魔力最弱の転生者が、女支配の世界で感じることを隠しながら魔王を倒した話 作:レオナルド・ハ・ピンチ
アイシャが落ちてきたのは、昼過ぎの森の中だった。
その三日前から、アリスの体の中に積み重なっていたものがある。
一つ目。ノワールの首筋への舌の感触の記憶。毎晩腕が絡んでくる。毎朝起きると体温が隣にある。三日分、重なっていた。
二つ目。カルミラの唇が三度触れた感触。封鎖具なしで再び執務室に入った日、カルミラが言った。「三日間、あなたのことしか考えられなかった」その言葉が耳の奥に残っていた。
三つ目。セシリアの処置が始まっていた。倉庫のベッドで腿の内側に触れた。顔が動きそうになった三回の瞬間を、セシリアは正確に特定した。その三回の瞬間が、指先に記憶として刻まれていた。
四つ目。昨夜のことだ。ノワールが「上書きする」と言った。上書きにはならなかった。三つのものは消えなかった。だが四つ目が加わった。ノワールが名前を呼んだ瞬間、アリスの顔が動いた。
四つが全部、別の場所に残っていた。
問題は五つ目だ。
*
今朝、宿を出る際にノワールがアリスの首筋に鼻を押し当てた。「アイシャの匂いをつけてくるなよ」言ってから、自分が言ったことの意味に気づいたのか、顔を背けた。背けた耳が、赤かった。
アリスは今朝それを見て、何かを感じた。その何かを、森に入った今もまだ整理できていなかった。整理できていないままで森に入ったのは、別のことを考えていたからだ。
昨夜、ノワールが「今も、そのためか」と聞いた。アリスは答えなかった。答えなかった理由を、今朝から確認し続けていた。「そうだ」と答えるべきだった。妹のために戻ると決めている。それが十三年間の修練の理由だ。答えは「そうだ」のはずだった。なのに、答えられなかった。答えられなかった理由が、どこにあるのかを、アリスは特定できていなかった。
*
前触れは、音だった。
空気を切り裂く高周波の振動が、上方から降ってきた。次いで、何か大きなものが高速で落下してくる気配。顔を上げた瞬間、それは来た。
直撃だった。
上から人間が落ちてきた。最初に感じたのは衝撃だった。体重が頭部に乗った衝撃。アリスが地面に叩きつけられる。仰向けになる。
顔が、何かに挟まれていた。
柔らかい。温かい。
太腿だ。人間の太腿の間に、アリスの顔が完全に埋まっていた。その太腿の主が落下の勢いのまま、アリスを押し倒していた。
*
目を開けようとした。開けた。視界が、褐色の肌で埋まっていた。
顔の右側に、何かが押し当たっていた。押し当たったまま、それはアリスの頬に乗っていた。重い。体格から考えればあり得ない重さだ。アリスの右の頬が、その重さと地面との間で完全に挟まれていた。
鼻腔に、体温の濃い匂いが届いた。
太腿の間に顔が埋まっている。その太腿の奥の、体温の中心に、アリスの鼻先が近い。褐色の太腿の内側が、アリスの両頬を挟んでいた。
転移魔法の副作用だ。高位の転移魔法は、失敗した場合に術者の装備を全て消滅させる。つまり今アリスの顔を挟んでいる太腿は、全裸の太腿だ。アリスの顔に乗っているものは、全裸の状態にある。
その事実を確認した瞬間、アリスの体の状態が一秒もかからず完成した。
四つの蓄積と、今この直撃が、全て一度に来た。それだけではなかった。昨夜の「今も、そのためか」という問いが、まだ耳の奥にあった状態で、今この瞬間を迎えていた。答えられなかった問いと、褐色の太腿に顔が挟まれているという事実が、体の中で同時に存在していた。
「動くな」
頭上から声が来た。高い声だ。だが命令の口調だ。有無を言わさない口調だ。
「転移魔法の副作用で魔力が枯渇している。補充が必要だ。お前が補充する」
答えようとした。答えられる状態ではなかった。顔が太腿に挟まれている。口を開くと何かに触れる。それが何かを、アリスの神経は把握していた。把握した上で、状態がさらに悪化した。
「名前を言え。魔力量を言え」
太腿の圧力が少し緩んだ。「……アリス。最大魔力は十五だ」
沈黙があった。「十五?」
「最大値が十五だ」
「使えない」
太腿の圧力が、また強まった。今度はより深く。アリスの顔が、太腿の奥の方向に向かされた。体温の中心が、鼻の先ほどの距離にある。匂いが濃くなった。アリスの状態が、また悪化した。
「それでも今は選んでいる余裕がない。魔力を全部よこせ。足りない分は生命力を削って補う」
*
生命力を削られると死ぬ可能性がある。
死んだら戻れない。妹のもとに戻れない。その三段論法が、いつもより遅く来た。来るまでに、一秒かかった。その一秒の間に、太腿の温度と匂いが先に体の中に来ていた。
順序が逆だ、とアリスは思った。妹のことが先に来るべきだった。だが来なかった。太腿が先に来た。
手を動かした。アイシャの太腿を、外側から掴んだ。
太腿が逆方向に強まった。「離せ」
「離さない」
「お前の魔力が必要だ」
「生命力は削らせない」
「少量だ。計算している」
「その計算を俺は信用しない」
太腿の圧力が、止まった。沈黙があった。「……平民が私に交渉するのか」
「今、お前は全裸で森の地面に俺と二人でいる。状況を考えろ」
また沈黙があった。太腿の圧力が、微かに緩んだ。
*
頭を抜いた。上体を起こした。アイシャを初めて正面から見た。
小柄。140センチ台だ。大きな丸眼鏡が少しずれている。褐色の肌が、昼の森の光の中にある。全裸だった。転移魔法の副作用で装備品が全損した結果だ。
小柄な体に、不釣り合いなほどの胸だ。座った姿勢でも、その重さと形が昼の光の中に丸ごとある。右の頬に乗っていたのは、これだった。細い腹部との対比が、視覚として直接届いてくる。腰から腿にかけての稜線。褐色の肌の全体が光を受けていた。
アイシャの顔に視線を向けようとした。向けようとして、一秒かかった。その一秒の間に、四つの蓄積の上に今日の視覚情報が加わった。頬の右側に、さっきまで何かが乗っていた感触がある。それが今、目の前にある。
アイシャの丸眼鏡の奥の目が、アリスを見ていた。顔から始まって、体全体を確認した。アリスのズボンの特定の部分で視線が止まった。
一拍の沈黙があった。「……最大魔力が十五で、それだけ反応するのか」声が、さっきより低くなっていた。
「見るな」
「データとして興味深い」
「データにするな」
「最弱の魔力でそれだけ反応する原因が、純度と関係しているなら研究価値が——」
「交渉の続きをしたい」
アイシャは少しの間、アリスのズボンを確認した。確認する目が、研究者の目だった。感情的な色がない。ただデータを収集している目だ。それが、アリスには余計に堪えた。
「交渉の内容を言え」とアイシャが言った。
「生命力は削らない。魔力だけを補充する。方法は俺が決める」
「方法を決める立場にない」
「生命力を削らせない代わりに、俺の言う方法で補充する。それだけだ」
アイシャは全裸のまま座って、アリスを見ていた。計算している目だ。「魔力量が十五では、どの方法でも私の必要量に届かない」
「純度は足りる」
「……純度」
「試せば分かる」
アイシャの目が細くなった。「方法とは何だ」
アリスは答えなかった。代わりに、アイシャの前に膝をついた。手を伸ばした。アイシャの首筋に、指先を当てた。
*
アイシャの体が、固まった。固まって、次の瞬間、解けた。
アリスの精製された魔力が、首筋の皮膚から直接流入した。微量だ。だが純度が桁違いだ。「っ——」アイシャが声を上げた。眼鏡が、ずれた。
「な——何を」
「魔力の補充だ」
「これは——」
アイシャの体が震えた。魔力が枯渇した状態で、高純度の魔力が直接流入した。乾いた土地に水が一気に染み込む感覚が、アイシャの体の内側に走った。
「もっと——」命令の口調ではなかった。それより根元にある何かから来る声だ。「もっとよこせ」
「魔力は十五しかない」
「それを全部——」
「全部流したら俺が死ぬ」
「少しでいい、もっと——」
アイシャの手が、アリスの手首を掴んだ。首筋に触れているアリスの手を、離すまいとする動作だ。全裸の小柄な体が、アリスの前でわずかに傾いた。首筋への接触を、より深くしようとする動作だ。
右の頬に乗っていたものが、今この距離にある。アリスの体が、その近さに対して正直に答えた。
*
アイシャの首筋から手を離した。
アイシャが、荒い息をしながらアリスを見た。眼鏡がずれたままだ。その奥の目が、さっきとは全く違う色をしていた。計算する目ではない。枯渇した体が求めている目だ。
「……まだある」
「今日はここまでだ」
「なぜ止める」
「俺が限界だ」
「魔力が?」
嘘だった。魔力はまだ残っている。止めた理由は別のところにある。
アイシャの全裸の体がこれ以上近くにある状態で、これ以上接触を続けることが難しかった。四つの蓄積の上に今日の視覚情報が加わっていた。右頬の感触がある。首筋の皮膚の温度が指先にある。
この状態で続けると、手順を間違える。
だがそれだけではなかった。もう一つの理由がある。今朝の「今も、そのためか」という問いに、まだ答えが出ていない状態で、この接触を続けることが、アリスには怖かった。
怖い、という感覚が来たことに、アリスは気づいた。怖い、とは何に対してか。接触を続けると、妹のことを考える余裕がなくなる、ということに対してか。それとも、接触を続けても、妹のことを考える必要を感じなくなる自分が来る、ということに対してか。どちらかを特定する前に、口を開いた。
「明日の朝、またここに来い。続きをする」
「明日の朝だ」
「……検討する」
*
アイシャに布を渡した後、都市に戻る道を歩きながら、アイシャがアリスの真横を歩いた。
「名前を聞いていなかった」
「アリスだ」
「アリス」一度だけ繰り返した。「明日、遅れるな」
「遅れない」
「約束だ」
「ああ」
しばらく無言で歩いた。「さっき、私の全裸を見て——」
「データにするな」
「もう記録した」
「消せ」
「消さない。最大魔力十五の男が、視覚刺激のみであれだけ反応した。純度との相関関係が——」
「歩け」
「歩いている。それとも太腿に顔を挟まれた時から、すでにその状態だったか」
「黙れ」
「三段階で変化していた。挟まれた直後と、体温の中心に鼻先が近づいた時と、右頬に——」
「黙れ」
「どの段階が最も——」
「頼む、黙れ」
アイシャは黙った。五秒後に口を開いた。「今夜来い」
「明日の朝だ」
「……検討する」
*
アイシャが黙ってから、アリスも黙った。二人で、森の道を歩いた。
歩きながら、今朝の問いのことを考えていた。「今も、そのためか」妹のために戻ると決めている。それが十三年間の修練の理由だ。
だが今日、褐色の太腿に顔が挟まれた瞬間、妹のことが来るより先に太腿の温度が来た。妹のことより先に、別のものが来た。たった一秒のことだったとしても、来た順序は変えられない。
その事実を、胸の奥に押し込もうとした。できなかった。押し込もうとするたびに、アイシャの声が耳の奥に来た。首筋に指を当てた瞬間に出た声が。
*
宿に戻ると、ノワールが入口で待っていた。アリスの顔を見た瞬間、獣耳がぴんと立った。鼻が動いた。一度深く吸い込んだ。それから、アリスの体全体を確認した。ズボンの特定の部分で視線が一瞬止まった。それからアイシャを見た。
小柄な褐色肌の女が、布を纏ってアリスの隣に立っている。ノワールの目が、アイシャからアリスに戻った。
「……誰だ」
「アイシャだ。一緒に来てもらう」
「どういう経緯で」
「落ちてきた」
「落ちてきた?」
「上から」
ノワールは少しの間、アリスを見た。それからアリスのズボンを見た。それからアイシャを見た。全部で三秒かかった。「……その女が原因か」
「違う」
「嘘だ。匂いで分かる」
アリスは答えなかった。アイシャがノワールを見た。眼鏡を直した。
「獣人か。嗅覚でそこまで分かるのか」
「分かる」
「有用だ。比較データとして——」
「しない」
「まだ内容を言っていない」
「しない」
アイシャはノワールを見てから、アリスを見た。「この獣人も仲間か」
「ああ」
「さっきの首筋への補充の際の反応について、比較対象として——」
「するな」
アリスとノワールが同時に言った。二人の声が重なった。ノワールがアリスを見た。アリスがノワールを見た。アイシャが二人を交互に見た。眼鏡を直した。「……興味深い反応だ」
「黙れ」
また二人が同時に言った。
*
夜になった。
アリスは宿の部屋で天井を見ていた。
太腿の圧力が頭部の両側に残っていた。鼻の先に体温の中心があった感触が残っていた。右の頬に乗っていたものの重さが残っていた。首筋に指が触れた瞬間にアイシャが出した声が残っていた。
対処した。今夜も対処した。だが今夜は、対処した後でも、別のことが残っていた。「今も、そのためか」という問いだ。
アリスは今日初めて、この問いに正直に向き合おうとした。妹のために戻ると決めている。それは変わらない。
だが「そのためだけか」という問いに変換した時、答えが変わる。ノワールの腕が絡んでくる夜がある。カルミラが「三日間、あなたのことしか考えられなかった」と言った。セシリアの腿の内側に触れた時、顔が動きそうになった三回の瞬間がある。アイシャの首筋に触れた瞬間の声がある。それらが全部、「妹のために戻る」という目的の外側にある。外側にあるのに、体に刻まれている。
刻まれているものが、刻まれるたびに「妹のために戻る」という目的を、一ミリずつどこかへ動かしているかもしれない。動かしていないかもしれない。分からない。分からないまま、今夜もここにいる。
隣の部屋から、ノワールの気配が伝わってくる。もう一つ隣の部屋から、アイシャの気配が伝わってくる。
ノワールが壁越しに言った。「顔が動きそうになった瞬間はいつだ」
「今日はまだ動いていない」
「動きそうにはなったか」
「……三回だ」
「どの瞬間だ」
「太腿に挟まれた直後。体温の中心に鼻先が近づいた時。右頬に——」
「言わなくていい」ノワールの声が、低くなっていた。「分かった。今夜、私がその三回を上書きする」
「壁があるぞ」
「開けに行く」
アリスは答えなかった。ノワールはそれを把握した。扉の開く音がした。
*
ノワールが部屋に来た。扉を閉めた。アリスを見た。
「今日の三回は全部、私が知らない場所だ」
「そうだ」
「セシリアの三回も、カルミラの三回も、全部私が知らない場所だった」
「……」
「私が知っているお前の瞬間だけが、私のものだ」
「……」
「増やす。私が知っている瞬間の数を」
アリスは少しの間、ノワールを見た。「……ああ」
ノワールが近づいた。
*
その夜、アリスの顔は動いた。ノワールだけが知っている瞬間が、その夜に新たに生まれた。
だが今夜は、終わった後で、アリスはノワールに一つだけ聞いた。
「昨夜の問いに答える」
「何の問いだ」
「今も、そのためか、という問いだ」
ノワールは少しの間、アリスを見た。「答えなくていいと言った」
「それでも答える。そのためだ。今も、妹のために戻ることが目的だ」
「……」
「ただし」アリスは天井を見た。「そのためだけか、という問いには、今日も答えられなかった」
ノワールは少しの間、黙っていた。それから、アリスの胸に頬を押し当てた。「……答えなくていい」
「なぜ」
「答えが出た時に、私は怖くなる気がする」
アリスは答えなかった。ノワールの体温が胸板にあった。その温度が、今夜は妹の病室の記憶より先に来ていた。それを確認しながら、目を閉じた。
*
翌朝、アリスは遺跡へ向かった。
宿を出る際に、ノワールがアリスの首筋に鼻を押し当てた。「今日は」
「ああ」
「アイシャの匂いをつけてくるなよ」
三日前と同じ言葉だった。だが今朝の声の質が、三日前と違った。三日前は牽制だった。今朝のこれは、別の何かだ。ノワールはアリスの首筋に鼻を押し当てたまま、少しの間動かなかった。それから離れた。
「……帰ってきたら、今夜のことを教えろ」
「何を教える」
「顔が動いた瞬間を」
「アイシャとの処置中に顔は動かない。そういう約束だ」
「動かなかった場合は」
「その時に考える」
ノワールは少しの間、アリスを見た。
「その時に考える、か」
「ああ」
「昨夜、妹のために戻るが、そのためだけかは答えられないと言った」
「ああ」
「お前はよく、その時に考えると言う」
「考える必要がある時に考える」
「今は考えなくていいのか」
アリスは答えなかった。ノワールはそれを把握した。短く息を吐いた。「……行け。遅れるな」
アリスは宿を出た。今朝のノワールの声の質の変化が、首筋の温度とともに体の中に残っていた。
遺跡に向かう道を歩きながら、今日アイシャの腿の内側に触れることになる、と考えた。それが終わって宿に戻る時、妹のことを考えながら帰れるかどうかを確認する。確認しようとしていた。
確認できるかどうかは、やってみないと分からなかった。
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