魔力最弱の転生者が、女支配の世界で感じることを隠しながら魔王を倒した話   作:レオナルド・ハ・ピンチ

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第10話 甲冑パージ・騎士の感情解放と、初めての夜

 リゼが宿に来た夜、ノワールは約束を守らなかった。

 

 「私が先だ」と言っていた。

 

 だがリゼの状態を見て、黙って部屋を出た。

 

 アリスはその背中を見た。扉が閉まる音を聞いた。

 

 リゼがアリスを見た。

 

「あの獣人は、なぜ出ていったのか」

 

「お前のことを考えてくれた」

 

「私のことを考える理由が、あの獣人にはあるのか」

 

「俺の仲間だからだ」

 

 リゼは少しの間、扉を見た。それからアリスを見た。

 

「あの獣人が出ていったことに、私はどう反応すべきか」

 

「反応しなくていい」

 

「だが何かを感じている」

 

「何を感じているんだ」

 

「……分からない。感謝に近い何かだ。感謝という概念を、私は今日初めて経験している可能性がある」

 

「そうかもしれない」

 

「感謝する相手には、どうすればいいか」

 

「後で礼を言う」

 

「後で」

 

「今夜は俺と話していろ」

 

 リゼは少しの間、アリスを見た。

 

「……話す」

 

---

 

 二人で床に座った。

 

 ベッドではなく床だ。リゼがベッドの意味をまだ理解していないため、床の方が自然だった。

 

 燭台の灯りが、二人の間に橙色の光を落としていた。

 

 リゼのインナーが、その光の中にある。極薄の布が、リゼの輪郭を隠しているようで隠していない。甲冑の中にいた体だ。これまで誰にも見られたことがない。

 

 アリスの体が、その事実に対して答えた。

 

 今日は隠すのをやめていた。隠そうとしても無理な一日だった。

 

 リゼはアリスの状態を確認した。眉を動かさなかった。感情パラメータは焼き切れたが、表情を動かす習慣がまだない。

 

「それは」

 

 リゼが言った。

 

「何という状態か」

 

「今日、何度も確認されたな」

 

「記録している。今朝、獣人が確認した。午後、私が確認した。今夜、また確認している」

 

「記録するな」

 

「なぜ」

 

「俺の問題だ」

 

「だが私に関係がある」

 

「どう関係がある」

 

「私が原因の一部だからだ」

 

 アリスは答えなかった。

 

「路地で甲冑が壊れた後、お前が指を当てた。その時から、その状態が継続している」

 

「甲冑が壊れる前からだ」

 

「そうか」

 

「ああ」

 

「では私だけの問題ではない」

 

「ノワールとカルミラとセシリアとアイシャと、お前全員の問題だ」

 

 リゼは少しの間、アリスを見た。

 

「全員か」

 

「ああ」

 

「それは、苦しいのか」

 

 アリスは答えなかった。

 

「苦しい、という概念を今日覚えた。外気が皮膚に触れた時の感覚が、苦しいに近かった。お前の状態も、苦しいに近いか」

 

「……似ている部分はある」

 

「苦しいなら、解消すべきだ」

 

「解消できない問題がある」

 

「なぜ解消できない」

 

「帰るためにここにいる。帰るためにお前たちを必要としている。必要としている相手に、それ以上のものを感じることは、計算を狂わせる」

 

 リゼは少しの間、アリスの言葉を処理していた。

 

「それ以上のもの、とは何か」

 

「言葉にできない」

 

「言葉にできないものを、お前は感じているのか」

 

「……ああ」

 

「それは、今日私が感じた感情に近いか」

 

 アリスは答えなかった。

 

 リゼは答えを待たなかった。

 

「今日、私は恐怖と欲求と、言葉にできない何かを感じた。言葉にできない何かは、お前の指が首筋に当たった時に生じた。お前の胸に額を当てた時に大きくなった」

 

「……」

 

「その言葉にできない何かが、今も続いている」

 

「ええ」

 

「それはお前も感じているか」

 

 アリスは少しの間、リゼを見た。

 

 赤い瞳が、アリスを見ていた。甲冑がなくなって、インナー一枚になって、涙の跡が頬に残っていて、感情パラメータが初期化されたばかりの目だ。

 

「……感じている」

 

「それが、苦しいのか」

 

「苦しくはない」

 

「ではなぜ言葉にできないのか」

 

「名前がないからだ」

 

「名前をつければいいのではないか」

 

「つける準備ができていない」

 

「なぜ」

 

「名前をつけると、帰れなくなるかもしれないからだ」

 

---

 

 沈黙が落ちた。

 

 燭台の灯りが揺れた。

 

 リゼはアリスの言葉を、長い時間かけて処理していた。

 

「帰れなくなる、とはどういう意味か」

 

「お前には関係ない」

 

「関係ある。私はお前の指示に従うと言った」

 

「それはこの話とは別の問題だ」

 

「同じ問題だ。お前が帰るということは、お前がここからいなくなるということだ」

 

「ああ」

 

「お前がいなくなると、今日感じた全部が消えるのか」

 

 アリスは答えなかった。

 

「今日、お前の指が首筋に当たった。その残像が今も続いている。お前がいなくなると、その残像はどうなるのか」

 

「……消える。時間が経てば消える」

 

「消えてほしくない」

 

 リゼが言った。

 

「残像は、消えない方がいいか」

 

「ええ」

 

「なぜ」

 

「今日感じた全部が、消えてほしくない」

 

「全部とは」

 

「恐怖と欲求と、言葉にできない何かと、お前の指の感触と、お前の胸の温かさと、涙が出たこと全部だ」

 

 アリスは答えなかった。

 

「消えてほしくない、という状態を、何と呼ぶか」

 

「執着だ」

 

「執着」

 

「ええ」

 

「私に執着が生じた」

 

「そうだ」

 

「執着は、どうすればいいのか」

 

「持ち続けるか、手放すか、どちらかだ」

 

「持ち続ける方を選ぶ」

 

「なぜ」

 

「手放したくない。それが欲求だからだ」

 

---

 

 アリスは今夜のリゼとの対話を整理しようとした。

 

 できなかった。

 

 感情パラメータが初期化されたばかりの女が、全てを直接的に言語化しようとしている。その直接性が、アリスには処理しにくかった。

 

 他の四人は全員、何かを隠しながら話す。

 

 リゼは隠す方法を知らない。感じたことを感じたまま言う。欲しいものを欲しいまま言う。消えてほしくないと思ったら消えてほしくないと言う。

 

 その直接性が、アリスの体に対して別の種類の答えを引き出していた。

 

「アリス」

 

「何だ」

 

「今夜、ここに来た時から、お前は私を見ている」

 

「ええ」

 

「インナーを見ているか」

 

「……見ている」

 

「甲冑がない状態を、初めて見ているからか」

 

「そうだ」

 

「見て、どう思うか」

 

 アリスは答えなかった。

 

「お前の状態が変化していることは確認できる。だがそれが何に対する反応なのかを、言語化してほしい」

 

「……インナー越しに、甲冑の下にあったものの輪郭が分かる」

 

「それを見て」

 

「それを見て、答えている」

 

「どんな答えか」

 

「お前には見えているだろう」

 

「見えている。だがお前の口から言ってほしい」

 

「……」

 

「研究ではない。お前が何を感じているかを知りたいだけだ」

 

 アリスはリゼを見た。赤い瞳が、揺れることなくアリスを見ていた。

 

「……勃起している」

 

「それが、私を見た結果か」

 

「ああ」

 

「今日、路地でも同じ状態だったか」

 

「ああ」

 

「甲冑が壊れた瞬間から、その状態だったか」

 

「……そうだ」

 

 リゼは少しの間、アリスを見た。

 

「私を見て、その状態になった」

 

「ああ」

 

「それは、私に対する欲求か」

 

「……そうだ」

 

「欲求があって、相手がいる。なぜ動かないのか」

 

 アリスは答えなかった。

 

「帰るためか」

 

「……その理由もある」

 

「他の理由は」

 

「お前が今日、全部を初めて経験している。それに乗じることへの躊躇だ」

 

 リゼは少しの間、その言葉を処理した。

 

「乗じる、というのは、私の状態を利用するという意味か」

 

「そうだ」

 

「利用されることを、私は拒否できるか」

 

「できる」

 

「拒否したいか」

 

「……今はしたくない」

 

「なぜ」

 

「今夜、お前の近くにいたいからだ。それが欲求だからだ」

 

「俺の欲求と、お前の欲求が、同じ方向を向いている」

 

「……そうなのか」

 

「そうだ」

 

「それでも動かないのか」

 

 アリスは答えなかった。

 

 リゼが立ち上がった。小柄な体で、アリスの前に立った。インナー一枚だ。極薄の布が、甲冑の下にあったものの全てを主張していた。

 

「アリス」

 

「何だ」

 

「触れていいか」

 

「……どこにだ」

 

「お前が今夜ずっと見ていた場所に」

 

---

 

 アリスは答えなかった。

 

 リゼはその沈黙を把握した。

 

 膝をついた。アリスの前に、膝をついた。

 

 両手でアリスの手を取った。アリスの手を自分の胸に当てた。

 

 インナー越しに、甲冑の下にあったものの全てが、アリスの手のひらにあった。

 

 重さが伝わってきた。温度が伝わってきた。

 

「これが」リゼが言った。「今夜ずっと見ていたものか」

 

「……ああ」

 

「触れた感触は、どうか」

 

「柔らかい。温かい。重さがある」

 

「それ以外は」

 

「……想定より、ずっと大きい」

 

 リゼは少しの間、アリスの手が自分の胸に当たっているのを確認した。

 

「甲冑の下に、ずっとあったものだ」

 

「……知らなかった」

 

「誰も知らなかった。私も知らなかった。甲冑の外から触れられたことがないから、どんな感触かを知らなかった」

 

 アリスの手が、リゼの胸の上にある。

 

 リゼはその手を押さえていた。逃がさないように。

 

「今、何を感じているか」

 

「……」

 

「言語化してほしい」

 

「怖い、とは違うのか」

 

「怖くない。なぜか怖くない。恐怖は今感じていない」

 

「ならば何を感じている」

 

「言葉にできない何かを感じている。今朝から感じている言葉にできない何かが、今、お前の手が胸にある状態で、大きくなっている」

 

「大きくなるのは、良いことか」

 

「……良い。それが良い、という意味だと理解している」

 

---

 

 アリスはリゼの胸から手を引こうとした。リゼが押さえていた。

 

「まだだ」

 

「……まだ、とは」

 

「もう少し、このままでいたい」

 

「欲求か」

 

「そうだ」

 

 アリスは動かなかった。

 

 動かないままでいた。

 

 リゼの胸の重さが、手のひらに続いていた。温度が続いていた。

 

 ノワールとの夜がある。カルミラの唇がある。セシリアの腿の内側がある。アイシャの声がある。

 

 それらの全てと異なる何かが、今リゼの胸の上にある手に来ていた。

 

 リゼは初めてだ。全部が初めてだ。

 

 恐怖も欲求も執着も涙も、今日全部が初めて生まれた。

 

 その初めての全部の中に、アリスがいた。

 

「アリス」

 

「何だ」

 

「今夜、お前に触れていいか」

 

「……どこにだ」

 

「お前が触れてほしいと思っている場所に」

 

 アリスは答えなかった。

 

「お前の状態から、どこに触れてほしいかは分かる」

 

「……」

 

「触れていいか」

 

「リゼ」

 

「何か」

 

「お前は今日、全部が初めてだ」

 

「そうだ」

 

「その状態で、それをするのか」

 

「したい、という欲求がある。欲求に従うと言った」

 

「後悔するかもしれない」

 

「後悔という概念を、今日覚えた。だが今感じている欲求の方が、後悔の可能性より大きい」

 

「それが正しい判断かどうか」

 

「分からない。だが欲求がある。それだけだ」

 

 アリスは少しの間、リゼを見た。

 

 膝をついたまま、両手でアリスの手を胸に押さえているリゼを見た。

 

 涙の跡が乾いている。赤い瞳が揺れていない。インナー越しに体温が続いている。

 

「……俺も」アリスが言った。「同じ欲求がある」

 

 リゼは少しの間、その言葉を受け取った。

 

 それから、立ち上がった。アリスの手を引いて、ベッドへ向かった。

 

---

 

 朝になった。

 

 アリスは目を開けた。天井が見えた。

 

 リゼがいた。

 

 アリスの胸の上で、眠っていた。

 

 白銀の髪が広がっていた。体温が胸板に直接伝わっていた。呼吸のたびにリゼの体がわずかに動いた。

 

 アリスは天井を見た。

 

 整理しようとした。できなかった。

 

 リゼが目を覚ました。ゆっくりと顔を上げた。赤い瞳が、アリスを見た。寝起きの目だ。焦点がまだ合っていない。

 

 それからすぐ、焦点が合った。自分がどこで眠っていたかを認識した。

 

 認識した上で、目を逸らさなかった。

 

「……起きていたのか」

 

「ずっと」

 

「眠れなかったのか」

 

「眠れた。途中で目が覚めた」

 

「何時から」

 

「分からない。だいぶ前から」

 

 リゼは少しの間、アリスを見た。それから、体を起こした。

 

 昨夜の状態がそのままだった。

 

 アリスはそれを見た。見て、体が答えた。朝だというのに。昨夜があったというのに。

 

 リゼはアリスの視線に気づいた。自分の状態を確認した。

 

「……昨夜より正直な顔だ」

 

「昨夜は暗かった」

 

「今は明るい」

 

「……ああ」

 

 リゼの口の端が、わずかに上がった。

 

 昨日は顔が一ミリも動かなかった。今朝は動いた。

 

「昨夜」リゼが言った。「言葉にできない何かに、名前がついた」

 

「……何という名前だ」

 

「まだ言わない」

 

「なぜ」

 

「お前が言った。名前をつけると帰れなくなるかもしれないと」

 

「……」

 

「だから今はまだ言わない。だが名前がついた」

 

 アリスは答えなかった。

 

 リゼはアリスを見た。

 

「お前の帰る場所には」

 

「ああ」

 

「妹がいる」

 

「……どこで聞いた」

 

「廊下で聞こえた。ノワールと話していた時に」

 

「……そうか」

 

「今も、帰るつもりか」

 

「……そのつもりだ」

 

「そのつもり、というのは、確信が薄れているということか」

 

 アリスは答えなかった。

 

 リゼはその沈黙を、答えとして受け取った。

 

「昨夜、私は言葉にできない何かに名前をつけた。まだ言わない。だが」

 

 リゼがアリスに近づいた。

 

「その名前が何であっても、お前が帰ると言うなら、私は止めない」

 

「……なぜ」

 

「お前の判断を尊重することが、その名前の意味に含まれているからだ」

 

「それでいいのか」

 

「良くない。だがそれが正しいと理解している」

 

「……」

 

「ただ」

 

 リゼが、アリスの胸に額を当てた。昨夜と同じ動作だ。

 

「帰る前に、もう一度だけ」

 

「もう一度、何だ」

 

「昨夜のことをもう一度だけしたい。それが欲求だ」

 

「……今朝か」

 

「今朝だ」

 

---

 

 扉が開いた。

 

 ノワールが来た。

 

 昨夜「先だ」と言って出ていったノワールが、今朝戻ってきた。

 

 アリスとリゼの状態を確認した。

 

 三秒かかった。

 

「……」

 

 ノワールは何も言わなかった。

 

 アリスを見た。リゼを見た。もう一度アリスを見た。

 

「今朝のことは見なかったことにする」

 

「ノワール」

 

「何だ」

 

「昨夜、お前が出ていった」

 

「ああ」

 

「なぜだ」

 

 ノワールは少しの間、アリスを見た。

 

「リゼが全部初めてだったからだ。そういう夜に、私が先だと主張するのは違う気がした」

 

「……」

 

「後悔はしていない。だが」

 

 ノワールがアリスの前に来た。

 

「今朝は私が先だ」

 

 リゼが、ノワールを見た。

 

「今朝は私が先だ」

 

 リゼも言った。

 

 二人が同時にアリスを見た。

 

---

 

 アリスは二人を見た。

 

 それから、昨夜リゼがつけた名前のことを考えた。

 

 リゼはまだその名前を言わない。

 

 だが名前がついた、という事実は、今朝この部屋にある。

 

 ノワールは今朝それを知らない。

 

 リゼだけが知っている名前が、今朝アリスの胸の上に置かれたまま、ノワールの「先だ」という言葉の下に沈んでいる。

 

 沈んでいるが、消えていない。

 

 アリスはその事実を確認した。確認して、答えようとした。

 

 答える前に、扉がまた開いた。

 

 アイシャが来た。

 

 眼鏡を直しながら、部屋を見回した。アリスを見た。ノワールを見た。リゼを見た。

 

 三人の状態を、三秒で確認した。

 

「補充が必要だ」

 

 アイシャが言った。

 

「今日の処置は予定通り行う」

 

「今は——」

 

「予定通り行う」

 

 眼鏡の奥の目が、ノワールとリゼを交互に見た。

 

「二人とも、外で待て」

 

 ノワールが「なぜ私が——」と言いかけた。

 

「外で待て」

 

 アイシャが繰り返した。

 

 ノワールは少しの間、アイシャを見た。それからアリスを見た。それから、出ていった。

 

 リゼが続いた。

 

 扉が閉まった。

 

---

 

 アイシャとアリスの二人になった。

 

 アイシャはアリスに近づいた。眼鏡を直した。

 

「昨夜、リゼと過ごした」

 

「……ああ」

 

「リゼに名前を呼ばれた時、手加減をやめたか」

 

「処置ではなかった」

 

「では処置以外の場面で、名前を呼ばれた時、顔が動いたか」

 

 アリスは答えなかった。

 

「動いたんだな」

 

「……ああ」

 

「セシリアに名前を呼ばれた時と、同じ種類の動き方か」

 

「違う」

 

「どう違う」

 

「……種類が違う」

 

「種類が違う、とはどういう意味か」

 

「セシリアは処置中だった。リゼは、処置中ではなかった」

 

 アイシャは少しの間、アリスを見た。

 

「処置中ではない場面で、名前を呼ばれて顔が動いた」

 

「……ああ」

 

「それは、私が処置中に名前を呼んだ時と同じか」

 

 アリスは答えなかった。

 

「答えなくていい。記録した」

 

「記録するな」

 

「した」

 

 アイシャはアリスに一歩近づいた。

 

「今日の処置の前に、一つだけ確認がある」

 

「何だ」

 

「昨夜、名前が呼ばれた時に顔が動いた。今朝、ノワールとリゼが同時に先だと言った。私が処置中に名前を呼んだとしたら、今日は昨日と違う反応が出る可能性がある」

 

「……」

 

「今日の処置中に、名前を呼んでいいか」

 

 アリスは少しの間、アイシャを見た。

 

「呼ぶな」

 

「なぜ」

 

「手加減をやめる。処置が止まる」

 

「手加減をやめた方が、私の補充は速く終わる」

 

「俺の問題だ」

 

「俺の問題が私の補充速度に影響する以上、私の問題でもある」

 

 アリスは答えなかった。

 

 アイシャは少しの間、アリスを見た。

 

「呼ばない」

 

「……」

 

「処置中は呼ばない。だし処置が終わったら呼ぶ」

 

「……それは」

 

「それは、何だ」

 

 アリスは答えなかった。

 

 アイシャはその沈黙を確認した。

 

「記録した」

 

「するな」

 

「した。今日の処置を始める」

 

 アイシャはアリスの前に膝をついた。

 

 処置の体勢に入った。

 

 眼鏡の奥の目が、アリスを見ていた。

 

「アリス」

 

「……なんだ」

 

「処置が終わったら呼ぶ、と言った」

 

「……ああ」

 

「今日の処置が終わった後に名前を呼ぶ。その時の顔を見る。昨日と同じ顔かどうかを確かめる。それだけだ」

 

 アリスは答えなかった。

 

 アイシャは答えを待たずに、処置を始めた。

 




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