魔力最弱の転生者が、女支配の世界で感じることを隠しながら魔王を倒した話   作:レオナルド・ハ・ピンチ

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第5話 高慢令嬢の発情と、路地裏での崩壊回収

 セシリアを最初に見た日、アリスは広場の噴水の陰に立っていた。

 

 情報収集のための単独行動だった。ノワールは宿に残してある。

 

 貴族街の広場は、城塞都市の他の区画とは空気が違った。石畳が白く、建物の装飾が細かく、行き交う人々の服の質が全体的に高い。その中心で、一人の女が平民の男を杖で打っていた。

 

 金髪縦ロール。豪奢なドレス。スレンダーな体。

 

 男が転んだ。女はそれを見下ろした。ハイヒールのつま先が男の手の甲を踏んだ。男が短く悲鳴を上げた。女は何も言わなかった。踏んだまま、従者と話し続けた。

 

 物陰からその場面を見ていた。女の顔を確認した。

 

 セシリアの唇が、微かに開いていた。

 

 笑っているのではない。何かを受け取っている顔だ。男が痛みで歪める顔を見るたびに、彼女の唇がわずかに開く。その開き方が、何かを飲み込んでいる時の形に似ていた。

 

 アリスの体が、その唇の形に対して答えた。反射的に。考えるより先に答えていた。

 

 視線を女の足元に戻した。自分が今何に反応したのかを特定しようとした。唇の形だ。何かを受け取っている時の唇の形に、アリスの体が答えた。カルミラの唇の記憶がある。三度触れた記憶が、まだ残っている。その記憶と別の場所から、今の反応が来ていた。整理できなかった。

 

 

 その夜、アリスはノワールに何も話さなかった。

 

 宿の食事を済ませ、並んで横になった。ノワールの腕が絡んできた。最近は毎晩そうだ。

 

「今日は遅かったな」

 

「情報収集に時間がかかった」

 

「何の情報だ」

 

「次の手順に必要な人物の確認だ」

 

「女か」

 

 アリスは答えなかった。ノワールの腕の力が、少し強くなった。「女だな」

 

「クエストに必要な人物だ」

 

「それは聞いた。女か、と聞いた」

 

「……ああ」

 

「会ったのか」

 

「見ただけだ」

 

「見ただけで、その顔か」

 

 アリスは答えなかった。「どんな女だ」とノワールが続けた。

 

「金髪だ」

 

「カルミラも黒髪で、次は金髪か」

 

「寝ろ」

 

 ノワールは黙った。しばらくして、絡んでいた腕がアリスの腹部に移動した。腹部に腕を乗せた状態で、ノワールは黙っていた。

 

 アリスはその重さを感じながら、妹のことを考えた。来た。七秒かかった。昨夜は六秒だった。カルミラとの接触があった日の夜が六秒で、翌日の今夜が七秒だ。セシリアの唇の形を見ただけで、一秒増えた。接触すらしていない。見ただけだ。ノワールの腕の重さがある状態で七秒だった。ノワールの腕がなければ何秒かかるかを、アリスは考えまいとした。

 

 

 セシリアの発作が来る日を、アリスは把握していた。三日後の夜半過ぎ、貴族街の裏通りだ。

 

 三日の間、アリスは毎日貴族街に出向いてセシリアを遠くから観察した。

 

 一日目の午後、セシリアが侍女を連れて貴族街の通りを歩いていた。昨日とは違う。昨日は男を踏んでいた。今日のセシリアは、全く別の種類の完璧さを纏っていた。背筋が一本の定規のように真っ直ぐだ。顎の角度が一ミリも崩れていない。視線が前方の定点に固定されている。すれ違う人間の全員を「視界に入れる価値のないもの」として処理している目だ。

 

 侍女が袖口の留め具を直そうとして少し遅れた。セシリアは振り返らなかった。「遅れている」それだけ言った。声が冷たかった。温度が完全に抜けた声だ。叱責ですらない。事実の確認だ。侍女は「申し訳ございません」と言いながら駆け寄った。

 

 その瞬間のセシリアの横顔を、アリスは観察した。何もなかった。侍女が謝罪しても、セシリアの顔には何も滲み出してこなかった。昨日の広場で男が踏まれた時に滲み出してきたものが、今日の侍女への声には何もない。冷たいのではない。そこには最初から何もない、という顔だ。自分より下の人間が隙を見せることを、当然のこととして処理している顔だ。

 

 アリスはその横顔を見ながら、昨日の唇の形を思い出した。昨日の唇は、何かを受け取っていた。今日の顔は、何も受け取っていない。同じ女の、二つの顔がある。その差が何を意味するかを、アリスは確認しながら歩き続けた。

 

 二日目の朝、セシリアが商館の前で商人と話していた。商人が書類を差し出した。セシリアはそれを受け取り、二秒で確認した。「この条項は使えない。修正して出し直しなさい」商人が「しかし先方が——」と言いかけた。「私が使えないと言った」それ以上何も言わなかった。商人の反論の余地を、声の温度だけで閉じた。商人が頭を下げた。セシリアはその頭を見下ろしながら、書類を従者に渡した。何も滲み出してこなかった。自分より下の人間が服従することを、空気を吸うように処理している。

 

 アリスはその顔を観察しながら、一つのことに気づいた。この完璧さが、鎧だ。侍女にも商人にも、一ミリの隙を見せない。感情を動かすことを、この女は日常的に禁じている。禁じているということは、動かしたくない感情が存在するということだ。

 

 三日目の昼、セシリアがすれ違いざまに平民の男の肩にぶつかった。男が謝罪した。「申し訳ございません、お嬢様」とその男は頭を下げた。その瞬間だけ、セシリアの唇が微かに開いた。最初に見た時と同じ形だ。何かを受け取っている時の形だ。男は頭を下げたまま待っていた。セシリアは何も言わなかった。ただ、唇がわずかに開いたまま、一秒だけ男の頭上を見下ろした。それからまた、完璧な横顔に戻った。振り返らずに歩き去った。

 

 アリスはその一秒を確認した。二日間、何も滲み出してこなかった。侍女にも、商人にも。だが男が頭を下げた一秒だけ、滲み出してきた。二日間の「鎧のような完璧さ」が、その一秒だけ、何かを漏らした。

 

 アリスの体が、その一秒の間に滲み出してきたものに対して答えた。接触していない。見ているだけだ。それでも答えた。

 

 

 三日目の夜、宿に戻った。

 

 ノワールが入口で待っていた。アリスの顔を見た瞬間、獣耳がぴんと立った。「今日も見てきたのか」

 

「ああ」

 

「三日連続で」

 

「情報収集だ」

 

「見るたびに、お前の匂いが変わる」

 

「……」

 

「どう変わるか、言うか」

 

「言わなくていい」

 

 ノワールは少しの間、アリスを見た。それから首筋に鼻を近づけた。「匂いをつけておく」

 

「何のために」

 

「私のだと分かるように」

 

 答える前に、ノワールの鼻がアリスの首筋に押し当たった。息を吸い込む音がした。それから舌が、一度だけ触れた。

 

 アリスの体が、その一点に対して答えた。

 

「……行ってこい」とノワールが言った。「明日の夜半過ぎ、路地に」

 

「一人で行く」

 

「分かった。ただし——帰ってきたら、匂いを嗅がせろ」

 

「なぜ」

 

「何があったかを、私が確認する」

 

 アリスは答えなかった。答えない代わりに、宿に入った。首筋の一点が、夜の空気の中でまだ温かかった。

 

 

 翌夜半過ぎ、アリスは貴族街の裏通りへ向かった。

 

 石畳が古い路地だ。街灯が届かない。建物の隙間から夜空の一筋だけが見える。

 

 路地の奥、壁の影に立った。待った。

 

 二十分ほど経った頃、路地の入口に人影が現れた。セシリアだ。

 

 三日間の観察で見た昼間の姿とは、全く違う。歩き方が違う。背筋が崩れている。三日間、一ミリも揺れなかった背筋が、今夜は一歩ごとにわずかにつんのめる。顎が下がっている。視線が地面を向いている。首筋が汗で光っていた。

 

 路地の奥まで来て、壁に手をついた。アリスから五メートルの距離だ。まだ気づいていない。

 

 セシリアは壁に手をつきながら、もう片方の手でドレスの胸元を握った。握って、引いた。布が引っ張られて、デコルテが大きく開いた。冷たい夜の空気が、露わになった首筋と鎖骨に触れた。セシリアが息を吐いた。短く、鋭く。それだけでは足りなかった。

 

 セシリアは両手でドレスの胸元を掴んだ。引き裂いた。

 

 

 布の裂ける音が、夜の路地に響いた。豪奢なドレスの前が、胸の中央まで裂けた。

 

 三日間、完璧な鎧を纏っていた女が、夜の路地裏で一人でドレスを引き裂いていた。昼間、侍女に「遅れている」と声の温度だけで黙らせた女が、今夜は誰もいないと思って、壁に手をついて息を吐いていた。その落差が、アリスの目の前にあった。

 

 アリスの体が、その落差そのものに対して答えた。三日間の観察で蓄積してきたものが、今この瞬間に収束してきた。昼間の完璧な横顔。侍女に一ミリの隙も見せない鎧のような振る舞い。商人の反論を声の温度だけで閉じた一言。そして男が頭を下げた一秒だけ滲み出してきたもの。その全部が、今この暗闇の中でドレスを引き裂いている。

 

 ノワールに首筋を舐められた直後の体が、まだその熱を持ったまま、今度はセシリアに対して答えていた。二つの反応が混ざらなかった。それぞれ別の場所から来ていた。

 

 セシリアはドレスの残骸を引きずったまま、壁に背をつけた。半壊したドレスの隙間から、スレンダーな体の輪郭が夜の薄暗がりの中にある。腹部が直接夜気に触れている。腰から腿にかけての稜線が、ドレスの残骸の間から見えていた。

 

 そして——セシリアの手が、ドレスの裾を持ち上げた。腿の内側に手を当てながら、小さく声を上げた。堪えようとして、堪えきれなかった音だ。夜の路地裏で、誰もいないと思っているから出せる音だ。

 

 その音が、石壁に反射してアリスの耳に届いた。アリスの体が、その音に対して答えた。カルミラが処置中に漏らした声とは種類が違う音だった。あれは堪えながら漏れた声だ。今聞こえたのは、誰にも聞かれていないと思って出た声だ。三日間、誰に対しても漏らさなかった女が、今夜の路地裏でだけ漏らす音だ。そのことが、音の種類をさらに重くした。

 

 

 壁の影から出た。足音を抑えて、セシリアの前に立った。セシリアが顔を上げた。目が合った。

 

 次の瞬間、セシリアの顔が羞恥と怒りで歪んだ。自分が今どういう状態にあるかを、他者に見られたという事実が、彼女を直撃した。三日間、誰にも隙を見せなかった女が、今夜の路地裏で全部を見られた。

 

 腿の内側に手を当てたまま、アリスと目が合っていた。その手を離した。遅かった。アリスはその動作を全部見ていた。

 

「何者……っ」

 

「通りがかりです」

 

「嘘をつくな。こんな時間に、こんな場所に——」

 

「侯爵令嬢が一人で来る場所でもないですよね」

 

 セシリアの言葉が止まった。

 

 セシリアを見た。半壊したドレスの前が開いている。胸の輪郭が、路地の薄暗がりの中にある。腹部が直接夜気に触れている。腿の内側に当てていた手が、今は宙に浮いたまま止まっている。

 

 アリスの体が、その全てに対して答えていた。ズボンの中で、隠しようがない。今夜は隠す必要がある。これは初期接触だ。表情を平坦に保った。

 

 セシリアの視線が、アリスの体の特定の部分で止まった。止まって、戻った。「定期的に発作が来るんですよね」

 

 セシリアの目が、揺れた。「知ったような口を聞くな。平民が」

 

「今夜が何度目ですか」

 

「関係ない」

 

「月に何度来ますか」

 

「っ——」

 

 セシリアは壁に背をつけたまま、アリスを見ていた。答えたくない。だが答えを持っている。その葛藤が顔に出ていた。

 

「治せます」

 

 

 沈黙が長かった。

 

 セシリアはアリスを見ていた。アリスはセシリアを見ていた。半壊したドレスの下、腹部が直接夜気に触れている。腿の内側に当てていた手が、まだ中途半端な位置にある。その手が、今夜の路地裏でセシリアが一人でやっていたことの証拠だった。

 

 アリスはその手を見た。一秒だけ見た。二日間、侍女にも商人にも一ミリの隙を見せなかった女の、今夜の手だ。

 

「どうやって」とセシリアが言った。

 

「体に直接触れます」

 

「平民が私に触れるな」

 

「触れなければ治せません」

 

 セシリアは答えなかった。アリスを見ていた。その視線が、またアリスの体の特定の部分で止まった。今度は一秒より長く止まった。止まってから、顔に戻った。「……あなた、今」

 

「分かっています」アリスは先に言った。「隠せていないことも、分かっています」

 

 セシリアの顔が複雑な色になった。羞恥と怒りと、それと全く別の何かが混じった色だ。「私の、この状態を見て」

 

「見ています」

 

「それで顔が動かない」

 

「動かせていません、今も」

 

 セシリアは少しの間、アリスを見た。それから壁から体を離した。アリスの前に立った。半壊したドレスの前を、両腕で隠さなかった。

 

「触れてみなさい」声が、かすれていた。「治せるなら、証明してみせなさい」

 

 

 アリスはセシリアの前に立った。手を伸ばした。セシリアの鎖骨の下、胸の上縁のすぐ内側に、指先を当てた。

 

 セシリアの体が固まった。接触の瞬間、アリスの精製された魔力がセシリアの皮膚から直接流入した。量は微量だ。だが純度が桁違いだ。

 

「っ——」

 

「痛いですか」

 

「違う」声が震えていた。「全然、違う」

 

 指先の感触を確認した。今夜は把握だけだ。本格的な処置は次回。今夜は触れることで、構造を理解することが目的だ。

 

 だがセシリアの体が、その把握のための接触に対して正直に答えていた。背中が微かに反れた。首筋に汗が浮いた。そして——アリスの手に向かって、セシリアの体がわずかに傾いた。自分では気づいていない。無意識の動作だ。三日間、誰に対しても傾かなかった体が、今この瞬間、アリスの指先の方向に傾いていた。

 

 腿の内側に当てていた手の、その下の部分が、アリスの指先から数センチの距離にある。

 

 

 指を離した。

 

 セシリアが、息を吐いた。蓄積されたものが少しだけ解放された後の息だ。

 

「……何をした」

 

「確認しました。本格的な処置は別の機会に行います」

 

「別の機会」

 

「また会う必要があります」

 

「断ったら」

 

「今夜より悪い夜が、もっと頻繁に来ます」

 

 セシリアは答えなかった。半壊したドレスの前から、胸の輪郭が見えている。セシリアは今、それを腕で隠そうとしていなかった。

 

「あなた」セシリアが言った。「さっき私の顔を見て、私の状態を当てた」

 

「ええ」

 

「私の顔の、どこを見た」

 

「唇です」

 

 セシリアの顔が赤くなった。羞恥だけではない。別の色が混じっていた。「昼間、広場で」

 

「ええ」

 

「あの時から、ずっと見ていた」

 

「三日間」

 

「ええ」

 

 セシリアは少しの間、アリスを見た。それから視線をアリスの体の特定の部分に向けた。「今も」とセシリアが言った。「私の唇を、見ている」

 

 アリスは答えなかった。答える必要がなかった。セシリアが一歩、アリスに近づいた。

 

「隠してないじゃない」声が低くなっていた。「体が、ちゃんと答えてる」

 

「……分かっています」

 

「顔は動かないのに」

 

「今夜は動かせません」

 

「なぜ」

 

「動かすと、手順を間違える」

 

 セシリアの目が、その答えを受け取った。「次はいつ」

 

「三日後です」

 

「三日間」セシリアは少しの間、前を向いた。「また今夜みたいになるかもしれない」

 

「路地に一人で来ないでください」

 

「どうして」

 

「あなたを誰かに見られると、次の手順が複雑になる」

 

 セシリアの目が、微かに揺れた。「正直ね」

 

「ええ」

 

「私のことを心配しているわけじゃないのね」

 

「そうです」

 

 セシリアは少しの間、アリスを見ていた。それから、乱れたドレスを整えようとした。整えきれなかった。「名前を聞いていなかった」

 

「アリスです」

 

「アリス」その名前を一度だけ口の中で転がした。「次は三日後ね」踵を返した。ハイヒールの音が石畳に響く。数歩進んで、止まった。

 

「アリス」

 

「何ですか」

 

「さっき指を離した時、私の体が傾いたの、気づいてた?」

 

「気づいていました」

 

「腿の内側に手を当てていたの、見ていた?」

 

「見ていました」

 

「最初に顔を見なかったのね」

 

「……そうです」

 

「それを」セシリアが言った。「今夜、部屋で思い出すことにするわ」

 

 それだけ言って、セシリアは歩き始めた。ハイヒールの音が、夜の路地から消えていった。

 

 

 路地の石畳に立ったまま、しばらく動かなかった。

 

 妹のことを考えた。来るかどうかを確認するためだ。来た。何秒かかったかを計測した。九秒だった。

 

 数字を並べた。転生直後:〇・一秒。カルミラ初回接触後の夜:六秒。セシリアの唇を初めて見た夜:七秒。今夜、路地裏での接触後:九秒。

 

 カルミラとの接触が一度で六秒になった。セシリアとは今夜、指先で一度触れただけだ。接触時間は数秒もなかった。それで九秒になった。カルミラより速い速度で遅くなった。理由が分かった。三日間の観察だ。接触していなかった三日間で、すでに蓄積していた。接触の前に、見ているだけで積み上がっていた。その積み上がりに、今夜の路地裏が加わった。結果が九秒だ。

 

 路地の入口まで戻ると、ノワールが壁にもたれて立っていた。約束を守らなかった。路地の入口で待っていた。

 

 アリスの顔を見た瞬間、獣耳がぴんと立った。鼻が動いた。金色の瞳が、アリスの全体を確認した。それから路地の奥を一度見た。「……何分かかったんだ」

 

「三十分くらいだ」

 

「セシリアという女と、三十分、二人きりだったのか」

 

「ああ」

 

 ノワールは少しの間、アリスを見た。アリスの体の特定の部分を確認した。「……まだなってる」

 

「帰るぞ」

 

「セシリアのせいか」

 

「帰るぞ」

 

「今夜の妹の顔は、何秒だった」

 

 アリスは足を止めた。「……九秒だ」

 

 ノワールは少しの間、その数字を持っていた。「昨夜は」

 

「七秒だった」

 

「カルミラ初回の翌夜は」

 

「六秒だった」

 

「今夜、セシリアとは接触したのか」

 

「指先で一度だけだ」

 

「それで九秒か」

 

「ああ」

 

 ノワールは黙った。黙ったまま、アリスの腕に絡んできた。肩から腕全体に、密着した。しばらく無言で歩いた。

 

「ねえ」ノワールが言った。

 

「なんだ」

 

「三日後、またセシリアのところへ行くのか」

 

「ああ」

 

「三日間、見てきたのか」

 

「情報収集だ」

 

「見るたびに積み上がった」

 

「……ああ」

 

「三日後の接触が終わった夜は、何秒になる」

 

 アリスは答えなかった。「予測したくないか」とノワールが続けた。

 

「……ああ」

 

「なぜ」

 

「予測すると、今夜眠れなくなる」

 

 ノワールは少しの間、黙っていた。それから、絡んだ腕の力を強くした。「今夜、私が上書きする」

 

「上書きにはならない」

 

「なぜ」

 

「三日後にはまた別のものが積み上がる。上書きしても、続きが来る」

 

「……それでも、今夜だけは上書きする」

 

「今夜だけでも、か」

 

「今夜だけでいい」

 

 アリスは答えなかった。ノワールの腕の力が、また少し強くなった。

 

 宿への道を歩きながら、アリスは一つのことを考えていた。三日後の夜、セシリアへの初回処置が終わる。その夜に妹の顔が来るのに何秒かかるか。九秒が出発点だ。処置は指先よりも広い範囲に及ぶ。三日間の観察の蓄積の上に、処置の記憶が加わる。

 

 何秒になるかを、計算しようとした。計算しながら、ノワールが「今夜だけでいい」と言った声が耳の奥にあった。今夜だけでいい、という言い方が、何かを諦めた声の質だった。その声の質が、計算の邪魔をしていた。計算できないまま、宿の灯りが見えてきた。

 

 三日後の夜が来る。その夜の数字が出る前に、今夜の数字を確認しておく必要がある。ノワールが「上書きする」と言った。上書きにはならない。だが今夜の数字が、上書きの後でいくつになるかは、確認する価値がある。

 

 それが今夜、アリスが眠れない理由になることは、宿の扉を開ける前から分かっていた。




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