マブラヴ・インサート 〜白き少佐の因果強化計画〜 作:きのこ大三元
11月12日 夜
横浜基地・PX食堂
<< 神宮寺 真白 >>
横浜基地の夜には、まだ新潟の残り香があった。格納庫には損傷した戦術機が並び、医務区画には目を覚まさない臼杵咲良少尉がいる。副司令執務室では戦闘ログと捕獲BETAの収容計画が組み直され、基地外縁部の地下には、未来そのものみたいなものまで檻の中へ収められていた。
新潟防衛戦は終わった。けれど翌日から、何もなかったように日常へ戻れるわけではない。
「真白ちゃん、そんな顔してないで座りな!」
京塚のおばちゃんの声が、そんな空気をまとめて吹き飛ばした。
「今日は湿っぽくなりすぎるのは禁止! 生きて帰った人間は、まず食う。泣くのも悩むのも、その後だよ!」
「……はい」
言われるまま席へ着く。PX食堂には伊隅大尉、水月中尉、遙中尉、宗像中尉、風間少尉、茜少尉、柏木少尉たちA-01の面々が揃っていた。それに総合戦闘技術演習を終えたばかりの207B――千鶴さん、彩峰さん、たま、冥夜、美琴さんもいる。
ただし、全員ではない。一つだけ空いた席があり、誰もそれを口には出さなかった。それでも、見ていないわけでもなかった。
「ほらほら! 今日は煮込み多め! ご飯もあるよ。味噌汁も冷めないうちに飲みな!」
「京塚さん、量が……」
千鶴さんが大皿を見て言葉を失う。
京塚のおばちゃんは、にかっと笑った。
「足りないかい?」
「逆です」
「なら問題ないね!」
彩峰さんは既に箸を伸ばしていた。
「……おかわり予約」
「彩峰さん、一杯目すらまだですよ!」
たまがくすくす笑い、美琴さんまで釣られる。冥夜も口元を僅かに緩め、その程度の笑いでも、さっきまで食堂へ張りついていた重い空気が少しだけ薄くなった。
そこへ、少し遅れてまりもさんが入ってきた。
「皆さん、まずは座りなさい」
207Bが反射的に背筋を伸ばす。なぜかA-01の何人かまで姿勢を正した。
「新潟防衛戦、および総合戦闘技術演習後の各種対応、本当にお疲れさまでした。明日以降も訓練、検証、報告は続きますが、今夜は身体を休めることを優先してください」
「まりもちゃんもね」
京塚のおばちゃんが、すかさず小さな杯を差し出した。
まりもさんの眉が寄る。
「京塚さん。私は教官として――」
「今日は教官も人間だよ」
京塚のおばちゃんの声が、少しだけ柔らかくなる。
「帰ってきた夜なんだから、一口くらい飲みな」
まりもさんは杯と京塚のおばちゃんを交互に見て、しばらく黙った。
「……一口だけです」
隣で水月中尉が小さく呟く。
「出た。一口だけって言う人ほど危ないのよね」
「速瀬中尉。聞こえています」
「まだ素面なのに聞こえてるし」
宗像中尉が肩をすくめる。
「まりもが飲むの、久しぶりねぇ」
「宗像中尉も余計なことは言わないように」
「はいはい」
京塚のおばちゃんが、今度はこちらの前にも小さな杯を置いた。
「真白ちゃんも二十歳なんだろ? 今日はちょっとだけ飲むかい?」
「え、自分は……」
「無理はさせないよ」
迷ってから杯を持つ。中身はかなり薄められているらしい。それでも慣れない香りだけで妙に緊張した。
「……少しだけなら」
伊隅大尉が席を立つと、自然に全員の手が杯や湯呑みへ伸びた。
「新潟で失われたもの、傷ついた者たちを忘れることはありません」
食堂が静かになる。
「ですが、我々は帰還しました。帰還した者には、次へ繋げる責任があります」
伊隅大尉は、一度だけ空席へ視線を向けた。
「今日は食べて、休みましょう」
杯が小さく触れ合う。派手な乾杯ではなかった。
それで十分だった。
◇
最初のうちは、本当に静かな慰労会だった。A-01も必要以上に戦闘の話はせず、水月中尉が軽口を叩けば宗像中尉が受け流し、風間少尉が時折真面目な補足を入れる。遙中尉は会話に加わりながらも、妹の皿だけはしっかり確認していた。
「茜、もう少し食べなさい」
「姉さん、ちゃんと食べてるよ」
「昨日の消耗を考えれば足りません」
「う……」
茜少尉が困ったように箸を伸ばす。
207B側では、美琴さんが島での演習話を始めかけていた。
「それでさ、第二目標の方へ回り込んだら足場がすごくて――」
「鎧衣」
千鶴さんが即座に遮る。
「演習内容の詳細を食堂で大声で話さない」
「えー、でももう合格したし」
「合格と情報管理は別です」
彩峰さんが煮込みを食べながら呟く。
「榊、今日も硬い」
「今日も、とは何ですか!」
また笑いが起きた。その光景を見ていると、胸の奥が少し温かくなる。207Bも、A-01も、自分も、ここまで帰ってきた。
けれど視界の端に空席が入ると、そこだけ熱が引くように胸の奥が痛んだ。
「少佐殿」
水月中尉が顔を覗き込んできた。
「はい?」
「顔に出てる」
「……すみません」
「謝るの禁止って言ったでしょ」
「最近、いろんな人から同じこと言われます」
「なら直しなさい」
「努力します」
「実行」
遙中尉が横からさらりと言った。
「……はい。実行します」
苦笑しながら杯へ口をつけた、その時だった。
「京塚さん」
まりもさんが静かに杯を置く。
「もう一杯だけ、お願いします」
食堂の空気が僅かに止まった。
水月中尉が小さく口を開く。
「……あ」
宗像中尉の笑みが深くなる。
「始まるわね」
「何がですか?」
尋ねると、水月中尉が妙に真剣な顔でこちらを見た。
「横浜基地の狂犬」
「狂犬?」
「速瀬中尉」
背後から声が飛んだ。
水月中尉の肩が跳ねる。
「誰が、狂犬ですか」
「聞こえてるし!」
まりもさんは少しだけ頬を赤くしていた。それでも背筋はいつも以上に真っすぐで、視線だけは完全に教官のものだった。
「速瀬中尉」
「はい」
「あなたは前に出すぎです」
「今ここで戦闘講評!?」
「前へ出るなとは言っていません。あなたの突破力はA-01に必要です」
「え、褒められてる?」
「ですが、出たなら帰ってきなさい」
水月中尉の顔から笑いが少し消えた。
「帰ってくるまでが、速瀬水月の仕事です」
「……はい」
珍しく素直な返事だった。
横から宗像中尉が小さく拍手する。
「酔ったまりも、説教の切れ味が増してるわね」
「宗像中尉」
「はい?」
「あなたも少し姿勢を正してください。楽しそうに他人を焚きつけない」
「あら。飛び火した」
言いながら、宗像中尉は本当に少し姿勢を正した。
まりもさんの視線が茜少尉へ移る。
「涼宮少尉」
「は、はい!」
「あなたは周囲をよく見ています。姉の顔、速瀬中尉の動き、伊隅大尉の判断。それ自体は良いことです。ですが、自分の判断まで疑わないこと」
茜少尉の表情が変わった。
「昨日のあなたは、生きるための判断をしました」
まりもさんの声が僅かに柔らかくなる。
「それは誇っていいことです」
「……はい」
茜少尉が小さく頷き、遙中尉も隣で何も言わず妹を見ていた。
そして矛先は、そのまま207Bへ移った。
「榊」
「はい!」
「作戦が崩れた時に、動揺を顔へ出しすぎないように」
「……善処します」
「珠瀬」
「は、はいっ!」
「あなたは撃てます。撃つ前から自分の腕を疑わないこと」
「……はい!」
「御剣」
「はい」
「何でも自分で背負いすぎないように。仲間へ任せることもまた責任です」
冥夜が僅かに目を見開いたあと、静かに頷く。
「……心得ました」
その後も彩峰さんには「まず話を聞くこと」、美琴さんには「何か見つけたら感想より先に報告」と、酔っているはずなのに指摘だけは妙に具体的だった。
「そこ見られてた!?」
美琴さんの声で食堂に笑いが広がる。
酔っている。間違いなく酔っている。
なのに言っていることは、全部まりもさんだった。
そして、いつの間に来ていたのか、食堂の端には夕呼副司令まで座っていた。
「ピアティフ」
「はい」
「記録」
「既に記録しています」
「優秀ね」
「神宮司大尉の飲酒後行動記録を更新します」
まりもさんがそちらを振り向いた。
「香月副司令」
「何よ」
「あなたも休んでください」
夕呼副司令が止まった。
食堂まで止まった。
水月中尉が両手で口を押さえ、宗像中尉は肩を震わせている。
「……酔った勢いで私に説教?」
「酔っていません」
「酔ってるわよ」
「香月副司令は、食事と睡眠を軽視しすぎです」
「うるさいわね」
「うるさく言われる生活をしているからです」
ピアティフ中尉が静かに端末を操作する。
「神宮司大尉、香月副司令への健康指導を実施」
「ピアティフ、それ記録しなくていいから」
「記録しました」
「消しなさい」
「保留します」
笑い声が食堂いっぱいに広がった。本当に、久しぶりにこんな笑い方をした気がする。
◇
自分もつられて笑いながら、杯の中身をもう一口だけ飲んだ。薄いはずなのに喉が熱くなり、少し遅れて頬まで熱を持ち始める。
「真白ちゃん、顔真っ赤だよ」
京塚のおばちゃんが笑う。
「だ、大丈夫です」
「大丈夫って顔じゃないねぇ」
「自分は……たぶん」
「たぶんは駄目」
「……はい」
また止められた。でも、そのことまで少しおかしく思えて笑ってしまう。
胸の奥に残った重さは消えていない。臼杵さんを忘れたわけでもないし、こうして笑っていることへの引っかかりも少しだけある。それでも、この笑いは臼杵さんを置いていくためのものではない。
帰ってきた人間が、少しだけ息をつくための時間なのだと思った。
「……よかったです」
気づけば、声が漏れていた。
隣にいたまりもさんがこちらを見る。
「何がですか」
「皆さんが」
少し酒が回ったせいか、普段より言葉が素直に出る。
「皆さんが、生きて帰ってきてくれて……よかったです」
食堂が少しだけ静かになった。水月中尉も宗像中尉も、207Bのみんなもこちらを見る。
「もちろん臼杵さんのことは、まだ……あります。でも、それでも皆さんが帰ってきてくれて――」
「真白くん」
まりもさんの声が近かった。
気づいた時には、両肩を掴まれている。
「は、はい……?」
頬は赤い。でも目は真っすぐだった。
「違います」
「……違うんですか?」
「皆さん、ではありません」
肩を掴む手に、少しだけ力が入った。
「あなたもです」
息が止まった。
「あなたも、生きて帰ってくる側なんです」
食堂が静かになる。
霞には、一人で全部持たなくていいと言われた。千歳さんたちはJM-01を壊さず戻すために白刃を作ろうとしていて、伊隅大尉にもA-01の一員なら戦後処理まで一人で背負うなと言われた。
それでも、自分の中ではまだ「帰す側」と「帰る側」がどこかで分かれていたらしい。
「誰かを帰すことばかり考えて、自分が帰ることを忘れないでください」
「……自分は」
「あなたは、帰ってきました」
まりもさんは逃がさない。
「それは誇っていいことです」
「でも、臼杵さんが」
「臼杵少尉は生きています」
「はい」
「目を覚ました時、あなたが帰ってきたことを責めると思いますか」
答えられなかった。
まりもさんの声が少しだけ柔らかくなる。
「謝るのは、本人が目を覚ましてからです」
「……はい」
「その時に謝るためにも、あなたは生きていてください」
喉の奥が詰まった。
「真白くん」
「はい」
「あなたも、帰ってくる側です」
その言葉が、ゆっくり胸の底へ沈んでいった。
自分はずっと、誰かを救うためにここへ来たと思っていた。A-01を帰し、207Bを生き残らせ、まりもさんの未来を変える。そのことばかり考えてきた。
けれど、その全部をやったあとで、自分だけが帰らなければ意味がない。
霞の部屋も、A-01も、207Bも、京塚のおばちゃんの食堂も、いつの間にか自分が戻ってきていい場所になっていた。そして臼杵さんが目を覚ました時、ちゃんと謝りに行くためにも。
「……はい」
声が震えた。
「自分も、帰ってきます」
まりもさんは満足そうに頷いた。
「よろしい」
次の瞬間、そのまま身体を抱え込むように引き寄せられた。
「ま、まりもさん……?」
「逃がしません」
「く、苦しいです……」
「無茶をする人には、少し拘束が必要です」
水月中尉がぼそりと呟く。
「子犬捕まえた……」
「速瀬中尉。聞こえています」
「やば」
また笑いが起きた。
苦しいけれど、温かい。酔ったまりもさんの説教は少し乱暴で、距離が近くて、容赦もない。それでも根っこにあるものだけは、出撃前から何も変わっていなかった。
生きて帰ってきなさい。
ただ、それだけだった。
◇
しばらくして、霞が食堂へ現れた。両手には水の入ったコップが一つずつある。
「真白さん」
「霞……」
「水です」
「ありがとうございます……」
もう一つは、まりもさんへ差し出された。まりもさんは少しだけきょとんとしてから、素直に受け取る。
「ありがとうございます、社」
「はい」
夕呼副司令が面白そうにこちらを見る。
「霞まで来るなんて、今日は随分賑やかね」
「真白さんが、少し困っていました」
「少し?」
水月中尉が笑う。
「がっつり捕まってたけど」
「捕獲ではありません」
まりもさんが真顔で答えた。
「指導です」
「酔った教官の指導、怖すぎでしょ」
宗像中尉が肩をすくめる。
「でも、悪くない夜ね」
誰もすぐには返さなかった。
悪くない夜。臼杵さんはまだ眠っていて、JM-01も修理中だ。12月10日の危険も残っているし、帝都からこちらを見る目も増え始めている。
それでも食堂には温かい料理があり、笑い声があり、生きて戻った人たちがいる。そして、まだ帰ってくる途中の人のために空いている席もあった。
京塚のおばちゃんがその席を見て、静かに言う。
「咲良ちゃんが目ぇ覚ましたら、もう一回やるよ」
伊隅大尉が頷く。
「その時は、本人も含めて」
「もちろんだよ!」
京塚のおばちゃんは力強く笑った。
「うちの食堂は、帰ってきた子には腹いっぱい食わせるんだからね!」
胸の奥が少し熱くなる。水を一口飲んでから、ゆっくり息を吐いた。
「……次も」
まりもさんがこちらを見る。
「何ですか?」
「次も、帰ってきましょう」
今度は自分から言えた。
一瞬だけ静かになったあと、水月中尉が笑う。
「少佐殿に言われちゃったら、帰るしかないわね」
「帰還命令、了解」
宗像中尉が続き、風間少尉も静かに頷く。
「了解です」
茜少尉も少しだけ力強く笑った。
「はい」
207B側でも千鶴さんが背筋を伸ばす。
「私たちも、帰還までを前提に行動します」
彩峰さんは煮込みの器を持ったまま、
「……帰って、ご飯食べる」
と答え、たまが涙目のまま何度も頷いた。冥夜は「必ず戻る。それが共に進む者への礼であろう」と静かに続け、美琴さんは早くも次の食事会を予約しようとしている。
まりもさんが満足そうに全員を見渡した。
「そのためにも、明日からまた訓練です」
あちこちから小さな呻き声が上がる。
「神宮司大尉、空気読んでくださいよ」
水月中尉が抗議する。
「生きて帰るために訓練するのです」
誰も反論できなかった。
夕呼副司令がコーヒーを口にしながら呟く。
「まったく、酔ってる方がまともなこと言うんじゃないの」
「香月副司令」
まりもさんが振り向く。
「あなたも明日は休憩時間を取ってください」
「しつこいわよ、狂犬」
「あ、博士が言った」
水月中尉の目が輝く。
まりもさんの視線が夕呼副司令へ向いた。
「誰が狂犬ですか」
「横浜基地のよ」
夕呼副司令が笑う。
「香月副司令。後でお話があります」
「酔った教官に説教される筋合いはないわ」
「睡眠時間を削る方に言われたくありません」
「ピアティフ、記録消しなさい」
「記録を継続します」
また笑い声が広がった。
重いものも傷も、まだ残っている。それでも、自分はもう、この食卓の外から誰かの帰還だけを願うつもりはなかった。次もここへ戻り、臼杵さんが目を覚ました時には、今度こそ空席のない食卓を囲みたい。
京塚のおばちゃんが新しい料理を運び、水月中尉がまた何か余計なことを言い、まりもさんがそれを聞き逃さない。
笑い声が重なった。
戦場では聞こえなかった音が、今はちゃんと、自分のいる場所で鳴っていた。
第39.5話 幕間「生きて帰った夜」 END