マブラヴ・インサート 〜白き少佐の因果強化計画〜 作:きのこ大三元
11月11日 午前7時21分
新潟戦域・前線支援区域
<< 神宮寺 真白 >>
JM-01の機体情報には、さっきから同じ黄色い表示が残っていた。
《左膝関節 軽微負荷蓄積》
ほんの少し前、自分は帰還線へ戻れた。待つべき時には待ち、必要になってから出て、帝国軍機の退路を作り、A-01の援護を受けながら戻った。ホワイト・ゼロとして初めて役割を果たせた気がしていたし、次も同じようにできると思っていた。
『こちらヴァルキリーCP。帝国軍右翼、後退完了率7割。残存BETA群、依然侵攻中』
遙中尉の声と同時に、戦域図へ新しい赤い反応が重なる。要撃級、突撃級、戦車級。そのさらに後方には、空を封じ続けるレーザー属種。
『ヴァルキリー4よりヴァルキリー1。第二波、敵密度上昇。要撃級3、突撃級2、戦車級多数。後方にレーザー属種反応継続』
死の八分は越えた。A-01も生きているし、帝国軍も自分が知っていた未来より多くの機体を後退させている。それでも戦場そのものは終わらず、赤い流れは別の場所へ形を変えながら押し寄せていた。
『ヴァルキリー1より各機。高高度機動禁止を継続。レーザー射線に入るな』
伊隅大尉の声が鋭くなる。
『ホワイト・ゼロ。中央後方リベロ位置を維持。出る時は必ず指示を待て』
「ホワイト・ゼロ、了解」
視界の中には、赤いBETA群、黄色の帝国軍、緑のA-01、青い帰還線、そして自機を示す白いマーカーがある。ホワイト・ゼロという呼び名にも少しずつ慣れてきたが、怖さまで消えたわけではない。
むしろ今は、その怖さがあるからこそ帰還線を見る。
さっきは、それで戻れた。
『ヴァルキリー4よりヴァルキリー1。帝国軍左翼寄り、後退遅延。進路上に要撃級1』
『こちらヴァルキリーCP。該当区域、3分以内に帰還線閉鎖』
伊隅大尉の判断は早かった。
『ヴァルキリー2、3、支援。ホワイト・ゼロ、救援に入れますか』
「可能です」
『目的は後退路確保。撃破優先ではありません。制限時間2分』
「了解。ホワイト・ゼロ、救援に入ります」
青い帰還線が網膜投影へ描かれる。行き先ではなく、戻る場所を先に確認してからJM-01を前へ出した。
◇
11月11日 午前7時23分
新潟戦域・左翼寄り後退線
<< 神宮寺 真白 >>
先ほどの右翼よりも、こちらの方がBETAの密度は高かった。戦車級の第一群へ36ミリを叩き込み、続く群れへ短く牽制を入れ、帝国軍機一機が通れる幅だけを作る。
殲滅は必要ない。
退路を繋げれば、それでいい。
「ヴァルキリーCP、後退路は」
『まだ細いです。右前方、要撃級接近』
「了解」
74式近接戦闘長刀を抜く。要撃級の巨大な前腕が持ち上がるのを見た瞬間、胃の奥が冷たくなったが、その感覚そのものを消そうとは思わなかった。
怖いなら、怖いまま動けばいい。
前腕を斬り落とそうとせず、振り下ろされる軌道の外側へ半歩だけ滑る。長刀を付け根へ浅く入れると、巨大な腕は帝国軍機から逸れて地面を大きく抉った。
『ヴァルキリー2、左から入る!』
水月中尉の不知火がJM-01の横を抜け、突撃級の側面へ圧力をかける。
『ホワイト・ゼロ、戻りなさい!』
「了解!」
目的は果たした。
今度も帰る。
そう思って機体を反転させた、その時だった。
網膜投影の端に、一機の帝国軍不知火が映る。瓦礫に脚を取られ、完全に後退から遅れていた。その後方からは戦車級と兵士級が流れ込み、さらに奥には光線級の反応がある。
喉が凍った。
低い軌道で回り込めば間に合わない。瓦礫も味方機も邪魔になり、青い帰還線へ戻る動きと救援方向が完全に分かれている。
一瞬だけ高度を取れば、届く。
そう考えてしまった。
『ホワイト・ゼロ、帰還してください』
遙中尉の声。
「……」
『ホワイト・ゼロ?』
視界には青い線が残っている。
戻ればいい。
さっきと同じように。
それなのに、動けない帝国軍機が目に入る。
「……間に合わない」
呟いた時には、もう操縦桿を倒していた。
JM-01が跳ぶ。
遮蔽物を繋ぐための低高度機動ではない。瓦礫を一気に越えるため、自分から高度を取った。
『ホワイト・ゼロ、何を――』
遙中尉の声が鋭くなった直後、網膜投影が赤く染まる。
《レーザー照射警報》
「――っ!」
身体が一瞬で固まった。
光線級の照準が、自分を捕まえている。
危険性は知っていた。レーザー属種が空を奪う理由も、戦術機が高度を取る意味も知っている。
だが、自分自身に照準を向けられる感覚だけは知らなかった。
死が、直線で来る。
『ヴァルキリーCPよりホワイト・ゼロ! レーザー照射警報! 高度を落として!』
『ヴァルキリー1よりホワイト・ゼロ、即時降下! 暫定制御に従え!』
『少佐殿、下がれ!』
警告と声が重なり、JM-01のシステムが即時降下と最寄りの遮蔽物への軌道を提示する。
生き残るための線。
帰るための線。
その外側に、動けない帝国軍機がいる。
自分だけ避ければ助かる。
だが、あの機体は間に合わない。
遙中尉に言われた言葉が頭をよぎる。
全ての火元へ同時には行けない。
分かっている。
分かっているのに。
「……一手だけ」
奥歯を噛む。
「一手だけなら……!」
右手が解除操作へ伸びた。
「暫定制御、一時解除」
『ホワイト・ゼロ!?』
《高負荷抑制制御 一時解除》
《関節負荷上限 一時拡張》
《推進剤消費制限 解除》
《姿勢安定補助 低減》
機体が一気に軽くなったように感じる。
違う。
軽くなったのではない。
止めてくれていた鞘を、自分で外した。
「一手だけです……!」
JM-01を急降下させ、そのまま横へ滑らせる。直後、さっきまで機体がいた空間を白い光が貫いた。
「っ……!」
実際に熱が届いたわけではない。それでも、肌を焼かれたような感覚がするほど恐怖で視界が狭くなった。
だが、照準だけは外さない。
87式突撃砲。
120ミリ。
狙うのは光線級の照射器官。
解除した制御の代わりに、JM-01の脚部と姿勢制御系へ負荷が一気に流れ込んでいる。それでも照準を合わせ、引き金を引いた。
「――落ちろ!」
120ミリ弾が放たれ、右腕部へ重い反動が返る。弾頭は光線級の上部へ叩き込まれ、爆炎とともに赤い照射警報が消えた。
「……撃破」
帝国軍機も動き始めている。
助けられた。
そう思った、その瞬間だった。
《警告》
《左膝関節負荷 危険域突破》
《左脚部駆動系 出力低下》
《跳躍ユニット姿勢制御 異常》
「っ……!」
着地したJM-01の左脚が沈んだ。
踏ん張ろうとしても機体が応えず、視界が大きく傾く。暫定制御が姿勢を戻そうとしているが、既に蓄積した物理的な損傷までは補えない。
《左脚部 駆動不安定》
《姿勢制御 補正限界接近》
「立って……!」
操縦桿を動かしても、左脚の反応が遅い。片脚を引きずるようにしか動けず、その間にも赤い反応が距離を詰めてくる。
要撃級。
巨大な前腕を持つBETAが、動けなくなったJM-01へ向かっていた。
「……動け」
反応しない。
「動いて……!」
光線級は倒した。
帝国軍機も救えた。
なのに、その代わりに自分が戻れなくなった。
『ホワイト・ゼロ、後退してください!』
通信にヴァルキリー7――臼杵咲良少尉の声が飛び込んだ。
「臼杵さん……?」
次の瞬間、一機の不知火がJM-01と要撃級の間へ割り込む。
臼杵機だった。
「駄目だ、臼杵さん!」
要撃級の前腕が振り下ろされる。
臼杵機が92式多目的追加装甲を構えた。
受ける。
自分の代わりに。
「避けて!」
間に合わない。
巨大な前腕と追加装甲が激突した。
轟音とともに装甲が砕け、臼杵機が地面を削りながら吹き飛ぶ。
『ヴァルキリー7!』
通信へノイズが走った。
『ヴァルキリー7、大破!』
遙中尉の声が、一瞬だけ揺れる。
『衛士生命反応、低下!』
「臼杵さん!」
喉が裂けるような声が出た。
自分を庇った。
自分が戻らなかったから。
帰還線を外れたから。
リミッターを外したから。
自分が――。
『生命反応、あります!』
遙中尉の声が割り込んだ。
『ヴァルキリー7、生命反応あり! 低下していますが、まだあります!』
胸の奥で何かが弾けた。
「臼杵さん……死なないでください!」
もう理屈はなかった。リンク因子も未来の知識も、XM3も白刃構想も関係ない。
ただ、自分を庇った人に死んでほしくない。
その思いだけで胸の奥が焼けるように熱くなり、何かが身体の内側から外へ流れようとする。同時にJM-01の制御系が、一瞬だけ細かく震えた。
だが、その意味を考える暇はなかった。
『ヴァルキリー1より各機! ホワイト・ゼロおよびヴァルキリー7を回収する!』
伊隅大尉の声が戦場を締める。
『ヴァルキリー2、3、要撃級を引き剥がせ!』
『了解!』
『了解!』
水月中尉と宗像中尉が左右から要撃級へ入り、進路をずらす。風間少尉が回収線へ射線を通し、如月中尉が若手組を中央へ下げ、弥生中尉が最も圧力の薄い経路を読み上げる。
『ヴァルキリー5、回収線を空けて!』
『了解! 柏木、築地、下がる! 高原、麻倉、後退支援!』
『ヴァルキリー6より各機。要撃級右側、圧力低下。回収はそちらを抜けてください』
『ヴァルキリーCPよりホワイト・ゼロ。動けますか』
「左脚が……反応が鈍いです……!」
『無理に立たないでください。姿勢を低く維持して、回収まで持たせて』
「了解……!」
持たせる。
今の自分にできるのは、それだけだった。
◇
11月11日 午前7時29分
新潟戦域・左翼寄り後退線
<< 神宮寺 真白 >>
臼杵機の回収が始まった直後、別の警告が飛んだ。
『ヴァルキリー8、右後方!』
伊隅大尉の声に戦域図を見ると、茜少尉の機体が要撃級の圧力で後退線の外へ押し出されかけている。足元には戦車級が流れ込み、今の角度では回避が間に合わない。
助けなければ。
反射的にそう思った。
しかしJM-01は動かない。
「茜さん……!」
その瞬間、茜機が異様なほど鋭く機体を捻った。
足元を戦車級の群れが掠める。次の瞬間には87式突撃砲が真下を向き、群れだけを正確に薙ぎ払っていた。
『ヴァルキリー8、復帰!』
遙中尉の声。
一瞬だけ通信が静まる。
『今の動き……』
風間少尉が呟いた。
自分も見ていた。XM3の反応速度だけではなく、訓練で身につけた機動とも少し違う。あまりにも速かった。
あの日の小瓶。
リンク因子。
茜少尉に渡した切り札が頭をよぎる。
「今の……」
胸の奥に残っていた熱が、わずかに脈打った気がした。
だが、今は考えられない。
臼杵機は大破している。JM-01も片脚を失いかけ、A-01はまだ戦場にいる。
そして自分は、今までとは逆に守られる側へ回っていた。
◇
11月11日 午前7時46分
新潟戦域・第一次防衛線後方
<< 神宮寺 真白 >>
時間の感覚が曖昧になっていた。
あれほど死の八分という数字に囚われていたのに、今は時計を見る余裕すらない。戦場は8分を越えても続き、その先にもBETAがいて、負傷者がいて、壊れた機体があり、それでも帰らなければならない人間がいる。
臼杵機は回収された。
生命反応は細い。
それでも、まだ消えていない。
JM-01も自力歩行が困難になり、水月中尉と宗像中尉の不知火に支えられながら後方へ下げられている。その視界の向こうではA-01が戦い続け、第12師団は損耗しながらも防衛線を保ち、第14師団も合流して穴を埋め始めていた。
戦況は少しずつ持ち直している。
それでも、自分には何もできない。
『ヴァルキリー2、前へ出すぎるな。3、右の流れを見る。4、射線整理。5、若手組を維持。6、危険域を先読み。8、9は強襲掃討位置を維持』
『了解!』
『了解』
『了解です』
伊隅大尉の指示が続く。
ホワイト・ゼロ。
白い火消し役。
さっきまで自分は、燃えている場所へ入り、火を消して戻る役だった。
なのに今は、自分が新しい火種になった。
臼杵さんが傷ついた。
JM-01も壊した。
しかも原因は、BETAが予想外だったからではない。
命令を聞けなかったからだ。
帰還線を見ていたのに、自分から外れた。暫定制御が安全側の軌道を示していたのに、自分でそれを解除した。
「……自分が」
助けたかった。
ただ、それだけだった。
けれど、それだけで許されるなら、帰還線も制限も必要ない。
千歳さんが言った言葉が、今になって重くのしかかる。
解除は必殺技ではない。
借金だ。
そして今回、その借金を払ったのは。
自分だけではなかった。
◇
11月11日 午前8時24分
新潟戦域・第一次防衛線後方
<< 神宮寺 真白 >>
戦場の音が、少しずつ変わり始めた。
砲撃も通信も止まってはいないが、最初のように赤い反応が押し寄せ続ける状況ではなくなりつつある。中越、下越、新潟方面へ分かれたBETA群も、第12師団、第14師団、そしてA-01の支援によって少しずつ削られていた。
『ヴァルキリー1より各機。防衛線、持ち直しています。帝国軍後退、概ね完了。A-01は回収支援および捕獲班支援へ移行』
続いて遙中尉の声。
『ヴァルキリー7、後送班への引き渡し完了。生命反応維持』
その言葉を聞いた瞬間、身体から少しだけ力が抜けた。
「……よかった」
安心する資格があるのかは分からない。
それでも、臼杵さんが生きているという事実だけは嬉しかった。
『捕獲班よりヴァルキリー1。間引き済み区域で複数種BETAの確保に成功』
『対象は?』
『兵士級、闘士級、戦車級。損傷した要撃級1体も麻酔処置後に拘束中。突撃級は損傷個体を確認していますが、輸送可否は未確定』
『要塞級は』
『対象外です。現地設備では拘束不能』
そこへ夕呼副司令の声が割り込んだ。
『それでいいわ。検証用なら複数種の反応が取れれば十分よ。欲しいのは標本であって、横浜基地を壊す厄介者じゃないの』
一拍置く。
『要塞級なんて持ち帰られても、基地の方が先に悲鳴を上げるわ』
いつもの調子だった。
でも、自分は笑えなかった。
捕獲BETA。
実験。
横浜基地。
まだ起きていない未来の記憶が、頭の奥で嫌な音を立てる。
未来は変わった。
今日だけでも確実に。
だが、その変化が新しい未来を作り、その先で何を動かすのかまでは、もう自分にも分からない。
『ホワイト・ゼロ』
伊隅大尉の声。
「はい……」
『戻ります』
一拍。
『あなたも、JM-01も、臼杵も』
「……はい」
戻る。
その言葉だけで胸が痛んだ。
何度も約束した。
それでもJM-01の左脚はまともに動かず、機体は傾いたままだ。
『少佐殿、肩貸すわよ』
水月中尉の不知火が左へ寄る。
「……すみません」
『謝るの禁止』
反対側へ宗像中尉が回る。
『白いリベロ、今日は支えられる側だね』
「……情けないですね」
『何言ってるの。戻るのも役割でしょ』
そこへ遙中尉の声が重なった。
『ホワイト・ゼロ、帰還線を表示します』
青い線が視界に伸びる。
今日一日、自分を何度もA-01へ戻してくれた線。
さっき、自分から外れた線。
今度は目を逸らさなかった。
「……了解」
喉が震える。
「ホワイト・ゼロ、帰還します」
◇
11月11日 午前8時41分
新潟戦域・後方展開地点
<< 神宮寺 真白 >>
各方面から残存BETA群の殲滅確認が入り始めた。帝国軍と国連軍の通信も、戦闘継続から掃討、回収、後送へと少しずつ切り替わっていく。
横浜基地に警報は出なかった。
BETAは新潟の防衛線を突破できなかった。
勝った。
そう言っていいのかもしれない。
ただし、その言葉の横にはあまりにも多くの損害が並ぶ。
第56機動艦隊は壊滅的損耗。第12師団にも甚大な被害が出ており、第14師団の合流が少しでも遅ければ防衛線は危なかった。
A-01とXM3がなければ、もっと多くの衛士が落ちていただろう。夕呼副司令の警告がなければ、後退すら間に合わなかった部隊もあったかもしれない。
自分が知っていた未来より、多くの人が戻れた。
それは事実だ。
同時に、誰も傷つかなかったわけではない。
固定フレームへ収められたJM-01を見る。左脚は大きく歪み、駆動部の一部が不自然な角度で停止していた。追加装甲には傷が走り、右腕部にも反動負荷の警告が残っている。
修理はできるかもしれない。
それでも、その姿は痛々しかった。
少し離れた場所には、回収された臼杵機がある。
不知火の装甲は大きく潰れ、要撃級の一撃を受けた側は原形を留めていない。それでもコクピット周辺だけは、必死に中の人間を守ったように残っていた。
「……臼杵さん」
本人は既に医療班へ引き渡され、横浜基地への後送準備に入っている。
生命反応はある。
それだけが救いだった。
胸ポケットへ手を当てる。
小さなモアイが、まだそこにある。
見られる側になったことを忘れないために持ってきたもの。
今は、それだけではない。
この戦場で何をしたのか。誰を救えたのか。誰が傷ついたのか。
それを忘れないための重みに思えた。
◇
11月11日 夜
横浜基地・格納庫
<< 神宮寺 真白 >>
帰ってきた。
横浜基地へ。
その事実を本当に実感したのは、格納庫の灯りを見た時だった。
後送車列の中では、何度も臼杵さんの状態を確認した。生命反応は細いが消えていない。茜少尉も無事で、A-01に死者はいない。
新潟防衛戦は、自分が知っていた未来より明らかに被害を抑えられた。XM3も実戦で機能し、帝国軍にも横浜の新型OSとホワイト・ゼロの存在が知られ、BETA捕獲にも成功した。
未来は、変わった。
確かに。
それでも、格納庫へ戻ってきたJM-01の左脚は歪んでいる。
固定フレームへ収められた機体の前で、千歳さんがしばらく言葉を失っていた。
「……少佐」
「すみません」
反射的に口から出た。
「謝るな、って言いたいですけど……これは怒りますよ」
「はい」
「めちゃくちゃ怒ります」
「……はい」
千歳さんは機体状態の表示へ目を向けた。
「一時解除、しましたね」
「しました」
「左膝の警告も、分かってましたね」
「……はい」
「帰還線も」
喉が詰まる。
「見えていました」
千歳さんが黙った。
怒鳴られると思った。
だが、そうはならなかった。
視線はJM-01の壊れた左脚へ向いたままだった。
「……機体は直せます。時間かかるかもしれませんけど、機体は直せます」
一拍。
「でも」
その先を言わなかった。
言わなくても分かった。
機体と違って、人間は必ず元に戻るわけではない。
臼杵さんは今、医療区画にいる。
自分を庇った傷を抱えて。
「すみません」
また同じ言葉が出る。
千歳さんは、今度はゆっくり息を吐いた。
「少佐」
「はい」
「帰ってきたんは、偉いです。JM-01も持って帰った。大破させずに、ここまで戻した。それは約束通りです」
「……はい」
「でも、次は」
千歳さんが真っすぐこちらを見る。
「他の人に、自分の借金を払わせんといてください」
胸の奥を直接掴まれたようだった。
「……はい」
それ以上は何も言えなかった。
格納庫の奥では、A-01の不知火が次々と戻ってくる。弾痕も、欠けた装甲も、戦闘の傷も残っている。
それでも戻ってきた。
全員が。
その光景を見ていると、泣きそうになった。
死の八分を越えた。
A-01は全員帰ってきた。
茜少尉の未来も、少なくとも今日のところは変えられた。
帝国軍にも、自分が知っていた結果より多くの帰還者がいる。
それでも。
少し離れた搬入口の先を、臼杵さんを乗せた医療搬送車が通っていった。
自分を庇って傷ついた人。
目を逸らせなかった。
「……変えたのに」
小さく呟く。
「変えられたのに……」
思っていた未来とは違う結果になった。
でも、それは「誰も傷つかない未来」ではなかった。
未来を変えれば、全部が綺麗になる。
どこかで、そんな期待をしていたのかもしれない。
そんな都合のいいことはなかった。
助けられた人がいる。
戻れた人がいる。
そして同時に、傷ついた人もいる。
それが、自分たちが変えた今日だった。
霞の部屋にある貝殻を思い出す。
月詠さんとの模擬戦の約束。
まりもさんの命令。
京塚のおばちゃんの食堂。
帰ってきたら怒ると言っていた千歳さん。
自分は帰ってきた。
約束通り。
でも、傷も一緒に持ち帰った。
胸ポケットへ手を入れると、小さなモアイが手のひらへ触れた。今朝、横浜を出た時より重く感じる。
もちろん、物の重さは変わっていない。
変わったのは、自分の方だ。
戦場へ出る前は、「未来を変えればいい」と思っていた。
今は違う。
変えた後に何が残るのかまで、見なければならない。
JM-01の壊れた左脚を見る。
医療区画へ続く扉を見る。
それから、戻ってきたA-01の機体を見る。
未来は変わった。
確かに。
だからこそ、その結果から目を逸らしてはいけない。
救えたものも。
救えなかったものも。
残った傷も。
全部、自分たちが越えた未来の中にある。
その日、神宮寺真白は初めて本物のBETAと戦った。
死の八分を越えた。
A-01と共に生きて帰った。
そして――。
未来を変えることと、傷を消すことは同じではないのだと知った。
第36話「越えた未来、残った傷」 END