魔力最弱の転生者が、女支配の世界で感じることを隠しながら魔王を倒した話   作:レオナルド・ハ・ピンチ

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第9話 王都からの刺客と、無感情騎士の理不尽な強さ

 アイシャの処置から四日後の夜、アリスは夢を見た。

 

 夢の中に、四人がいた。

 

 ノワールが最初に来た。廃屋の最初の夜の体温が、夢の中では直接触れていた。腕が絡んでいる。首筋に顔が押し当たっている。名前を呼んだ声が耳の近くで言われた。

 

 カルミラが来た。執務室のベッドで仰向けになった時の重さが、夢の中では封鎖具なしで来ていた。唇が三度触れた感触が、一度に来た。修練の痕跡を指でなぞった時と、舌でなぞった時が、同時にあった。

 

 セシリアが来た。倉庫のベッドで腿の内側に触れた時の濡れが、夢の中では手に直接あった。名前を呼んだ声が、命令ではない形で来た。顔が動きそうになった三回の瞬間が、一度に来た。

 

 アイシャが来た。太腿に顔が埋まっていた感触が戻ってきた。付け根に達した瞬間に出た声が来た。処置が終わった後で名前を呼ばれた時の感触が来た。

 

 四人の体温と声と濡れが、夢の中で混ざり合っていた。アリスは夢の中で、それを止める必要がないと判断した。止めなかった。

 

 止めない、という判断をした瞬間、夢が加速した。四人が同時にいた。ノワールの腕が絡んでいた。カルミラの重さが胸板にあった。セシリアの腿の内側が手の下にあった。アイシャが名前を呼んだ。四人分の体温が、全方向からアリスを包んでいた。

 

 ノワール、とアリスは言った。

 

 その声で、目が覚めた。

 

 

 覚めた瞬間、全部が終わっていた。

 

 天井を見た。自分の状態を確認した。夢精していた。下腹部から腿にかけて、温かい濡れが広がっていた。

 

 夢の内容を整理しようとした。できなかった。四人の体温と声と濡れた肌の断片が、夢で終わったはずなのに、まだ鮮明に残っていた。その中で、ノワールが名前を呼んだ声が、特に残っていた。

 

 昨夜、アイシャの処置が終わった後でアイシャに名前を呼ばれた。その前日の夜、ノワールに意図して名前を呼ばれた。今朝の夢の中で、名前を呼んだのはアリス自身だった。夢の中で自分からノワールの名前を呼んだ、という事実を、起き上がりながら確認した。確認した上で、その事実の意味を認めたくなかった。

 

 起き上がった。着替えた。汚れたものを片付けた。今日の手順を確認した。確認しながら、その手順の中に「妹のもとに戻る」という目的が今朝もある、ということを確認した。

 

 ある。今朝もある。

 

 だが夢の中で四人が来た後、妹の顔は来なかった。夢の中でも来なかった。

 

 

 朝食のテーブルで、ノワールがアリスを見た。一秒だけ見た。それから視線を食事に戻した。

 

「顔色が悪い」

 

「眠れなかった」

 

「夢を見たか」

 

 返事が来なかった。「私が出てきたか」とノワールが続けた。

 

「……ああ」

 

「名前を呼んだか」

 

「……覚えていない」

 

「嘘だ。覚えている顔をしている」

 

 アリスは黙った。

 

「呼んだんだな」

 

「関係ない」

 

「それで——」

 

 ノワールの視線が、アリスの体の特定の部分に一瞬向いた。「……朝に着替えていた。気配で分かった」

 

 スープが冷めていた。箸を置いた。「食事をしろ」

 

「答えろ」

 

「食事をしろ」

 

 ノワールは黙った。黙ったまま、口の端が上がっていた。「今夜、昨夜より良くする」

 

 頬が、微かに熱かった。アリスは答えなかった。

 

 

 問題が起きたのは、その日の午後だった。

 

 単独で情報収集のために街を歩いていた時、背後の気配が変わった。追われている。気づいた瞬間には、既に包囲されていた。三方向から人が来ている。一方は壁だ。

 

 王都の私服。腰の紋章が王都所属を示している。強制排除の先遣隊だ。

 

「魔力十五の平民が、なぜギルドマスターと侯爵令嬢に繋がっているのか。王都は興味を持っている」

 

「答える義務はない」

 

「答えてもらう義務がある」

 

 三人が同時に動いた。壁に背をつけた。突破できない。このステータス差では無理だ。

 

 その瞬間——路地の入口に、影が落ちた。

 

 小柄な影だ。路地の入口に立って、三人の背後から現れた。重厚な甲冑。白銀の髪が甲冑の隙間から見えている。赤い瞳が路地の薄暗がりの中で光っていた。背中に、人の背丈を超える大鎌を背負っている。

 

 リゼだ。

 

 三人の先遣隊が振り返った。リゼは彼らを見た。感情がなかった。眉一つ動かない。唇が一ミリも変化しない。赤い瞳が三人を等しく確認していた。

 

「どけ」

 

 命令でも要求でもない。事実の告知だ。どかなければ排除するという情報を、感情ゼロの口調で告げている。三人が剣を抜いた。

 

 リゼは動いた。速かった。入口にいたリゼが、次の瞬間には先遣隊の一人の前にいた。大鎌が動いた。峰打ちだ。先遣隊の一人が壁に叩きつけられて、動かなくなった。残り二人のうち一人が剣を振った。リゼの首を狙った斬撃だ。リゼはそれを見なかった。見ずに腕で受けた。甲冑に剣が当たる金属音が響いた。そのまま剣ごと腕を動かして、攻撃してきた者を壁に叩きつけた。最後の一人が後退して、逃げた。

 

 静寂が戻った。

 

 

 リゼがアリスを見た。赤い瞳が、アリスを確認していた。感情のない目だ。

 

「お前がアリスか」

 

「そうだ」

 

「王都は貴様の排除を決定した。今日は先遣隊だ。本隊は三日後に来る」

 

「お前はどちら側だ」

 

「現時点では観察中だ。貴様の魔力が十五である理由と、それにもかかわらずギルドマスターと侯爵令嬢が従属している理由を、王都のシステムは異常として検知した」

 

「二日後に、直接話す機会をもらえるか」

 

「なぜ」

 

「お前を説得したい」

 

「二日後、この路地に来い。ただし話の内容によっては即時排除する」

 

「分かった」

 

 リゼはアリスを頭から足まで確認した。その視線が、アリスの体の特定の部分で止まった。一拍の沈黙があった。「……興味深い」

 

「何が」

 

「排除対象を前にして、貴様の体がその状態になっている」

 

 口が開かなかった。

 

「恐怖と別の何かが同時に生じているのか。あるいは別の原因か」

 

「関係ない」

 

「今朝から持続しているのか、今日の接触で生じたのか、どちらだ」

 

「今朝からだ」

 

 答えてしまった。リゼは少しの間、アリスを見た。「今朝から持続している。興味深いデータだ。二日後に詳しく聞く」踵を返した。路地から消えた。

 

 

 アリスは壁に背をつけたまま、しばらく動かなかった。

 

 心拍が速かった。リゼに体の状態を確認された、という事実がある。今朝の夢精の件が、「今朝から持続している」という言葉で外部に出てしまった。

 

 宿に向かって歩き始めた。

 

 

 宿に戻ると、ノワールが部屋で待っていた。アリスの顔を見た瞬間、表情が変わった。「何があった」

 

 端的に説明した。先遣隊に囲まれたこと。リゼが現れたこと。三日後に本隊が来ること。二日後にリゼと会うこと。

 

 ノワールは黙って聞いていた。最後まで聞いて、立ち上がって、アリスの前に来た。手を伸ばした。アリスの頬に触れた。昨日より長く、触れていた。

 

「顔色が悪い」

 

「朝からだ」

 

「夢のせいか」

 

「……ああ」

 

「今日の先遣隊のせいか」

 

「両方だ」

 

「正直だな」

 

「いつも正直だ」

 

「嘘をつく時もある」

 

「どの時だ」

 

「覚えていない、と言った時だ。夢でノワールと呼んだことを」

 

 口が開かなかった。ノワールの手が、頬から離れた。離れた瞬間、その温度が消えた。アリスの体が、その喪失に対して答えた。

 

「今夜」ノワールが言った。「昨夜より良くすると言った」

 

「……言った」

 

「二日後にリゼと会う。死ぬかもしれない」

 

「可能性はある」

 

「だから今夜。死ぬ前に、昨夜より良くする」

 

 視線を逸らした。ノワールはそれを把握した。

 

「今朝の夢で呼んだ私の名前は」

 

「……ノワール」

 

「もう一度」

 

「……ノワール」

 

「それを」ノワールが、アリスに近づいた。「今夜、私の耳元で呼べ」

 

 

 その夜、アリスはノワールと過ごした。昨夜より良かった。昨夜の四回が、今夜は数えるのをやめた。

 

 夜中の、時刻が分からなくなった頃、ノワールがアリスの胸の上で言った。

 

「リゼと会う前に」

 

「なんだ」

 

「今夜のことを覚えておけ」

 

「……覚える」

 

「死ぬなよ」

 

「死なない」

 

「約束か」

 

「約束だ」

 

 ノワールは顔をアリスの胸に押し当てたまま、しばらく動かなかった。アリスはノワールの銀の髪が胸の上に広がっているのを感じながら、今夜のことを整理しようとした。できなかった。妹の顔を考えようとした。

 

 来た。

 

 だが今夜は、ノワールの体温が先に来た。それからノワールの声が来た。それからセシリアとアイシャとカルミラの記憶が来た。妹の顔は、その後に来た。先に来るものが、今夜また増えた。

 

 その事実を確認しながら、アリスは整理できないままでいいと、今夜初めて思った。

 

 

 二日後の夕方、アリスは指定の路地へ向かった。

 

 ノワールは路地の入口で待つことになっていた。「死ぬなよ」

 

「死なない」

 

「約束か」

 

「一昨日も約束した」

 

「今日も約束しろ」

 

「……約束だ」

 

 ノワールはアリスを見た。それから、アリスの首筋に顔を近づけた。一度だけ、深く吸い込んだ。「今夜の匂いを覚えておく」

 

「何のために」

 

「帰ってきた時に、変わっていないかを確かめる」

 

「匂いで何が分かる」

 

「全部分かる」

 

 路地へ入った。首筋が、夜の空気の中でまだ温かかった。

 

 

 リゼは先に来ていた。重厚なゴスロリ甲冑。白銀の髪。赤い瞳。大鎌を背負っている。路地の壁に背をつけて、アリスを待っていた。感情がない。眉が動かない。唇が変化しない。

 

「来た」

 

「約束通りだ」

 

「話を聞く」

 

 アリスはリゼの前に立った。甲冑の構造を視覚で確認した。左の脇腹部分に、排熱口がある。だが今は交渉だ。

 

「王都の目的は何だ」

 

「貴様の排除だ。魔力十五の平民が、なぜこれほどの影響力を持つのかを、王都のシステムは危険因子として分類した」

 

「それを俺が説明すれば、排除を回避できるか」

 

「説明の内容による」

 

 アリスは話し始めた。魔力の純度について。十三年間の修練について。カルミラとセシリアとアイシャへの処置について。リゼは黙って聞いていた。話している間、ずっと同じ顔だ。

 

 話が終わった。「理解した」

 

「排除を回避できるか」

 

「できない」

 

「なぜ」

 

「理解した上で、王都の判断は変わらない。貴様が魔力十五でカルミラとセシリアとアイシャを従属させた事実は、王都のシステムにとって制御不能な変数だ。制御不能な変数は排除する」

 

「お前自身は、どう思う」

 

「感情パラメータがロックされているため、思わない」

 

「判断はできるか」

 

「判断と感情は別だ」

 

「では判断を聞かせてくれ。俺を排除すべきか」

 

 リゼは少しの間、アリスを見た。「すべきだ」

 

「理由は」

 

「貴様は制御不能だ」

 

「俺には制御できる」

 

「自分を制御できることが、排除回避の根拠にはならない」

 

「俺は魔王を倒す」

 

「証拠はない」

 

「今から見せる」

 

「どうやって」

 

「お前を倒してみせる」

 

 リゼは、また少しの間、アリスを見た。「不可能だ」

 

「試してみなければ分からない」

 

「試す前に死ぬ」

 

「試してから死ぬ」

 

 また少しの間があった。「……一つだけ聞く」

 

「何だ」

 

「カルミラとセシリアとアイシャは、自分の意思で従属しているのか」

 

「自分の意思だ」

 

「証明できるか」

 

「できる。会わせてもいい」

 

「従属させられた状態で、自分の意思と言えるのか」

 

「従属と意思は矛盾しない」

 

「矛盾する」

 

「お前の判断基準では矛盾する。だが当人たちの判断基準では矛盾しない」

 

 リゼは少しの間、アリスを見た。「……その論理は、今すぐ反証できない」

 

「だろう」

 

「だが排除の判断は変わらない。王都の命令が優先する」

 

「命令に従うだけか」

 

「そうだ」

 

「お前自身の判断は」

 

「……」

 

 リゼが、一瞬だけ止まった。眉が動いたわけではない。唇が変化したわけでもない。だが何かが、一瞬引っかかった。

 

「本当にないか」

 

「……命令を実行する」

 

 リゼが動いた。

 

 

 大鎌が来た。横に飛んだ。間に合わなかった。大鎌の峰がアリスの腕をかすった。その衝撃だけで、腕が痺れた。

 

 転がりながら、リゼとの距離を測った。三メートル。大鎌の間合いの外だが、リゼの機動力では意味がない。次の斬撃が来る前に、決断した。甲冑の排熱口に魔力を叩き込む。死ぬかもしれない。だがこれしかない。

 

 走った。逃げる方向ではない。リゼへ向かって走った。

 

 リゼが大鎌を振った。その軌道の内側に入った。大鎌の間合いの内側は逆に死角になる。だがリゼは手を離した。大鎌を捨てて、素手で来た。アリスの首を掴もうとした手を、外側から掴んだ。そのまま、リゼの左の脇腹へ体を押し込んだ。甲冑の排熱口が、そこにある。残存魔力の全部を、過負荷状態にして排熱口へ叩き込んだ。

 

 

 甲冑が、悲鳴を上げた。

 

 金属の軋む音が路地に響いた。排熱システムが処理能力を超えた熱を内部に溜め始める。リゼの動きが止まった。

 

 離れた。

 

 甲冑が、弾けた。金属の部品が複数方向に飛んだ。排熱口から蒸気が噴き出した。胸部装甲が展開して外れた。腰部が落ちた。腕部が弾け飛んだ。数秒で、甲冑の大部分がなくなった。

 

 残ったのは、極薄のインナーだけだ。白銀の髪が乱れている。赤い瞳が、何かを処理しようとしていた。

 

 

 リゼが、声を上げた。感情のない声ではなかった。甲冑が全部飛んだ後で、外気が極薄のインナー越しに全身に触れた、その瞬間の声だ。「っ——」短い声だった。だがその声の中に、何かがあった。感情パラメータのロックが、排熱システムの過熱によって焼き切れた音だ。

 

 リゼは自分の腕を見た。インナー越しに外気が当たっている腕を。「これは」声が出た。「これは、何だ」

 

 外気だ。風だ。皮膚が空気に触れている感触だ。甲冑を纏い続けた体が、生まれて初めて外気を感じていた。

 

 

 アリスはリゼの前に立った。極薄のインナー一枚になったリゼが、自分の腕を見ていた。感情パラメータが焼き切れた。今この瞬間から、リゼは全ての感情と感覚を初めて受け取り始めている。

 

 指を伸ばした。リゼの腕に触れた。冷たい指先で。「っ!」

 

 リゼが後退した。壁に背をつけた。「何をした」

 

「触れた」

 

「なぜ触れた」

 

「確認のためだ」

 

「確認の意味が分からない。今の感触が何なのかが分からない。外気が皮膚に触れるのが何なのかが分からない。お前が指を当てた瞬間の感触が——」

 

 リゼの声が、止まった。赤い瞳が、アリスを見た。感情パラメータが初期化されて、全部の感覚が同時に入ってきた目だ。情報の洪水の中にいる目だ。

 

「怖い」リゼが言った。「今、怖い。これは何だ。何が怖いのかが分からない。なぜ怖いのかが分からない。だが怖い」

 

「それが恐怖だ」

 

「恐怖」

 

「初めて感じているんだろ」

 

「……そうだ。これが、恐怖か」

 

 リゼは自分の腕を見た。その感触が今この瞬間、恐怖と同時に存在している。「インナーが、薄い。皮膚に、布が触れている感触がある。今まで甲冑の中では感じなかった感触だ」

 

「ええ」

 

「これも恐怖か」

 

「違う。それは別の感覚だ」

 

「別の」

 

「何と呼ぶか、自分で考えろ」

 

 少しの間、自分の腕を見ていた。それから顔を上げた。「お前が指を当てた時の感触は、何と呼ぶ」

 

「人に触れられた時の感触だ」

 

「名前は」

 

「接触だ」

 

「接触」リゼは繰り返した。「接触に、なぜ今も体が反応しているのか。お前の指はもうない。だが残っている」

 

「残像だ。初めて感じたものは、なかなか消えない」

 

「残像」

 

「ええ」

 

「もう一度、触れてみろ」

 

「何のために」

 

「残像と、本物の違いを確認したい」

 

 

 アリスはリゼの腕に、もう一度指を当てた。「っ——」リゼがまた声を上げた。今度は後退しなかった。壁に背をつけたまま、声を上げた。その声が、一度目と少し違った。

 

「変化した。一度目と二度目で、体の反応が違う。なぜか」

 

「慣れたからだ」

 

「慣れると変化するのか」

 

「ええ」

 

「変化した方が——」リゼが止まった。「変化した方が、何だ」

 

「……分からない。言葉にする概念を持っていない」

 

「良い、という意味か」

 

 少しの間、アリスの指が当たっている場所を見ていた。「……そうかもしれない」

 

 

 アリスは指を離した。リゼが、その瞬間わずかに体を動かした。離れる方向ではない。逆だ。アリスの指が離れた方向に、体がわずかに傾いた。

 

「今」アリスは言った。「体が傾いた」

 

「……傾いていない」

 

「傾いた」

 

 自分の体を確認した。確認して、傾いていたことに気づいた。「……なぜ傾いた」

 

「接触が離れた方向に体が向いた」

 

「それはなぜ起きる」

 

「もっと触れたかったからだ」

 

 沈黙が落ちた。リゼは自分の体と、アリスの手を交互に見ていた。

 

「もっと触れたかった、という状態を、何と呼ぶ」

 

「欲求だ」

 

「欲求」

 

「ええ」

 

「私に欲求が生じた」

 

「そうだ」

 

「感情パラメータが初期化されたため」

 

「そうだ」

 

 少しの間、自分の腕を見ていた。「……私は今、欲求と恐怖と、インナーが皮膚に触れる感触と、外気の温度と、全部を同時に受け取っている」

 

「ええ」

 

「処理が追いつかない」

 

「追いつかなくていい」

 

「追いつかなくていいのか」

 

「全部を同時に感じていい」

 

 リゼは赤い瞳でアリスを見た。「お前が怖い」

 

「ええ」

 

「だが」リゼが、少しだけ壁から体を離した。アリスに向かって、ほんの少しだけ前傾みになった。「もう一度、触れてもいいか」

 

 

 アリスは答えなかった。代わりに、手を伸ばした。リゼの首筋に、指を当てた。

 

「……っ、これは」

 

「何を感じているか言え」

 

「熱い。お前の指が、冷たいのに熱い。矛盾している」

 

「矛盾していない。冷たい接触が、皮膚を通じて熱として処理されている」

 

「なぜそうなる」

 

「そういう仕組みだ」

 

「私の体の仕組みが、今まで知らなかった動き方をしている」

 

「ええ」

 

「怖い」

 

「ええ」

 

「だが——やめてほしくない」

 

 

 アリスは指を首筋に当てたまま、リゼを見た。赤い瞳が、アリスを見ていた。感情がない目ではなかった。感情が多すぎて、どれから処理すべきかが分からない目だ。

 

 大粒の涙が、右目から一筋流れた。リゼは気づいていなかった。

 

「水が出た」

 

「泣いているんだ」

 

「泣く、という状態か」

 

「ええ」

 

「なぜ私は泣いているのか」

 

「感情が溢れた時に出る」

 

「溢れた。今、溢れている。怖いのに、やめてほしくない。矛盾している」

 

「矛盾していない」

 

「なぜ」

 

「よく起きることだ」

 

 リゼの目から、また涙が出た。今度は左目からも出た。拭おうとしなかった。

 

「アリス」

 

「何だ」

 

「私は今、お前が怖い」

 

「ええ」

 

「同時に、お前の指が首筋にある事実が——」リゼが止まった。

 

「何だ」

 

「……言葉にする概念が、まだない」

 

「良い、という意味か」

 

「……そうかもしれない」

 

 アリスはリゼの首筋から指を離した。リゼの体が、今度は大きく傾いた。アリスの方向に。気づいていない。

 

「傾いている」

 

「……また傾いているのか」

 

「ええ」

 

「欲求か」

 

「ええ」

 

「欲求が、恐怖より大きくなっているのか」

 

 アリスは答えなかった。リゼの涙が、顎から滴っていた。インナー一枚の状態で、路地の壁に背をつけて、泣きながら、アリスの方向に傾いていた。

 

「……お前の指示に、従う」リゼが言った。

 

「なぜ」

 

「分からない。だが従いたい。これも欲求か」

 

「そうだ」

 

「欲求に従うことが、正しいのか」

 

「それはお前が決めることだ」

 

 少しの間、アリスを見た。涙が止まらない。「もう一度、触れてもいいか」

 

 アリスは手を伸ばした。リゼの頬に触れた。涙が、アリスの指に当たった。温かかった。リゼの体から、力が抜けた。壁から体が離れた。そのままアリスの胸に、額が当たった。インナー越しに、リゼの体温が伝わってくる。アリスの体が、それに答えた。

 

「怖い」リゼが、アリスの胸に額を当てたまま言った。

 

「ええ」

 

「だが逃げたくない」

 

「ええ」

 

「これは何という状態か」

 

「それは自分で名前をつけろ」

 

 少しの間、アリスの胸に額を当てたまま、黙っていた。「……アリス」

 

「何だ」

 

「今夜、ここにいてもいいか」

 

 

 路地の入口に、ノワールが来た。

 

 アリスとリゼの状態を確認した。ノワールの目が、アリスからリゼへ、リゼからアリスへ動いた。三秒かかった。

 

「……死ななかったな」

 

「約束した」

 

「そいつが、リゼか」

 

「ああ」

 

 ノワールはリゼを見た。リゼはノワールを見た。涙の跡が残っている。インナー一枚だ。アリスの胸に額を当てていた跡が、どういうわけか見て分かった。

 

 ノワールはアリスを見た。「今夜、どうするんだ」

 

「リゼが一緒にいたいと言っている」

 

「そうか」

 

 少しの間、アリスを見た。それからリゼを見た。「私の方が先だ」

 

 アリスは答えなかった。リゼがノワールを見た。「この獣人は何を言っているのか」

 

「関係ない」

 

「関係ある。先、という言葉の意味が——」

 

「今夜の話をする」

 

 リゼは少しの間、アリスを見た。「今夜、お前の近くにいていいか」

 

「いい」

 

「理由は」

 

「感情パラメータが初期化された。今夜一人にするのは危険だ」

 

「危険」

 

「全部の感覚が同時に来ている。今夜、それが続く」

 

「……そうか」

 

 アリスを見た。涙の跡が残ったまま、赤い瞳がアリスを見ていた。「アリス」

 

「何だ」

 

「お前の胸が、さっき温かかった」

 

「ええ」

 

「また触れてもいいか」

 

 ノワールが横でため息をついた。「今夜は、宿に戻る。それでいいか」

 

「いい」

 

 三人で、路地を出た。

 

 

 夜の石畳を歩きながら、アリスはノワールの視線を右側面に感じていた。リゼの視線を左側面に感じていた。

 

 ノワールが耳元で小さく言った。「私が先だ」

 

「後で」

 

「後でとはいつだ」

 

「後でだ」

 

 ノワールは少しの間、黙っていた。それから、また口の端が上がった。「今夜、妹の顔は来たか」

 

「……来た」

 

「何が先だった」

 

「……ノワールの体温が先だった。それからセシリアとアイシャとカルミラの記憶が来た。リゼの涙が来た」

 

「妹の顔はその後か」

 

「……ああ」

 

「先に来るものが、また増えたな」

 

「……ああ」

 

 ノワールは少しの間、前を向いて歩いた。「今夜、リゼが全部初めての夜だ。その夜に私が先だと主張するのは、違う気がする。だから今夜は譲る」

 

「……」

 

「ただし」ノワールがアリスの耳元に近づいた。「明日の朝は私が先だ」

 

 アリスは答えなかった。答えない代わりに、少し速く歩き始めた。ノワールはその背中を見た。それから、リゼに向かって静かに言った。

 

「今夜は全部初めてだ。怖くなったらアリスの名前を呼べ。来る」

 

 リゼは少しの間、ノワールを見た。「なぜそれを教える」

 

「私が名前を呼んでも来る。お前が名前を呼んでも来る。今夜それを確認した。お前が名前を呼べば、アリスは来る。それだけだ」

 

 少しの間、ノワールを見た。それから前を向いた。「……そうか」

 

 三人で、石畳を歩いた。夜の空気の中で、アリスは今夜のことを整理しようとした。できなかった。できないまま、宿が見えてきた。

 

 今夜、リゼが全部初めてだ。恐怖も欲求も涙も接触も、今夜全部が初めて生まれた。その初めての全部の中に、アリスがいた。その事実の意味を、アリスは宿の扉を開けながら、まだ整理できていなかった。

 

 整理できていないまま、今夜が始まる。

 

 明日の朝、ノワールが「先だ」と言いに来る。その時にリゼが何を言うかを、アリスはまだ知らなかった。




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