魔力最弱の転生者が、女支配の世界で感じることを隠しながら魔王を倒した話 作:レオナルド・ハ・ピンチ
最初の異変は、匂いだった。
腐葉土と針葉樹の湿った混香の奥に、何かが混入している。薬品に似た刺激臭が鼻の奥を静かに侵している。イベントが近い時だけ生じる、現実の布地に走る縫い目のような歪みだ。
足を止めた。深呼吸を一つ。魔力の漏洩をほぼゼロに圧縮して、存在感を朝の森の空気に溶け込ませた。それから慎重に進んだ。
五十メートル先で、声が聞こえた。女の声。複数。ざらついた笑い声の中に、金属の鳴る音が混じっている。木々の間から覗くと、開けた草地に革鎧を纏った三人の女が立っていた。野盗だ。それぞれ武器を帯び、地面の何かを取り囲んでいる。
鎖だ。
首輪と足首を繋ぐ鎖が地面の杭に固定されていて、その先端に人がいた。銀色の髪。尖った獣耳。ボロ布を纏った小柄な体が、杭に繋がれたまま跪かされている。顔を上げることすら許されていない姿勢で、俯いたまま微動だにしない。
物陰からその姿を観察した。栄養失調で細い。だが手足の筋肉の付き方は眠った獣のそれだ。まともな食事と休養を与えれば、恐ろしい速さを発揮するタイプの体格。ボロ布の隙間から見える腿の内側から臀部へかけてのラインが、しなやかで密度が高い。布の破れた箇所から覗く脇腹の皮膚が、朝の光を受けて白く光っていた。胸元の布が緩んで、片方の輪郭が半分ほど——
視線を野盗たちの足元に戻した。
勃起していた。ほとんど反射だ。考えるより先に、体が答えていた。十三年間、毎日記録の余白に書き続けた「余剰反応:不完全」の意味が、今この瞬間、物理的な事実として股間にある。
攻略に必要な駒だ。欲情することは計算を狂わせる。妹のために戻る。それが全てだ。鎮静をかけた。止まらなかった。
その時、もう一つのことがアリスの目を引いた。
ノワールの手が、杭を握りしめていた。
指先が白くなるほどの力で、鉄の杭を握りしめていた。顔を上げることも、身動きすることも許されない姿勢で、それでも手だけが諦めていなかった。追い詰められた者が最後に残す、抵抗の痕跡。その白さが、朝の光の中に静かにあった。
三秒、その手を見た。それから視線を草地の端に移した。
半透明の粘液が付着した木の枝が転がっている。光を受けてかすかに光る虹色の膜。地面を手で押さえると、土が異様に湿っている。草が根元から溶けかけていた。
草地の地下に、酸性スライムの巣がある。直接戦闘で三人を制圧するのは自殺行為だ。だがスライムの巣穴の上の土の表層が薄くなっている。踏み荷重が一定を超えれば陥没して、中のスライムが溢れ出す。手頃な岩を拾った。狙いをつける——
【システムメッセージ】
強制イベント:発動
『衣服溶解スライムの罠』
回避不能フラグ確認済み
強制起動します
地面が、鳴った。
アリスの計算より五秒早く、草地の中央が陥没した。半透明の粘液が間欠泉のように吹き上がる。野盗の三人が悲鳴を上げて後退する。ノワールは鎖に繋がれたまま身動きが取れず、粘液の直撃を受けた。
草地へ飛び込んでいた。計算ではなかった。ノワールの杭へ最短距離で走る。杭の根元はすでに粘液で半分溶けている。素手で引き抜く。引き抜いた。鎖ごとノワールを引きずって、木陰へ転がり込んだ。
*
転がり込んだ瞬間、アリスの顔がノワールの胸に当たった。
布が溶けていた。
スライムの溶解液を全身に浴びたノワールの衣服は、原形を失っていた。胸を覆っていた布が完全に消えていて、アリスの顔が直接、裸の胸に押し当たっていた。
一秒あった。
たった一秒だった。その一秒で、アリスの顔は彼女の胸の柔らかさと温度と重さを全部記憶した。頬の皮膚に、その形が押し付けられていた。温かかった。思っていたより、ずっと温かかった。
十三年間、誰かの体温に触れたことがなかった。触れたことがなかったものが、今、頬の皮膚に全部あった。
体を起こした。ノワールの状態を把握しようとした。できなかった。
衣服が壊滅していた。胸元が完全に露出している。両方とも。栄養不足でも失われなかった形が、朝の光の中に直接ある。先端が、朝の冷気に触れて硬く立っていた。腰から下も布の残骸が数枚垂れているだけで、細い腹部から腿の付け根にかけての輪郭が隠しようもなく晒されている。スライムの粘液が皮膚の全体に張り付いて、朝の光を反射していた。
腿の内側が、粘液とは別の濡れ方をしていた。スライムの粘液は虹色に光る。腿の内側の濡れは、透明だった。透明なまま、腿の内側を伝っていた。
勃起が、悪化した。さっきとは比較にならない形で。一秒間の記憶が頬に残っているまま、今その続きが目の前にある。鎮静をかけた。機能しなかった。
*
ノワールが、アリスを見ていた。至近距離だ。金色の瞳が、アリスの顔を凝視している。それから——鼻が動いた。アリスの方向を向いて、深く吸い込んだ。
その瞬間、ノワールの表情が変わった。目の焦点が遠くなる。唇が微かに開く。首筋に薄く汗が浮き始める。粘液に濡れた胸の先端が、さらに硬くなった。腿の内側の透明な濡れが、また増した。
【システムログ】
対象(ノワール)
【淫慾値】:187→200/200
臨界突破
【本能モード】発動
【理性値】:急速低下 12/100
手を引こうとした。遅かった。
ノワールが、跳躍した。鎖に繋がれ膝をついていた体が、バネを解放したように音もなくアリスの前に立っていた。距離、三十センチ。その近さが、アリスの全身を直撃した。近い。今この距離に、さっきまで顔が押し当たっていた胸がある。その輪郭が直接届いてくる。温度が伝わってくる。腿の内側の透明な濡れも、この距離では見えた。
ノワールの鼻がもう一度動いた。深く、ゆっくりと、アリスの匂いを吸い込む。その動作と同時に、腿の内側から微かな濡れた音がした。
微かな音だった。だがアリスの耳は、その音を拾った。
勃起が、完成した。完全な形で。今度こそ取り繕いようのない形で。ズボンの中で、隠しようがない。
「……なんで」ノワールがかすれた声で言った。「なんで、そんな匂いがするんだ」
腿の内側から、また音がした。
*
状況を把握した。ノワールの本能モードが発動している。全裸に近い状態で、腿の内側を濡らしたまま、こちらを見ている。アリスの体はそれに答え続けていた。
止める手段は魔力の精密制御しかない。だが制御には、アリスの側が制御できている必要がある。
今、制御できているかどうか。
できていない。一秒間の記憶が頬に残っている。目の前に続きがある。腿の内側から音がした。妹のことを考えようとした。
来た。来たが——腿の内側の透明な濡れが視界にある状態では、妹の顔が来るまでに時間がかかった。
来た順序が、問題だった。腿の濡れが先だった。妹の顔が後だった。その事実が何を意味するかを特定する前に、手を動かした。今は考えない。後で考える。
目標はノワールの首筋。神経節の集合点。快楽信号と痛覚信号を同時に走らせ、神経系の処理に強制的な過負荷をかける。
ノワールとの距離が縮まっていく。一メートル。八十センチ。動かなかった。来るのを待った。待ちながら、腿の内側の透明な濡れが近づいてくるのを、視界の端で確認していた。
六十センチの地点でノワールが跳んだ。全裸の体がアリスへ向かって落下してくる。その体の重さと熱と、透明な濡れが伝う腿の内側が、一瞬で迫ってきた。
掌を差し出した。ノワールの首筋に、指が触れた。触れた瞬間——ノワールの皮膚の温度が指先に来た。さっき頬で感じた温度と、同じ種類の温度だった。
*
声が、森に響いた。
悲鳴と嬌声の中間の、どちらとも判別できない音だった。ノワールの体がくの字に折れ、地面に崩れ落ちた。四肢が小刻みに痙攣している。銀色の髪が地面に広がり、尻尾が制御を失って土を叩いていた。全裸のまま横たわる体に、朝露が降りていく。腿が、痙攣のたびに開いては閉じた。その内側の透明な濡れが、陽光の中でかすかに光った。細い腹が上下するたびに、胸の先端が揺れた。硬いままだった。
三歩下がった。体の状態を確認した。ズボンの中が、限界に近いままだった。ノワールの体が全裸で目の前にある。朝露に濡れていて、腿の内側が光っていて、胸の先端が硬いままで——アリスの体はその情報の全てに対して正直に反応し続けていた。
頬の皮膚に、一秒間の記憶があった。一秒しかなかったのに、全部記憶していた。
腿の濡れが先に来た。妹の顔が後に来た。十三年間、そういうことは一度もなかった。修練で倒れる瞬間、妹の顔はいつも先に来た。だから立ち上がれた。今日は逆だった。
視線をノワールの顔に固定した。顔だけ見た。他は見ない。見ると、逆転した事実がもう一度確認される。
*
ノワールが顔を上げた。金色の瞳が、アリスを捉えた。本能モードの光は消えている。混乱だ。なぜ自分は今、全裸で地面に倒れているのか。その問いに答えられていない。
それから彼女の表情に、別のものが滲み出してきた。「この男が、自分を見ている」という認識だ。頬が赤くなった。全裸の体をアリスの目線が確認しているという事実への、羞恥の赤だ。
腕で体を隠そうとした。鎖がまだ手首にあった。腕が思うように動かなかった。その不格好な動作が、かえって全裸の輪郭を強調した。腿が動いたことで、内側の透明な濡れが光を変えた。
視線を逸らした。反射的に。計算ではなく。逸らした先でも、頬の皮膚に一秒間の記憶があった。
*
しばらく沈黙があった。ノワールがゆっくりと自力で立ち上がった。足が震えている。だが立った。全裸のまま、アリスの前に立った。アリスは彼女の顔だけを見た。見ようとした。
「……名前は」
「ノワール」
「俺の話を聞く気はあるか」
ノワールの目が細くなった。「あんたが助けたのは、これが目当てでしょ」自分の体を、一度だけ視線で示した。濡れた腿の内側まで含めた全体を。羞恥と怒りが混じった動作だった。「みんなそう。男を助けるふりして——」
「俺の最大魔力は十五だ」
遮った。「確認したければしていい。今お前が感じた刺激の強さとの矛盾については、後で説明する。今は一つだけ聞け」
ノワールの目を見た。「このまま一人で森を出てもいい。止めない。だが俺と来れば、今夜の食事と屋根と、首輪のない生活が保証される。お前の脚の速さが必要だ。それだけだ」
沈黙。
森の風が吹いた。ノワールの銀の髪が揺れる。全裸の体に風が当たって、肌が粟立った。胸の先端が、また硬くなった。アリスは見ないようにした。見ないようにしながら、見えていた。
ノワールはその一部始終を、金色の瞳で確認していた。アリスの視線が、どこに向いているかを。そしてズボンの中の状態を。
【システムログ】
イベント『獣人奴隷ノワールの救出』
クリア条件達成
ノワール【依存度】:3/100(微増)
【隷属フラグ】:確定待ち
付記:アリスの生体反応に顕著な異常を検出
状態:継続中
帰還動機への影響:現時点では軽微
ただし——本日、帰還動機の優先順位に初めての逆転現象を検出
腿の内側の視覚情報が、帰還動機の参照より0.3秒早く処理された
要観察
ノワールはしばらく立ったまま、アリスを見ていた。それから視線が、アリスの体の特定の部分に下りた。一秒確認した。それから顔に戻した。
「……条件が一つある」
「何だ」
「食事は肉がいい」
一秒置いた。「分かった」
*
廃屋へ向かう道すがら、アリスはノワールを一歩前に歩かせた。
前を歩かせた理由は、前を歩かせた方が安全だからだ——という説明は、半分だけ本当だった。もう半分の理由は、アリスが前を歩くと後ろが気になって前を見られないからだ。
だがノワールを前に歩かせた結果、十五分間、ノワールの背中を見続けることになった。応急処置的に渡した布が、腰と胸の主要部分を辛うじて覆っている程度だった。それ以外は全部、朝の光の中にある。背中から臀部へ流れるライン。歩くたびに変化する腿の形。首筋から背中の中央を伝う薄い汗の筋。
勃起は、廃屋に着くまでの十五分間、一度も収まらなかった。
収まらないまま歩きながら、ある事実から目を逸らしていた。今日、腿の濡れが先に来た。妹の顔が後に来た。十三年間で初めての逆転だ。後で考える、と言い続けていた。廃屋が見えてきた。後で考える時間が、もうすぐ来る。
*
廃屋の扉を開けた。ノワールが中に入った。アリスが後に続いた。扉が閉まった。
二人で、この廃屋にいる。今夜初めて。
頬の皮膚に、一秒間の記憶がある。指先に、首筋の温度が残っている。腿の内側の透明な濡れを、この目で見た。その音を、この耳で聞いた。そして今日初めて、妹の顔より先に別のものが来た。
その事実が何を意味するかを——
ノワールが振り返った。金色の瞳が、薄暗い廃屋の中でアリスを見た。一歩、踏み出してきた。
後で考えることにしていた事実の意味を、今夜考えなければならなくなったことを、アリスは理解した。踏み出してくるノワールを見ながら、その時間が今夜来ることが、問題なのか問題でないのかを、まだ決められていなかった。
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