魔力最弱の転生者が、女支配の世界で感じることを隠しながら魔王を倒した話   作:レオナルド・ハ・ピンチ

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第7話 空間座標エラーによる墜落と、天才の傲慢

 アイシャが落ちてきたのは、昼過ぎの森の中だった。

 

 その三日前から、アリスの体の中に積み重なっていたものがある。

 

 一つ目。ノワールの首筋への舌の感触の記憶。毎晩腕が絡んでくる。毎朝起きると体温が隣にある。三日分、重なっていた。

 

 二つ目。カルミラの唇が三度触れた感触。封鎖具なしで再び執務室に入った日、カルミラが言った。「三日間、あなたのことしか考えられなかった」その言葉が耳の奥に残っていた。

 

 三つ目。セシリアの処置が始まっていた。倉庫のベッドで腿の内側に触れた。顔が動きそうになった三回の瞬間を、セシリアは正確に特定した。その三回の瞬間が、指先に記憶として刻まれていた。

 

 四つ目。昨夜のことだ。ノワールが「上書きする」と言った。上書きにはならなかった。三つのものは消えなかった。だが四つ目が加わった。ノワールが名前を呼んだ瞬間、アリスの顔が動いた。

 

 四つが全部、別の場所に残っていた。

 

 問題は五つ目だ。

 

 

 今朝、宿を出る際にノワールがアリスの首筋に鼻を押し当てた。「アイシャの匂いをつけてくるなよ」言ってから、自分が言ったことの意味に気づいたのか、顔を背けた。背けた耳が、赤かった。

 

 アリスは今朝それを見て、何かを感じた。その何かを、森に入った今もまだ整理できていなかった。整理できていないままで森に入ったのは、別のことを考えていたからだ。

 

 昨夜、ノワールが「今も、そのためか」と聞いた。アリスは答えなかった。答えなかった理由を、今朝から確認し続けていた。「そうだ」と答えるべきだった。妹のために戻ると決めている。それが十三年間の修練の理由だ。答えは「そうだ」のはずだった。なのに、答えられなかった。答えられなかった理由が、どこにあるのかを、アリスは特定できていなかった。

 

 

 前触れは、音だった。

 

 空気を切り裂く高周波の振動が、上方から降ってきた。次いで、何か大きなものが高速で落下してくる気配。顔を上げた瞬間、それは来た。

 

 直撃だった。

 

 上から人間が落ちてきた。最初に感じたのは衝撃だった。体重が頭部に乗った衝撃。アリスが地面に叩きつけられる。仰向けになる。

 

 顔が、何かに挟まれていた。

 

 柔らかい。温かい。

 

 太腿だ。人間の太腿の間に、アリスの顔が完全に埋まっていた。その太腿の主が落下の勢いのまま、アリスを押し倒していた。

 

 

 目を開けようとした。開けた。視界が、褐色の肌で埋まっていた。

 

 顔の右側に、何かが押し当たっていた。押し当たったまま、それはアリスの頬に乗っていた。重い。体格から考えればあり得ない重さだ。アリスの右の頬が、その重さと地面との間で完全に挟まれていた。

 

 鼻腔に、体温の濃い匂いが届いた。

 

 太腿の間に顔が埋まっている。その太腿の奥の、体温の中心に、アリスの鼻先が近い。褐色の太腿の内側が、アリスの両頬を挟んでいた。

 

 転移魔法の副作用だ。高位の転移魔法は、失敗した場合に術者の装備を全て消滅させる。つまり今アリスの顔を挟んでいる太腿は、全裸の太腿だ。アリスの顔に乗っているものは、全裸の状態にある。

 

 その事実を確認した瞬間、アリスの体の状態が一秒もかからず完成した。

 

 四つの蓄積と、今この直撃が、全て一度に来た。それだけではなかった。昨夜の「今も、そのためか」という問いが、まだ耳の奥にあった状態で、今この瞬間を迎えていた。答えられなかった問いと、褐色の太腿に顔が挟まれているという事実が、体の中で同時に存在していた。

 

「動くな」

 

 頭上から声が来た。高い声だ。だが命令の口調だ。有無を言わさない口調だ。

 

「転移魔法の副作用で魔力が枯渇している。補充が必要だ。お前が補充する」

 

 答えようとした。答えられる状態ではなかった。顔が太腿に挟まれている。口を開くと何かに触れる。それが何かを、アリスの神経は把握していた。把握した上で、状態がさらに悪化した。

 

「名前を言え。魔力量を言え」

 

 太腿の圧力が少し緩んだ。「……アリス。最大魔力は十五だ」

 

 沈黙があった。「十五?」

 

「最大値が十五だ」

 

「使えない」

 

 太腿の圧力が、また強まった。今度はより深く。アリスの顔が、太腿の奥の方向に向かされた。体温の中心が、鼻の先ほどの距離にある。匂いが濃くなった。アリスの状態が、また悪化した。

 

「それでも今は選んでいる余裕がない。魔力を全部よこせ。足りない分は生命力を削って補う」

 

 

 生命力を削られると死ぬ可能性がある。

 

 死んだら戻れない。妹のもとに戻れない。その三段論法が、いつもより遅く来た。来るまでに、一秒かかった。その一秒の間に、太腿の温度と匂いが先に体の中に来ていた。

 

 順序が逆だ、とアリスは思った。妹のことが先に来るべきだった。だが来なかった。太腿が先に来た。

 

 手を動かした。アイシャの太腿を、外側から掴んだ。

 

 太腿が逆方向に強まった。「離せ」

 

「離さない」

 

「お前の魔力が必要だ」

 

「生命力は削らせない」

 

「少量だ。計算している」

 

「その計算を俺は信用しない」

 

 太腿の圧力が、止まった。沈黙があった。「……平民が私に交渉するのか」

 

「今、お前は全裸で森の地面に俺と二人でいる。状況を考えろ」

 

 また沈黙があった。太腿の圧力が、微かに緩んだ。

 

 

 頭を抜いた。上体を起こした。アイシャを初めて正面から見た。

 

 小柄。140センチ台だ。大きな丸眼鏡が少しずれている。褐色の肌が、昼の森の光の中にある。全裸だった。転移魔法の副作用で装備品が全損した結果だ。

 

 小柄な体に、不釣り合いなほどの胸だ。座った姿勢でも、その重さと形が昼の光の中に丸ごとある。右の頬に乗っていたのは、これだった。細い腹部との対比が、視覚として直接届いてくる。腰から腿にかけての稜線。褐色の肌の全体が光を受けていた。

 

 アイシャの顔に視線を向けようとした。向けようとして、一秒かかった。その一秒の間に、四つの蓄積の上に今日の視覚情報が加わった。頬の右側に、さっきまで何かが乗っていた感触がある。それが今、目の前にある。

 

 アイシャの丸眼鏡の奥の目が、アリスを見ていた。顔から始まって、体全体を確認した。アリスのズボンの特定の部分で視線が止まった。

 

 一拍の沈黙があった。「……最大魔力が十五で、それだけ反応するのか」声が、さっきより低くなっていた。

 

「見るな」

 

「データとして興味深い」

 

「データにするな」

 

「最弱の魔力でそれだけ反応する原因が、純度と関係しているなら研究価値が——」

 

「交渉の続きをしたい」

 

 アイシャは少しの間、アリスのズボンを確認した。確認する目が、研究者の目だった。感情的な色がない。ただデータを収集している目だ。それが、アリスには余計に堪えた。

 

「交渉の内容を言え」とアイシャが言った。

 

「生命力は削らない。魔力だけを補充する。方法は俺が決める」

 

「方法を決める立場にない」

 

「生命力を削らせない代わりに、俺の言う方法で補充する。それだけだ」

 

 アイシャは全裸のまま座って、アリスを見ていた。計算している目だ。「魔力量が十五では、どの方法でも私の必要量に届かない」

 

「純度は足りる」

 

「……純度」

 

「試せば分かる」

 

 アイシャの目が細くなった。「方法とは何だ」

 

 アリスは答えなかった。代わりに、アイシャの前に膝をついた。手を伸ばした。アイシャの首筋に、指先を当てた。

 

 

 アイシャの体が、固まった。固まって、次の瞬間、解けた。

 

 アリスの精製された魔力が、首筋の皮膚から直接流入した。微量だ。だが純度が桁違いだ。「っ——」アイシャが声を上げた。眼鏡が、ずれた。

 

「な——何を」

 

「魔力の補充だ」

 

「これは——」

 

 アイシャの体が震えた。魔力が枯渇した状態で、高純度の魔力が直接流入した。乾いた土地に水が一気に染み込む感覚が、アイシャの体の内側に走った。

 

「もっと——」命令の口調ではなかった。それより根元にある何かから来る声だ。「もっとよこせ」

 

「魔力は十五しかない」

 

「それを全部——」

 

「全部流したら俺が死ぬ」

 

「少しでいい、もっと——」

 

 アイシャの手が、アリスの手首を掴んだ。首筋に触れているアリスの手を、離すまいとする動作だ。全裸の小柄な体が、アリスの前でわずかに傾いた。首筋への接触を、より深くしようとする動作だ。

 

 右の頬に乗っていたものが、今この距離にある。アリスの体が、その近さに対して正直に答えた。

 

 

 アイシャの首筋から手を離した。

 

 アイシャが、荒い息をしながらアリスを見た。眼鏡がずれたままだ。その奥の目が、さっきとは全く違う色をしていた。計算する目ではない。枯渇した体が求めている目だ。

 

「……まだある」

 

「今日はここまでだ」

 

「なぜ止める」

 

「俺が限界だ」

 

「魔力が?」

 

 嘘だった。魔力はまだ残っている。止めた理由は別のところにある。

 

 アイシャの全裸の体がこれ以上近くにある状態で、これ以上接触を続けることが難しかった。四つの蓄積の上に今日の視覚情報が加わっていた。右頬の感触がある。首筋の皮膚の温度が指先にある。

 

 この状態で続けると、手順を間違える。

 

 だがそれだけではなかった。もう一つの理由がある。今朝の「今も、そのためか」という問いに、まだ答えが出ていない状態で、この接触を続けることが、アリスには怖かった。

 

 怖い、という感覚が来たことに、アリスは気づいた。怖い、とは何に対してか。接触を続けると、妹のことを考える余裕がなくなる、ということに対してか。それとも、接触を続けても、妹のことを考える必要を感じなくなる自分が来る、ということに対してか。どちらかを特定する前に、口を開いた。

 

「明日の朝、またここに来い。続きをする」

 

「明日の朝だ」

 

「……検討する」

 

 

 アイシャに布を渡した後、都市に戻る道を歩きながら、アイシャがアリスの真横を歩いた。

 

「名前を聞いていなかった」

 

「アリスだ」

 

「アリス」一度だけ繰り返した。「明日、遅れるな」

 

「遅れない」

 

「約束だ」

 

「ああ」

 

 しばらく無言で歩いた。「さっき、私の全裸を見て——」

 

「データにするな」

 

「もう記録した」

 

「消せ」

 

「消さない。最大魔力十五の男が、視覚刺激のみであれだけ反応した。純度との相関関係が——」

 

「歩け」

 

「歩いている。それとも太腿に顔を挟まれた時から、すでにその状態だったか」

 

「黙れ」

 

「三段階で変化していた。挟まれた直後と、体温の中心に鼻先が近づいた時と、右頬に——」

 

「黙れ」

 

「どの段階が最も——」

 

「頼む、黙れ」

 

 アイシャは黙った。五秒後に口を開いた。「今夜来い」

 

「明日の朝だ」

 

「……検討する」

 

 

 アイシャが黙ってから、アリスも黙った。二人で、森の道を歩いた。

 

 歩きながら、今朝の問いのことを考えていた。「今も、そのためか」妹のために戻ると決めている。それが十三年間の修練の理由だ。

 

 だが今日、褐色の太腿に顔が挟まれた瞬間、妹のことが来るより先に太腿の温度が来た。妹のことより先に、別のものが来た。たった一秒のことだったとしても、来た順序は変えられない。

 

 その事実を、胸の奥に押し込もうとした。できなかった。押し込もうとするたびに、アイシャの声が耳の奥に来た。首筋に指を当てた瞬間に出た声が。

 

 

 宿に戻ると、ノワールが入口で待っていた。アリスの顔を見た瞬間、獣耳がぴんと立った。鼻が動いた。一度深く吸い込んだ。それから、アリスの体全体を確認した。ズボンの特定の部分で視線が一瞬止まった。それからアイシャを見た。

 

 小柄な褐色肌の女が、布を纏ってアリスの隣に立っている。ノワールの目が、アイシャからアリスに戻った。

 

「……誰だ」

 

「アイシャだ。一緒に来てもらう」

 

「どういう経緯で」

 

「落ちてきた」

 

「落ちてきた?」

 

「上から」

 

 ノワールは少しの間、アリスを見た。それからアリスのズボンを見た。それからアイシャを見た。全部で三秒かかった。「……その女が原因か」

 

「違う」

 

「嘘だ。匂いで分かる」

 

 アリスは答えなかった。アイシャがノワールを見た。眼鏡を直した。

 

「獣人か。嗅覚でそこまで分かるのか」

 

「分かる」

 

「有用だ。比較データとして——」

 

「しない」

 

「まだ内容を言っていない」

 

「しない」

 

 アイシャはノワールを見てから、アリスを見た。「この獣人も仲間か」

 

「ああ」

 

「さっきの首筋への補充の際の反応について、比較対象として——」

 

「するな」

 

 アリスとノワールが同時に言った。二人の声が重なった。ノワールがアリスを見た。アリスがノワールを見た。アイシャが二人を交互に見た。眼鏡を直した。「……興味深い反応だ」

 

「黙れ」

 

 また二人が同時に言った。

 

 

 夜になった。

 

 アリスは宿の部屋で天井を見ていた。

 

 太腿の圧力が頭部の両側に残っていた。鼻の先に体温の中心があった感触が残っていた。右の頬に乗っていたものの重さが残っていた。首筋に指が触れた瞬間にアイシャが出した声が残っていた。

 

 対処した。今夜も対処した。だが今夜は、対処した後でも、別のことが残っていた。「今も、そのためか」という問いだ。

 

 アリスは今日初めて、この問いに正直に向き合おうとした。妹のために戻ると決めている。それは変わらない。

 

 だが「そのためだけか」という問いに変換した時、答えが変わる。ノワールの腕が絡んでくる夜がある。カルミラが「三日間、あなたのことしか考えられなかった」と言った。セシリアの腿の内側に触れた時、顔が動きそうになった三回の瞬間がある。アイシャの首筋に触れた瞬間の声がある。それらが全部、「妹のために戻る」という目的の外側にある。外側にあるのに、体に刻まれている。

 

 刻まれているものが、刻まれるたびに「妹のために戻る」という目的を、一ミリずつどこかへ動かしているかもしれない。動かしていないかもしれない。分からない。分からないまま、今夜もここにいる。

 

 隣の部屋から、ノワールの気配が伝わってくる。もう一つ隣の部屋から、アイシャの気配が伝わってくる。

 

 ノワールが壁越しに言った。「顔が動きそうになった瞬間はいつだ」

 

「今日はまだ動いていない」

 

「動きそうにはなったか」

 

「……三回だ」

 

「どの瞬間だ」

 

「太腿に挟まれた直後。体温の中心に鼻先が近づいた時。右頬に——」

 

「言わなくていい」ノワールの声が、低くなっていた。「分かった。今夜、私がその三回を上書きする」

 

「壁があるぞ」

 

「開けに行く」

 

アリスは答えなかった。ノワールはそれを把握した。扉の開く音がした。

 

 

 ノワールが部屋に来た。扉を閉めた。アリスを見た。

 

「今日の三回は全部、私が知らない場所だ」

 

「そうだ」

 

「セシリアの三回も、カルミラの三回も、全部私が知らない場所だった」

 

「……」

 

「私が知っているお前の瞬間だけが、私のものだ」

 

「……」

 

「増やす。私が知っている瞬間の数を」

 

 アリスは少しの間、ノワールを見た。「……ああ」

 

 ノワールが近づいた。

 

 

 その夜、アリスの顔は動いた。ノワールだけが知っている瞬間が、その夜に新たに生まれた。

 

 だが今夜は、終わった後で、アリスはノワールに一つだけ聞いた。

 

「昨夜の問いに答える」

 

「何の問いだ」

 

「今も、そのためか、という問いだ」

 

 ノワールは少しの間、アリスを見た。「答えなくていいと言った」

 

「それでも答える。そのためだ。今も、妹のために戻ることが目的だ」

 

「……」

 

「ただし」アリスは天井を見た。「そのためだけか、という問いには、今日も答えられなかった」

 

 ノワールは少しの間、黙っていた。それから、アリスの胸に頬を押し当てた。「……答えなくていい」

 

「なぜ」

 

「答えが出た時に、私は怖くなる気がする」

 

アリスは答えなかった。ノワールの体温が胸板にあった。その温度が、今夜は妹の病室の記憶より先に来ていた。それを確認しながら、目を閉じた。

 

 

 翌朝、アリスは遺跡へ向かった。

 

 宿を出る際に、ノワールがアリスの首筋に鼻を押し当てた。「今日は」

 

「ああ」

 

「アイシャの匂いをつけてくるなよ」

 

 三日前と同じ言葉だった。だが今朝の声の質が、三日前と違った。三日前は牽制だった。今朝のこれは、別の何かだ。ノワールはアリスの首筋に鼻を押し当てたまま、少しの間動かなかった。それから離れた。

 

「……帰ってきたら、今夜のことを教えろ」

 

「何を教える」

 

「顔が動いた瞬間を」

 

「アイシャとの処置中に顔は動かない。そういう約束だ」

 

「動かなかった場合は」

 

「その時に考える」

 

 ノワールは少しの間、アリスを見た。

 

「その時に考える、か」

 

「ああ」

 

「昨夜、妹のために戻るが、そのためだけかは答えられないと言った」

 

「ああ」

 

「お前はよく、その時に考えると言う」

 

「考える必要がある時に考える」

 

「今は考えなくていいのか」

 

アリスは答えなかった。ノワールはそれを把握した。短く息を吐いた。「……行け。遅れるな」

 

アリスは宿を出た。今朝のノワールの声の質の変化が、首筋の温度とともに体の中に残っていた。

 

 遺跡に向かう道を歩きながら、今日アイシャの腿の内側に触れることになる、と考えた。それが終わって宿に戻る時、妹のことを考えながら帰れるかどうかを確認する。確認しようとしていた。

 

 確認できるかどうかは、やってみないと分からなかった。




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