マブラヴ・インサート 〜白き少佐の因果強化計画〜   作:きのこ大三元

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第37話「帰ってきた音」

11月12日 朝

横浜基地・B19フロア

<< 神宮寺 真白 >>

 

 医務室を出ても、身体の奥にはまだ昨夜の名残が残っていた。全身の重さも、まともに眠った気がしない疲労も、耳の奥へ張りついた警告音も消えてはいない。臼杵さんのことを考えれば、胸の奥はすぐ重くなる。それでも、昨日の夜とは一つだけ違っていた。

 

 自分が帰ってきたことまで否定するのは、もうやめた。

 

 大丈夫ではない。怖さも後悔も残っている。それでも、自分は横浜基地に戻ってきた。その事実だけなら、ようやく受け止められるようになった。

 

 B19フロアを歩くたび、硬い床へ靴底の音が返ってくる。戦場では聞き取る余裕すらなかった、ごく普通の足音だ。そんなものを意識して歩いている自分が少し妙に思えたが、嫌ではなかった。

 

 向かっている先は霞の部屋だった。朝、医務室まで持ってきてくれた小さな貝殻と、霞が残した言葉がずっと頭に残っている。

 

 帰ってきた音は、あとで聞きます。

 

 臼杵さんが目を覚ましたら。

 

 その言葉について、自分から一つ頼みたいことがあった。扉の前へ着き、ノックしようと右手を上げる。けれど、指先が触れるより先に扉が静かに開いた。

 

「真白さん」

 

 霞がこちらを見上げている。

 

「……また分かったんですね」

「はい」

 

 いつもの短い返事だった。それだけなのに、肩から少し力が抜ける。

 

「入ってください」

「はい」

 

 部屋へ入ると、昨日までとほとんど変わらない景色があった。必要最低限の家具と小さな棚。その上には一緒に組み立てたプラモデルがあり、すぐ隣には南の島から持ち帰られた小さな貝殻が置かれている。朝、医務室まで持ってきてもらったものは、もういつもの場所へ戻っていた。

 

「戻したんですね」

「はい。ここに置きます」

「……その方がいいですね」

 

 自分が握りしめているより、この部屋に置かれている方が似合う気がした。元々は美琴さんから渡され、自分から霞へ預けたものだ。そう考えると、ここが元の場所なのだろう。

 

 霞は棚から貝殻を持ち上げると、そっと耳へ当てた。

 

「ざあざあ」

 

 真顔だった。

 

 一瞬だけ固まってから、口元が緩む。昨日より、ほんの少しだけ波の音らしくなっている気がした。

 

「……また上手くなってません?」

「はい」

 

 霞はほとんど表情を変えていない。それでも少しだけ得意そうに見えるのだから不思議だった。思わず笑うと、胸の奥に残っていた固いものまで少し緩んだ気がする。

 

 それだけで、この部屋が戦場から少し遠くなった。

 

 霞は貝殻を棚へ戻してから、こちらを見る。

 

「真白さん」

「はい」

「音楽は、まだ聞きません」

 

 先に言われてしまった。

 

「それ、朝も言われました」

「はい」

「覚えてます」

「はい」

 

 短いやり取りのあと、少しだけ沈黙が落ちる。帰ってきた音を今すぐ聞かない理由は、もう自分でも分かっていた。

 

 死の八分を越え、A-01は帰還した。帝国軍の生存者も増え、XM3も実戦で結果を残した。事実だけを並べれば、確かに成功した戦いだった。

 

 けれど、その隣には臼杵さんの重傷とJM-01の損傷がある。横浜基地へ運び込まれた捕獲BETAもあり、これから先に何が変わるのかも分からない。成功したことまで消えるわけではないし、傷が残ったことも消えない。その二つを無理に一つへまとめなくていいのだと、昨夜から少しずつ思えるようになっていた。

 

「……霞」

「はい」

「一つ、お願いしていいですか」

 

 霞がこちらへ身体を向ける。

 

「はい」

 

 スマートフォンへ触れてから、少し考える。言葉にしてみると妙なお願いになる気もしたが、今の自分にはこれが一番近かった。

 

「帰ってきた音……預かってもらっていいですか」

 

 霞がわずかに首を傾げた。

 

「音楽ですか」

「データは自分が持っています。でも、聞くっていう約束の方を」

 

 上手い言い方ではない。それでも、霞は急かさずこちらを見ている。

 

「霞に預かっていてほしいです」

「いつまでですか」

 

 喉の奥が少し詰まった。それでも、答えは決まっている。

 

「臼杵さんが目を覚ましたら。その時に、聞きたいです」

 

「はい」

 

 霞は静かに頷いた。

 

「預かります」

 

 たったそれだけだった。それなのに、胸の奥へ押し込めていたものが少しだけ軽くなる。

 

 怖くて再生できないから、鳴らさないのではない。いつか一緒に聞くために、今は鳴らさない。そう決めた瞬間、先延ばしだったものが約束へ変わった。

 

「……ありがとうございます」

「はい」

 

 霞はもう一度、棚の貝殻へ視線を向ける。

 

「ここに置いておきます」

「音楽なのに?」

「はい」

「貝殻のところに?」

「はい」

 

 理屈はよく分からない。でも、不思議と納得できた。

 

「じゃあ、お願いします」

「はい」

 

 棚の上にあるのは、貝殻とプラモデルだけだ。それでも自分には、その間にもう一つ、目に見えない預かりものが増えたように思えた。

 

◇

 

 霞の部屋で、しばらく何も話さなかった。以前なら沈黙が続けば、何か話題を探していたかもしれない。けれど今日は、空調の低い音や遠くで閉まる扉、基地内を移動する人の足音を聞いているだけでも落ち着けた。

 

 戦場では消えていた音だ。

 

 目を閉じれば、今でもレーザー照射警報は蘇る。臼杵機が地面へ叩きつけられた光景も、JM-01の左脚が動かなくなった瞬間も消えてはいない。それでも、耳に残っているのは戦場の音だけではなくなった。

 

「真白さん」

「はい」

「昨日より、呼吸がゆっくりです」

 

 思わず霞を見る。

 

「そこまで分かるんですか」

「はい」

「……やっぱり霞には隠せませんね」

「はい」

 

 少し笑ってから、膝の上に置いた両手を見る。もう震えてはいないが、完全に力が抜けているわけでもない。落ち着いているとも、平気だとも言えない。

 

 たぶん今は、その中間にいる。

 

「昨日までは、全部すぐに何とかしないといけない気がしてました」

 

 霞は黙って聞いている。

 

「臼杵さんのことも、JM-01のことも、捕獲BETAのことも、自分が知らない未来が増えたことも。全部考えて、全部自分で答えを出さないといけない気がしてたんです」

「はい」

 

 ピアティフ中尉に言われたことを思い出す。

 

 全部を自分の責任にすれば、考えることが一つで済む。

 

 あの言葉は、今も痛い。

 

「でも、よく考えたら……全部、自分の仕事じゃないんですよね」

「はい」

 

「JM-01は千歳さんたちが直してくれる。臼杵さんは医務区画の人たちが治療している。捕獲BETAの解析は夕呼副司令たちがやる。新潟で何が正しかったかも、A-01のみんなや記録を見ながら考えていくことになる」

 

 一つずつ口にすると、自分の中で一塊になっていたものが少しずつ分かれていく。どれも自分に関係がある。だからといって、全部を自分一人で抱える必要はない。

 

「自分が考えないといけないことはあります。でも、全部じゃない」

 

 昨日までなら、それを認めるのが怖かった。誰かへ任せることが、責任から逃げることのように感じていたからだ。

 

 今は少しだけ違う。

 

「……預けても、いいんですね」

 

「はい」

 

 霞が頷いた。

 

「一人で持たなくていいです」

 

 短い言葉だった。けれど今は、それだけで十分だった。

 

 帰ってきた音は霞へ。JM-01は千歳さんたちへ。臼杵さんは医療班へ。戦闘の判断は、伊隅大尉や夕呼副司令たちと一緒に検証する。

 

 自分まで手放すわけではない。ただ、一人で全部握り続けなくていい。

 

「……少し分かった気がします」

「はい」

「自分、一人で持ちすぎてたんですね」

「はい」

 

 間髪を入れず返された。

 

「そこは少しくらい迷ってくださいよ」

「迷いません」

 

 今度はちゃんと笑えた。

 

◇

 

11月12日 朝

横浜基地・霞の部屋

<< 社 霞 >>

 

 真白さんは、昨日より少しだけ静かだった。医務室で会った時は、声をかけても意識の奥から別の音が返ってくるようだった。警告音。機体の衝撃。臼杵さんのこと。身体は横浜にあっても、その一部がまだ新潟に残っていた。

 

 今も、全部は消えていない。

 

 けれど今日は、この部屋の音に反応している。空調が鳴ると少しだけ耳を向け、廊下を誰かが歩けば視線が扉へ動く。霞が話せば、ちゃんとこちらを見る。呼吸の間隔も、昨日より少し長かった。

 

 それでいいと思った。

 

 真白さんは、帰ってきた音を預けると言った。臼杵さんが目を覚ますまで。だから、霞は預かる。棚の貝殻と一緒に。

 

 忘れる心配はしていない。真白さんは、きっと忘れられない。だから、ずっと握っていなくてもいいように、霞が持っている。

 

 貝殻は、南の島から持ち帰られたものだ。誰かが帰ってきた証で、いつか本物の海を見る約束でもある。今日、そこへもう一つ約束が増えた。

 

 臼杵さんが目を覚ましたら、その時に音楽を聞く。

 

 霞は、向かいに座る真白さんを見る。呼吸はまだ少し浅く、顔には疲れが残っている。時々、何もない場所を見ることもある。

 

 でも、そのたびに戻ってくる。

 

 空調の音へ。

 

 霞の声へ。

 

 自分の呼吸へ。

 

 昨日とは、そこが違った。

 

 今は、それで十分だった。

 

◇

 

11月12日 朝

横浜基地・霞の部屋

<< 神宮寺 真白 >>

 

 どれくらいそうしていたのかは分からない。音楽は一度も流していない。それでも部屋の中には、空調の低い唸り、遠くを歩く人の足音、霞が貝殻を棚へ戻す小さな音、自分の呼吸が重なっていた。

 

 昨日までなら、きっと気づかなかった音ばかりだ。戦場の警告音に全部上書きされていたから。今も目を閉じればあの音は戻ってくるが、その奥から横浜基地の日常の音が少しずつ聞こえるようになっていた。

 

 棚の貝殻を見る。

 

「霞」

「はい」

「いつか、本物の海を見に行きましょう」

 

 霞がこちらを見る。

 

「戦場じゃない海です」

「はい」

 

 少し迷ったが、そのまま続けた。

 

「臼杵さんも……目を覚ましたら、誘っていいですかね」

 

「はい」

 

 霞は迷わず頷いた。

 

 未来のことは分からない。臼杵さんがいつ目を覚ますのかも、JM-01がどこまで直るのかも、捕獲したBETAが何をもたらすのかも。自分が知っていた未来は、もう少しずつ形を変えている。

 

 それでも、目を覚ました後に何をしたいかくらいは決められる。そのくらいの約束なら、自分にもできる。

 

「……じゃあ、それまで」

 

 貝殻を見る。

 

「帰ってきた音は、預けます」

 

「はい」

 

 霞も同じものへ視線を向けた。

 

「預かります」

 

 音楽は、まだ鳴らない。でも、鳴らさないまま終わるわけではない。その時を待っているだけだ。

 

 椅子から立ち上がると、全身へ鈍い疲労が戻ってきた。思ったより身体が重く、無意識に壁へ手を伸ばしかける。

 

 霞がこちらを見る。

 

「大丈夫ですか」

 

「大丈夫です」と答えかけて、口を止めた。

 

 昨夜、愛美さんに止められた言葉。

 

 便利すぎるので禁止。

 

 思い出して、少しだけ苦笑する。

 

「……少し疲れてます。なので、戻って休みます」

 

「はい」

 

 言えた。大丈夫ではなく、疲れていると。無理に立ち続けるのではなく、休むと。

 

 それも、たぶん今の自分に必要なことなのだろう。

 

 扉へ向かおうとすると、後ろから霞の声がした。

 

「行ってらっしゃい」

 

 一瞬だけ足が止まった。昨日、戦場から戻ってきたばかりなのに、もう「行ってらっしゃい」と言われる。でも、嫌ではなかった。

 

 帰ってこられる場所があるからこそ、言える言葉だ。

 

「……行ってきます」

 

 振り返る。棚の上には小さな貝殻がある。その隣には何も置かれていない。

 

 それでも自分には、そこにもう一つ預けたものがあるように見えた。

 

 臼杵咲良が目を覚ました時。

 

 もう一度、みんなで帰ってきたと言える時。

 

 その時に鳴らす音。

 

 帰ってきた音。

 

 今はまだ、静かなままでいい。

 

第37話「帰ってきた音」 END




これにて2章終了です、引き続きよろしくお願いします。
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