魔力最弱の転生者が、女支配の世界で感じることを隠しながら魔王を倒した話   作:レオナルド・ハ・ピンチ

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第11話 強制クエスト・混浴温泉での疲労回復と、泥沼の嫉妬

 その朝、アイシャが来た。

 

 遺跡ではなく、宿に直接来た。

 

 扉を開けると、眼鏡を直しながら中に入ってきた。

 

「処置をする」

 

「昨日も——」

 

「今日もする。毎日する必要がある」

 

 アイシャはアリスの前に膝をついた。処置の体勢に入った。

 

 布の裾を自分で持ち上げた。褐色の腿が現れた。昨日触れた腿の内側が、今日また目の前にある。

 

 アリスの体が、そのラインに対して答えた。

 

 今朝も、答えた。

 

---

 

 二十分後、処置が終わった。

 

 アイシャが顔を上げた。眼鏡の奥の目が、アリスを見た。

 

「アリス」

 

 アリスの顔が、動いた。

 

 昨日と同じ種類の動き方だった。

 

 アイシャはその動き方を三秒確認した。それから眼鏡を直した。

 

「記録した」

 

「するな」

 

「した。昨日と同じ顔だ。昨日は処置直後だった。今日も処置直後だった。条件が同じで、結果が同じだった」

 

「……」

 

「次は条件を変えて確認したい」

 

「何の条件を」

 

「処置と無関係な場面で名前を呼んだ時に、同じ顔になるかどうかだ」

 

 アリスは答えなかった。

 

 アイシャは布の裾を下ろした。立ち上がった。扉へ向かった。

 

 扉を開ける直前に、振り返らずに言った。

 

「今日の処置は以上だ。条件を変えた実験は、また今度にする」

 

 扉が閉まった。

 

 アリスは「また今度」という言葉を持ったまま、しばらく動かなかった。

 

---

 

 そこへ、システムメッセージが来た。

 

 

【システムメッセージ】

強制クエスト発生

『指定施設での全員休養』

条件:パーティ全員で温泉宿に一泊し、体力・魔力を全快させること

対象施設:城塞都市郊外『湯煙亭』

制限時間:48時間

未達成ペナルティ:全員の最大魔力30%永続減少

備考:回避不能

 

 

 アリスはそのメッセージを読んで、三秒間目を閉じた。

 

 混浴だ。

 

 全員が同じ湯に入ることが条件だ。個室風呂では達成できない。

 

 今のパーティの構成を確認した。

 

 ノワール。カルミラ。セシリア。アイシャ。リゼ。

 

 五人だ。

 

 昨夜リゼと過ごした。今朝アイシャの処置があった。セシリアの処置は三回が終わって四回目を控えている。カルミラは依存状態が確定して数日が経つ。

 

 その五人全員と、同じ湯に入る。

 

 アリスは目を開けた。

 

 今日、一つ確認することがある。

 

 五人の体温が全方向から来る状態で、妹の顔が来るかどうかだ。

 

 最近、先に来るものが増えている。ノワールの体温が先に来て、セシリアの腿の声が先に来て、カルミラの唇が先に来て、アイシャの腿の濡れが先に来て、リゼの涙が先に来て、妹の顔はその後に来る。

 

 今日、五人が同時にいる状態では、来るかどうかを確認する。

 

---

 

 五人に説明した。

 

 ノワールは一言だけ言った。「全員か」

 

「全員だ」

 

「そのカルミラとかセシリアとかも」

 

「全員だ」

 

「アイシャとリゼも」

 

「全員だ」

 

 ノワールは少しの間、アリスを見た。それから黙った。口の端は下がっていた。

 

 カルミラはメッセージを確認して、スーツの胸元を正した。「仕方ないわね」その言い方が、全く仕方なくない人間の言い方だった。

 

 セシリアは「平民と同じ湯に」と言いかけて、アリスの顔を見て黙った。

 

 アイシャは「混浴環境下での生体反応についてのデータが取れる」と言った。全員が一斉に「するな」と言った。アイシャは眼鏡を直した。

 

 リゼは「温泉というものを経験したことがない」と言った。昨夜から今朝にかけて、リゼの語彙は急速に増えていた。

 

---

 

 城塞都市の郊外に、湯煙亭はあった。

 

 石造りの温泉宿だ。湯煙が白く空に上っている。脱衣所を通り抜けると、岩で囲まれた露天風呂がある。

 

 アリスは脱衣所で服を脱ぎながら、今日の確認のことを考えていた。

 

 脱衣所の扉の向こうで、女たちが服を脱いでいる音がした。

 

 帯が解ける音。布が滑る音。重さのある布が落ちる音。

 

 アリスは自分の状態を確認した。

 

 脱衣所にいる段階で、すでに始まっていた。

 

 妹のことを考えた。来た。だが布が滑る音の方が先に来ていた。

 

---

 

 湯に入った。

 

 白い湯煙の中に、五人が先に入っていた。

 

 アリスは岩の縁に手をついて、ゆっくりと湯に浸かった。

 

 最初にノワールが目に入った。

 

 岩に背をもたれて、腕を縁に乗せていた。銀の髪が湯気で湿って、首筋に貼り付いている。水面が胸の下縁あたりにある。水面から上の肌が、湯の熱で赤みを帯びていた。昨夜と今朝の記憶が、その赤みに重なった。

 

 それからカルミラが目に入った。

 

 170センチの長身が湯の中にある。水面から上の部分が、湯煙の中に晒されていた。髪が湿って肩に張り付いている。首筋から鎖骨にかけて、湯の水滴が光っていた。掌で腿の内側に触れた記憶が来た。声が出た瞬間の、密度が変わった感触の記憶が来た。

 

 セシリアが岩の縁に腰をかけるようにして入っていた。腿が水面から出ていた。倉庫のベッドで触れた腿の内側が、湯の熱で赤くなっていた。金髪が湯気に濡れて、縦ロールが解けかけていた。

 

---

 

 アイシャは湯の中で膝を抱えていた。

 

 アリスを見た。眼鏡なしの目で。

 

「昨日の処置の続きが、今日も必要だ」

 

「今は湯に入っている」

 

「湯の中でも回路の状態は確認できる」

 

「できない」

 

「なぜ」

 

「今日はクエストだ」

 

 アイシャは少しの間、アリスを見た。それから視線を水面に落とした。

 

 水面の下にある腿が、湯の揺れるたびに輪郭を変えた。昨日、その腿の内側に触れていた。今日は水面の下にある。

 

 アリスはその事実を確認した。確認しながら、水面が揺れるたびに水面の下の輪郭が変化することに対して、体が答えていた。

 

 アイシャが視線を上げた。水面の下を見ていたアリスの視線を確認した。

 

「……水面の下が、見えないのか」

 

「見えない」

 

「昨日は見えた」

 

「昨日は処置だった」

 

「今日も処置が必要だ」

 

「今日はクエストだ」

 

 アイシャは少しの間、アリスを見た。それからまた水面を見た。

 

「今日の処置が終わったら」

 

「何だ」

 

「また今度の実験をする」

 

 アリスは答えなかった。

 

 アイシャは膝を抱えたまま、水面を見続けていた。水面の下にある腿が、揺れるたびに輪郭を変えていた。

 

---

 

 リゼは壁際に真っ直ぐ立っていた。

 

 湯の温度を処理しきれていないのか、全身が赤い。耳まで赤い。白銀の髪が湯気に濡れている。

 

 アリスが近づくと、リゼはアリスを見た。

 

「アリス」

 

「何だ」

 

「これは、何という感触か」

 

「湯だ」

 

「湯が、皮膚に触れている。昨夜のインナーとは違う感触だ」

 

「そうだ」

 

「昨夜より、薄い」

 

 リゼは水面を見た。それからアリスを見た。

 

「水面の下が、見えない」

 

「そうだ」

 

「昨夜は見えた」

 

 アリスは答えなかった。

 

「昨夜見えたものが、今日は水面の下にある」

 

 リゼは少しの間、水面を見ていた。

 

「その事実に、体が反応している」

 

「そうだ」

 

「これは何か」

 

「記憶だ」

 

「記憶が体に影響するのか」

 

「そうだ」

 

 リゼはまた水面を見た。水面の下を見ようとするように、少し前傾みになった。

 

「昨夜、お前の胸の上で眠った」

 

「ええ」

 

「今日、同じ場所が水面の下にある」

 

「……ええ」

 

「その事実に対して、体が反応している。これが記憶の影響か」

 

「そうだ」

 

「記憶の影響は、消えないのか」

 

「消えない。増える」

 

 リゼは少しの間、その言葉を処理した。

 

「増える」

 

「ええ」

 

「昨夜の記憶に今日の記憶が加わると、反応が大きくなるのか」

 

「そうだ」

 

「では今日、水面の下にあることを確認した記憶が加わると」

 

「明日、また大きくなる」

 

 リゼは少しの間、水面を見ていた。

 

「……それは困る」

 

「なぜ」

 

「処理が追いつかなくなる」

 

「追いつかなくていい」

 

「追いつかなくていいのか」

 

「全部を同時に感じていい」

 

 リゼは赤い瞳でアリスを見た。昨夜と同じ目だ。全部を受け取ろうとしている目だ。

 

「お前の近くに来ると、湯の熱のせいではない何かが加わる」

 

「ええ」

 

「これが、その何かか」

 

「そうだ」

 

 リゼは少しの間、アリスを見ていた。それからまた水面を見た。

 

「水面の下を、見せてほしい」

 

「今日はクエストだ」

 

「クエストが終わったら」

 

「……その時に考える」

 

 リゼの口の端が、微かに上がった。

 

---

 

 最初の十分間は、比較的静かだった。全員が湯の気持ちよさに黙っていた。

 

 アリスは目を閉じた。体の疲れが湯の熱とともに溶けていく感覚がある。

 

 目を閉じたまま、妹のことを考えた。

 

 来た。

 

 今日、三回目の試みで来た。

 

 一回目は来なかった。二回目も来なかった。三回目で来た。

 

 以前は一回目で来た。今日は三回目だった。

 

---

 

 問題が起きたのは、二十分が経った頃だった。

 

 ノワールが、カルミラを見ていた。

 

 カルミラはアリスの方を向いていた。次の手順について事務的に話しかけていた。その話しかけ方の中に、密室で過ごした夜の残滓が滲んでいた。

 

 ノワールはその残滓を感知していた。感知して、アリスを見た。目の色が、少し変わっていた。

 

「カルミラ」ノワールが言った。

 

「何かしら」

 

「胸が大きいな」

 

 沈黙が落ちた。

 

 カルミラがノワールを見た。

 

「……ありがとう」

 

「褒めていない。事実を言っただけだ」

 

「そうね」

 

「アリスはそっちの方が好みか」

 

 アリスは答えなかった。

 

 カルミラがアリスを見た。ノワールもアリスを見た。二人の視線が同時に来た。

 

「好みは関係ない」

 

「関係ある」とノワールが言った。

 

「関係ないわ」とカルミラが言った。

 

「嘘をつくな」

 

「嘘をついていない」

 

「数日前の朝、アリスの部屋の前で立っていただろ」

 

 カルミラの頬が、湯の熱とは別の理由で赤くなった。

 

「……通りがかっただけよ」

 

「一分以上立っていた」

 

「獣人の感知能力は余計なお世話だわ」

 

---

 

 セシリアが、それを離れた場所から聞いていた。

 

 岩の縁に腰をかけたまま、腿を揃えて。

 

「みっともない。二人とも」

 

 セシリアはアリスを見た。足先が、水面の下でゆっくりと動いた。

 

 アリスの正面に来た。足が伸びた。湯の中で、セシリアの足先がアリスの腿に触れた。

 

 倉庫のベッドで処置した腿の内側と、今触れている足先が、同じ体から来ていた。

 

「……足がぶつかった」

 

「ぶつけた」

 

「意図的だろ」

 

「足を引っ込めてほしいなら、引っ込めるわよ」

 

 アリスは答えなかった。引っ込めなかった。

 

 セシリアの足先が、アリスの腿の上に乗っていた。

 

 左にカルミラ。右にノワール。正面にセシリアの足。三方向から体温が来ていた。

 

 アリスの状態が、湯の中で隠しようのない形になっていた。

 

---

 

 アイシャが泳いできた。アリスの隣に来た。そのままアリスの肩に手を乗せた。

 

「魔力の補充を確認したい」

 

「今はやめろ」

 

「体が温まっている時の回路の状態が、通常と異なるかどうかを——」

 

「今はやめろ」

 

「今朝の処置のデータと比較したい」

 

「今朝のことをここで言うな」

 

 ノワールが「今朝の処置とは何だ」と言った。

 

「今朝、アリスと私が——」

 

「黙れ」

 

「データとして開示するのが——」

 

「黙れ」

 

 ノワールの腿の圧力が、右側で強くなった。カルミラの腕の圧力が、左側で強くなった。セシリアの足先が、アリスの腿の上でわずかに動いた。

 

 アリスは天を見た。湯煙が白い。

 

---

 

 アイシャが、アリスの耳元で小さく言った。

 

「今朝の処置が終わった後で、名前を呼んだ」

 

「……ああ」

 

「顔が動いた」

 

「ああ」

 

「今日の湯の中でも、名前を呼んだら動くか」

 

「今はやめろ」

 

「五人いる状態で動くかどうかを確認したい」

 

「やめろ」

 

「水面の下のデータを、触れずに確認できる方法がある。お前の顔だ」

 

「見るな」

 

「もう見た。かなりひどい状態だ。五方向からの刺激が複合的に作用している」

 

「黙れ」

 

「特に——」

 

「頼む、黙れ」

 

 アイシャは少しの間、黙った。それから言った。

 

「今夜、また今度の実験をする」

 

「……今夜か」

 

「今日の処置が終わったら、条件を変えた実験をすると言った」

 

「処置はまだ終わっていない」

 

「今日の処置は今朝した」

 

「……」

 

「今夜、実験をする。処置と無関係な場面で名前を呼ぶ。その時の顔を見る」

 

 アリスは答えなかった。

 

 ノワールが「今夜、何をするんだ」と言った。アイシャが「処置だ」と言った。

 

 ノワールの腿の圧力が、最大になった。

 

---

 

 リゼが、壁際から近づいてきた。ゆっくりと。湯の中での移動に、まだ慣れていない歩き方で。

 

 アリスの正面に来た。セシリアとリゼが、アリスの正面で横並びになった。

 

 リゼが座った。膝がアリスの膝に触れた。

 

「アリス」

 

「何だ」

 

「今の状態が続くのは、苦しいのか」

 

「……」

 

「昨夜、苦しいに近い何かを感じた時は声に出た。今は声が出ていない」

 

「出せない状況だ」

 

「なぜ」

 

「五人が全員ここにいるからだ」

 

「五人全員がいると、声が出せないのか」

 

「そうだ」

 

「では一人の時は出せるか」

 

 アリスは答えなかった。

 

 リゼはアリスを見た。

 

「今、私の膝がお前の膝に触れている」

 

「……ああ」

 

「昨夜の記憶があるからか、昨日より速く反応した」

 

「……そうだ」

 

「記憶は、感覚を増幅させる」

 

「そうだ」

 

「では、昨夜の記憶に今日の記憶が加わると——」

 

「リゼ」

 

「何か」

 

「今はその話をするな」

 

「なぜ」

 

「ノワールが聞いている」

 

 ノワールが、アリスの右側で何かを言おうとした。言う前に、湯の中でアリスの腕を引いた。

 

「今夜、約束だ」

 

「分かっている」

 

「ちゃんと私が先だ。昨夜はリゼに譲った。今夜は譲らない。アイシャにも譲らない」

 

「……分かっている」

 

 ノワールは少しの間、アリスの耳元にいた。

 

「今、何を考えている」

 

「あと何分かを数えている」

 

「それだけか」

 

「……五人全員のことを考えている」

 

「どう考えている」

 

「それぞれの記憶が来ている」

 

「私の記憶は」

 

「……今朝だ」

 

「今朝のどこだ」

 

「……名前を呼んだ瞬間だ」

 

 ノワールが、アリスの耳のすぐ横で息を吐いた。

 

「今夜、また呼べ」

 

「……」

 

「今朝より良い声で」

 

 

【システムメッセージ】

クエスト『指定施設での全員休養』

達成

パーティ全員の体力・魔力が全快しました

 

 

 全員が湯から上がった。

 

---

 

 脱衣所で服を着ながら、アリスは今日の確認結果を整理した。

 

 湯に入る前:来た。布が滑る音の方が先だった。

 最初の十分:三回目の試みで来た。

 ノワールとカルミラが言い合い始めた頃:試みなかった。三方向からの体温が来ていたから。

 セシリアの足が来た後:試みた。来なかった。

 五人全員に囲まれた状態:試みた。来なかった。

 

 五人の体温が増えるにつれて、妹の顔が来なくなっていた。

 

---

 

 宿に戻る馬車の中で、五人がアリスを囲むように座っていた。

 

 狭かった。全員の体温が、密室の空気に溶けて一つになっていた。

 

 アリスは窓の外を見た。夜の石畳が流れていく。

 

 妹のことを考えようとした。

 

 来なかった。

 

 もう一度試みた。来なかった。

 

 また試みた。来なかった。

 

 五人の体温が全方向からある状態では、何度試みても来なかった。

 

 転生してから今日まで、こんなことは二度目だ。最初の一度は、隷属契約を結んだ日だった。ノワールの腿が閉じる音を聞いた瞬間だけ、妹の顔が来なかった。あの時は一瞬だけだった。次の瞬間には来た。

 

 今日は、馬車の中でずっと来ない。

 

---

 

 ノワールが隣で、アリスの腕に絡んでいた。

 

「今、何を考えている」

 

「……妹のことを考えようとしていた」

 

「来たか」

 

「来なかった」

 

 ノワールは少しの間、アリスを見た。

 

「来なかった」

 

「ああ」

 

「今朝は来たか」

 

「来た。三回目の試みで」

 

「今夜は」

 

「来なかった。何度試みても来なかった」

 

 ノワールはしばらく黙っていた。

 

「今日、一番最後に来たのはいつだ」

 

「……湯に入る前だ。布が滑る音の方が先に来ていたが、来た」

 

「今はもう来ないのか」

 

「……今も試みている」

 

 アリスは窓の外を見たまま、もう一度試みた。

 

 来なかった。

 

「来ない」

 

 ノワールは答えなかった。

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 やがてノワールが言った。

 

「妹の名前を言え」

 

「……ヒカリだ」

 

「ヒカリ」

 

 ノワールはその名前を一度だけ口の中で転がした。

 

「今、来たか」

 

 アリスは確認した。

 

 来た。一秒もかからなかった。

 

 ノワールが名前を呼んだ瞬間に来た。

 

「……来た」

 

「そうか」

 

「なぜ来たのか分からない」

 

「私が代わりに呼んだからだろ」

 

「……」

 

「お前が来ない時に、私が代わりに呼べばいい。来なくなった時も、呼べばいい」

 

---

 

 宿に着いた。

 

 五人がそれぞれの部屋へ向かった。

 

 ノワールがアリスの腕を掴んだまま、立ち止まった。

 

「今夜」

 

「ああ」

 

「呼べ。今朝より良い声で」

 

「……ああ」

 

「それから」

 

 ノワールが、アリスの首筋に鼻を押し当てた。

 

「妹のことを、今夜教えろ」

 

「……何を」

 

「何でもいい。どんな本を読み聞かせていたか。どんな声で笑うか。難病というのはどういう病気か。私はまだ、何も知らない」

 

「なぜ知りたい」

 

「お前が来ない時に、私が代わりに呼べるように」

 

「……」

 

「妹のことを私が知っていれば、名前だけじゃなく、もっと具体的に呼べる」

 

 アリスは少しの間、ノワールを見た。

 

 来なかったものが、ノワールが名前を呼んだ瞬間に来た。

 

 ノワールが「代わりに呼べる」と言った。その言葉の重さを、アリスは今夜初めて感じていた。

 

「……ああ」

 

 ノワールの手を、アリスは握った。自分から握った。

 

---

 

 そこへ、アイシャが廊下に来た。

 

 眼鏡を直しながら、アリスとノワールを見た。

 

「今夜、実験をすると言った」

 

「今夜はノワールが——」

 

「処置と無関係な場面で名前を呼ぶ。それだけだ。時間はかからない」

 

 ノワールがアイシャを見た。アイシャがノワールを見た。

 

「今夜は私が先だ」とノワールが言った。

 

「処置が先だ」とアイシャが言った。

 

「処置じゃなく実験だと言っただろ」

 

「処置に準じる実験だ」

 

「準じる、という言葉の意味が——」

 

「アリス」

 

 アイシャがアリスを見た。

 

「今夜、名前を呼ぶ。その時の顔を見たい。それだけだ」

 

 アリスは少しの間、アイシャを見た。

 

「……分かった」

 

「今か」

 

「今だ」

 

 アイシャは一歩近づいた。眼鏡の奥の目が、アリスを見ていた。

 

「アリス」

 

 アリスの顔が、動いた。

 

 今朝と同じ種類の動き方だった。処置中ではない場面で、名前を呼ばれた時の動き方だ。

 

 アイシャは三秒確認した。眼鏡を直した。

 

「記録した」

 

「……」

 

「条件を変えても、同じ顔だった。処置中でも、処置後でも、処置と無関係な場面でも、名前を呼ばれると同じ顔になる」

 

「……」

 

「次は、五人全員がいる場面で名前を呼んだ時にどうなるかを確認したい」

 

「今日はもう終わりだ」

 

「明日でいい」

 

 アイシャは踵を返した。

 

 廊下を歩いていきながら、振り返らずに言った。

 

「ノワール。今夜も名前を呼べ。私のデータに貢献することになる」

 

 ノワールは少しの間、アイシャの背中を見ていた。

 

「……貢献したくない」

 

 アイシャは振り返らずに部屋に消えた。

 

---

 

 ノワールとアリスの二人になった。

 

 ノワールがアリスを見た。

 

「今、アイシャが名前を呼んだ」

 

「……ああ」

 

「その時、顔が動いた」

 

「……ああ」

 

「今朝の処置後と同じ顔か」

 

「……ああ」

 

「私が名前を呼んだ時と同じか」

 

 アリスは少しの間、答えなかった。

 

「……種類が違う」

 

 ノワールは少しの間、その差異を持っていた。

 

「どう違う」

 

「アイシャは実験として呼んだ。お前は——」

 

「私は」

 

「……確かめるために呼んだ。それが違う」

 

 ノワールは少しの間、黙っていた。それから口の端が上がった。

 

「今夜、もう一度確かめる」

 

「……ああ」

 

「今朝より良い声で呼ぶ。その時に、アイシャが呼んだ時と種類が違うことを、もう一度確かめてやる」

 

---

 

 今夜、ノワールに妹のことを話す。

 

 話しながら、妹の顔が来るかどうかを確認する。

 

 来れば、今日の馬車の中で来なかったことは例外だ。

 

 来なければ、今日の馬車の中で来なかったことは例外ではない。

 

 どちらが正しいかを、アリスは今夜確かめることになっていた。

 

 だがそれより先に、アリスには一つの問いがあった。

 

 来た時と来なかった時で、どちらが困るのか。

 

 来た時は、ノワールの声が妹の顔を引き寄せるという意味になる。それは妹への道がまだ続いているという意味だ。

 

 来なかった時は、ノワールの声でも届かない場所に妹の顔が沈んでいるという意味になる。それは妹への道が何かに塞がれているという意味だ。

 

 どちらが来た時に、より困るか。

 

 アリスにはまだ、答えが出ていなかった。

 

 答えが出ないまま、今夜が始まる。

 

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世界で一番幸せな男(作者:好感度反転をすこれ)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

魔王が放った最悪の呪い――それは、勇者の全言動を『邪悪』に塗り替える『好感度反転』だった。▼数年間、仲間や民衆から向けられるのは、身を切るような嫌悪と罵倒。▼「死ね」「卑怯者」「お前の顔など見たくない」▼それでもカイルは、いつか呪いが解ける日を信じて、血を吐きながら世界を救った。▼そして魔王は倒れ、呪いは霧散する。


総合評価:209/評価:7.22/連載:8話/更新日時:2026年03月02日(月) 18:42 小説情報


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