マブラヴ・インサート 〜白き少佐の因果強化計画〜 作:きのこ大三元
11月10日 夜
横浜基地・PX食堂
<< 神宮寺 真白 >>
胸ポケットの中で、小さなものが揺れていた。
モアイの左近。
鎧衣左近さんから渡された、手のひらほどの置物だ。霞が確認した限り通信反応はなく、夕呼副司令も後で詳しく調べると言っていた。
たぶん、ただのモアイ。
……たぶん。
「……なんで自分、モアイを胸ポケットに入れてるんだろう」
口に出すと、なおさら意味が分からない。
それでも捨てる気にはなれなかった。
帝国の記録に存在しない人間。
出生記録も、戸籍も、学籍も、軍歴もない。横浜基地へ突然現れた、自分でも説明できない存在。
そんな自分を、情報省が見始めている。
明日の新潟で何かを変えれば、横浜基地だけでは済まなくなる。
左近さんの言葉は、まだ胸の奥に残っていた。
「真白ちゃん!」
突然、大きな声が飛んできた。
顔を上げると、厨房の向こうから京塚のおばちゃんが手を振っている。
「そんな顔してどうしたんだい! 今日は合格祝いなんだから、もっと景気よくしな!」
「……合格祝い?」
聞き返した直後、食堂の入口が騒がしくなった。
榊千鶴。
彩峰慧。
珠瀬壬姫。
御剣冥夜。
鎧衣美琴。
207Bの五人だった。
疲労は隠しきれていない。それでも、その顔には演習へ向かう前にはなかったものがある。
達成感。
そして――五人全員が、ここにいる。
「皆さん……」
思わず立ち上がった。
美琴さんがこちらを見つけ、ぱっと手を振る。
「あ、真白さん!」
「お帰りなさい」
口から出たのは、それだけだった。
千鶴さんが姿勢を正す。
「ただいま戻りました、神宮寺少佐」
「……ただいま」
彩峰さんは少しだけ視線を逸らした。
「か、帰ってこれましたぁ……」
たまは今にも泣きそうだ。
冥夜も静かに頷く。
「皆で越えることができた」
「いやー、大変だったよ! 森も罠もすごかったし、最後の地雷原なんて――」
「鎧衣、食事前に騒がない」
「えー、いいじゃん。合格したんだし!」
「合格したからこそ節度を持ちなさい」
「榊、硬い」
「彩峰も……って、もう食べてるじゃない!」
見ると、彩峰さんは既に席へ着き、京塚のおばちゃんが並べた料理へ手を伸ばしていた。
「……お腹空いた」
「早いですね……」
京塚のおばちゃんが豪快に笑う。
「いいんだよ! 帰ってきた若い子は食べるのが仕事だ! 今日はたんと食べな!」
食卓には、普段より豪華な料理が並んでいた。温かい汁物に山盛りのご飯、焼き魚、肉の入った煮込み、小鉢。それに大きなおにぎりまである。
千鶴さんが少し困った顔をする。
「京塚さん、ありがとうございます。ですが、この量は少し……」
「足りないかい?」
「逆です」
「なら問題ないね!」
「問題はあります!」
「榊、食べればいい」
「彩峰はもう少し考えて――」
「おかわり」
「早すぎます!」
笑い声が食堂に広がった。
自分も、少し笑った。
左近さんに言われたことが消えたわけではない。
でも今は、それよりも目の前の光景の方が大事だった。
五人が帰ってきた。
自分が答えを与えたからではない。五人自身が考えて、ぶつかって、それでも互いを信じて戻ってきた。
少し遅れて、まりもさんが食堂へ入ってきた。
「全員、席につきなさい」
その一言で空気が締まり、美琴さんまでぴんと背筋を伸ばす。
まりもさんは207Bを見渡した。
「総合戦闘技術演習、合格。よくやりました」
五人の顔が変わった。
たまは目元を押さえ、千鶴さんは唇を引き結ぶ。冥夜は静かに目を伏せ、彩峰さんの箸も止まった。
「ですが、これで終わりではありません。あなたたちは、ようやく次の段階へ進む資格を得ただけです」
『はい!』
五人の声が揃う。
まりもさんは少しだけ表情を和らげた。
「……それでも、今日は食べなさい。帰ってきた身体には食事が必要です」
「そうそう! まりもちゃんも分かってるねぇ!」
「京塚さん。私は当然のことを言っているだけです」
「はいはい。教官様は相変わらず固いねぇ。ほら、真白ちゃんも座りな!」
「あ、はい」
促されるまま、207Bの近くへ腰を下ろした。
「神宮寺少佐」
千鶴さんがこちらを向く。
「演習前にいただいた言葉がなければ、私たちはあそこまで整理して動けなかったと思います」
「そんなことはありません」
首を横へ振る。
「越えたのは皆さん自身です。自分は少し背中を押しただけですから」
千鶴さんは何か言い返そうとして、それから小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
隣から彩峰さんが口を挟む。
「今回は、榊の話も少し聞いた」
「少し?」
「前よりは」
「それを成長と言っていいのかしら……」
千鶴さんは額を押さえた。
それでも、本気で怒ってはいない。そのやり取りだけでも、演習前とは少し違って見える。
「そうだ、真白さん!」
美琴さんが突然ポケットを探り始めた。
「はい?」
「これ、お土産」
差し出されたものを受け取る。
小さな貝殻だった。
白い表面に、淡い桃色が混じっている。
「貝殻……」
「南の島で拾ったんだ」
美琴さんが笑う。
「なんか、帰ってきた記念っぽいでしょ?」
その言葉に、手のひらを見る。
帰ってきた記念。
207Bが南の島へ行き、自分たちの力で演習を越え、五人で横浜へ戻ってきた証。
「……ありがとうございます」
「前に、綺麗なものがあったら一つ欲しいって言ってたでしょ? だから探してきたんだ」
「覚えていてくれたんですね」
「もちろん!」
貝殻を指先でそっと持ち直す。
これを渡したい相手がいた。
「少佐」
まりもさんが静かに声をかける。
「はい」
「前に話していた子へ、ですか」
「……はい」
207Bへ相手の名前を明かさず、まりもさんはそれ以上聞かなかった。
「では、きちんと伝えてあげてください」
「はい」
「この子たちが、ちゃんと帰ってきたと」
五人がこちらを見る。
美琴さんが胸を張った。
「そうそう! 207B、五人ともちゃんと戻ってきたよって!」
自分は貝殻を見下ろし、頷いた。
「必ず伝えます」
◇
11月10日 夜
横浜基地・B19フロア/霞の部屋
<< 神宮寺 真白 >>
食堂を出たあと、そのままB19フロアへ向かった。
今日は一日が長かった。
A-01への正式命令。
帝国側との調整。
鎧衣左近さんとの遭遇。
そして207Bの帰還。
明日になれば、新潟へ向けて全てが動く。
霞の部屋を軽くノックすると、少しして扉が開いた。
「真白さん」
「夜分にすみません」
「大丈夫です。入ってください」
部屋の中は静かだった。
棚には以前一緒に作ったプラモデルが置いてある。その隣には、ちょうど何か一つ置けそうな空間が残っていた。
「霞、これを」
ポケットから貝殻を取り出す。
霞は両手で受け取った。
「これは……?」
「貝殻です」
「貝殻」
じっと見つめる。
「207Bの皆さんが、南の島から帰ってきた証です」
「207B……」
「前にも少し話した人たちです。五人で演習を乗り越えて、今日、ちゃんと戻ってきました」
霞が小さく頷いた。
「美琴さんが拾ってきてくれたんです」
「美琴さん」
「はい。207Bの一人です。明るくて、ちょっと変わっていて……でも、周りを楽しくしてくれる人です」
「そうですか」
霞の指が、貝殻の縁をそっとなぞった。
そして、おもむろに耳へ当てる。
「……霞?」
しばらく黙っていた霞が、小さく口を開いた。
「ごわごわ~」
「……え?」
「ごわごわ~」
真顔だった。
「それは……波の音ですか?」
「はい」
こくり。
「貝殻を耳に当てると、海の音が聞こえると聞きました」
「たぶん『ざあざあ』とか『ごうごう』とか……」
「ごわごわ、ではありませんか」
「ごわごわは……少し布っぽいかもしれません」
霞が首を傾げる。
「難しいです」
あまりにも真剣なので、思わず笑ってしまった。
「霞」
「はい」
「いつか、本物の海を見に行きましょう」
紫の瞳がこちらを向く。
「本物の海」
「はい。戦場じゃない海です」
明日、自分が向かうのも海に近い場所だ。
けれど、そこにはBETAが来る。
霞に見せたいのは、そんな海ではない。
「BETAもいなくて、警報も鳴らなくて、戦術機も出なくて。ただ波があって、砂浜を普通に歩ける海です」
「皆で、ですか」
「はい」
少し考える。
「霞と、自分と、207Bの皆さん。それにまりもさんやA-01の皆さんも。月詠さんたちも来られたらいいですね」
欲張りなのは分かっている。
それでも、明日の前くらいはそんな未来を口にしてもいい。
「いつか、みんなで行きましょう」
霞は手の中の貝殻を見つめ、それから小さく頷いた。
「はい。約束です」
「……はい。約束です」
もう一度、貝殻を耳へ当てる。
「ざあざあ」
今度はそれらしくなっていた。
「さっきより近いです」
「はい」
ほんの少し、得意そうに見えた。
霞は貝殻を棚へ置いた。
プラモデルの隣。
戦術機の模型と、小さな貝殻。
妙な組み合わせなのに、不思議と悪くなかった。
「音楽」
「え?」
「聞きますか」
少し迷ってから頷いた。
「……はい。少しだけ」
スマホを取り出す。
この世界では圏外のままの、元の世界の欠片。通信はできない。それでも、中に残った音楽だけはまだ聞ける。
静かな曲を選んだ。
小さな音量で流すと、霞の部屋を柔らかい旋律が満たしていく。
戦場の警報でも、基地の機械音でも、誰かの命令でもない。
ただの音楽。
「真白さん」
「はい」
「これを聞くと、帰りたくなりますか」
すぐには答えられなかった。
帰りたい。
元の世界へ。
自分の部屋へ。
スマホに普通に電波が入って、BETAも戦術機も存在しない場所へ。
そう思わないと言えば、嘘になる。
「……帰りたいとは、思います」
「はい」
「でも……」
棚を見る。
プラモデルの横で、小さな貝殻が部屋の明かりを受けている。
「こっちにも、帰ってきたい場所ができてしまったみたいです」
霞は何も言わず、こちらを見ていた。
「だから明日も、帰ってきたいです」
霞は静かに答えた。
「帰ってきてください」
「はい」
頷く。
「帰ってきます」
胸ポケットで、モアイの左近が揺れた。
外から見られるようになったことを思い出させる、妙な重み。
その一方で、棚には207Bが戻ってきた証がある。
霞が貝殻を見る。
「真白さん」
「はい」
「この貝殻は、ここで待っています」
一瞬、言葉が出なかった。
それから小さく笑う。
「……じゃあ、ちゃんと戻ってこないといけませんね」
「はい」
音楽が静かに続いている。
帰りたい世界は、今もある。
でも、帰ってきたい場所もここにある。
今夜は、それだけ覚えていればよかった。
◇
11月10日 夜
横浜基地・格納庫前連絡通路
<< 神宮寺 真白 >>
霞の部屋を出た後、眠る前にもう一度だけ格納庫へ向かった。
中では、まだ整備の音が続いている。工具の金属音に、整備員たちの短い声。冷却装置の低い唸り。
明日、新潟へ向かう戦術機たちが並んでいた。
A-01の不知火。
XM3搭載機。
そしてJM-01。
白い識別ラインの入った機体が、格納庫の照明を受けて立っている。
「……明日、か」
XM3がある。
A-01も訓練を重ねた。
JM-01には、高負荷機動を抑える暫定制御も入っている。
準備できることはしてきた。
それでも、怖いものは怖い。
「……逃げたいわけじゃないんだけどな」
背後から、静かな足音が聞こえた。
「神宮寺少佐」
振り返る。
赤い斯衛の制服。
月詠真那中尉が、通路の向こうに立っていた。
「月詠さん……どうしたんですか?」
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
月詠さんは隣まで歩いてきた。
二人で格納庫を見る。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
「明日の新潟防衛戦には、私は同行できません」
「……はい」
分かっていた。
月詠さんは斯衛であり、冥夜を護る立場にある。国連軍のA-01と共に新潟へ出撃することはできない。
「私は冥夜様の護衛を離れるわけには参りません。斯衛としての任があります」
「分かっています。月詠さんには、月詠さんの役目がありますから」
「……はい」
短く答える。
それでも、何かを言い残している顔だった。
「ですが」
月詠さんがこちらを向く。
「本来なら、私はこのようなことを申し上げる立場ではありません」
「月詠さん?」
「それでも、申し上げます」
赤い瞳が、まっすぐこちらを捉えた。
「必ず、生きて帰ってきてください」
息が止まりかけた。
命令ではない。
近衛としての指示でもない。
ただ、自分へ向けられた言葉だった。
「戦果を挙げろとは申しません。無理に未来を変えろとも、誰かを救うためにご自身を捨てろとも申しません」
月詠さんは一度だけ息を置いた。
「ただ、生きて戻ってきてください」
簡単に「大丈夫です」とは答えられなかった。
そんな保証はない。
だから、別の言葉を選ぶ。
「……怖いです」
月詠さんの目がわずかに動いた。
「何が起きるかをある程度知っているから、余計に怖いです。XM3があっても、A-01が強くなっていても、全部を思い通りにできるわけじゃない」
画面越しではなく、本物のBETAと向き合う。
判断を一つ間違えれば、誰かが死ぬ。無理をすれば、逆に誰かを巻き込むかもしれない。
「でも……帰ってきます」
月詠さんを見る。
「帰ってこないと、その先を変えることもできませんから」
しばらく沈黙があった。
「その場しのぎの返事ではありませんね」
「はい」
「覚悟として受け取ってよろしいのですね」
「……はい。約束します」
月詠さんが手を差し出した。
一瞬遅れて、その手を取る。
思っていたより温かい。
「戻られたら」
握ったまま、月詠さんが言う。
「また模擬戦にお付き合いいただきます」
「……模擬戦ですか?」
「はい。まだ私は、神宮寺少佐の動きを全て見切れておりません」
「それは……」
「勝ち逃げは許しません」
思わず笑ってしまった。
「それ、月詠さんなりの約束ですか?」
「はい」
即答だった。
「分かりました。帰ってきたら、またお願いします」
「必ずです」
「はい。必ず」
月詠さんの手に、少しだけ力が入る。
それから、ゆっくり離れた。
「神宮寺少佐」
「はい」
「貴方は、ご自身が考えている以上に、多くの者に必要とされています」
「……自分が、ですか」
「はい」
迷いなく頷く。
「横浜基地にも。A-01にも。第207衛士訓練小隊にも」
そこで、ほんの少し間が空いた。
月詠さんの視線が、わずかに揺れる。
「そして……私にとっても、失いたくない方です」
返事が遅れた。
最初は、冥夜へ近づく危険人物として警戒されていた。
それが今、こうして自分の帰りを待つと言ってくれている。
「……ありがとうございます」
頭を下げる。
「必ず帰ってきます。月詠さんに、ただいまって言えるように」
「……はい」
小さな返事だった。
月詠さんは一歩下がり、姿勢を正した。
「ご武運を。神宮寺少佐」
近衛としての敬礼。
自分も敬礼を返す。
月詠さんは、その姿勢を崩さないまま、少しだけ声を柔らかくした。
「そして……お帰りを、お待ちしております。真白さん」
一瞬だけ、呼び方が変わった。
少佐ではなく。
神宮寺でもなく。
ただ、真白さん。
「……はい」
敬礼を解き、今度は自分も少しだけ笑った。
「行ってきます、月詠さん」
月詠さんは静かに頷いた。
赤い制服が、夜の通路の向こうへ遠ざかっていく。
しばらく、その背中を見送った。
手のひらには、まだ温度が残っている。
胸ポケットにはモアイ。
霞の部屋には、小さな貝殻。
そして今、待っていると言ってくれた人がいる。
格納庫の奥で、JM-01が静かに立っていた。
明日、自分はあれに乗る。
本物のBETAがいる戦場へ向かう。
怖さは消えない。
でも、自分は死にに行くわけじゃない。
「……帰ってきます」
誰に聞かせるでもなく、もう一度口にした。
戦うために出る。
そして、帰るために戦う。
霞の部屋では、207Bが持ち帰った小さな貝殻が待っている。
ここには、帰りを待つ人がいる。
それで十分だった。
新潟防衛戦まで、あと数時間。
神宮寺真白にはもう、戦う理由だけではなく――帰ってくる理由があった。
第30話「小さな貝殻と紅の祈り」 END
モアイが左近なのはある人の作品が好きなので、そのリスペクトですね笑。