魔力最弱の転生者が、女支配の世界で感じることを隠しながら魔王を倒した話 作:レオナルド・ハ・ピンチ
リゼが宿に来た夜、ノワールは約束を守らなかった。
「私が先だ」と言っていた。
だがリゼの状態を見て、黙って部屋を出た。
アリスはその背中を見た。扉が閉まる音を聞いた。
リゼがアリスを見た。
「あの獣人は、なぜ出ていったのか」
「お前のことを考えてくれた」
「私のことを考える理由が、あの獣人にはあるのか」
「俺の仲間だからだ」
リゼは少しの間、扉を見た。それからアリスを見た。
「あの獣人が出ていったことに、私はどう反応すべきか」
「反応しなくていい」
「だが何かを感じている」
「何を感じているんだ」
「……分からない。感謝に近い何かだ。感謝という概念を、私は今日初めて経験している可能性がある」
「そうかもしれない」
「感謝する相手には、どうすればいいか」
「後で礼を言う」
「後で」
「今夜は俺と話していろ」
リゼは少しの間、アリスを見た。
「……話す」
---
二人で床に座った。
ベッドではなく床だ。リゼがベッドの意味をまだ理解していないため、床の方が自然だった。
燭台の灯りが、二人の間に橙色の光を落としていた。
リゼのインナーが、その光の中にある。極薄の布が、リゼの輪郭を隠しているようで隠していない。甲冑の中にいた体だ。これまで誰にも見られたことがない。
アリスの体が、その事実に対して答えた。
今日は隠すのをやめていた。隠そうとしても無理な一日だった。
リゼはアリスの状態を確認した。眉を動かさなかった。感情パラメータは焼き切れたが、表情を動かす習慣がまだない。
「それは」
リゼが言った。
「何という状態か」
「今日、何度も確認されたな」
「記録している。今朝、獣人が確認した。午後、私が確認した。今夜、また確認している」
「記録するな」
「なぜ」
「俺の問題だ」
「だが私に関係がある」
「どう関係がある」
「私が原因の一部だからだ」
アリスは答えなかった。
「路地で甲冑が壊れた後、お前が指を当てた。その時から、その状態が継続している」
「甲冑が壊れる前からだ」
「そうか」
「ああ」
「では私だけの問題ではない」
「ノワールとカルミラとセシリアとアイシャと、お前全員の問題だ」
リゼは少しの間、アリスを見た。
「全員か」
「ああ」
「それは、苦しいのか」
アリスは答えなかった。
「苦しい、という概念を今日覚えた。外気が皮膚に触れた時の感覚が、苦しいに近かった。お前の状態も、苦しいに近いか」
「……似ている部分はある」
「苦しいなら、解消すべきだ」
「解消できない問題がある」
「なぜ解消できない」
「帰るためにここにいる。帰るためにお前たちを必要としている。必要としている相手に、それ以上のものを感じることは、計算を狂わせる」
リゼは少しの間、アリスの言葉を処理していた。
「それ以上のもの、とは何か」
「言葉にできない」
「言葉にできないものを、お前は感じているのか」
「……ああ」
「それは、今日私が感じた感情に近いか」
アリスは答えなかった。
リゼは答えを待たなかった。
「今日、私は恐怖と欲求と、言葉にできない何かを感じた。言葉にできない何かは、お前の指が首筋に当たった時に生じた。お前の胸に額を当てた時に大きくなった」
「……」
「その言葉にできない何かが、今も続いている」
「ええ」
「それはお前も感じているか」
アリスは少しの間、リゼを見た。
赤い瞳が、アリスを見ていた。甲冑がなくなって、インナー一枚になって、涙の跡が頬に残っていて、感情パラメータが初期化されたばかりの目だ。
「……感じている」
「それが、苦しいのか」
「苦しくはない」
「ではなぜ言葉にできないのか」
「名前がないからだ」
「名前をつければいいのではないか」
「つける準備ができていない」
「なぜ」
「名前をつけると、帰れなくなるかもしれないからだ」
---
沈黙が落ちた。
燭台の灯りが揺れた。
リゼはアリスの言葉を、長い時間かけて処理していた。
「帰れなくなる、とはどういう意味か」
「お前には関係ない」
「関係ある。私はお前の指示に従うと言った」
「それはこの話とは別の問題だ」
「同じ問題だ。お前が帰るということは、お前がここからいなくなるということだ」
「ああ」
「お前がいなくなると、今日感じた全部が消えるのか」
アリスは答えなかった。
「今日、お前の指が首筋に当たった。その残像が今も続いている。お前がいなくなると、その残像はどうなるのか」
「……消える。時間が経てば消える」
「消えてほしくない」
リゼが言った。
「残像は、消えない方がいいか」
「ええ」
「なぜ」
「今日感じた全部が、消えてほしくない」
「全部とは」
「恐怖と欲求と、言葉にできない何かと、お前の指の感触と、お前の胸の温かさと、涙が出たこと全部だ」
アリスは答えなかった。
「消えてほしくない、という状態を、何と呼ぶか」
「執着だ」
「執着」
「ええ」
「私に執着が生じた」
「そうだ」
「執着は、どうすればいいのか」
「持ち続けるか、手放すか、どちらかだ」
「持ち続ける方を選ぶ」
「なぜ」
「手放したくない。それが欲求だからだ」
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アリスは今夜のリゼとの対話を整理しようとした。
できなかった。
感情パラメータが初期化されたばかりの女が、全てを直接的に言語化しようとしている。その直接性が、アリスには処理しにくかった。
他の四人は全員、何かを隠しながら話す。
リゼは隠す方法を知らない。感じたことを感じたまま言う。欲しいものを欲しいまま言う。消えてほしくないと思ったら消えてほしくないと言う。
その直接性が、アリスの体に対して別の種類の答えを引き出していた。
「アリス」
「何だ」
「今夜、ここに来た時から、お前は私を見ている」
「ええ」
「インナーを見ているか」
「……見ている」
「甲冑がない状態を、初めて見ているからか」
「そうだ」
「見て、どう思うか」
アリスは答えなかった。
「お前の状態が変化していることは確認できる。だがそれが何に対する反応なのかを、言語化してほしい」
「……インナー越しに、甲冑の下にあったものの輪郭が分かる」
「それを見て」
「それを見て、答えている」
「どんな答えか」
「お前には見えているだろう」
「見えている。だがお前の口から言ってほしい」
「……」
「研究ではない。お前が何を感じているかを知りたいだけだ」
アリスはリゼを見た。赤い瞳が、揺れることなくアリスを見ていた。
「……勃起している」
「それが、私を見た結果か」
「ああ」
「今日、路地でも同じ状態だったか」
「ああ」
「甲冑が壊れた瞬間から、その状態だったか」
「……そうだ」
リゼは少しの間、アリスを見た。
「私を見て、その状態になった」
「ああ」
「それは、私に対する欲求か」
「……そうだ」
「欲求があって、相手がいる。なぜ動かないのか」
アリスは答えなかった。
「帰るためか」
「……その理由もある」
「他の理由は」
「お前が今日、全部を初めて経験している。それに乗じることへの躊躇だ」
リゼは少しの間、その言葉を処理した。
「乗じる、というのは、私の状態を利用するという意味か」
「そうだ」
「利用されることを、私は拒否できるか」
「できる」
「拒否したいか」
「……今はしたくない」
「なぜ」
「今夜、お前の近くにいたいからだ。それが欲求だからだ」
「俺の欲求と、お前の欲求が、同じ方向を向いている」
「……そうなのか」
「そうだ」
「それでも動かないのか」
アリスは答えなかった。
リゼが立ち上がった。小柄な体で、アリスの前に立った。インナー一枚だ。極薄の布が、甲冑の下にあったものの全てを主張していた。
「アリス」
「何だ」
「触れていいか」
「……どこにだ」
「お前が今夜ずっと見ていた場所に」
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アリスは答えなかった。
リゼはその沈黙を把握した。
膝をついた。アリスの前に、膝をついた。
両手でアリスの手を取った。アリスの手を自分の胸に当てた。
インナー越しに、甲冑の下にあったものの全てが、アリスの手のひらにあった。
重さが伝わってきた。温度が伝わってきた。
「これが」リゼが言った。「今夜ずっと見ていたものか」
「……ああ」
「触れた感触は、どうか」
「柔らかい。温かい。重さがある」
「それ以外は」
「……想定より、ずっと大きい」
リゼは少しの間、アリスの手が自分の胸に当たっているのを確認した。
「甲冑の下に、ずっとあったものだ」
「……知らなかった」
「誰も知らなかった。私も知らなかった。甲冑の外から触れられたことがないから、どんな感触かを知らなかった」
アリスの手が、リゼの胸の上にある。
リゼはその手を押さえていた。逃がさないように。
「今、何を感じているか」
「……」
「言語化してほしい」
「怖い、とは違うのか」
「怖くない。なぜか怖くない。恐怖は今感じていない」
「ならば何を感じている」
「言葉にできない何かを感じている。今朝から感じている言葉にできない何かが、今、お前の手が胸にある状態で、大きくなっている」
「大きくなるのは、良いことか」
「……良い。それが良い、という意味だと理解している」
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アリスはリゼの胸から手を引こうとした。リゼが押さえていた。
「まだだ」
「……まだ、とは」
「もう少し、このままでいたい」
「欲求か」
「そうだ」
アリスは動かなかった。
動かないままでいた。
リゼの胸の重さが、手のひらに続いていた。温度が続いていた。
ノワールとの夜がある。カルミラの唇がある。セシリアの腿の内側がある。アイシャの声がある。
それらの全てと異なる何かが、今リゼの胸の上にある手に来ていた。
リゼは初めてだ。全部が初めてだ。
恐怖も欲求も執着も涙も、今日全部が初めて生まれた。
その初めての全部の中に、アリスがいた。
「アリス」
「何だ」
「今夜、お前に触れていいか」
「……どこにだ」
「お前が触れてほしいと思っている場所に」
アリスは答えなかった。
「お前の状態から、どこに触れてほしいかは分かる」
「……」
「触れていいか」
「リゼ」
「何か」
「お前は今日、全部が初めてだ」
「そうだ」
「その状態で、それをするのか」
「したい、という欲求がある。欲求に従うと言った」
「後悔するかもしれない」
「後悔という概念を、今日覚えた。だが今感じている欲求の方が、後悔の可能性より大きい」
「それが正しい判断かどうか」
「分からない。だが欲求がある。それだけだ」
アリスは少しの間、リゼを見た。
膝をついたまま、両手でアリスの手を胸に押さえているリゼを見た。
涙の跡が乾いている。赤い瞳が揺れていない。インナー越しに体温が続いている。
「……俺も」アリスが言った。「同じ欲求がある」
リゼは少しの間、その言葉を受け取った。
それから、立ち上がった。アリスの手を引いて、ベッドへ向かった。
---
朝になった。
アリスは目を開けた。天井が見えた。
リゼがいた。
アリスの胸の上で、眠っていた。
白銀の髪が広がっていた。体温が胸板に直接伝わっていた。呼吸のたびにリゼの体がわずかに動いた。
アリスは天井を見た。
整理しようとした。できなかった。
リゼが目を覚ました。ゆっくりと顔を上げた。赤い瞳が、アリスを見た。寝起きの目だ。焦点がまだ合っていない。
それからすぐ、焦点が合った。自分がどこで眠っていたかを認識した。
認識した上で、目を逸らさなかった。
「……起きていたのか」
「ずっと」
「眠れなかったのか」
「眠れた。途中で目が覚めた」
「何時から」
「分からない。だいぶ前から」
リゼは少しの間、アリスを見た。それから、体を起こした。
昨夜の状態がそのままだった。
アリスはそれを見た。見て、体が答えた。朝だというのに。昨夜があったというのに。
リゼはアリスの視線に気づいた。自分の状態を確認した。
「……昨夜より正直な顔だ」
「昨夜は暗かった」
「今は明るい」
「……ああ」
リゼの口の端が、わずかに上がった。
昨日は顔が一ミリも動かなかった。今朝は動いた。
「昨夜」リゼが言った。「言葉にできない何かに、名前がついた」
「……何という名前だ」
「まだ言わない」
「なぜ」
「お前が言った。名前をつけると帰れなくなるかもしれないと」
「……」
「だから今はまだ言わない。だが名前がついた」
アリスは答えなかった。
リゼはアリスを見た。
「お前の帰る場所には」
「ああ」
「妹がいる」
「……どこで聞いた」
「廊下で聞こえた。ノワールと話していた時に」
「……そうか」
「今も、帰るつもりか」
「……そのつもりだ」
「そのつもり、というのは、確信が薄れているということか」
アリスは答えなかった。
リゼはその沈黙を、答えとして受け取った。
「昨夜、私は言葉にできない何かに名前をつけた。まだ言わない。だが」
リゼがアリスに近づいた。
「その名前が何であっても、お前が帰ると言うなら、私は止めない」
「……なぜ」
「お前の判断を尊重することが、その名前の意味に含まれているからだ」
「それでいいのか」
「良くない。だがそれが正しいと理解している」
「……」
「ただ」
リゼが、アリスの胸に額を当てた。昨夜と同じ動作だ。
「帰る前に、もう一度だけ」
「もう一度、何だ」
「昨夜のことをもう一度だけしたい。それが欲求だ」
「……今朝か」
「今朝だ」
---
扉が開いた。
ノワールが来た。
昨夜「先だ」と言って出ていったノワールが、今朝戻ってきた。
アリスとリゼの状態を確認した。
三秒かかった。
「……」
ノワールは何も言わなかった。
アリスを見た。リゼを見た。もう一度アリスを見た。
「今朝のことは見なかったことにする」
「ノワール」
「何だ」
「昨夜、お前が出ていった」
「ああ」
「なぜだ」
ノワールは少しの間、アリスを見た。
「リゼが全部初めてだったからだ。そういう夜に、私が先だと主張するのは違う気がした」
「……」
「後悔はしていない。だが」
ノワールがアリスの前に来た。
「今朝は私が先だ」
リゼが、ノワールを見た。
「今朝は私が先だ」
リゼも言った。
二人が同時にアリスを見た。
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アリスは二人を見た。
それから、昨夜リゼがつけた名前のことを考えた。
リゼはまだその名前を言わない。
だが名前がついた、という事実は、今朝この部屋にある。
ノワールは今朝それを知らない。
リゼだけが知っている名前が、今朝アリスの胸の上に置かれたまま、ノワールの「先だ」という言葉の下に沈んでいる。
沈んでいるが、消えていない。
アリスはその事実を確認した。確認して、答えようとした。
答える前に、扉がまた開いた。
アイシャが来た。
眼鏡を直しながら、部屋を見回した。アリスを見た。ノワールを見た。リゼを見た。
三人の状態を、三秒で確認した。
「補充が必要だ」
アイシャが言った。
「今日の処置は予定通り行う」
「今は——」
「予定通り行う」
眼鏡の奥の目が、ノワールとリゼを交互に見た。
「二人とも、外で待て」
ノワールが「なぜ私が——」と言いかけた。
「外で待て」
アイシャが繰り返した。
ノワールは少しの間、アイシャを見た。それからアリスを見た。それから、出ていった。
リゼが続いた。
扉が閉まった。
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アイシャとアリスの二人になった。
アイシャはアリスに近づいた。眼鏡を直した。
「昨夜、リゼと過ごした」
「……ああ」
「リゼに名前を呼ばれた時、手加減をやめたか」
「処置ではなかった」
「では処置以外の場面で、名前を呼ばれた時、顔が動いたか」
アリスは答えなかった。
「動いたんだな」
「……ああ」
「セシリアに名前を呼ばれた時と、同じ種類の動き方か」
「違う」
「どう違う」
「……種類が違う」
「種類が違う、とはどういう意味か」
「セシリアは処置中だった。リゼは、処置中ではなかった」
アイシャは少しの間、アリスを見た。
「処置中ではない場面で、名前を呼ばれて顔が動いた」
「……ああ」
「それは、私が処置中に名前を呼んだ時と同じか」
アリスは答えなかった。
「答えなくていい。記録した」
「記録するな」
「した」
アイシャはアリスに一歩近づいた。
「今日の処置の前に、一つだけ確認がある」
「何だ」
「昨夜、名前が呼ばれた時に顔が動いた。今朝、ノワールとリゼが同時に先だと言った。私が処置中に名前を呼んだとしたら、今日は昨日と違う反応が出る可能性がある」
「……」
「今日の処置中に、名前を呼んでいいか」
アリスは少しの間、アイシャを見た。
「呼ぶな」
「なぜ」
「手加減をやめる。処置が止まる」
「手加減をやめた方が、私の補充は速く終わる」
「俺の問題だ」
「俺の問題が私の補充速度に影響する以上、私の問題でもある」
アリスは答えなかった。
アイシャは少しの間、アリスを見た。
「呼ばない」
「……」
「処置中は呼ばない。だし処置が終わったら呼ぶ」
「……それは」
「それは、何だ」
アリスは答えなかった。
アイシャはその沈黙を確認した。
「記録した」
「するな」
「した。今日の処置を始める」
アイシャはアリスの前に膝をついた。
処置の体勢に入った。
眼鏡の奥の目が、アリスを見ていた。
「アリス」
「……なんだ」
「処置が終わったら呼ぶ、と言った」
「……ああ」
「今日の処置が終わった後に名前を呼ぶ。その時の顔を見る。昨日と同じ顔かどうかを確かめる。それだけだ」
アリスは答えなかった。
アイシャは答えを待たずに、処置を始めた。
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