マブラヴ・インサート 〜白き少佐の因果強化計画〜   作:きのこ大三元

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2026年6月27日 定期更新です。
構成を調整して、1話にまとめたものです。


幕間「赤い護衛と戦乙女たちと副作用」

10月30日 夜

国連軍横浜基地・食堂

<< 神宮寺 真白 >>

 

 A-01の個別癖チェックは、想像以上に疲れた。

戦術機に乗っている時の疲労とは違う。機体の挙動を見て、衛士ごとの癖を拾い、それを相手が受け取れる言葉に変える作業は、思っていた以上に神経を使う。

 

 伊隅大尉の視野。速瀬中尉の踏み込み。宗像中尉の読み。風間少尉の丁寧な制御。柏木少尉の柔軟さ。臼杵少尉の堅実さ。茜少尉の必死さ。如月中尉の、場の空気を柔らかく受け止める余裕。弥生中尉の、必要な瞬間だけ静かに踏み込む危うさ。

それぞれに強みがあり、同時に危うさもあった。それを見逃さないようにするだけで、頭の奥がじんわり重くなる。

 

「……お腹空いた」

 思わず呟くと、隣を歩いていた月詠真那中尉が、すぐにこちらを見た。

「食事を摂るべきです」

「はい。そうします」

「昼食も少なかったと記憶しています」

「……見てました?」

「護衛ですので」

 

 真那さんは当然のように言った。

護衛。

そう、護衛だ。

 夕呼の指示で、自分には単独行動制限がついている。月詠さん達による限定護衛も認められている。だから、真那さんが近くにいるのは何もおかしくない。

おかしくない、はずだ。

ただ、少し距離が近い。

 

「真那さん」

「はい」

「その……食堂では少し離れても大丈夫ですよ?」

「なぜですか」

「いや、A-01の皆さんに見られると、たぶん色々と……」

「私は護衛です」

「はい」

「護衛対象の体調を確認するのも任務です」

「はい……」

 

 真那さんは、本当に真面目な顔で言った。

だから、余計に困る。

 

 食堂に入ると、金属製のトレーが重なる音と、兵士たちの声と、京塚のおばちゃんの大きな声が混ざって聞こえてきた。訓練帰りの兵士たちが交わす短い笑い声。合成食の匂い。味噌汁の湯気。基地のどこにいても薄く残る、消毒液の匂い。

元の世界で知っていた食堂とは、何もかも違うはずなのに、最近の自分には、その騒がしさが少しだけ横浜基地の夜の音として馴染み始めていた。

 

「おー! 真白ちゃん! また顔色悪いねぇ! ちゃんと食べな!」

「京塚さん……自分、そんなに顔色悪いですか?」

「悪い悪い! あんた、また頭使いすぎた顔してるよ! ほら、多めに盛っとくからね!」

「いや、普通で大丈夫です……」

「若いんだから食べな! そこの赤いお姉さんも、ちゃんと見ててやりな!」

「私は護衛任務中です」

「はいはい、護衛ね!」

 

 京塚さんは豪快に笑いながら、自分のトレーに明らかに多めの食事を乗せた。真那さんの分も、同じように多い。

 

「……食べ切れるかな」

「食べてください」

「真那さんまで……」

「補給は必要です」

「言い方が完全に軍務ですね」

「軍務ですので」

 

 正論だった。

自分は諦めて、真那さんと一緒に空いている席へ向かった。

 

 そして、そこで気づいた。

食堂の一角に、A-01の面々がいた。

伊隅大尉、速瀬中尉、遙中尉、宗像中尉、風間少尉。柏木少尉や臼杵少尉、茜少尉たちの姿もある。如月中尉と弥生中尉も、こちらを見ていた。

正確には、自分と真那さんの距離を見ていた。

 

「……逃げたい」

「食事を摂るべきです」

「はい……」

 

 真那さんは迷いなく、A-01の席の近くへ歩いていく。

なぜ、そこへ。

いや、席が空いているからだ。

護衛として見通しの良い場所を選んだのだろう。

きっとそうだ。

そうであってほしい。

 

「神宮寺少佐」

 伊隅大尉が静かに声をかけてきた。

「お疲れ様です、伊隅大尉」

「本日の確認、お疲れ様でした」

「こちらこそ、ありがとうございました」

「そちらは月詠中尉ですね」

「はい」

 

 真那さんが姿勢を正す。

「帝国斯衛軍、第19独立警備小隊長、月詠真那です。現在、神宮寺少佐の限定護衛任務に就いております」

「伊隅みちるです。A-01中隊を預かっています」

 

 二人の間に、静かな緊張が流れる。

国連軍の精鋭部隊長と、帝国斯衛軍の近衛。食堂の片隅なのに、空気が少しだけ硬くなった。

 その空気を破ったのは、速瀬中尉だった。

 

「へぇ」

 その一言で、自分の胃が跳ねた。

「月詠中尉って、護衛なんですよね?」

「はい」

「……距離、近くないですか?」

 

水月さん。

そこに触れますか。

触れますよね。

分かってました。

 

 真那さんは、真面目な顔のまま答える。

「護衛対象の安全確保に必要な距離です」

「へぇ。安全確保」

 

 宗像中尉が、楽しそうに続ける。

「食堂の中でも?」

「はい」

「食事量の確認も?」

「必要です」

「なるほど。よく見てるね」

 

 宗像中尉の笑みが深くなる。

やめてほしい。

本当にやめてほしい。

 

 如月中尉が、にこにこと頷いた。

「いい護衛さんねぇ。ちゃんと食べさせてくれる人は貴重よ、少佐」

「如月中尉、そちら側ですか」

「そちら側って何かしら」

「自分を逃がしてくれない側です」

「だって、顔色悪いもの」

 

 正論だった。

 

 弥生中尉は、眠たげな目でこちらと真那さんを交互に見ていた。

「赤い護衛が近いと、白い少佐の逃げ道が狭い」

「弥生中尉、その言い方はどういう意味ですか……」

「そのまま」

「そのままが一番怖いです」

 

 遙中尉が、少し困ったように笑う。

「少佐、今日はかなり疲れていましたし、食事はちゃんと取った方がいいと思います」

「ありがとうございます、涼宮中尉」

「月詠中尉が気にしてくれるのは、良いことだと思います」

 

 その声は優しい。

けれど、横で速瀬中尉がにやにやしているので、逃げ道にはならなかった。

 

 柏木少尉が、明るく手を挙げる。

「はい、質問です!」

「柏木少尉……嫌な予感しかしません」

「少佐と月詠中尉って、どういう関係なんですか?」

 

 直球だった。

自分は、内心で頭を抱える。

 

「自分と月詠中尉は、その……護衛対象と護衛で……」

「真白さん」

 真那さんが静かに言った。

「はい」

「お味噌汁が冷めます」

「今それですか!?」

「食事中ですので」

 

 真那さんは、ごく自然に自分のトレーの位置を整えた。

箸の向きまで直された。

その瞬間、A-01側の空気が変わった。速瀬中尉が笑いを堪え、宗像中尉が口元を押さえ、柏木少尉が目を輝かせる。

 

 臼杵少尉が、小さな声で言った。

「……月詠中尉、少し笑っていました」

 

 真那さんの動きが、一瞬止まった。

「任務中です」

「笑っていたことは否定しないんですね」

 

 宗像中尉が静かに刺す。

風間少尉が、困ったように息を吐いた。

 

「宗像、これ以上はやめてあげてください」

「私は確認しただけだよ」

「その確認が強いんです」

 

 A-01は、戦場でも食堂でも連携が良すぎる。

自分は、完全に逃げ場を失っていた。

 

「……自分、食事していいですか」

「食べてください」

 真那さんが即答した。

「冷めます」

「はい……」

 

 自分は黙って箸を取った。

とりあえず食べる。

今はそれしかない。

A-01の視線が痛い。真那さんの隣は心強いけれど、別の意味で逃げ場がない。

 

 京塚さんが遠くから大声で笑っている。

「真白ちゃーん! 若いんだから悩む前に食べなー!」

「はい!」

 

 思わず大きな声で返事をしてしまった。

食堂にまた笑いが起きる。

でも、不思議と嫌ではなかった。

 

からかわれている。

見られている。

けれど、そこには昨日までより少し柔らかい空気があった。A-01は、自分をただの教導官としてだけではなく、一人の人間として見始めている。

たぶん、それは良いことだ。

たぶん。

そう思いたい。

 

 

10月30日 夜

横浜基地・食堂

<< 速瀬 水月 >>

 

 水月は、少し離れた席から神宮寺真白を見ていた。

白い制服の少佐。

二十歳。

男性。

XM3の教導官。

夕呼の切り札。

そして、帝国斯衛軍の月詠真那中尉に、妙に近い距離で護衛されている人物。

情報量が多すぎる。

 

「……あれ、絶対ただの護衛じゃないわよね」

 水月が呟くと、隣の遙が困ったように笑った。

「水月、声が大きいよ」

「聞こえないように言ってるわよ」

「たぶん、宗像さんには聞こえてると思う」

「宗像は聞こえなくても察するでしょ」

 

 少し離れたところで、宗像がこちらを見ずに微笑んだ。

やっぱり聞こえている。

水月はため息をついた。

 

「でも、意外だったわ」

「何が?」

「月詠中尉って、もっと冷たい人だと思ってた」

「ああ……」

 

 遙も、ちらりと赤い制服の護衛を見る。

月詠真那は、姿勢を崩さない。表情も大きくは動かない。けれど、真白の食事が止まれば促す。水が減れば気づく。疲れた顔をすれば、静かに視線を向ける。

それは任務と言えば任務なのだろう。

だが、水月には、それだけではないように見えた。

 

「少佐、危なっかしいからね」

 遙がぽつりと言う。

「それ、あんた昨日も言ってたわね」

「うん」

 遙は小さく頷いた。

「守ってくれる人がいるのは、良いことだと思う」

 

 水月は、少し黙った。

神宮寺真白。

あの少佐は、確かに危なっかしい。

A-01を生かしたい。死ぬ人を減らしたい。戦場から帰るためのOSだと、まっすぐ言う。

それ自体は、嫌いではない。むしろ、水月は少し気に入っている。

だが、あの言い方には、どこか切迫感がある。

まるで、本当に誰かが死ぬことを知っているかのような。

 

「……何を背負ってるのかしらね」

 水月は小さく呟いた。

遙は答えなかった。

その代わり、静かに真白を見る。

 

 白い少佐は、赤い護衛に促されながら、ようやく食事を進めていた。食堂の明かりの下で見ると、彼は戦術機の操縦席にいる時より、ずっと若く見える。

いや、たぶん本当は、そちらの方が正しいのだ。

まだ二十歳の青年。

本来なら、こんな場所で人の死に方を知っているような顔をする年齢ではない。

 

「少佐って、不思議ですよね」

 柏木が、少しだけ真面目な声で言った。

「からかいやすいのに、放っておけない感じがします」

 

 水月は、軽く息を吐いた。

放っておけない。

確かに、それはある。

 

 如月が柔らかく笑う。

「見ていると構いたくなるものね」

 

 弥生は、味噌汁の椀を置いて短く言った。

「戦場では死線を見る顔。食堂では退路を探す顔」

「藤乃、あんたの言い方も大概よ」

「事実」

 

 水月は、もう一度真白を見る。

白い少佐。

赤い護衛。

そして、それを見ている戦乙女たち。

 

「……退屈はしなさそうね」

 

 水月はそう言って、味噌汁を口に運んだ。

その味は、いつもの合成味噌汁だった。

特別おいしいわけではない。

けれど、今夜は少しだけ温かかった。

 

 

10月30日 夜

横浜基地・食堂出口

<< 神宮寺 真白 >>

 

 食事を終えた頃には、自分の精神はかなり削られていた。

今日の個別癖チェックより、今の食堂の方が疲れた気がする。

A-01の皆さんは、戦場でも食堂でも強い。特に宗像中尉と柏木少尉。速瀬中尉も危険だ。伊隅大尉まで時々真顔で刺してくる。如月中尉は優しく見えて逃げ道を塞いでくる。弥生中尉は一言で退路を断ってくる。

つまり、A-01は全体的に強い。

 

「……疲れました」

 食堂を出て、思わず呟く。

隣で真那さんが静かに頷いた。

「食事は摂れました」

「そうですね」

「この後は、少し休むべきです」

「はい」

 

 そこで、真那さんの声が少しだけ柔らかくなる。

「真白さん」

「はい」

「無理はなさらないでください」

 

 その言葉に、からかいの色はなかった。

ただ、本当に心配してくれている声だった。

 

 自分は、少しだけ息を吐く。

「ありがとうございます、真那さん」

「当然のことです」

 

 そう言う真那さんの横顔は、いつものように凛としていた。

けれど、その耳がほんの少し赤いことに、自分は気づいてしまった。

気づかなかったことにした。

その方が、たぶん平和だった。

 

 食堂の中からは、まだ兵士たちの声が聞こえている。食器が重なる音。誰かの笑い声。京塚のおばちゃんが、また誰かに「ちゃんと食べな」と言っている声。

横浜基地の夜は、今日もどこか騒がしかった。

 

 その騒がしさの中で、A-01は白き少佐の別の顔を知った。

戦術機の癖を見抜く教導官ではなく。

未来を変えようとする異物でもなく。

赤い護衛に食事を促され、戦乙女たちにからかわれて、困ったように味噌汁を飲む一人の青年として。

 

 それが、今夜の横浜基地の日常だった。

 

そして――。

 

 神宮寺真白は、また一つ理解した。

戦場で戦乙女たちから逃げるより、食堂で戦乙女たちから逃げる方が、ずっと難しいのだと。

 

 

10月30日 深夜

国連軍横浜基地・教官室

<< 神宮司 まりも >>

 

 教官室の蛍光灯は、深夜になると少しだけ白さを増す。

昼間は訓練兵たちの声や書類の束に紛れて気にならない光が、誰もいない時間になると、机の端や端末の縁を妙にはっきり浮かび上がらせる。

 

 私は、その白い光の下で書類をめくっていた。

A-01の訓練記録。制限版XM3の反応ログ。神宮寺少佐による個別癖チェックの所見。

本来なら、もう目を通すだけでも疲れる量だった。今日一日だけでも、A-01の訓練立ち会い、各員の癖確認、神宮寺少佐の教導内容の監督、207Bの訓練予定の再調整まで重なっている。肩が重くなり、目の奥が鈍く痛み、文字が滑るように読めなくなってもおかしくない。

 

 それなのに。

文字が読める。

指先が止まらない。

思考が、妙に澄んでいる。

 

「……疲れていない」

 

 口にした瞬間、その言葉が教官室の中に落ちた。

静かだった。

静かすぎて、自分の声だけが他人のもののように聞こえた。

 

 おかしな話だった。疲労がないわけではない。身体のどこかに、一日を動き続けた重さは確かにある。だが、その重さを感じる前に、身体の奥から薄い熱のようなものが広がって、それを押し戻している。

眠気も遠い。

集中も切れない。

まるで、疲れているはずの自分を、別の何かが無理に支えているようだった。

 

 私は机の隅に置かれた小瓶へ視線を向けた。

夕呼が渡してきた補助剤。

疲労回復と集中維持の確認。

そう説明された。

 

 夕呼が言う説明は、いつだって必要な分だけで、十分な分ではない。長い付き合いで、それくらい分かっている。

分かっていても、私は受け取った。

 

 横浜基地には時間がない。207Bを前に進ませなければならない。A-01のXM3習熟も見なければならない。神宮寺少佐の教導が、技術だけで先へ進みすぎないように、誰かが横で見ていなければならない。

自分の疲労で判断が鈍るくらいなら、使えるものは使う。

そう思った。

 

 けれど、今になって思う。

これは、本当にただの補助剤なのだろうか。

 

 小瓶を手に取る。

透明な液体が、蛍光灯を受けてわずかに揺れた。

初めて飲んだ時の感覚を思い出す。薬品ほどの苦味はなく、栄養剤ほど分かりやすい甘さもない。ただ喉を通った後、胸の奥がゆっくり温かくなった。

そして、眠気が引いた。

肩の重さが軽くなった。

翌朝、身体がいつもより動いた。

 

 効果はある。

それは間違いない。

だが、問題はそこではなかった。

 

 今日の私は、何度も神宮寺少佐を見ていた。少佐待遇の技術顧問として。XM3をA-01に教える教導官として。207Bに関わる可能性のある、危うい協力者として。

そう見るべきだった。

実際、そう見ていたはずだった。

 

 けれど、食堂でA-01にからかわれている神宮寺少佐を見た時。

月詠中尉に食事を促され、柏木少尉に言葉を詰まらせ、速瀬中尉の軽口に困ったように眉を下げていた時。

私は、少しだけ安心してしまった。

ああ、この子にも、こういう顔ができるのだと。

 

 戦術機の前でXM3を語る時、神宮寺少佐は年齢よりずっと大人びて見える。未来を知っているような目で、死なせないための理屈を選び、誰かが生き残るための道を探す。

それは頼もしい。

だが、見ていて痛々しい。

本来なら、まだ二十歳の青年だ。

食堂でからかわれて逃げ場を探している顔の方が、きっと正しい。

 

 それなのに、あの子は戦場の話になると、逃げ場を探さない。

自分が前に出ることを、自然に選んでしまう。

他人を帰すためのOSを語りながら、自分が帰る側に入ることを、いつも少し遅れて思い出す。

 

「……困りましたね」

 

 私は小さく息を吐いた。

放っておけない。

そう思った。

 

 その感情は、教官として当然のものだと言える。危うい教導官を監督する。訓練兵たちに悪影響が出ないよう制御する。少佐待遇とはいえ、実戦経験も指導経験も歪に偏った若者を支える。理屈はいくらでもつけられる。

けれど、理屈をつけるたびに、その下に別のものが残る。

 

 教官としての責任。

大人としての保護欲。

補助剤の作用かもしれない、説明のつかない違和感。

そのどれもが混ざって、胸の奥で小さく熱を持っている。

 

「疲れているのね」

 

 そう言い聞かせる。

けれど、身体は疲れていない。

それが、何より厄介だった。

 

 

10月30日 深夜

横浜基地・B19フロア副司令執務室

<< 神宮司 まりも >>

 

 B19フロアの空気は、地上より少し冷たい。

廊下に響く靴音も、壁に吸われるように薄くなっていく。ここでは、横浜基地の食堂にあった笑い声も、訓練場のざわめきも届かない。

その静けさの奥に、夕呼の執務室はあった。

 

「で、どう?」

 私が入ると、夕呼は端末から目を離さずに言った。

「何がですか」

「決まってるでしょ。補助剤の体感」

 

やはり。

最初から、そのつもりだったのだ。

 

「……ただの栄養補助剤ではありませんね」

「そうね」

 

 あっさり認めた。

あまりに自然で、怒るより先に呆れてしまう。

 

「夕呼」

「何よ」

「あなた、私に何を飲ませていますか」

「疲労回復と集中維持のための補助剤。説明したでしょ」

「説明した範囲が狭すぎます」

 

 夕呼は、そこでようやく端末から顔を上げた。

楽しそうな目をしている。

けれど、その奥は笑っていない。

 

「身体反応は?」

「疲労回復が早い。集中が切れにくい。身体が普段より軽い」

「精神面は?」

 

 私は少しだけ黙った。

言葉にすれば、認めることになる気がした。

だが、ここで隠しても意味はない。

 

「……神宮寺少佐を、以前より気にかけている気がします」

「へえ」

 

 夕呼の口元が上がる。

「保護欲? 警戒心? それとも別の何か?」

「分かりません」

「正直ね」

「茶化さないでください」

「茶化してないわ。重要なデータよ」

 

 データ。

その言葉で、胸の奥が少し冷えた。

食堂で見た神宮寺少佐の困った顔も、教官室で覚えた違和感も、夕呼にとっては数字に変換される対象なのだろう。

分かっている。

夕呼とは、そういう人間だ。必要なら、感情すら材料にする。

 

 それでも。

 

「私は、実験体ですか」

 

 執務室の空気が、わずかに止まった。

夕呼はすぐには答えなかった。

その沈黙で、十分だった。

 

「……そう」

 私は小さく呟いた。

「やはり、そういうことですか」

「正確には、協力者のつもりだったわ」

「本人に十分な説明をしない協力者を、普通は実験体と言います」

 

 夕呼は、少しだけ目を細めた。

怒ったわけではない。

考えている顔だった。

 

「そうね」

 その返事は、思っていたより静かだった。

 

「今回の件について、あんたに非はないわ」

「当たり前です」

「真白にもない」

 

 その名前が出た瞬間、胸の奥が少しだけ動いた。

「神宮寺少佐にも?」

「ええ。あの子には詳細を伏せている」

「……伏せている?」

「知れば、止めようとするでしょうね」

 

 夕呼は、軽く肩をすくめた。

「自分の力が他人に作用するなんて、あの子はまだ受け止めきれない。たぶん、自分から距離を取ろうとする」

 

 否定できなかった。

神宮寺少佐なら、そうする。

自分が危険だと思えば、自分が離れればいいと考える。誰かを傷つける可能性があるなら、自分がいなくなれば安全だと、きっと真面目に考えてしまう。

そういう顔をしている。

 

「だから黙って使ったのですか」

「必要だったからよ」

 

 即答だった。

それが夕呼だった。

 

「12月10日」

 夕呼は静かに言った。

「その日、まりも。あんたは危険な場所に立つ可能性が高い」

「12月10日……?」

「今は詳しく言えない」

「またそれですか」

「言えば変わるものもある。言えないから、準備するしかないものもある」

 

 夕呼の声は淡々としていた。

だが、その奥に焦りがあることくらい、長い付き合いで分かる。

 

「神宮寺少佐の知識ですか」

「……鋭いわね」

「あなたがあの子をここまで重く扱う理由は、それしかありません」

 

 夕呼は笑わなかった。

端末の光が、彼女の横顔を白く照らしている。

 

「真白はね、まりも。誰かを救いたがっている」

「見れば分かります」

「でも、救い方を知らない」

「それも、分かります」

「だから、あんたが必要なのよ」

 

 私は黙った。

 

「技術なら私が組める。理論も装置も、必要ならでっち上げる。でも、あの子に“人を教える怖さ”を教えるのは、私の仕事じゃない」

 夕呼は、まっすぐ私を見る。

「まりも。あんたは教官よ」

 

 その言葉だけは、妙にまっすぐ届いた。

 

「真白を、教官にしてやりなさい」

 

 命令ではなかった。

夕呼にしては珍しく、頼みのようにも聞こえた。

だからこそ、厄介だった。

 

「それと、補助剤の件は別問題です」

「でしょうね」

「私は怒っています」

「ええ」

「次からは、私の身体に関わる検証は、事前に説明してください」

「条件?」

「条件です」

 

 私は、夕呼を見返した。

「神宮寺少佐に過度な罪悪感を背負わせないこと。207Bに危険が及ぶ場合は、即座に共有すること。A-01への影響検証も、必要なら伊隅大尉を通すこと」

 一度言葉を切る。

そして、最後だけははっきりと言った。

「私を、実験体ではなく協力者として扱うこと」

 

 夕呼は、しばらく黙っていた。

それから、ふっと笑った。

 

「分かったわ」

「本当に?」

「ええ。今のところは」

「夕呼」

「冗談よ」

 

 絶対に半分本気だ。

 

「ただし、まりも」

「何ですか」

「その補助剤の効果は、たぶん今後も必要になる」

 

 執務室の空気が、もう一段冷えた気がした。

 

「使わない綺麗さより、使って生き残る汚さを選ぶ場面が来る」

 夕呼の声は、いつになく静かだった。

「その時、あんたはどうする?」

 

 私はすぐには答えなかった。

補助剤。

真白由来の何か。

自分の身体に作用し、疲労を抜き、集中を維持し、保護欲のようなものを強めている可能性があるもの。

怖い。

当然だ。

だが、効果はある。

そして、この基地には時間がない。

207Bを守るために。

A-01を生かすために。

神宮寺少佐を一人で戦わせないために。

使うべき場面があるのなら。

 

「説明と同意があるなら」

 私は言った。

「協力します」

 

 夕呼の目が、少しだけ細くなった。

「さすがね」

「褒められても嬉しくありません」

「褒めてるわよ」

「なおさらです」

 

 私は踵を返した。

「今日はもう休みます」

「ちゃんと寝なさい」

「夕呼に言われたくありません」

「ひどいわね」

「事実です」

 

 執務室を出る直前、夕呼が言った。

「まりも」

 

 私は足を止めた。

「真白を見ていて」

 

 少しの間、返事が遅れた。

神宮寺少佐の困ったような顔が、頭の隅に浮かぶ。

食堂で、味噌汁を前に逃げ道を探していた顔。

戦術機の前で、人を死なせないために言葉を選んでいた顔。

どちらも、同じ青年の顔だった。

 

「……言われなくても」

 

 答えてから、自分で少し驚いた。

声が、思ったより柔らかかったからだ。

 

 

10月30日 深夜

横浜基地・教官室

<< 神宮司 まりも >>

 

 教官室に戻ると、蛍光灯の白さが少しだけ目に染みた。

机の上には、まだ神宮寺少佐の教導ログが残っている。閉じればいい。今日はもう休むと夕呼にも言った。

それなのに、私は椅子に座り直し、端末を開いた。

 

 A-01個別癖チェック。

最後に表示された一行。

 

神宮寺真白。

自己犠牲傾向。

他者優先。

危険時に自機生存判断が遅れる可能性。

要観察。

 

 その文字列を、私はしばらく見つめていた。

 

 副作用。

そう呼ぶなら、きっとそうなのだろう。疲労が抜けること。集中が続くこと。身体が軽いこと。そして、あの子を放っておけないと思うこと。

それが薬の影響なのか。

リンク因子とやらの作用なのか。

それとも、ただ私自身がそう思っているだけなのか。

今の私には分からない。

 

 けれど、一つだけ分かる。

 

 神宮寺真白を、一人にしてはいけない。

 

 あの子は、他人を帰すためのOSを語る。他人を生かすための未来を見ている。他人を守るためなら、自分を後回しにできてしまう。

ならば、誰かが言わなければならない。

あなたも帰ってきなさい、と。

何度でも。

 

 私は端末に新しいメモを開いた。

 

神宮寺少佐教導方針メモ。

 

一、技術説明は機能ではなく危険性から入ること。

二、各員の癖に合わせて伝え方を変えること。

三、速く動けたことではなく、戻れたことを評価すること。

四、神宮寺少佐自身の自己犠牲傾向を継続観察すること。

五、必要に応じて休息命令を出すこと。

 

 最後の一文を書いて、私は少しだけ笑った。

休息命令。

少佐相当官に対して、軍曹である私が命令する。

本来ならおかしな話だ。

だが、あの子は放っておくと休まない。

なら、命令でも何でも使うしかない。

 

「……困った子ですね」

 

 声に出してから、私はまた小さく息を吐いた。

困った子。

本当に、そう思う。

年若く、控えめで、押しに弱くて。

それなのに、未来を変えようとしている。

その背中は、見ていて危なっかしい。

 

 だから。

 

「神宮寺少佐」

 

 誰もいない教官室で、私は小さく呼んだ。

 

「あなただけを、戦わせはしません」

 

 それが補助剤の副作用なのか。

教官としての責任なのか。

それとも、私自身の意思なのか。

今はまだ、分からない。

 

 だが、もしこれが副作用だとしても。

この気持ちまで、偽物だとは思いたくなかった。

 

 その夜、私は久しぶりに早く眠った。

身体は軽く、頭は冴えているのに、不思議と眠れた。

眠りに落ちる直前、最後に浮かんだのは、白い少佐の困ったような笑顔だった。

 

そして――。

 

 神宮司まりもはまだ知らない。

この小さな違和感が、やがて彼女自身の選択として、神宮寺真白の前に差し出される日が来ることを。

 

説明される側ではなく。

守られる側でもなく。

自分の意思で、共に未来を変える協力者として。

 

第16.6話 幕間「赤い護衛と戦乙女たちと副作用」 END




【次回予告】

ナレーター:
赤い護衛として、A-01――伊隅ヴァルキリーズと向き合うことになった神宮寺真白。

けれど、戦乙女たちは簡単に距離を詰めてくれるほど甘くない。

伊隅:
「神宮寺少佐。あなたを信用しない、という意味ではありません」

水月:
「けどさ、いきなり隣に立てって言われても、こっちにも準備ってもんがあるわけよ」

宗像:
「少佐殿は、どうにも危ういですからね」

風間:
「……放っておくと、ひとりで前に出てしまいそうです」

真白:
「いや、自分はそんなに無茶をするつもりは……」

水月:
「その顔で言われても説得力ないって」

ナレーター:
守る側。
守られる側。
教える者。
教えられる者。
そして、共に戦う者。

まだ仲間とは呼びきれない。
けれど、他人のままでもいられない。

夕呼:
「いいじゃない。距離があるなら、詰めればいいだけよ」

まりも:
「ただし、急ぎすぎれば壊れます」

ナレーター:
戦乙女たちは、白き少佐をどう見るのか。
白き少佐は、彼女たちの隣に立てるのか。

次回、第17話
「戦乙女たちの距離」

その距離は、まだ遠い。
けれど、確かに変わり始めていた。
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