マブラヴ・インサート 〜白き少佐の因果強化計画〜 作:きのこ大三元
10月28日 昼
横浜基地・食堂
<< 御剣 冥夜 >>
午前の訓練を終えた207B分隊は、食堂で昼食を取っていた。
ただし、席にいるのは四人だけだった。
榊千鶴。
彩峰慧。
珠瀬壬姫。
そして、自分――御剣冥夜。
鎧衣美琴は、まだ入院中だ。
復帰は、明日――10月29日になると聞いている。
「美琴さん、早く戻ってくるといいですね」
珠瀬が、小さく呟いた。
その声には、いつもの不安げな響きだけではなく、寂しさも混じっていた。
千鶴が頷く。
「ええ。あの調子だと、戻ってきた途端に騒がしくなるでしょうけど」
「……いないと静かすぎる」
彩峰が、ぽつりと言った。
その言葉に、冥夜は少しだけ笑った。
確かに、鎧衣がいないだけで207B分隊の空気は違う。
明るく、騒がしく、時にこちらの調子を崩してくる彼女の存在は、思っていた以上に大きいのかもしれない。
「鎧衣が戻れば、また賑やかになるだろう」
「そうですね」
珠瀬が少しだけ笑う。
その表情を見て、冥夜は箸を進めた。
食堂には、昼時らしいざわめきがあった。
配膳口からは、京塚のおばちゃんの大きな声が響いている。
「はい次! ちゃんと食べな! 訓練兵は飯食ってなんぼだよ!」
その声に、何人かの兵が苦笑していた。
戦時下の基地であっても、ここには少しだけ日常がある。
厳しい訓練の合間に、肩の力を抜ける場所。
そう思った時だった。
彩峰が、ふと入口の方を見た。
「……ねぇ、あれ」
短い声。
冥夜も、何気なく視線を向けた。
そこにいたのは、神宮寺真白少佐だった。
白い少佐。
中性的な容貌と、どこか柔らかな雰囲気を持つ、横浜基地の異例の存在。
昨日までの数日で、冥夜もその人物の言葉を何度か受け取っている。
目的があれば、人は努力できる。
仲間と一緒に生き残る力。
一呼吸。
そのどれもが、冥夜の胸に残っていた。
だが、冥夜の視線を止めたのは、真白少佐だけではなかった。
その隣に、赤い帝国斯衛軍の制服を纏った女性がいた。
月詠真那中尉。
冥夜の護衛。
幼い頃から、自分を陰に日向に支えてきた忠臣。
その月詠が、真白少佐の隣を歩いていた。
それだけなら、まだ不思議ではない。
真白少佐は、香月副司令の管理下にある重要人物だ。
新型OSにも関わっていると聞く。
月詠が護衛や確認のために同行しているのなら、理由はつく。
理由は、つく。
けれど。
二人の距離が、近かった。
護衛として不自然な距離ではない。
だが、単なる任務の距離とも違う。
真白少佐が少し歩調を緩めると、月詠も自然に合わせる。
真白少佐が何かを言うと、月詠は視線だけを向けて、静かに答える。
その表情は、いつものように硬いものではなかった。
凛としている。
護衛としての緊張もある。
けれど、その奥に、冥夜の知らない柔らかさがあった。
「……月詠?」
思わず、声が漏れた。
珠瀬が顔を上げる。
「あっ、神宮寺少佐です!」
珠瀬が手を振ろうとした瞬間、千鶴が慌てて止めた。
「待ちなさい、珠瀬」
「え? どうしてですか?」
「あれは……今、邪魔しちゃいけない雰囲気よ」
「そうなのですか?」
珠瀬は不思議そうに首を傾げる。
彩峰は、無言のまま二人を見ていた。
そして、ぽつりと言う。
「……距離、近い」
千鶴も小さく頷いた。
「ええ。普通の任務連絡にしては、少し……近いわね」
冥夜は何も言えなかった。
月詠が誰かと親しくすることは、悪いことではない。
むしろ、喜ばしいことのはずだ。
月詠は、常に自分のために立ってくれていた。
冥夜様のために。
その言葉を、月詠は何度も口にしてきた。
だからこそ、冥夜は時々思うことがあった。
月詠は、自分以外の場所で息を抜けているのだろうか。
自分の護衛という役目から離れて、ただ一人の女性として笑う時間があるのだろうか。
もし、それがあるなら。
それは、とても良いことのはずだ。
そう思う。
そう思うのに。
なぜか、胸の奥が落ち着かなかった。
月詠が、自分の知らない顔で笑っている。
真白少佐が、その隣に当然のようにいる。
その事実が、冥夜の心に小さな棘のように触れた。
痛い、というほどではない。
けれど、無視できない。
小さく、ちくりと残る感覚。
「冥夜さん?」
珠瀬が心配そうに覗き込んでくる。
冥夜は、はっとして表情を整えた。
「……いや、何でもない」
そう答えたものの、視線は自然と二人を追ってしまう。
赤い制服の月詠。
その隣を歩く、白い少佐。
二人の並びは、不思議と目を引いた。
赤と白。
護る者と、護られる者。
強い刃と、危うい光。
そんな言葉が、冥夜の脳裏をよぎった。
* * *
10月28日 昼
横浜基地・食堂入口付近
<< 神宮寺 真白 >>
「……真那さん、少しだけ距離が近い気がします」
「護衛ですので」
「食堂までですけど」
「護衛ですので」
昨日から、この返しが増えた気がする。
いや、増えたというか、完全に便利な言い訳として使われている。
自分は苦笑しながら、食堂の入口を通った。
夕呼副司令からは、昼食を取るように言われている。
ただし、一人では行かないこと。
結果として、月詠真那中尉――いや、真那さんが同行することになった。
護衛。
確かに護衛だ。
昼前の未遂事件を思えば、必要なのも分かる。
けれど、真那さんの距離が以前より近い。
物理的にも、心理的にも。
その変化を、自分自身が一番意識してしまっていた。
「真白さん」
「はい」
「歩く時、もう少し中央を」
「え?」
「壁際に寄りすぎると、退路が限られます」
「……すみません」
「謝罪ではなく、改善を」
「はい……」
真那さんは真面目だ。
本当に真面目だ。
でも、その声にわずかな柔らかさがあるせいで、余計に困る。
そんなことを考えていると、視線を感じた。
207B分隊の席。
御剣冥夜。
榊千鶴。
珠瀬壬姫。
彩峰慧。
四人がこちらを見ていた。
珠瀬訓練兵は手を振りかけて止められたような顔。
千鶴は何か察したような顔。
彩峰は観察するような目。
そして、冥夜は――。
少しだけ、驚いた顔をしていた。
いや、驚きだけではない。
何か小さな棘が刺さったような表情。
その視線が一瞬、自分ではなく、隣の真那さんへ向く。
「……」
まずい。
何がまずいのかは分からない。
けれど、何かまずい。
真那さんも冥夜に気づいたらしい。
すぐに表情を引き締め、いつもの月詠真那中尉の顔に戻る。
「冥夜様」
真那さんは軽く一礼した。
「月詠……」
冥夜も姿勢を正す。
「神宮寺少佐と、何か用件が?」
「はい。香月副司令より、午後の測定について確認を受けております」
嘘ではない。
嘘ではないが、全部でもない。
冥夜は一瞬だけ、こちらを見た。
「そうでしたか」
「御心配には及びません」
真那さんの声は、いつも通り落ち着いている。
けれど、さっきまでの柔らかさを知っているせいで、その切り替えが逆に目立つ。
自分は少しだけ頭を下げた。
「御剣訓練兵。午後の訓練も頑張ってください」
「はい。少佐も、ご無理はなさらぬよう」
「ありがとうございます」
会話は普通だった。
普通だったはずだ。
なのに、胸の奥が少しざわつく。
冥夜の視線が、ほんの一瞬だけ真那さんの袖に向いた。
そこに何かがあるわけではない。
ただ、距離の近さ。
空気の違い。
それだけで、何かを感じ取ったのかもしれない。
「行きましょう、真白少佐」
「は、はい」
真那さんが促す。
今、名前。
いや、少佐は付いていた。
けれど、神宮寺ではなく、真白と呼ばれた。
冥夜の目が、ほんのわずかに揺れた気がした。
自分は内心で頭を抱える。
真那さん。
今のは、わりと致命的です。
配膳口へ向かう途中、京塚のおばちゃんの声が飛んできた。
「おや、真白ちゃん! 今日は赤いお姉さん付きかい!」
「京塚のおばちゃん、声が大きいです!」
「食堂じゃ元気な声が一番の調味料だよ!」
真那さんが一瞬だけ固まる。
「真白ちゃん……?」
「京塚のおばちゃんは、いつもこうなので……」
「なるほど」
真那さんは静かに頷いた。
だが、少しだけ口元が緩んでいる。
それを見て、また背後の視線が強くなった気がした。
自分は、もう何も考えないことにした。
考えると、たぶん昼食の味が分からなくなる。
* * *
10月28日 昼
横浜基地・食堂
<< 御剣 冥夜 >>
真白少佐と月詠が配膳口へ向かった後も、冥夜はしばらく入口の方を見つめていた。
真白少佐。
月詠が、そう呼んだ。
いや。
正確には、真白少佐。
これまでは、月詠ならば「神宮寺少佐」と呼ぶはずだった。
少なくとも、公の場ならば。
月詠は礼を重んじる。
立場を弁える。
必要以上に個人的な距離を表に出すことなど、ほとんどない。
それなのに、今の月詠は自然に名前で呼んだ。
ほんの小さな違い。
他の者なら気づかないかもしれない。
けれど、冥夜には分かった。
月詠が、自分の知らない距離で真白少佐に接している。
その事実が、胸の奥に小さな棘のように残った。
「……冥夜」
彩峰が、短く声をかける。
「何だ」
「ご飯、冷める」
「……ああ」
冥夜は箸を取った。
だが、味はあまり分からなかった。
千鶴が、少しだけ慎重な声で言う。
「御剣、月詠中尉と神宮寺少佐は、何か任務上の関係があるのではないかしら」
「無論、それは分かっている」
冥夜はすぐに答えた。
「神宮寺少佐は香月副司令に近い人物だ。月詠が何らかの警護や連絡を担っていても、不自然ではない」
「なら、いいのだけれど」
千鶴はそれ以上踏み込まなかった。
珠瀬は少し困ったように二人を見る。
「月詠さんって、御剣さんの大切な人なんですよね」
「大切な……」
冥夜は、その言葉を繰り返した。
月詠は、自分の護衛だ。
忠臣だ。
幼い頃から、側にいてくれた人。
自分の命を守るために、迷わず刃となれる人。
それを大切と言うのなら、間違いなく大切な人だ。
だが、今の胸の感覚は、その言葉だけでは説明できなかった。
月詠が誰かに心を許すことは、喜ばしいことのはずだ。
あの月詠にも、冥夜以外に向ける柔らかい顔がある。
それは悪いことではない。
むしろ、良いことなのかもしれない。
月詠が、自分の役目だけに縛られず、一人の女性として誰かと向き合うこと。
それを、喜べない自分でいたくはない。
それなのに。
なぜ、自分はこんなにも落ち着かないのだろう。
真白少佐の言葉を思い出す。
地球と、全人類を守りたい。
そう言った人。
一呼吸で、仲間の命を守ることもあると教えてくれた人。
白い少佐。
その隣に、赤い制服の月詠がいた。
二人の並びは、不思議とよく似合っていた。
だからこそ、胸の棘は抜けなかった。
「……月詠」
小さく呟いた名前は、食堂の喧騒に紛れて消えた。
彩峰が、ちらりと冥夜を見る。
「……気になる?」
「何がだ」
「神宮寺少佐」
冥夜は、少しだけ答えに詰まった。
「気になるというより……」
言葉を探す。
真白少佐が気になる。
それは、確かにそうかもしれない。
だが、それだけではない。
月詠が気になる。
真白少佐と月詠の間に、自分の知らない何かがあることが気になる。
それを見ている自分の胸が、なぜか落ち着かないことが気になる。
「……よく分からぬ」
正直にそう言うと、彩峰は短く答えた。
「そっか」
それだけだった。
千鶴が小さく息を吐く。
「御剣。分からないなら、無理に答えを出さなくてもいいんじゃないかしら」
「榊……」
「私も、人の感情に詳しいわけではないけれど」
千鶴は少しだけ視線を落とす。
「分からないことを、分からないまま置いておく時間も必要だと思うわ」
その言葉は、どこか真白少佐の「一呼吸」に似ていた。
急いで答えを出すのではなく。
一呼吸置いて、自分の中を見る。
冥夜は、箸を置いた。
「……そうだな」
今、この感情に名前をつける必要はない。
羨望なのか。
不安なのか。
寂しさなのか。
あるいは、自分でも知らない別の感情なのか。
まだ分からない。
ただ、胸に小さな棘がある。
それだけは確かだった。
珠瀬が、おずおずと言う。
「あ、あの……御剣さん」
「何だ、珠瀬」
「もし気になるなら、あとで神宮寺少佐に聞いてみてもいいんじゃないでしょうか」
「本人に?」
「はい。その、少佐はちゃんと答えてくれる人だと思うので……」
珠瀬らしい、素直な意見だった。
冥夜は少しだけ目を伏せる。
真白少佐なら。
確かに、誤魔化すよりも、困りながらも言葉を選んでくれる気がした。
けれど、何を聞けばいいのか分からない。
月詠と何があったのか。
なぜ月詠が、あのような顔をしていたのか。
なぜ自分は、それが気になるのか。
そんなことを、どう聞けばいいのだろう。
「……今は、まだよい」
冥夜は静かに答えた。
「この感情が何なのか、自分でも分かっておらぬ」
「そうですか……」
珠瀬は少し心配そうに頷いた。
彩峰は、いつもの調子で味噌汁を飲む。
「……ご飯、食べた方がいい」
「彩峰、さっきもそれを言っていたな」
「冷めるから」
その淡々とした言葉に、冥夜は少しだけ笑った。
そうだ。
まずは、食べるべきだ。
考えるのは、その後でもいい。
冥夜はもう一度、箸を取った。
だが、視線はどうしても、配膳口の方へ向いてしまう。
そこでは、京塚のおばちゃんに大声で何かを言われて、真白少佐が慌てていた。
その隣で、月詠が静かに立っている。
凛としている。
けれど、その横顔は、どこか穏やかだった。
冥夜は、その光景を胸の奥にしまい込む。
小さな棘は、まだ抜けない。
けれど、それは痛みだけではなかった。
何かを知りたいと思う気持ち。
自分の中の変化に気づき始める感覚。
そして、月詠という人を、これまでとは少し違う形で見つめ直すきっかけ。
そのすべてが、小さな棘となって胸に残っていた。
そして冥夜はまだ知らない。
その小さな驚きと胸の痛みが、やがて自分の中で別の名前を持つ感情へと変わっていくことを。
それは、御剣冥夜が月詠真那の知らない顔を見た日。
そして、白き少佐と紅の護衛の距離に、初めて小さな棘を覚えた日だった。