ほんのわずかに目を伏せる。

「私にとっても、失うわけにはいかない方です」

 胸の奥が、熱くなった。

 さっきまで冷え切っていた身体に、少しずつ温度が戻ってくる。

「……ありがとうございます、月詠さん」

「礼には及びません」

 そう言って、真那さんはいつものように姿勢を正した。

 けれど、その表情にはまだ怒りが残っている。

 静かな怒り。

 自分を傷つけようとした者たちへ向けられた、冷たい怒りだった。

「……あの人たちは」

 自分は、恐る恐る尋ねた。

「どうなるんですか?」

 真那さんは、少しだけ沈黙した。

 そして、静かに答える。

「あのような不届き者たちは、二度と真白さんの前に現れることはありません」

「……」

「それ以上は……お聞きにならない方がよろしいかと」

 その言葉に、背筋が少し冷えた。

 警務隊に引き渡されたのか。

 配置転換になるのか。

 あるいは、もっと重い処分が下るのか。

 自分には分からない。

 けれど、真那さんの声には、冗談も誇張もなかった。

 本当に、二度と見かけることはないのだろう。

 自分は、それ以上聞かなかった。

 聞くべきではないと思った。

「部屋までお送りします」

「……お願いします」

 真那さんが歩き出す。

 自分もその隣を歩く。

 少し後ろには、いつの間に戻ってきたのか、神代少尉、巴少尉、戎少尉の三人が控えていた。

 彼女たちは何も言わない。

 けれど、その立ち位置だけで、自分を守っているのが分かった。

 昼前の通路を歩く。

 さっきまで怖くてたまらなかった場所。

 けれど今は、赤の制服が隣にある。

 それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。

「……月詠さん」

「はい」

「自分、強くならないと駄目ですね」

 真那さんはすぐには答えなかった。

 少し歩いてから、静かに言う。

「強くなることは、大切です」

「はい」

「ですが、すべてを一人で背負う必要はありません」

 その言葉に、足が止まりかけた。

 真那さんは前を見たまま続ける。

「真白さんは、誰かを救おうとしている。ならば同時に、誰かに守られることも覚えてください」

「……守られることも」

「はい」

 真那さんは、ほんの少しだけこちらを見る。

「貴方が倒れれば、救えるはずの未来も失われます」

 重い言葉だった。

 けれど、不思議と嫌ではなかった。

 自分は、ずっと白銀武の代わりにならなければと思っていた。

 原作の悲劇を変えなければ。

 未来を変えなければ。

 人類を救わなければ。

 でも、自分一人で全部できるはずがない。

 自分は白銀武じゃない。

 ただ、この世界に放り込まれた神宮寺真白だ。

 だからこそ、誰かに支えられながらでいいのかもしれない。

「……分かりました」

 自分は小さく頷いた。

「なるべく、一人で無茶しないようにします」

「なるべく、では困ります」

「……努力します」

「それならば、よろしい」

 少しだけ、真那さんの声が柔らかくなった気がした。

 やがて、自分の部屋の前に着いた。

 扉の前で立ち止まる。

 まだ少し足が震えていた。

 けれど、さっきほどではない。

「今日は、一度休んでください」

 真那さんが言う。

「香月副司令には、私から一報を入れます」

「夕呼副司令に……」

「必要なことです」

「……怒られますかね」

「怒るでしょうね」

 即答だった。

 自分は思わず苦笑した。

「ですよね……」

「ですが、それは貴方を責めるためではないはずです」

 真那さんは、そう言った。

「香月副司令も、貴方を失うわけにはいかないと理解しているでしょうから」

 夕呼副司令の顔が浮かぶ。

 きっと、まずは怒る。

 次に、状況を分析する。

 その後で、基地内の警備体制や、自分の移動管理について容赦なく手を入れるだろう。

 そしてたぶん、最後にこう言う。

――だから言ったでしょ。あんたは目立つのよ。

 そんな声が聞こえた気がして、自分は小さく息を吐いた。

「月詠さん」

「はい」

「助けてくれて、本当にありがとうございました」

 自分は、深く頭を下げた。

 真那さんは、一瞬だけ困ったように眉を動かした。

 そして、静かに答える。

「私は、当然のことをしたまでです」

「それでも、ありがとうございます」

「……はい」

 真那さんは、少しだけ目を伏せた。

 その頬が、ほんのわずかに赤い気がしたのは、気のせいだろうか。

「では、私は香月副司令へ連絡を入れます」

「はい」

「おそらく、後ほど呼び出しがあるでしょう。それまでは部屋にいてください」

「……了解です」

「よろしい」

 そう言って、真那さんたちは通路の奥へ去っていった。

 赤い制服が、低い照明の向こうへ消えていく。

 自分はしばらく、その背中を見送っていた。

 部屋に入る。

 扉を閉める。

 鍵をかける。

 その音を聞いて、ようやく膝から力が抜けた。

「……怖かった」

 誰もいない部屋で、もう一度呟く。

 首筋に手を当てる。

 傷はない。

 でも、あの冷たさはまだ残っている。

 自分はベッドに腰を下ろした。

 この世界は、BETAだけが怖いわけじゃない。

 人類が追い詰められた世界。

 倫理も、常識も、少しずつ歪んでいる世界。

 男が貴重で。

 関係が戦力になって。

 自分の能力が、人の距離感を狂わせるかもしれない世界。

 その危うさを、今日初めて、本当の意味で思い知った。

「……自分のせい、なのかな」

 小さく呟いた。

 けれど、すぐに真那さんの声が蘇る。

――悪いのは、貴方ではありません。

 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。

「……ありがとう、月詠さん」

 涙は、もう出なかった。

 けれど、今は副司令室へ行けそうになかった。

 夕呼副司令には、きっと呼び出される。

 その時、自分はもう一度説明しなければならない。

 月詠真那の強化のこと。

 霞のこと。

 そして、今起きたこと。

 全部。

 隠さずに。

「……あんたはもう、自分だけの身体じゃないのよ」

 そんな声が、まだ聞いてもいないはずなのに、頭の奥で響いた気がした。

 この日以降。

 あの二人を、基地内で見かけることは二度となかった。

 何があったのか。

 誰が、どこまで動いたのか。

 自分は知らない。

 そして、聞かなかった。

 ただ一つだけ、確かなことがある。

 昼でも、夜でも。

 人気の少ない通路を歩く時。

 自分の少し後ろには、いつも赤い影があった。

 それは監視ではなく。

 警戒でもなく。

 きっと――庇護と呼ぶべきものだった。

 

 それは、神宮寺真白がこの世界の歪みを、初めて自分の身で思い知った日。

 そして、月詠真那の「守る」という言葉が、初めて現実の行動として示された日だった。




――本作用語メモ11.5――
■ 人的資源
戦時下で、人間そのものが貴重な戦力・社会資源として扱われる考え方。
本作では、若い男性である真白の危うい立場を示す言葉として使われる。
■ 警務隊
基地内の規律や事件対応に関わる部隊。
本作では、基地内で起きる問題の処理先として名前を出せる。
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