魔力最弱の転生者が、女支配の世界で感じることを隠しながら魔王を倒した話 作:レオナルド・ハ・ピンチ
夜が、問題だった。
廃屋の床に敷いた藁の上で、アリスは目を開けたまま天井を見ていた。隣に、ノワールがいる。距離にして一メートル半。アリスが用意した粗末な毛布に包まって横向きに丸まっている。獣耳が折れている。尻尾が毛布の端からはみ出して、寝息に合わせて微かに揺れていた。
問題は距離ではない。匂いだ。
昼間の接触でアリスの魔力がノワールの体内に微量残留していて、彼女の眠りの中でゆっくりと代謝され、空気に滲み出してくる。甘い、とは違う。もっと根源的な何かだ。牝の眠りの匂い、と言ってしまえばそれまでだが、アリスはその表現を自分の中で即座に却下した。却下しても、匂いは消えない。
鎮静をかけた。不完全だった。三回試みた。三回とも不完全だった。
妹のことを考えた。
来た。だが昨日より、少し遅かった。昨日は一秒もかからなかった。今夜は二秒かかった。
その差が何を意味するかを考えまいとした。考えまいとしながら、考えてしまった。
今日、腿の濡れが先に来た。妹の顔が後に来た。今夜、妹の顔が来るのに二秒かかった。昨日より遅くなった。
これが続くと何が起きるかを、アリスは計算しようとした。計算を途中で止めた。止めて、天井のひびを数えた。十七本あった。
*
朝になった。
ノワールが目を覚ました時、アリスはすでに外で火を起こしていた。昨夜仕掛けた罠に中型の獣がかかっていた。捌いて串に刺して焼いている。肉の脂が炭火に落ちてはじける音がした。
廃屋の扉から顔を出したノワールが、空気を一度吸い込んだ。ゆっくりと歩いてきて、黙って隣に座った。昨夜アリスが応急処置的に渡した布を体に纏っているが、胸と腰の主要部分を辛うじて覆う程度のものでしかない。露出した腹部と腿の大半が、朝の空気にそのまま晒されている。
焚き火を見たまま、肉の串を一本渡した。「約束だ」
ノワールは受け取って、かぶりついた。行儀よくはない。犬歯が白い。肉の繊維を引き裂く時に獣耳が微かに動いた。
二人で、しばらく無言で食べた。
朝の光の中で、ノワールの横顔が近かった。近すぎた。昨夜あれだけ眠れなかった後で、この距離は堪える。焚き火の炎だけを見ることにした。見ながら、頬の皮膚に昨日の一秒間の記憶がまだあることを確認した。昨夜眠れないまま朝を迎えた後でも、残っていた。
食後、ノワールが口を開いた。「説明しろ」
「純度の問題だ。十三年かけて精製した。量は最弱でも、質は別の話になる」
「……十三年。何のためにそこまで」
「家族のもとに戻るために」
ノワールが、少しの間アリスを見た。「家族」
「ああ」
「ここではなく、別の世界に家族がいるのか」
「いた。今もいるかどうかは分からない」
「なぜ分からない」
「時間の流れが向こうとここで同じかどうかが分からない。十三年経っているかもしれないし、一日しか経っていないかもしれない」
「……家族が死んでいるかもしれないのに、それでも戻るのか」
「可能性がある限りは」
ノワールはしばらくアリスを見ていた。それ以上は聞かなかった。だが目の質が、少し変わった。最初の日に見た「男をMPタンクとしか認識していない」目ではない。別の何かを処理しようとしている目だ。
それから彼女は立ち上がり、アリスの前に立った。朝の光の中で、ノワールの体が近い。露出した腹部が、朝の光を受けて淡く光っている。へその下のわずかな影。腰骨の出っ張りの薄さ。布の端から伸びる腿の付け根の白さ。
視線を彼女の顔に向けた。素早く。素早く向けないと、向けられない。
「確認したい」ノワールが言った。「お前の魔力、触っていいか」
「どうやって」
「手首を貸せ」
*
ノワールが、両手でアリスの手首を受け取った。
細い指だ。爪が欠けている。奴隷として扱われていた時間の痕跡が、指の節々の傷痕に残っている。その指がアリスの手首の内側を探り、脈点を見つけた。親指の腹で、軽く押さえる。
アリスの皮膚が、その一点で熱くなった。
鎮静をかけた。不完全だった。妹のことを考えた。来た。だが今朝は三秒かかった。昨夜は二秒だった。今朝は三秒だった。一晩で一秒、遅くなった。
その事実を確認しながら、ノワールの親指がアリスの脈点をより深く押さえた。妹の顔が、押し出された。
「……本当に最弱だ」ノワールの呟きが、低かった。
「それで昨日のあれは——」
「純度の問題だと言った」
「分かってる」
だがノワールは手を離さなかった。アリスの手首を両手で包んだまま、下を向いている。アリスの脈拍を、指の腹で数えている。心拍が、通常より速くなっていることに気づいた。まずい。ノワールの感知能力は皮膚接触で魔力を読む。同時に脈拍も読んでいる。今この心拍数は——
「ねえ」
ノワールが言った。顔を上げた。金色の瞳が、アリスを見た。
「昨日から、ずっと。お前、私を見るたびに何かを隠してるだろ」
アリスは答えなかった。答えないという選択肢の中に答えが含まれていることを知りながら、答えなかった。
ノワールの目が細くなった。
それから——彼女の体温が、急に上がった。頬の赤みが増す。首筋に薄く汗が浮く。露出した腹部の皮膚が、内側から熱を持ち始めている。布の際に、じわりとした濡れが滲み始めていた。
【システムログ】
対象(ノワール)
【淫慾値】:143→178/200
上昇中
【理性値】:64/100
低下中
手を引こうとした。ノワールの指が、締まった。細いのに力が強い。昨日あの速さで跳躍した体の握力が、アリスの手首を逃さない。
「待て」低い声だった。「昨日の、あれをもう一度」
ノワールが顔を上げた。頬が赤い。耳の先端まで赤い。金色の瞳が、昨日とは別の理由で潤んでいた。首筋に浮いた汗が一筋、鎖骨へ向かって流れていく。露出した胸の上縁が、速くなった呼吸に合わせて上下している。布の際が、濡れていた。昨日、腿の内側から透明に流れていたものと同じ種類の濡れだ。
「お前の魔力を、もう少しだけ」声が、かすれていた。懇願だった。
*
計算しようとした。できなかった。
頭の一部では動いていた。得失の評価、消費量の試算。だが別の部分が、別の何かを処理していた。ノワールの布の際が濡れていた。その事実と、さっき妹の顔が押し出されたという事実が、同じ体の中に同時にあった。押し出されたのは一瞬だった。だが押し出された事実は変わらない。
「放せ」声が、わずかに低くなっていた。
「嫌だ」手首を握る力が、少し強くなった。
方針を変えた。ノワールの手首——指の付け根の関節に指先を当てた。そこへ、極細に尖らせた魔力を一本だけ、ごく静かに押し込む。快楽ではない。鎮静だ。
ノワールの指から、力が抜けた。手首を引き戻した。
ノワールは自分の手を見下ろしていた。さっきまでそこにあった熱が一瞬で静かになったことへの戸惑いが、表情に出ている。それから顔を上げた。
「何をした」
「鎮めた」
「なんで」
「今はまだ必要ない」
ノワールの顔が歪んだ。怒りではない。欲求が満たされなかった不満と、与えてもらえなかった羞恥が、一度に押し寄せていた。布の際はまだ、濡れた色のままだった。
「……私じゃ、足りないってこと」声が小さかった。
*
アリスは答えなかった。
ノワールは下を向いていた。銀の髪が顔にかかっている。肩が微かに落ちていた。
「最底辺の奴隷は」
ノワールが言った。平坦な声だった。怒りも悲しみも抜いた、乾いた事実の確認みたいな声だった。
「力ずくで男を犯すことすら、できないんだ。昨日、あんたに飛びかかった。それでも指一本で終わらせられた。今は、少し魔力を流してくれるだけで、こんな風になる」
ノワールが、自分の布の際を一度だけ見た。濡れていることを、自分で確認した。確認して、また下を向いた。頬が、さらに赤くなった。
「そのくせ、鎮めたら自分で引っ込んだ。私は、お前に何もできない」
沈黙が落ちた。焚き火の爆ぜる音だけが、小さく続いていた。
ノワールを見た。露出した腹部に、乾いた葉が一枚貼り付いていた。朝露で濡れた肌の上に。布の際はまだ濡れていた。
「俺がお前に何もさせないのは、お前が弱いからじゃない。俺が必要とするタイミングじゃないからだ」
ノワールの目が、微かに動いた。
「お前の速さは、俺にとって最も重要な戦力の一つだ。それを俺の都合で消費するのは、俺の判断だ。お前の価値とは別の話だ」
全部、本当のことだ。感情は一切、入っていない。そうでなければならない。感情が入ると、妹の顔が遠くなる。
だがノワールの肩が、少し上がった。
「……私を、駒として見てるってこと」
「そうだ」
「なら——魔王を倒す前に、あんたが死んだら」
「死なない」
「根拠は」
「十三年、死ななかった」
ノワールは少しの間、その答えを口の中で転がした。それから、短く息を吐いた。
*
午後から、本題に入った。
「俺の魔力とお前の体を接続する。それだけだ」
「接続すると、どうなる」
「今朝みたいな発情の暴走が起きなくなる。代わりに——俺なしでは、完全な安定を保てなくなる」
ノワールの顔に、怒りが走った。それからすぐ、絶望に変わった。「……最初から、そのつもりだったのか」
「違う。昨日の接触は計算外だった。お前の手首に触れたのは咄嗟の行動だ。だが結果は変わらない。接続しなければ、定期的に今朝みたいな状態が来る。接続すれば安定する。ただし俺から離れられなくなる」
ノワールは地面を見ていた。細い肩が上下している。アリスは待った。急かさなかった。
待ちながら、今日の数字を確認した。今朝、妹の顔が来るのに三秒かかった。昨夜は二秒だった。昨日の朝は一秒もかからなかった。二日で三秒になった。
この速度で遅くなり続けると、どうなるかを、アリスは計算しようとした。計算を止めた。計算すると、今日の接続の手順が狂う。
「一つだけ聞く。私を、捨てるか」
「魔王を倒すまでは、しない」
「その後は」
「……その時に考える」
「魔王を倒したら、元の世界に戻るのか」
「戻れる可能性がある限りは」
「可能性。戻れるかどうか、確証はないのか」
「そうだ。時間の流れも分からない。それでも進む以外にない」
ノワールはまた下を向いた。長い沈黙が続いた。焚き火がまた、一度爆ぜた。
*
やがてノワールは、静かに右腕を差し出した。
手首の内側を、上に向けて。
アリスはその手首を取った。魔力を流した瞬間、ノワールの体が震えた。昨日のような激しい反応ではない。だからこそその震えの意味がアリスには分かりすぎるほど分かった。意識がある状態で、自分の体に何かが入ってくることを感じている震えだ。受け入れながら、受け入れることの意味を同時に理解している震えだ。
その「受け入れることの意味」の中に、「この男は最終的に去る」という認識が含まれていることを、アリスは把握していた。把握した上で、手を止めなかった。
ノワールは声を出さなかった。唇を噛んでいた。
魔力が彼女の体の奥まで届いた瞬間——ノワールの腿が、ぴたりと閉じた。反射だった。体の内側を何かが通る感触に、体が勝手に答えた。
閉じた腿の間から、微かな濡れた音がした。
ノワールは自分の体が立てたその音に気づいた瞬間、耳まで赤くなって顔を背けた。
アリスは見ていた。見ていて、目を逸らさなかった。逸らせなかった。腿が閉じる瞬間の音を、アリスの耳は正確に記憶した。アリスの体が、その音に対して答えた。
妹のことを考えた。
来なかった。
初めて、考えようとして来なかった。
【システムログ】
【隷属契約】締結完了
ノワール → アリスのシステム配下に登録
【依存度】:3→41/100(急上昇)
【称号】変更:『誇り高き獣』→『村人Aの隷属ユニット』
付記:アリスの生体反応に顕著な異常を継続検出
帰還動機の参照速度:
転生直後:0.1秒
昨日朝:1.0秒
昨夜:2.0秒
今朝:3.0秒
本日・腿が閉じた瞬間:参照失敗(0回)
要観察。この速度での低下が継続した場合、帰還動機の機能喪失まで推定——
算出不能
手を離した。
ノワールは腕を胸に引き寄せて、下を向いたまま動かなかった。銀の髪の間から、耳が見える。赤い。腿はまだ、閉じたままだった。泣いているかどうかは確認しなかった。確認する前に、今のシステムログを確認していた。
「参照失敗(0回)」
考えようとして、来なかった。初めての事態だ。これが一時的な現象なのかどうかを、判断できなかった。
*
夜になった。
廃屋の中で、二人は並んで横になった。昨夜より距離が近い。ノワールの体温が、布一枚を隔てた距離で伝わってくる。昨夜の匂いが、昨夜より濃い。
天井を見た。ひびを数えた。十七本だった。
妹のことを考えた。
来た。四秒かかった。昨夜は二秒だった。今朝は三秒だった。今夜は四秒だった。一日で、一秒ずつ遅くなっている。腿が閉じた瞬間だけ、来なかった。
「算出不能」とシステムが言った。計算した結果が、システムにとっても想定外だから出力できないのだ。
今夜の四秒間でどこまで鮮明に思い浮かべられたかを確認した。鮮明に来た。四秒かかったが、来た時は鮮明だった。それで十分なのかどうかを、判断できなかった。
隣でノワールが寝返りを打った。正面を向いた。目が、開いていた。
「眠れないのか」
「……お前は」
「眠れない」
沈黙。ノワールの呼吸が近い。彼女の唇が、暗闇の中でうっすらと見えた。昼間、噛んで白くなっていた唇だ。今はもとの色に戻っている。
「一つだけ」ノワールが言った。「名前を教えろ。村人Aじゃなく」
「アリスだ」
「アリス」
ノワールは、その名前を一度だけ口の中で転がした。味を確かめるみたいに。それから目を閉じた。やがて、寝息が聞こえてきた。
アリスは天井を見続けた。
今日の数字を並べた。転生直後:〇・一秒。昨日の朝:一秒。昨夜:二秒。今朝:三秒。腿が閉じた瞬間:来なかった。今夜:四秒。
一日で一秒ずつ遅くなっている。腿が閉じた瞬間だけ、来なかった。
明日、城塞都市に入る。カルミラとの接触が始まる。カルミラは、ノワールとは全く違う種類の女だ。違う種類の接触が来る。その接触の後で、妹の顔が来るのに何秒かかるかを、アリスは明日確認しなければならなかった。
確認したかった。確認して、まだ来ると確かめたかった。だが今夜すでに、四秒かかっていた。
明日の夜は、何秒になるのか。それが、今夜アリスが眠れない理由だった。
読んでくださってありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
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