マブラヴ・インサート 〜白き少佐の因果強化計画〜 作:きのこ大三元
最近はかなり外が熱くなってきましたね…でも例年よりは涼しい感じがします。
いまある依頼をしていて、完成をワクワクしています…!!そのうち、公開できると思います。
11月1日 午前
国連軍横浜基地・シミュレーター室
<< 神宮寺 真白 >>
午前のXM3訓練は、順調とは言えなかった。
A-01の皆さんが強いことは間違いない。伊隅大尉の指揮、速瀬中尉の反応速度、宗像中尉の誘導、風間少尉の安定した機体運用。如月中尉は若手を見ながら部隊の呼吸を整え、弥生中尉は危険域へ入る寸前の機体を最小限の動きで支えている。柏木少尉、築地少尉、高原少尉、麻倉少尉も状況に合わせて動き、臼杵少尉は隊列の隙間を堅実に埋めていた。
それでも、XM3は彼女たちの能力を綺麗に伸ばすだけではない。衛士の癖を増幅し、焦りを機体姿勢に表し、判断の迷いを操縦桿やペダルの入力として外へ出す。その影響が一番分かりやすく現れていたのが、涼宮茜少尉だった。
『涼宮少尉、復帰が遅い!』
『は、はい!』
仮想戦場の中で、茜少尉の不知火が急いで隊列へ戻ろうとする。しかし、一拍遅い。速瀬中尉の踏み込みに合わせようとして前へ出た分、後退の判断が遅れている。隊列の穴を埋める位置へ間に合わず、赤いBETA反応が右側面から抜けかけた。
『柏木、築地、高原、穴を塞げ!』
『了解!』
『りょ、了解!』
『了解!』
柏木少尉と築地少尉、高原少尉がすぐに機体を動かし、麻倉少尉も射線の補助へ入る。臼杵少尉が進路を整理し、風間少尉は射撃姿勢を崩さず後方を支えた。如月中尉が若手組へ短く位置修正を送り、弥生中尉は抜けかけた仮想標的の進路だけを潰す。
隊列は崩れ切らなかった。
だが、その修正のために、何人もの機体へ余計な負荷がかかった。
もし、これが実戦なら。
考えただけで、背筋が冷える。
『シミュレーション、一時停止』
伊隅大尉の声で仮想戦場が止まり、管制モニター上の部隊マーカーも動きを止めた。茜少尉の機体は隊列へ戻りきれない位置に残り、その少し前には速瀬中尉の機体がいる。
速瀬中尉は速すぎる。
茜少尉は、その背中を追おうとしている。
けれど、まだ同じ動きはできない。
『涼宮少尉』
『はい!』
『あなたは、速瀬の動きに合わせようとしすぎています。速瀬の踏み込みは、彼女自身の経験と判断に基づくものです。それを表面だけ追えば、隊列を乱します』
『……はい。申し訳ありません!』
『謝罪ではなく、修正を』
『はい!』
伊隅大尉の言葉は厳しい。だが、茜少尉を潰すためのものではない。隊を守り、本人を守り、A-01全体を生かすための指摘だ。
自分にも、それは分かっている。
それでも、シミュレーター筐体の中で小さくなっている茜少尉を見ると、胸の奥が痛んだ。
『一度、休憩を入れる。各員、午前の訓練ログを確認。涼宮少尉は、後で私のところへ』
『……はい』
通信越しの声は、いつもより小さかった。
自分は少し迷ったあと、伊隅大尉へ声をかけた。
「伊隅大尉」
「何でしょうか」
「涼宮少尉のフォローは、自分に任せてもらえませんか」
「理由は?」
「今の状態で続けて指摘を受けると、必要以上に自分を責めると思います。叱責が必要なのは分かっていますが、一度、呼吸を整えさせたいです」
伊隅大尉は制御卓のログと自分の顔を交互に見た。
しばらく考えたあと、短く頷く。
「分かりました。お願いします。ただし、甘やかしすぎないように」
「……はい」
その言葉に、自分は少しだけ苦笑した。
甘やかすことと助けること。背中を押すことと、代わりに背負うこと。自分はその境界を見失いやすい。何度も指摘されて、分かっているつもりだった。
それなのに。
腰のポーチに入っている、小さな瓶の重みを意識してしまった。
夕呼から預けられている、携行型の高濃度リンク因子サンプル。XM3への適応停滞が確認された衛士に対し、限定的な試験使用が認められている。本人の同意、使用前後の医務区画での検査、訓練負荷の制限が条件。副作用は未知数で、万能でもない。正確な成分や作用範囲についても、自分には完全な説明がされていなかった。
ただ、一つだけ薄々分かっている。
これは、自分の力と無関係ではない。
そう思うだけで、胃の奥が重くなった。
◇
11月1日 昼
横浜基地・休憩室
<< 神宮寺 真白 >>
休憩室には、茜少尉が一人で座っていた。金属製のベンチに腰かけ、膝の上で両手を握っている。背筋は伸ばしているが、肩には力が入っていた。
悔しいのだろう。
A-01の一員として足を引っ張ったことが。
速瀬中尉の背中に追いつけなかったことが。
「涼宮少尉」
声をかけると、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「神宮寺少佐……」
「お疲れ様です。よかったら、これを」
自分はPXで買ってきた缶入りの飲料を差し出した。茜少尉は小さく頭を下げ、両手で受け取る。
少し沈黙が続いたあと、先に口を開いたのは彼女だった。
「私、駄目ですね」
「駄目ではありません」
「でも、隊列を乱しました」
「それは事実です」
茜少尉の表情が曇る。
自分は言葉を選びながら続けた。
「でも、それを直すために訓練しています。伊隅大尉も涼宮少尉を責めたいわけではありません。隊全体を守るために、あえて厳しく言っているんだと思います」
「分かっています。分かっているんです。でも……悔しいです」
缶を握る指に力が入った。
「水月さんみたいに動きたいんです。もっと速く、もっと前に出て、ちゃんと敵を倒せるようになりたいんです」
やはり、そこに戻るのだと思った。
涼宮茜にとって、速瀬水月は憧れなのだ。姉の遙とは違う形で前線に立ち、誰よりも早く敵へ踏み込み、味方のために道を開く。その背中は近いように見えて、今の茜少尉にはまだ遠い。
「どうしたら……」
茜少尉は顔を上げた。
「どうしたら、少佐みたいになれるんですか」
「自分、ですか?」
「はい。少佐は戦術機を動かせて、XM3も分かっていて、A-01の皆を見て、ちゃんと指摘できます。私も、そんなふうになりたいです」
困った。
本当に困った。
自分は、普通に努力して今の力を得たわけではない。白銀武から引き継いだ因果導体としての性質、戦闘経験、知識、身体感覚、衛士としての技術。そして、神様から与えられた力。普通ではないものに支えられている。
だから「努力すれば自分のようになれる」とは言えない。
けれど、「自分は特別だから無理です」と突き放すこともできなかった。
「涼宮少尉」
自分は声を落とした。
「今から話すのは、XM3への適応を補助する試験運用についてです」
「試験運用……?」
「香月博士の管理下にある補助剤があります。短時間ですが、思考と機体入力のずれを小さくできる可能性があります」
茜少尉の目がわずかに開く。
自分は、そこで一度言葉を切った。
「ただし、安全性が完全に確認されたものではありません。効果には個人差があり、副作用も未知数です。使用前後に医務区画で検査を受け、午後の訓練負荷も制限します」
「……危険なもの、なんですね」
「危険がないとは言えません」
正直に答えた。
「使えば、午後の訓練で少し動きやすくなるかもしれません。でも、それで経験が増えるわけではありません。強くなったと勘違いすれば、今より危険になります」
茜少尉は、缶を握ったまま俯いた。基地の空調音が低く響き、廊下の向こうから誰かの足音が聞こえる。
「それでも、水月さんに追いつきたいです」
「……はい」
「でも、それだけじゃありません。A-01の足を引っ張りたくないんです。姉さんにも、水月さんにも、皆にも迷惑をかけたくありません」
その声には、焦りだけではないものがあった。
自分の役割を見つけたい。
A-01の一員として、皆と並びたい。
「少佐が必要だと言うなら、私は受けます」
その言葉が重かった。
信じられている。
信じられてしまっている。
「自分が必要だと言うから、ではありません」
自分は、できるだけゆっくり伝えた。
「これは命令でも、教導の評価でもありません。断っても評価は下がりませんし、訓練計画も組み直せます。涼宮少尉自身が、危険性を理解した上で受けると決める必要があります」
茜少尉は目を閉じ、小さく息を吸った。
やがて、まっすぐこちらを見る。
「……受けます」
声は少し震えていた。
けれど、逃げる声ではなかった。
「水月さんになるためじゃなくて、A-01の中で私の役割を見つけるために」
自分は少しだけ目を伏せた。
「分かりました。ただし、先に医務区画で確認を取ります」
その場で医務区画へ連絡し、午前中のバイタルと診察記録に異常がないことを確認する。試験使用の対象条件にも該当していた。午後の訓練負荷を下げ、異常があれば即座に中止することを伝えた上で、ようやく許可が下りた。
自分はポーチから小さな瓶を取り出した。栄養ドリンクよりもずっと小さな半透明の容器で、中には淡い琥珀色の液体が入っている。夕呼が試験管から携行型へ変更し、密閉性と保存性を少しだけ高めたものだ。それでも長期保存には向かず、使用対象も限られている。
切り札。
そう呼ぶには、あまりにも小さかった。
「これは、ただの栄養剤ではありません。飲んだあと、少しでも息苦しさ、動悸、めまい、熱感などがあれば、すぐに言ってください。午後の訓練も、最初は通常より低い負荷から始めます」
「はい」
「それと、これは実力そのものをくれるものではありません。動きやすくなる可能性はありますが、経験までは補えません」
「……はい」
「強くなったと勘違いしないでください。ほんの少しだけ、今の涼宮少尉が持っている力を出しやすくする補助です」
茜少尉は真剣に頷いた。
自分は小瓶を差し出す。
「……これで、共犯ですね」
少しだけ空気を軽くするつもりだった。
だが、声には冗談よりも罪悪感の方が強く混じった。
茜少尉は小瓶を受け取り、こちらを見た。
「私、少佐のことを信じています」
その言葉が、胸に刺さった。
蓋を開けた瞬間、薬品とも栄養剤とも違う独特の匂いが広がった。茜少尉は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに小瓶を傾ける。液体が喉を通った直後、驚きと戸惑いが表情に浮かんだ。
「涼宮少尉。体調は?」
「……大丈夫です」
「本当に?」
「はい。身体の中が、少し温かいです」
茜少尉は自分の手を見つめ、指を握ってから開いた。
自分は端末に時間と反応を記録する。
「無理はしないでください。午後も、まずは戻ることを意識してください。速くなることより、帰ってくることです」
「帰ってくること……」
茜少尉はその言葉を繰り返し、強く頷いた。
「分かりました。頑張ります!」
午前より少しだけ明るい声だった。
それを聞いて安心する一方で、取り返しのつかない扉を一つ開けてしまったような感覚も残った。
◇
11月1日 午後
横浜基地・シミュレーター制御室
<< 神宮寺 真白 >>
午後の訓練前、自分は伊隅大尉へ最低限の情報を伝えた。
「涼宮少尉に、香月博士と医務区画の管理下にある試験用補助剤を使用しました。詳細な成分は機密ですが、短時間、思考と操作入力のずれが縮まる可能性があります」
伊隅大尉の表情が厳しくなる。
「危険性は?」
「副作用は完全には確認されていません。医務区画で使用前の確認は済ませました。訓練負荷を落とし、異常が出ればすぐに停止します。訓練後も検査を受けてもらいます」
「本人の同意は?」
「得ています。断っても評価に影響しないことも説明しました」
伊隅大尉はしばらく黙り、制御卓に表示された茜少尉の午前のログへ視線を向けた。
「機密であることは理解します。ただし、今後も部隊員の身体に関わる処置を行う場合、安全管理に必要な情報は事前に共有してください」
「はい。申し訳ありません」
「謝罪は結果が出てからにしてください。今は、涼宮少尉を見ます」
「……はい」
厳しい。
だが、正しい。
◇
11月1日 午後
横浜基地・シミュレーター室
<< 涼宮 茜 >>
シミュレーター筐体へ入る前、伊隅大尉が私の前に立った。
「涼宮少尉」
「はい!」
「午前の指摘を覚えていますか」
「はい。速瀬中尉の動きに合わせようとしすぎて、隊列復帰が遅れました」
「よろしい。午後は撃破数ではなく、復帰までを意識しなさい。あなたの役割は、ただ敵を倒すことではありません」
「はい!」
「無理に速瀬を追う必要もない」
その言葉に、少しだけ胸が痛む。
でも、今は逃げない。
「分かりました」
伊隅大尉は目を細め、短く頷いた。
「異常を感じた場合は、すぐに申告しなさい。隠すことは命令違反と見なします」
「はい!」
「では、訓練を再開します」
シミュレーターの視界が切り替わり、仮想戦場が広がった。BETA群、味方の部隊マーカー、自分の位置、速瀬中尉の位置、伊隅大尉の指示、姉さんの管制。午前と同じ情報のはずなのに、一つ一つが少しだけはっきり見える。
身体が軽い。
いや、軽いというより、噛み合っている。
今まで少し遅れていた思考と入力の間が近くなり、操縦桿へ力を入れる前に、次の機体姿勢を考えられる。ペダルを踏み込んだあとの復帰位置も、午前より早く見つけられた。
「……すごい」
思わず呟く。
けれど、すぐに神宮寺少佐の言葉を思い出した。
強くなったと勘違いしないでください。
これは、ほんの少しだけ前に進むための補助です。
「……はい」
私は小さく頷き、両腕の87式突撃砲を構えた。
速瀬中尉のように先頭を切って敵陣へ食い込むことは、今の自分にはできない。でも、彼女が開いた道を広げることはできる。接近する小型種を掃討し、後続の進路と味方の退路を確保する。それが今の自分にできる役割だった。
『涼宮少尉、右前方、小型種群』
「了解!」
姉さんの管制に合わせて照準を動かし、突撃砲の引き金を引く。一群目、二群目。接近する戦車級型の標的を連続射撃で散らし、要撃級型の背後へ抜けようとする小型種へ射線を移す。
機体を半歩ずらす。
撃つ。
当たる。
「……当たる」
当たり前のことなのに、驚きがあった。
機体が、自分の考えた位置へ動く。
でも、そこで前へ出すぎない。
戻る。
隊列へ戻る。
速瀬中尉の不知火が前へ出た。反射的にその背中を追いそうになり、操縦桿を握る指へ力が入る。
違う。
追うのではなく、支える。
速瀬中尉が開けた空間を掃討する。後続のBETA反応へ射線を置き、味方の進路を塞がない位置まで戻る。
『涼宮少尉、今の位置取りは良い』
伊隅大尉の声が聞こえた。
「はい!」
胸の奥が熱くなる。
嬉しい。
でも、浮かれてはいけない。
これは補助剤の効果を受けた動きだ。
自分の経験が、急に増えたわけではない。
だから、丁寧に。
帰ってくる。
戻る。
支える。
撃つ。
また戻る。
午後の訓練では、少しずつ周囲の声も変わっていった。
『茜、今の良かったよ!』
柏木の声。
『涼宮少尉、射線維持が安定しています』
臼杵少尉の声。
『茜ちゃん、築地ちゃんの前を塞がない。その位置で維持して』
如月中尉の声。
『……今の距離なら、戻れる』
弥生中尉の短い声。
『無理に追わなくなったな』
『今の射線は綺麗に通りました』
高原少尉と麻倉少尉の声も続く。
速瀬中尉は、通信越しに少し笑った。
『やるじゃない、茜』
「はい!」
その一言だけで、胸がいっぱいになりそうだった。
だが、直後に姉さんの声が飛んでくる。
『茜、呼吸』
「……!」
知らないうちに、肩と指へ力が入りすぎていた。
「はい!」
一呼吸。
焦る前に、呼吸を整える。
それだけで、視界と管制音声が少し落ち着いた。
訓練が終わった時、強化装備の内側は汗で濡れていた。身体には疲労がある。けれど、午前のような嫌な重さはなかった。
やれた。
少しだけ、やれた。
その事実が、胸の奥に残った。
◇
11月1日 午後
横浜基地・シミュレーター制御室
<< 神宮寺 真白 >>
午後の茜少尉の動きは、明らかに変わっていた。
反応が早くなり、機体の追従も良くなっている。射線の取り方も午前より安定し、何より隊列へ戻る意識があった。速瀬中尉の背中をただ追うのではなく、その後ろで小型種を掃討し、後続の進路を確保する支援位置を選んでいる。
それは、間違いなく良い変化だった。
それでも、自分は素直に喜べなかった。
「……成功、なのか」
成功ではある。
携行型の高濃度リンク因子サンプルは効果を示した。茜少尉は明らかに動きやすくなり、A-01の連携にも良い影響が出ている。
だが、これは訓練だけの成果ではない。
本人の努力だけでもない。
自分が渡した、小さな切り札の効果だ。
シミュレーター筐体から降りた茜少尉の周りには、元207A組が集まっていた。
「茜、すごいじゃん!」
柏木少尉が笑い、臼杵少尉も午前と午後のログを見比べている。築地少尉、高原少尉、麻倉少尉も急な変化に驚いていた。
茜少尉は照れながらも、嬉しそうに笑っている。
「そんな、まだまだです。でも……少しだけ、動けた気がします」
速瀬中尉は、少し離れた場所からその様子を見ていた。
「……速いわね」
その声は、単純に褒めているものではなかった。
「速いけど、まだ危ない」
遙中尉もログを見ながら頷く。
「うん。身体の反応が先に良くなっている感じがする。判断が追いついている時はいいけど、崩れた時が怖い」
二人とも、急激な変化の危うさに気づいている。
伊隅大尉も、管制モニターに表示された差分ログを黙って確認していた。
訓練終了後、自分は伊隅大尉に呼び止められた。
「神宮寺少佐。少しよろしいですか」
「はい」
制御室に残ったのは、自分と伊隅大尉だけだった。伊隅大尉は、茜少尉の午前と午後のログを並べて表示する。入力速度、復帰時間、射線維持、被弾予測。どの項目も、意識を変えただけでは説明しきれない差が出ていた。
「安全管理については、事前に聞きました」
「はい」
「ですが、想定していた以上の変化です」
「……自分も、そう思います」
「神宮寺少佐。あれは、どこまで涼宮少尉へ影響するものなのですか」
予想していた質問だった。
それでも、実際に向けられると重い。
「詳細は、香月博士との機密事項です。自分からお答えできるのは、短時間の身体反応と操作入力への補助が想定されていることまでです」
「長期的な影響は?」
「分かりません」
正直に答えた。
「医務区画で継続して確認します。次回の使用についても、今回の検査結果が出るまでは行いません」
伊隅大尉は、しばらく黙っていた。責めるような目ではない。だが、部隊長として見逃せないものを見つけた目だった。
「分かりました。機密の詳細までは求めません」
「ありがとうございます」
「ですが、今後も危険性、必要な休息、訓練負荷、医務区画での検査内容については共有してください。理由の分からない強化を受けた隊員を、通常通り運用することはできません」
「はい」
「本人の意思だけでも不十分です。部隊員の判断には、焦りや責任感も影響します。涼宮少尉が本当に自由な状態で選べたかも、今後は確認する必要があります」
その言葉は、正しかった。
あまりにも正しかった。
「申し訳ありません」
「謝罪だけではなく、次回以降の改善を」
「はい」
伊隅大尉は、そこで少しだけ表情を緩めた。
「涼宮少尉は、あなたを信じています」
「……はい」
「だからこそ、慎重に扱ってください」
信じられている。
それが一番怖い。
「それにしても」
伊隅大尉は端末のログを見ながら、小さく息を吐いた。
「私も、もっと部隊長として強くなれたらいいのですが」
独り言に近い、小さな声だった。
伊隅みちる大尉。常に部隊全体を見て、自分を後回しにする人。その人が、自分ももっと強くなれたらと呟いた。
ポーチの中には、もう一本だけ小瓶が残っている。
本人同意が必要。
副作用は未知数。
万能ではない。
けれど、使えば何かが変わるかもしれない。
自分は無意識にポーチへ触れそうになり、すぐに手を止めた。
駄目だ。
簡単に渡していいものではない。
茜少尉に渡しただけでも、今こうして胸が重い。部隊長である伊隅大尉へ使えば、その影響はA-01全体へ広がる。そして、自分の力が、また誰かの身体へ入り込む。
その事実に、背筋が冷えた。
「神宮寺少佐?」
「あ……すみません」
「顔色が悪い」
「大丈夫です」
「大丈夫ではない顔です」
最近、皆それを言う。
自分は苦笑するしかなかった。
「今日は、もう休んでください。訓練記録はピアティフ中尉と涼宮中尉に回します」
「……はい」
伊隅大尉は少しだけ間を置いた。
「神宮寺少佐」
「はい」
「切り札は、使い方を間違えると味方も傷つけます」
呼吸が止まりそうになった。
まるで、胸の内を見抜かれたようだった。
「覚えておいてください」
「……はい」
自分は深く頷いた。
◇
11月1日 夜
横浜基地・医務区画前廊下
<< 神宮寺 真白 >>
医務区画へ入っていく茜少尉の背中を、少し離れた場所から見送った。使用後の検査のためだ。本人は元気そうで、午後の訓練によって少し自信を取り戻したようにも見えた。
それ自体は良かった。
本当に、良かった。
けれど、自分の胸の奥には重いものが残っている。
小さな瓶一つで、人の動きが変わった。思考と入力のずれが縮まり、午前にはできなかった動きが、午後にはできるようになった。
それは希望だ。
同時に、恐怖でもある。
もし、これをもっと多くの人へ渡したら。
A-01全員に。
207Bに。
まりもさんに。
伊隅大尉に。
月詠さんに。
誰かを救うための力。
けれど、使い方を間違えれば、誰かの身体と判断を変えてしまう力。
「……自分は、何を渡したんだろう」
答えは出ない。
夕呼なら、答えを出す前でも必要なら使うだろう。
自分は、そのことを分かっていながら小瓶を渡した。
茜少尉は、自分を信じて飲んだ。
だから、これは自分の責任だ。
廊下の先で、茜少尉が振り返った。こちらに気づくと、少しだけ笑って頭を下げる。その表情は、午前より明るかった。
その顔に少しだけ救われる。
同時に、責任の重さも増した。
涼宮茜は、小さな切り札を飲み込んだ。
水月の動きをまねるためではなく、A-01の中で自分の役割を見つけるために。前へ出るだけではなく、味方を支え、自分も帰ってくるために。
自分はその日、自分の力を誰かへ渡す怖さを知った。
小さな瓶は、希望にも危険にもなる。
何になるかを決めるのは、力そのものではない。
使う人間と、渡す人間だ。
第19.5話「茜と小さな切り札」 END