マブラヴ・インサート 〜白き少佐の因果強化計画〜 作:きのこ大三元
11月14日 朝
横浜基地・医務区画
<< 神宮寺 真白 >>
医務区画の廊下は、いつ来ても似たような匂いがした。
消毒液と洗い立ての寝具、それに空調の乾いた風が混じっている。新潟から戻って何度か通ったせいか、受付を抜けて奥へ進むだけで自然と歩幅が小さくなった。壁に並ぶ病室の番号も、今ではほとんど見なくても辿り着ける。
それなのに、目的の扉が見えてくると足が鈍った。
臼杵咲良少尉。
新潟で、自分を庇って重傷を負った人。
あの日、JM-01は左脚を損傷し、ほとんど身動きが取れなくなった。迫ってくる要撃級の前腕を前に操縦桿を引いても機体は応えず、次の瞬間には臼杵機が視界へ飛び込んできた。衝撃で跳ね上がった土煙、その向こうで大破した不知火。通信画面に表示された生命反応の低下警告まで、嫌になるほど覚えている。
思い出すたび、左手が操縦桿を握るように強張った。今は何も持っていないのに、指を開こうとすると妙に力が要る。
昨日の報告では、容体は安定傾向にあるという話だった。ただし、意識は戻っていない。何度確認しても、その部分だけは聞き慣れなかった。
「……今日も、まだかな」
扉の前で立ち止まり、そんなことを呟いた時だった。
「神宮寺少佐」
振り返ると、伊隅大尉が廊下の向こうから歩いてきていた。いつも通り姿勢は整っているものの、目元には普段より少し疲れが見える。新潟から帰って以降、部隊の報告と負傷者の確認に追われているのだろう。
「伊隅大尉。おはようございます」
「おはようございます。ちょうどよかった」
伊隅大尉は自分の前で足を止めた。
「臼杵の意識が戻りました」
「…………え?」
間抜けな声が出た。
今、何と。
「今朝、覚醒が確認されました。受け答えもできています。ただ、まだ身体への負担が大きいため、医師から面会時間を制限されています」
「……目が、覚めたんですか」
「はい」
もう一度、はっきり頷かれた。
胸の奥が緩んだのか、逆に強く締めつけられたのか、自分でもよく分からなかった。息を吸おうとしてもうまく入ってこなくて、慌ててもう一度呼吸する。廊下の空調がやけに大きく聞こえた。
「それで、本人が貴方に会いたいと言っています」
「……自分に?」
「ええ」
扉を見る。
つい昨日まで、その向こうにいる人は眠っていた。呼びかけても返事はなく、医療モニターの数字でしか生きていることを確かめられなかった。
その人が目を覚まして、自分に会いたいと言っている。
嬉しくないはずがない。それなのに、すぐ扉へ手を伸ばせなかった。会いたいと思って何度もここまで来たくせに、いざ本人と話せるとなると、最初に何を言えばいいのか分からない。
「……入っても、いいんでしょうか」
「臼杵が望んでいます」
伊隅大尉は少しだけ声を落とした。
「ただし、無理に何かを話そうとしなくて結構です。今は本人の負担を増やさないことを優先してください」
「……はい」
「神宮寺少佐」
「はい」
「謝るためだけに会いに行くのではありませんよ」
思わず顔を上げた。
伊隅大尉は、もう自分が何を考えているのか分かっているようだった。
「臼杵は自分の判断で貴方を助けました。その結果について、我々は検証も反省もします。ですが、彼女自身の判断まで貴方が一人で背負う必要はありません」
「……分かっています」
口にすると、まだ少し頼りなかった。
伊隅大尉はそれ以上追及せず、病室の扉へ目を向けた。
「では、行きましょう」
「はい」
自分は、もう一度息を整えてから扉へ手を伸ばした。
◇
病室へ入ると、最初に医療モニターの音が聞こえた。
一定の間隔で鳴る電子音に、空調の低い作動音が重なっている。白い寝具の脇には輸液スタンドが置かれ、身体から伸びる計測用のコードが幾本も機器へ繋がっていた。朝だというのに室内の照明は落とされ、窓から入る光もカーテンで和らげられている。
その中央に、臼杵さんがいた。
顔色はまだ悪く、右腕は固定されたままだ。寝具は肩口まで掛けられていて、見える範囲だけでも包帯や固定具が痛々しい。これまでと変わらないものが、そこにはいくつもあった。
けれど。
目が、開いていた。
「……少佐」
掠れた声が聞こえた。
臼杵さんは自分の姿を確かめると、ほんの少しだけ口元を動かした。
「……おはよう、ございます」
「……臼杵さん」
名前を呼ぶだけで、妙に時間がかかった。
臼杵さんは笑おうとしたらしい。だが、すぐに眉を寄せ、息を短く吐いた。
「……あ、いたた」
「無理しないでください!」
思わず声が大きくなった。
臼杵さんは少しだけ目を丸くする。
「……少佐の方が、元気ですね」
「そういう問題じゃ……」
そこで言葉が止まった。
そんな冗談を言えるのか。いや、冗談を言えるくらいには意識がはっきりしているのか。どちらとも取れて、どう反応すればいいのか分からない。
ついさっきまで、目を覚ましたと聞いても現実味がなかった。それが今は、目の前で臼杵さんが自分の声に反応している。
伊隅大尉がベッドの反対側へ回った。
「臼杵。医師から短時間だけ許可をもらっています。話しすぎないように」
「……了解、です」
「神宮寺少佐も」
「はい」
こちらにも釘を刺された。
ベッド脇の椅子へ腰を下ろすと、膝の上で両手を重ねた。いつもなら言葉を用意してくるところだが、今朝は何も考えていなかった。目を覚ましたと聞いただけで、頭の中にあったものが全部飛んでしまったらしい。
臼杵さんが、こちらを見ている。
「……少佐」
「はい」
「ちゃんと、帰れました?」
思わず目を瞬いた。
「……はい」
「よかった……」
それだけ言って、臼杵さんは少し目を閉じた。
あの時、自分を助けた人が最初に確認したのは、自分の帰還だった。身体を動かすのもつらそうなのに、そんなことを気にしていたのかと思うと、膝の上で重ねていた指に力が入る。
「臼杵さん」
「……はい」
「本当に……すみませんでした」
頭を下げた。
「自分が帰還線を外れなければ、あんな状況にはならなかった。高負荷抑制制御も、自分で解除しました。あの時、命令通りに戻っていれば――」
「少佐」
弱い声が、言葉を止めた。
顔を上げると、臼杵さんは少しだけ困ったような表情をしていた。
「……全部、言うんですか」
「え?」
「長くなりそう、なので……」
ベッド脇のモニターが規則正しく鳴っている。臼杵さんは一言話すたびに息を整えていて、伊隅大尉もこちらを見ていた。
そうだった。長く話せる状態ではない。
「……すみません」
「いえ……」
臼杵さんは一度呼吸を整えた。
「少佐が、無茶したのは……そうだと思います」
「……はい」
「でも、自分も……見てました」
その言葉に顔を上げる。
「少佐の機体が止まって……要撃級が来て。それで、自分が動ける位置にいたので」
短く息を吸う。
「……行きました」
「……」
「命令を待つ余裕は、なかったです」
臼杵さんの目は、真っすぐだった。
「だから……自分の判断です」
返す言葉が見つからなかった。
新潟で自分は、誰かを助けようとして命令を破った。そして臼杵さんも、自分を助けるために動いた。けれど二つを同じものとして片づけてはいけないし、臼杵さんが自分で選んだという理由で、こちらの責任がなくなるわけでもない。
逆もそうだ。
自分の判断が間違っていたからといって、彼女が自分で決めて動いたことまでなかったことにしてはいけない。
臼杵さんは、何か言うのを待つようにこちらを見ていた。
「……怖く、なかったんですか」
聞いてから、少し後悔した。あんな状況で怖くないわけがない。もっと他に聞くことがあっただろうと考えたが、臼杵さんは少しも迷わず答えた。
「……怖かったです」
即答に近かった。
「機体が、すごい音して……痛くて。途中から、よく覚えてないですけど」
右腕を動かしかけ、途中でやめる。その時の痛みを思い出したのか、眉間に少し皺が寄った。
「……もう一回は、嫌ですね」
「……はい」
「できれば……今度は、避けたいです」
その言い方が、妙に臼杵さんらしかった。
自分の判断を誇るわけでも、格好つけるわけでもない。怖くて、痛くて、もう一度は嫌だ。それでもあの時は、自分の機体を動かして助けに来てくれた。
ずっと通信記録や戦闘ログの中にあった出来事を、ようやく本人の言葉として聞けた気がした。
「……臼杵さん」
「はい」
「助けてくれて、ありがとうございました」
今度は、謝罪ではなかった。
臼杵さんは少しだけ目を細めた。
「……どういたしまして」
掠れた声が返ってくる。
それから、少し間を置いて。
「……少佐も、次は助けてください」
「……はい」
「自分だけじゃ、なくてもいいです」
思わず顔を上げた。
「誰かが困ってたら……助けてあげてください」
そこまで話すと、臼杵さんは少し疲れたらしい。目を伏せ、息をゆっくり吐き出す。声を出していた時間はほんの数分のはずなのに、額には薄く汗が滲んでいた。
伊隅大尉が一歩近づいた。
「臼杵。そろそろ休みましょう」
「……はい」
自分も立ち上がろうとしたが、臼杵さんはもう一度こちらへ視線を向けた。
「それと、少佐」
「はい」
「……謝るのは、一回でいいです」
少しだけ口元が緩む。
「二回目からは……差し入れで」
「……差し入れ?」
「甘いものが、いいです」
あまりにも普通のお願いだった。
目の前の人はまだ重傷で、身体も自由に動かせない。それなのに、ようやく目を覚ましたと思ったら、自分へお菓子を要求している。
気づいた時には、少し笑っていた。
「……分かりました。お医者さんに確認しておきます」
「お願いします……」
臼杵さんも、今度は無理に笑おうとしなかった。ただ目元が少し緩んでいて、それを見てようやく椅子から立ち上がれた。
「また来ます」
「……はい」
伊隅大尉と一緒に病室を出る直前、もう一度振り返る。
臼杵さんは目を閉じていた。医療モニターの音は変わらず続いているし、輸液の管も、固定された右腕もそのままだ。
それでも、さっきまで自分へ話しかけていた声が、まだ耳に残っていた。
◇
面会を終えて病室から出ると、廊下にはA-01の仲間たちがいた。
水月中尉、宗像中尉、風間少尉、遙中尉、茜少尉。全員が中へ入ることは許されなかったため、医務班からの説明を聞きながら順番を待っていたらしい。普段なら誰かしら話していそうな顔ぶれなのに、今日は妙に静かだった。
「どうだった?」
最初に聞いてきたのは水月中尉だった。
「……話せました。まだ声は小さいですけど、ちゃんと」
「そう」
短い返事だった。
水月中尉はそれ以上聞かず、組んでいた腕を少し直した。その時、片方の手が一度だけ強く握られたのを、自分は見てしまった。
「……少佐、臼杵さん、何か言ってました?」
茜少尉が尋ねる。
「差し入れが欲しいそうです」
「……え?」
「甘いものがいいって」
一瞬の沈黙。
次に宗像中尉が吹き出した。
「はは……咲良らしいねぇ」
「目を覚まして最初にそれなの?」
水月中尉も呆れたように息を吐く。
「いえ、最初ではないですけど……」
「そういうところは変わらないのね」
遙中尉が少し笑った。
風間少尉は目を伏せ、胸元で組んでいた手を解いた。ずっと指先を握り込んでいたらしく、手のひらを一度開いてから、小さく息を吐く。
「……よかったです」
それだけだったが、声が少し震えていた。
茜少尉は何か言おうとして口を開き、結局何も出てこなかったらしい。慌てて目元を拭うと、水月中尉から顔を背けた。
「茜?」
「な、何でもありません!」
「何でもない顔じゃないでしょ」
「水月さんだって……!」
「何よ」
「……いえ、何でも」
宗像中尉が、そのやり取りを面白そうに眺めていた。水月中尉もそれ以上は追及せず、組み直した腕の片方で茜少尉の肩を軽く小突く。
伊隅大尉が医師と短く言葉を交わしてから戻ってきた。
「全員、臼杵の意識が戻ったことは確認できましたね。医務班から許可された者以外は、今日はこれ以上面会しないように」
「了解」
水月中尉が答える。
「それから、回復には時間が必要です。今後の復帰についても、医師の判断と本人の経過を見て決めます」
誰も異論を挟まなかった。
目を覚ましたからといって、すぐ戦場へ戻れるわけではない。意識が戻る前から分かっていたことだし、固定された腕や医療機器を見れば、そこを勘違いする余地もなかった。
ただ、昨日まではいつ覚醒するかさえ分からなかった。
今日は本人と話せた。
「……伊隅大尉」
「何でしょう」
「臼杵さん、まだA-01へ戻りたいんだと思います」
伊隅大尉の表情が、ほんの少し和らいだ。
「でしょうね」
「……はい」
「なら、戻ってこられるように支えましょう。我々にできることは、彼女の居場所をなくさないことです」
その言葉に、水月中尉も頷く。
「当たり前でしょ。あの子の席、誰にもやらないわよ」
「速瀬中尉」
「何ですか」
「勝手に人事を決めないように」
「……はい」
宗像中尉が肩を震わせている。
自分も少し笑った。
あの待機区画には、まだ臼杵さんの席がある。新潟から帰って何度も目に入っていた、誰も座っていない席だ。
そこへ本人が戻ってくる日がいつになるのか、今は分からない。けれど、水月中尉が勝手に誰かへ譲ることだけはなさそうだった。
ふと、霞に預けてある音楽のことを思い出した。
まだ、一度も再生していない。
臼杵さんが目を覚ましたら、一緒に聴こうと決めていた音だった。今すぐというわけにはいかないし、病室で何かを聴かせる余裕もまだないだろう。
それでも、もう本人に聴いてもらえないかもしれないと思っていた頃とは違う。
次に霞と会ったら、まず知らせよう。
◇
11月14日 昼
横浜基地・医務区画前廊下
<< 神宮寺 真白 >>
医務区画を出て少し歩いたところで、背後から声をかけられた。
「神宮寺少佐」
振り返ると、まりもさんが書類を抱えて立っていた。腕に挟まれた数枚の紙には、見慣れた訓練予定表の書式が見える。
「まりもさん」
「臼杵少尉の意識が戻ったそうですね」
「はい。今朝、少しだけ話せました」
「そうですか」
まりもさんはそこで一度息を吐き、抱えていた書類の角を指で押さえ直した。
「……よかったです」
短い一言だった。
でも、その仕草を見ていると、まりもさんもずっと心配していたのだろうと思う。いつものように背筋は伸びているのに、書類を押さえる指先だけ、少し力が入っていた。
「本当に、よかったです」
自分も頷いた。
「……まだ、回復には時間がかかるみたいですけど」
「当然です。重傷を負ったのですから」
「はい」
「でも、目が覚めた」
まりもさんはそれだけ言って、少しだけ表情を和らげた。
いつもの説教が始まるかと思ったが、今日は違うらしい。
「それで、神宮寺少佐」
「はい」
「臼杵少尉とは、どんな話を?」
「……謝りました」
「でしょうね」
即答だった。
「それと、お礼を言いました」
まりもさんの目が、こちらへ戻る。
「……そうですか」
「臼杵さん、自分の判断で助けたんだって言ってました。怖かったとも、もう一度は嫌だとも」
廊下の奥を一度振り返る。ここからではもう病室の扉は見えないが、さっき聞いた声はまだはっきり覚えていた。
「でも、次は自分が誰かを助けてくださいって」
まりもさんは、少しの間何も言わなかった。
「……立派な衛士ですね」
「はい」
今度は迷わず答えられた。
まりもさんは頷くと、抱えていた書類を一枚抜き出した。
「では、その話とも少し関係しますが」
「……はい?」
「午後の予定についてです」
嫌な予感がした。
いや、嫌ではない。ないのだが、この流れで書類が出てくると、何か仕事が増える気がしてならない。
「第207衛士訓練部隊の戦術機教習が、本格的に始まります」
「……あ」
差し出された書類には、訓練予定と使用する吹雪の機体番号が並んでいた。
207B。
千鶴さん、彩峰さん、たま、冥夜、美琴さん。
島での総合戦闘技術演習を終え、ようやく戦術機へ乗る段階に進む五人だ。あれだけ長い距離を走ってきた彼女たちが、今度は全高十数メートルの機体を動かすことになる。
「新潟戦の結果を踏まえ、XM3の評価も次の段階へ進める必要があります。ただし、訓練兵には通常操作から教えます。MODERNはまだ使用させません」
「はい。昨日の試験で、その方針になりました」
「ええ」
まりもさんは書類へ視線を落とす。
「そこで、あなたには訓練用OSの挙動確認と、初期教導の補助をお願いしたいと考えています」
「……自分が、ですか」
「あなたが、です」
即答だった。
「ただし、医務班の許可が出ることが条件です。実機に乗る必要はありませんし、長時間の立ち会いもさせません。許可が出なければ、今日は資料の確認だけにしてもらいます」
なるほど。そういうところは、きっちりしている。
「……まりもさん」
「何ですか」
「自分、信用されてるんでしょうか。それとも監視されてるんでしょうか」
まりもさんは一瞬だけ黙った。
「両方です」
「ですよね……」
迷いのない返事だった。
「あなたはXM3の特性をよく理解しています。訓練用制限の挙動確認には適任でしょう。しかし、それと訓練兵を教える能力は別です」
「はい」
「だから、まず私の補助として見てもらいます。教導の進行と判断は私が行いますので、勝手に新しい操作を教えたり、機能を解放したりしないこと」
「……了解しました」
まりもさんが書類を差し出した。
「訓練兵がどこでつまずくのか、教官の目で見てください。答えを先に渡さず、本人たちに考えさせることも必要です」
昨日のMODERN試験が頭に浮かぶ。
ボタンの前に、道を覚える。
あの言葉を資料へ書き込んだ時は、機能をいつ使わせるかという話だった。それが今度は、実際に訓練兵の動きを見ながら考えることになるらしい。
「……分かりました」
「それから」
まりもさんが少しだけ目を細めた。
「あの子たちは、あなたが守ってあげるだけの存在ではありません」
顔を上げる。
「自分で戦い、自分で判断し、仲間と戻ってこられる衛士に育てるのです」
「……はい」
昨日まで、千鶴さんや彩峰さんたちの個人設定を考えていた。でも、そこで作ったのは、あくまで将来使えるかもしれない補助機能の案だ。実際にどこでつまずくかも、何を得意とするかも、これから本人たちが戦術機を動かす中で見えてくる。
最初からこちらが答えを決めてしまっては、まりもさんに何度も注意されたことを繰り返すだけになる。
自分は書類に並んだ機体番号をもう一度見た。
「……自分にできること、やってみます」
「やってみる、ではなく」
まりもさんの声が少し厳しくなる。
「任された仕事は、きちんとやりなさい。ただし、無理はしないこと」
「……はい」
「医務班から許可が出なければ、今日は資料確認だけです。分かっていますね?」
「了解しました」
そこまで念を押されると、さすがに苦笑いするしかなかった。
まりもさんは満足そうに頷き、歩き出す。自分もその隣へ並んだ。
「そういえば、まりもさん」
「何ですか」
「臼杵さんから、甘いものを差し入れてほしいって言われました」
「……甘いもの?」
「はい。元気になったら食べたいみたいで」
まりもさんが足を止めた。
数秒、こちらを見る。
それから、ふっと小さく笑った。
「まったく……元気になったら、食堂へ連れていってあげなさい」
「はい」
「もちろん、医師の許可が出てからですよ」
「分かってますって」
まりもさんが少しだけ眉を上げる。
「本当に?」
「……確認します」
「よろしい」
また歩き出す。
自分は一度だけ、医務区画の方を振り返った。
臼杵さんは、まだベッドの上だ。傷も残っているし、次に戦術機へ乗れるかどうかさえ今は分からない。意識が戻ったからといって、あの日の出来事が全部終わったわけではなかった。
それでも、目を覚ました。
怖かったことも、痛かったことも、もう一度は嫌だということも、自分の言葉で話してくれた。次は甘いものを持ってこいとまで言われたのだから、まずは医師に何なら食べられるのか聞いておかなければならない。
霞に預けた音楽も、いつか一緒に聴きたい。
やりたいことが、少しずつ増えていく。
手元の予定表へ目を戻した。
午後には訓練兵たちが吹雪へ乗る。医務班から許可が出れば、自分も訓練用OSの確認に立ち会うことになるだろう。初めて戦術機を動かす彼女たちが、どこで戸惑い、どんな失敗をするのか。少し楽しみでもあり、正直なところ少し不安でもあった。
たぶん、まりもさんにはまた色々と怒られる。
でも、今朝臼杵さんから受け取った「次は誰かを助けてください」という言葉を、すぐ戦場へ持っていく必要はなかった。
訓練兵が自分の力で危険を避けられるようになる。その手伝いだって、今の自分にはできるかもしれない。
「神宮寺少佐。早く来なさい」
廊下の向こうで、まりもさんが振り返っていた。
「あ、はい!」
考え事をしているうちに、また少し離されていたらしい。慌てて歩幅を速めると、まりもさんは呆れたような顔で待っていてくれた。
自分は予定表を抱え直し、その隣へ追いついた。
第45話「臼杵咲良、目を覚ます」 END