魔力最弱の転生者が、女支配の世界で感じることを隠しながら魔王を倒した話   作:レオナルド・ハ・ピンチ

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プロローグ 【メインクエスト:魔王討伐】と、血反吐に塗れた修練の十数年

 死ぬ三秒前、アリスの頭にあったのは明日の約束だった。

 

 「明日もまた来るからね」

 

 昨夜、妹の病室で言った言葉だ。痩せた手を握りながら。

 

 妹は十二歳。難病で三年、病院から出ていない。骨ばった指先、点滴の針の跡だらけの腕。それでも本を開くたびに笑った。毎晩、同じように。

 

 アリスは仕事の帰りに毎晩通った。本を一冊持って。読み聞かせていた本だ。何百回も読んだ。表紙の文字が摩耗して読めなくなり、背表紙の糊が剥がれかけ、四つ角が全部丸くなっている。妹がページの角を握りしめる癖があるからだ。

 

 「明日もまた来るからね」

 

 病室を出た。帰った。エナジードリンクを開けた。仕事の続きをした。徹夜だった。

 

 朝になっても、起きなかった。

 

 椅子に座った姿勢のまま、死んだ。

 

 明日来ると言った日に、行かなかった。

 

 

 頬に朝露が触れた。

 

 目を開けると、見たことのない形の雲が空をゆっくりと流れていた。針葉樹の梢が風に揺れ、光が葉の間を抜けて地面に散らばっている。上体を起こした。全身が軋んだ。立ち上がると、視界の端に光る文字列が浮かんだ。

 

 

【システムメッセージ】

転生処理を実行しました

対象は『村人A』の身体に再構成されています

 

メインクエスト:『魔王の討伐』

報酬:『元の世界への帰還』

 

注:帰還の詳細条件は明示されていません

過去の達成事例:参照不可

推定達成可能性:算出不能

 

 

 二行を繰り返し読んだ。

 

 「過去の達成事例:参照不可」

 

 「推定達成可能性:算出不能」

 

 戻れるかどうか、分からない。戻れるとしても、いつの時点かが分からない。向こうの時間がここと同じ速度で流れているかも分からない。全部、分からない。

 

 それでも進む以外にない。戻らなければ妹との約束が破られたままになる。

 

 アリスは静かに笑った。笑うしかなかった。

 

 『ファンタスマゴリア・クロニクル』。三千時間以上を注ぎ込んだゲームだ。この世界の女性は自力で魔力を生成できない。男性の魔力を外部から取り込むことでのみ魔法を行使できる。その生物学的な非対称が、数百年をかけてこの世界の社会構造を根底から反転させた。力ある女が弱い男を所有し、定期的に搾取し、消費する。

 

 

【ステータス確認】

名前:アリス(村人A)

職業:平民 Lv.1

HP:40 / 40

魔力:15 / 15(上限値・固定)

攻撃:8 防御:6 速さ:12 知力:14

称号:なし スキル:なし

 

 

 最大魔力、十五。女たちが搾取する価値すら感じない量だ。

 

 だが唯一の知識があった。魔力の総量がどれほど少なくても、純度と制御精度はステータスとは無関係に鍛えられる。一滴の劇薬が一樽の水を汚すように、極限まで精製した十五の魔力は、粗末な二百を遥かに上回るシステム干渉力を持つ。ゲーム内でそのルートを開拓したのは世界でアリス一人だった。ただし実際に魔王まで到達できたかどうかは検証していない。途中まで進めて、時間がなくて投げ出した。

 

 今、その検証を実地でやることになる。失敗すれば死ぬ。成功しても、戻れる保証はない。

 

 修練を始めたのは転生から八日目だった。最初の試みで失神した。魔力の回路に過負荷をかけた瞬間、鼻から血が噴き出した。翌朝、冷えた泥の上で目を覚ました時、右腕が一時間ほど動かなかった。

 

 それでも続けた。

 

 倒れるたびに、妹の顔が来た。一秒もかからずに来た。だから立ち上がれた。

 

 修練の中で、あることに気づいた。これは痛みだけではない。魔力の回路を極限まで開いて自分の神経系を操作する行為は、苦痛と同時に何か別のものを含んでいた。体の内側を裸にする感覚だ。神経の一本一本が意識の光に晒されて細かく震える。限界を超えた体が床に崩れる瞬間、全部を手放す感覚があった。それが何に似ているのかは、考えないようにした。

 

 攻略データを書き出す作業を、修練と並行して続けた。各ヒロインの外見設定も含めて。ノワール。カルミラ。セシリア。アイシャ。リゼ。書き出しながら、体が反応した。設定を思い出すだけで。文字として書き出すだけで。三十二年間、男として生きた体の記憶がこの新しい体に乗り移っている。止められない。だから切ることにした。感傷と欲望は精密制御の精度を下げる。ヒロインたちは攻略に必要な駒だ。

 

 切ろうとした。

 

 記録の余白に、その日から小さな数字が書かれるようになった。「余剰反応:四回。鎮静:不完全」三年後、その欄は毎日埋まっていた。

 

 五年目に近隣の村へ足を延ばした時、公衆の面前で魔力を搾取される男の顔を見た。諦めの顔だった。三秒見て、視線を外した。胸の奥で何かが引っかかった。特定する前に処理した。処理しきれない部分が残った。

 

 七年目の秋、修練中に三日間意識が戻らなかった。目覚めると皮膚が過敏になっていた。布の感触が鮮明に届く。風の温度が細かく分解される。過敏さの中心が特定の部位に偏っていた。鎮静をかけた。完全には消えなかった。

 

 十年目の冬、記録にこんな一行を書いた。「妹のことを考えると鎮静が早く効く」書いた後、しばらく壁を見ていた。それはつまり、ヒロインたちのことを考えると妹のことが薄れるという意味でもあった。それ以上は書かなかった。書くと、認めることになる。

 

 

 十三年目の初冬の朝。

 

 夜明け前から起きて、体を点検した。鼻血が出た。慣れた感覚だ。布切れで拭い、捨てた。

 

 廃屋の壁を最後に一度眺めた。十三年分の記録が、びっしりと刻まれている。攻略データ。修練の記録。失敗の記録。死にかけた記録。鎮静の失敗記録。

 

 

【メインクエスト】

魔王の討伐

進捗:0/1

報酬:元の世界への帰還

 

過去の達成事例:参照不可

推定達成可能性:算出不能

 

 

 戻れるかどうかは分からない。戻った時に妹が生きているかも分からない。それでも進む。進まなければ全ての可能性が失われる。

 

 森の奥へ向けて歩き出した。霜を踏む音がした。

 

 今日、最初の接触が来る。

 

 右手を見た。この手で、十三年分の全てを使う。妹のもとに戻るために。約束を果たすために。

 

 その目的だけを見ていた。他のことは、見ないようにした。

 

 歩きながら、試してみた。妹の顔が来るかどうかを、自分から確かめたことは一度もなかった。倒れた時は来た。来るから立ち上がれた。だが歩きながら、自分から試したことはなかった。

 

 試した。

 

 来た。一秒もかからなかった。

 

 今日もそうであることを確認して、また歩き始めた。今日の接触が終わった後、もう一度試す。その時も一秒もかからずに来るかどうかを、今日確かめることになる。

 

 

【システムログ:記録開始】

対象:アリス(村人A・転生者)

現在地:辺境森林地帯東部

【強制イベント:待機中】

発動条件:目標地点到達次第、自動起動

イベント名:『獣人奴隷ノワールの救出』

備考:回避不能

付記:帰還動機:確認済み。動機の対象:元の世界における家族(妹・十二歳)。転生以来、対象(妹)の顔の参照速度:即座(〇・一秒未満)。本日の接触後に参照速度の変化が生じる可能性あり。要観察。

 




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