魔力最弱の転生者が、女支配の世界で感じることを隠しながら魔王を倒した話 作:レオナルド・ハ・ピンチ
その朝、アイシャが来た。
遺跡ではなく、宿に直接来た。
扉を開けると、眼鏡を直しながら中に入ってきた。
「処置をする」
「昨日も——」
「今日もする。毎日する必要がある」
アイシャはアリスの前に膝をついた。処置の体勢に入った。
布の裾を自分で持ち上げた。褐色の腿が現れた。昨日触れた腿の内側が、今日また目の前にある。
アリスの体が、そのラインに対して答えた。
今朝も、答えた。
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二十分後、処置が終わった。
アイシャが顔を上げた。眼鏡の奥の目が、アリスを見た。
「アリス」
アリスの顔が、動いた。
昨日と同じ種類の動き方だった。
アイシャはその動き方を三秒確認した。それから眼鏡を直した。
「記録した」
「するな」
「した。昨日と同じ顔だ。昨日は処置直後だった。今日も処置直後だった。条件が同じで、結果が同じだった」
「……」
「次は条件を変えて確認したい」
「何の条件を」
「処置と無関係な場面で名前を呼んだ時に、同じ顔になるかどうかだ」
アリスは答えなかった。
アイシャは布の裾を下ろした。立ち上がった。扉へ向かった。
扉を開ける直前に、振り返らずに言った。
「今日の処置は以上だ。条件を変えた実験は、また今度にする」
扉が閉まった。
アリスは「また今度」という言葉を持ったまま、しばらく動かなかった。
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そこへ、システムメッセージが来た。
【システムメッセージ】
強制クエスト発生
『指定施設での全員休養』
条件:パーティ全員で温泉宿に一泊し、体力・魔力を全快させること
対象施設:城塞都市郊外『湯煙亭』
制限時間:48時間
未達成ペナルティ:全員の最大魔力30%永続減少
備考:回避不能
アリスはそのメッセージを読んで、三秒間目を閉じた。
混浴だ。
全員が同じ湯に入ることが条件だ。個室風呂では達成できない。
今のパーティの構成を確認した。
ノワール。カルミラ。セシリア。アイシャ。リゼ。
五人だ。
昨夜リゼと過ごした。今朝アイシャの処置があった。セシリアの処置は三回が終わって四回目を控えている。カルミラは依存状態が確定して数日が経つ。
その五人全員と、同じ湯に入る。
アリスは目を開けた。
今日、一つ確認することがある。
五人の体温が全方向から来る状態で、妹の顔が来るかどうかだ。
最近、先に来るものが増えている。ノワールの体温が先に来て、セシリアの腿の声が先に来て、カルミラの唇が先に来て、アイシャの腿の濡れが先に来て、リゼの涙が先に来て、妹の顔はその後に来る。
今日、五人が同時にいる状態では、来るかどうかを確認する。
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五人に説明した。
ノワールは一言だけ言った。「全員か」
「全員だ」
「そのカルミラとかセシリアとかも」
「全員だ」
「アイシャとリゼも」
「全員だ」
ノワールは少しの間、アリスを見た。それから黙った。口の端は下がっていた。
カルミラはメッセージを確認して、スーツの胸元を正した。「仕方ないわね」その言い方が、全く仕方なくない人間の言い方だった。
セシリアは「平民と同じ湯に」と言いかけて、アリスの顔を見て黙った。
アイシャは「混浴環境下での生体反応についてのデータが取れる」と言った。全員が一斉に「するな」と言った。アイシャは眼鏡を直した。
リゼは「温泉というものを経験したことがない」と言った。昨夜から今朝にかけて、リゼの語彙は急速に増えていた。
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城塞都市の郊外に、湯煙亭はあった。
石造りの温泉宿だ。湯煙が白く空に上っている。脱衣所を通り抜けると、岩で囲まれた露天風呂がある。
アリスは脱衣所で服を脱ぎながら、今日の確認のことを考えていた。
脱衣所の扉の向こうで、女たちが服を脱いでいる音がした。
帯が解ける音。布が滑る音。重さのある布が落ちる音。
アリスは自分の状態を確認した。
脱衣所にいる段階で、すでに始まっていた。
妹のことを考えた。来た。だが布が滑る音の方が先に来ていた。
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湯に入った。
白い湯煙の中に、五人が先に入っていた。
アリスは岩の縁に手をついて、ゆっくりと湯に浸かった。
最初にノワールが目に入った。
岩に背をもたれて、腕を縁に乗せていた。銀の髪が湯気で湿って、首筋に貼り付いている。水面が胸の下縁あたりにある。水面から上の肌が、湯の熱で赤みを帯びていた。昨夜と今朝の記憶が、その赤みに重なった。
それからカルミラが目に入った。
170センチの長身が湯の中にある。水面から上の部分が、湯煙の中に晒されていた。髪が湿って肩に張り付いている。首筋から鎖骨にかけて、湯の水滴が光っていた。掌で腿の内側に触れた記憶が来た。声が出た瞬間の、密度が変わった感触の記憶が来た。
セシリアが岩の縁に腰をかけるようにして入っていた。腿が水面から出ていた。倉庫のベッドで触れた腿の内側が、湯の熱で赤くなっていた。金髪が湯気に濡れて、縦ロールが解けかけていた。
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アイシャは湯の中で膝を抱えていた。
アリスを見た。眼鏡なしの目で。
「昨日の処置の続きが、今日も必要だ」
「今は湯に入っている」
「湯の中でも回路の状態は確認できる」
「できない」
「なぜ」
「今日はクエストだ」
アイシャは少しの間、アリスを見た。それから視線を水面に落とした。
水面の下にある腿が、湯の揺れるたびに輪郭を変えた。昨日、その腿の内側に触れていた。今日は水面の下にある。
アリスはその事実を確認した。確認しながら、水面が揺れるたびに水面の下の輪郭が変化することに対して、体が答えていた。
アイシャが視線を上げた。水面の下を見ていたアリスの視線を確認した。
「……水面の下が、見えないのか」
「見えない」
「昨日は見えた」
「昨日は処置だった」
「今日も処置が必要だ」
「今日はクエストだ」
アイシャは少しの間、アリスを見た。それからまた水面を見た。
「今日の処置が終わったら」
「何だ」
「また今度の実験をする」
アリスは答えなかった。
アイシャは膝を抱えたまま、水面を見続けていた。水面の下にある腿が、揺れるたびに輪郭を変えていた。
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リゼは壁際に真っ直ぐ立っていた。
湯の温度を処理しきれていないのか、全身が赤い。耳まで赤い。白銀の髪が湯気に濡れている。
アリスが近づくと、リゼはアリスを見た。
「アリス」
「何だ」
「これは、何という感触か」
「湯だ」
「湯が、皮膚に触れている。昨夜のインナーとは違う感触だ」
「そうだ」
「昨夜より、薄い」
リゼは水面を見た。それからアリスを見た。
「水面の下が、見えない」
「そうだ」
「昨夜は見えた」
アリスは答えなかった。
「昨夜見えたものが、今日は水面の下にある」
リゼは少しの間、水面を見ていた。
「その事実に、体が反応している」
「そうだ」
「これは何か」
「記憶だ」
「記憶が体に影響するのか」
「そうだ」
リゼはまた水面を見た。水面の下を見ようとするように、少し前傾みになった。
「昨夜、お前の胸の上で眠った」
「ええ」
「今日、同じ場所が水面の下にある」
「……ええ」
「その事実に対して、体が反応している。これが記憶の影響か」
「そうだ」
「記憶の影響は、消えないのか」
「消えない。増える」
リゼは少しの間、その言葉を処理した。
「増える」
「ええ」
「昨夜の記憶に今日の記憶が加わると、反応が大きくなるのか」
「そうだ」
「では今日、水面の下にあることを確認した記憶が加わると」
「明日、また大きくなる」
リゼは少しの間、水面を見ていた。
「……それは困る」
「なぜ」
「処理が追いつかなくなる」
「追いつかなくていい」
「追いつかなくていいのか」
「全部を同時に感じていい」
リゼは赤い瞳でアリスを見た。昨夜と同じ目だ。全部を受け取ろうとしている目だ。
「お前の近くに来ると、湯の熱のせいではない何かが加わる」
「ええ」
「これが、その何かか」
「そうだ」
リゼは少しの間、アリスを見ていた。それからまた水面を見た。
「水面の下を、見せてほしい」
「今日はクエストだ」
「クエストが終わったら」
「……その時に考える」
リゼの口の端が、微かに上がった。
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最初の十分間は、比較的静かだった。全員が湯の気持ちよさに黙っていた。
アリスは目を閉じた。体の疲れが湯の熱とともに溶けていく感覚がある。
目を閉じたまま、妹のことを考えた。
来た。
今日、三回目の試みで来た。
一回目は来なかった。二回目も来なかった。三回目で来た。
以前は一回目で来た。今日は三回目だった。
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問題が起きたのは、二十分が経った頃だった。
ノワールが、カルミラを見ていた。
カルミラはアリスの方を向いていた。次の手順について事務的に話しかけていた。その話しかけ方の中に、密室で過ごした夜の残滓が滲んでいた。
ノワールはその残滓を感知していた。感知して、アリスを見た。目の色が、少し変わっていた。
「カルミラ」ノワールが言った。
「何かしら」
「胸が大きいな」
沈黙が落ちた。
カルミラがノワールを見た。
「……ありがとう」
「褒めていない。事実を言っただけだ」
「そうね」
「アリスはそっちの方が好みか」
アリスは答えなかった。
カルミラがアリスを見た。ノワールもアリスを見た。二人の視線が同時に来た。
「好みは関係ない」
「関係ある」とノワールが言った。
「関係ないわ」とカルミラが言った。
「嘘をつくな」
「嘘をついていない」
「数日前の朝、アリスの部屋の前で立っていただろ」
カルミラの頬が、湯の熱とは別の理由で赤くなった。
「……通りがかっただけよ」
「一分以上立っていた」
「獣人の感知能力は余計なお世話だわ」
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セシリアが、それを離れた場所から聞いていた。
岩の縁に腰をかけたまま、腿を揃えて。
「みっともない。二人とも」
セシリアはアリスを見た。足先が、水面の下でゆっくりと動いた。
アリスの正面に来た。足が伸びた。湯の中で、セシリアの足先がアリスの腿に触れた。
倉庫のベッドで処置した腿の内側と、今触れている足先が、同じ体から来ていた。
「……足がぶつかった」
「ぶつけた」
「意図的だろ」
「足を引っ込めてほしいなら、引っ込めるわよ」
アリスは答えなかった。引っ込めなかった。
セシリアの足先が、アリスの腿の上に乗っていた。
左にカルミラ。右にノワール。正面にセシリアの足。三方向から体温が来ていた。
アリスの状態が、湯の中で隠しようのない形になっていた。
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アイシャが泳いできた。アリスの隣に来た。そのままアリスの肩に手を乗せた。
「魔力の補充を確認したい」
「今はやめろ」
「体が温まっている時の回路の状態が、通常と異なるかどうかを——」
「今はやめろ」
「今朝の処置のデータと比較したい」
「今朝のことをここで言うな」
ノワールが「今朝の処置とは何だ」と言った。
「今朝、アリスと私が——」
「黙れ」
「データとして開示するのが——」
「黙れ」
ノワールの腿の圧力が、右側で強くなった。カルミラの腕の圧力が、左側で強くなった。セシリアの足先が、アリスの腿の上でわずかに動いた。
アリスは天を見た。湯煙が白い。
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アイシャが、アリスの耳元で小さく言った。
「今朝の処置が終わった後で、名前を呼んだ」
「……ああ」
「顔が動いた」
「ああ」
「今日の湯の中でも、名前を呼んだら動くか」
「今はやめろ」
「五人いる状態で動くかどうかを確認したい」
「やめろ」
「水面の下のデータを、触れずに確認できる方法がある。お前の顔だ」
「見るな」
「もう見た。かなりひどい状態だ。五方向からの刺激が複合的に作用している」
「黙れ」
「特に——」
「頼む、黙れ」
アイシャは少しの間、黙った。それから言った。
「今夜、また今度の実験をする」
「……今夜か」
「今日の処置が終わったら、条件を変えた実験をすると言った」
「処置はまだ終わっていない」
「今日の処置は今朝した」
「……」
「今夜、実験をする。処置と無関係な場面で名前を呼ぶ。その時の顔を見る」
アリスは答えなかった。
ノワールが「今夜、何をするんだ」と言った。アイシャが「処置だ」と言った。
ノワールの腿の圧力が、最大になった。
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リゼが、壁際から近づいてきた。ゆっくりと。湯の中での移動に、まだ慣れていない歩き方で。
アリスの正面に来た。セシリアとリゼが、アリスの正面で横並びになった。
リゼが座った。膝がアリスの膝に触れた。
「アリス」
「何だ」
「今の状態が続くのは、苦しいのか」
「……」
「昨夜、苦しいに近い何かを感じた時は声に出た。今は声が出ていない」
「出せない状況だ」
「なぜ」
「五人が全員ここにいるからだ」
「五人全員がいると、声が出せないのか」
「そうだ」
「では一人の時は出せるか」
アリスは答えなかった。
リゼはアリスを見た。
「今、私の膝がお前の膝に触れている」
「……ああ」
「昨夜の記憶があるからか、昨日より速く反応した」
「……そうだ」
「記憶は、感覚を増幅させる」
「そうだ」
「では、昨夜の記憶に今日の記憶が加わると——」
「リゼ」
「何か」
「今はその話をするな」
「なぜ」
「ノワールが聞いている」
ノワールが、アリスの右側で何かを言おうとした。言う前に、湯の中でアリスの腕を引いた。
「今夜、約束だ」
「分かっている」
「ちゃんと私が先だ。昨夜はリゼに譲った。今夜は譲らない。アイシャにも譲らない」
「……分かっている」
ノワールは少しの間、アリスの耳元にいた。
「今、何を考えている」
「あと何分かを数えている」
「それだけか」
「……五人全員のことを考えている」
「どう考えている」
「それぞれの記憶が来ている」
「私の記憶は」
「……今朝だ」
「今朝のどこだ」
「……名前を呼んだ瞬間だ」
ノワールが、アリスの耳のすぐ横で息を吐いた。
「今夜、また呼べ」
「……」
「今朝より良い声で」
【システムメッセージ】
クエスト『指定施設での全員休養』
達成
パーティ全員の体力・魔力が全快しました
全員が湯から上がった。
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脱衣所で服を着ながら、アリスは今日の確認結果を整理した。
湯に入る前:来た。布が滑る音の方が先だった。
最初の十分:三回目の試みで来た。
ノワールとカルミラが言い合い始めた頃:試みなかった。三方向からの体温が来ていたから。
セシリアの足が来た後:試みた。来なかった。
五人全員に囲まれた状態:試みた。来なかった。
五人の体温が増えるにつれて、妹の顔が来なくなっていた。
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宿に戻る馬車の中で、五人がアリスを囲むように座っていた。
狭かった。全員の体温が、密室の空気に溶けて一つになっていた。
アリスは窓の外を見た。夜の石畳が流れていく。
妹のことを考えようとした。
来なかった。
もう一度試みた。来なかった。
また試みた。来なかった。
五人の体温が全方向からある状態では、何度試みても来なかった。
転生してから今日まで、こんなことは二度目だ。最初の一度は、隷属契約を結んだ日だった。ノワールの腿が閉じる音を聞いた瞬間だけ、妹の顔が来なかった。あの時は一瞬だけだった。次の瞬間には来た。
今日は、馬車の中でずっと来ない。
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ノワールが隣で、アリスの腕に絡んでいた。
「今、何を考えている」
「……妹のことを考えようとしていた」
「来たか」
「来なかった」
ノワールは少しの間、アリスを見た。
「来なかった」
「ああ」
「今朝は来たか」
「来た。三回目の試みで」
「今夜は」
「来なかった。何度試みても来なかった」
ノワールはしばらく黙っていた。
「今日、一番最後に来たのはいつだ」
「……湯に入る前だ。布が滑る音の方が先に来ていたが、来た」
「今はもう来ないのか」
「……今も試みている」
アリスは窓の外を見たまま、もう一度試みた。
来なかった。
「来ない」
ノワールは答えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
やがてノワールが言った。
「妹の名前を言え」
「……ヒカリだ」
「ヒカリ」
ノワールはその名前を一度だけ口の中で転がした。
「今、来たか」
アリスは確認した。
来た。一秒もかからなかった。
ノワールが名前を呼んだ瞬間に来た。
「……来た」
「そうか」
「なぜ来たのか分からない」
「私が代わりに呼んだからだろ」
「……」
「お前が来ない時に、私が代わりに呼べばいい。来なくなった時も、呼べばいい」
---
宿に着いた。
五人がそれぞれの部屋へ向かった。
ノワールがアリスの腕を掴んだまま、立ち止まった。
「今夜」
「ああ」
「呼べ。今朝より良い声で」
「……ああ」
「それから」
ノワールが、アリスの首筋に鼻を押し当てた。
「妹のことを、今夜教えろ」
「……何を」
「何でもいい。どんな本を読み聞かせていたか。どんな声で笑うか。難病というのはどういう病気か。私はまだ、何も知らない」
「なぜ知りたい」
「お前が来ない時に、私が代わりに呼べるように」
「……」
「妹のことを私が知っていれば、名前だけじゃなく、もっと具体的に呼べる」
アリスは少しの間、ノワールを見た。
来なかったものが、ノワールが名前を呼んだ瞬間に来た。
ノワールが「代わりに呼べる」と言った。その言葉の重さを、アリスは今夜初めて感じていた。
「……ああ」
ノワールの手を、アリスは握った。自分から握った。
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そこへ、アイシャが廊下に来た。
眼鏡を直しながら、アリスとノワールを見た。
「今夜、実験をすると言った」
「今夜はノワールが——」
「処置と無関係な場面で名前を呼ぶ。それだけだ。時間はかからない」
ノワールがアイシャを見た。アイシャがノワールを見た。
「今夜は私が先だ」とノワールが言った。
「処置が先だ」とアイシャが言った。
「処置じゃなく実験だと言っただろ」
「処置に準じる実験だ」
「準じる、という言葉の意味が——」
「アリス」
アイシャがアリスを見た。
「今夜、名前を呼ぶ。その時の顔を見たい。それだけだ」
アリスは少しの間、アイシャを見た。
「……分かった」
「今か」
「今だ」
アイシャは一歩近づいた。眼鏡の奥の目が、アリスを見ていた。
「アリス」
アリスの顔が、動いた。
今朝と同じ種類の動き方だった。処置中ではない場面で、名前を呼ばれた時の動き方だ。
アイシャは三秒確認した。眼鏡を直した。
「記録した」
「……」
「条件を変えても、同じ顔だった。処置中でも、処置後でも、処置と無関係な場面でも、名前を呼ばれると同じ顔になる」
「……」
「次は、五人全員がいる場面で名前を呼んだ時にどうなるかを確認したい」
「今日はもう終わりだ」
「明日でいい」
アイシャは踵を返した。
廊下を歩いていきながら、振り返らずに言った。
「ノワール。今夜も名前を呼べ。私のデータに貢献することになる」
ノワールは少しの間、アイシャの背中を見ていた。
「……貢献したくない」
アイシャは振り返らずに部屋に消えた。
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ノワールとアリスの二人になった。
ノワールがアリスを見た。
「今、アイシャが名前を呼んだ」
「……ああ」
「その時、顔が動いた」
「……ああ」
「今朝の処置後と同じ顔か」
「……ああ」
「私が名前を呼んだ時と同じか」
アリスは少しの間、答えなかった。
「……種類が違う」
ノワールは少しの間、その差異を持っていた。
「どう違う」
「アイシャは実験として呼んだ。お前は——」
「私は」
「……確かめるために呼んだ。それが違う」
ノワールは少しの間、黙っていた。それから口の端が上がった。
「今夜、もう一度確かめる」
「……ああ」
「今朝より良い声で呼ぶ。その時に、アイシャが呼んだ時と種類が違うことを、もう一度確かめてやる」
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今夜、ノワールに妹のことを話す。
話しながら、妹の顔が来るかどうかを確認する。
来れば、今日の馬車の中で来なかったことは例外だ。
来なければ、今日の馬車の中で来なかったことは例外ではない。
どちらが正しいかを、アリスは今夜確かめることになっていた。
だがそれより先に、アリスには一つの問いがあった。
来た時と来なかった時で、どちらが困るのか。
来た時は、ノワールの声が妹の顔を引き寄せるという意味になる。それは妹への道がまだ続いているという意味だ。
来なかった時は、ノワールの声でも届かない場所に妹の顔が沈んでいるという意味になる。それは妹への道が何かに塞がれているという意味だ。
どちらが来た時に、より困るか。
アリスにはまだ、答えが出ていなかった。
答えが出ないまま、今夜が始まる。