魔力最弱の転生者が、女支配の世界で感じることを隠しながら魔王を倒した話 作:レオナルド・ハ・ピンチ
翌朝、遺跡に着いた時、アイシャはすでに待っていた。
昨日より布の纏い方が整っていた。誰かから調達したのか、粗末だが一応形になっている。大きな丸眼鏡が朝の光を反射していた。
アリスを見た瞬間、眼鏡の奥の目が動いた。昨日とは違う動き方だ。計算する目ではない。待っていた目だ。
「遅い」
「約束の時刻通りだ」
「一分遅い」
「一分は誤差だ」
アイシャはアリスの全体を確認した。顔から体まで。昨日と照合している目だ。「今日の状態は」
「普通だ」
「昨日より落ち着いている。だが昨日と種類が違う何かが加わっている」
「……」
「獣人か。あるいはセシリアという女か。昨夜、何かがあったのか」
「始めよう」
*
今日は腿の内側から始める。昨日、アイシャが「腿の内側から始めろ」と言った。アリスはその要求の意味を把握していた。把握した上で、今日はその順序で始めると昨夜決めた。
アイシャの前に膝をついた。「服を上げてもらう必要がある」
「どこまで」
「腿が見える程度」
アイシャは少しの間、アリスを見た。それから布の裾を自分で持ち上げた。褐色の腿が現れた。昨日、アリスの顔を挟んでいた太腿だ。今日は指先の届く距離にある。アリスの体が、そのラインに対して答えた。今朝も、答えた。
「力を抜いてください」
「分かっている」
*
右腿の内側に手を置いた。直接触れた。
アイシャの体が、昨日より速く反応した。昨日の記憶が体に残っているからだ。接触の瞬間に昨日の感触が戻ってくる。それが体の反応を早める。
「っ——」
「昨日と同じ感触ですか」
「……昨日より、速い」
「体が記憶しているからです。一度経験した感触は、二度目に速く戻ってくる」
アイシャは少しの間、自分の腿の上にある手を見ていた。「それは普遍的な生体反応か、それともお前の魔力の特性か」
「今は関係ありません」
「研究として重要だ」
「処置を続けます」
指先に魔力を込めた。膝の裏から付け根へ向けて、昨日より少し速い速度で動かす。アイシャの腿が、昨日より素直に開いていった。体が覚えているから、抵抗が薄い。
「昨日より……速く、なる」
「ええ」
「なぜ」
「体が正直だからです」
「正直、とはどういう意味か」
「欲しいものを知っているという意味です」
アイシャは少しの間、黙っていた。「……私の体が、これを欲しがっているのか」
「そうです」
「昨日から、ずっと欲しがっていたのか」
「おそらく」
「昨夜も」
「おそらく」
「……そうか」
アイシャが、短く息を吐いた。それから、自分の状態を確認するように腿を見た。腿の内側が、昨日より速いペースで濡れ始めていた。
「研究者として、これは困る」
「なぜ」
「自分の体を客観的に観察できなくなるからだ。感情が入ると、データが歪む」
「感情が入っているのですか」
「……分からない。感情なのか、それとも純粋な生体反応なのかが、区別できない」
「どちらでも構いません。今は処置です」
「どちらでも構わないのか」
「ええ」
アイシャは少しの間、アリスを見た。「お前は、どちらだ」
*
アリスは答えなかった。代わりに、指先の圧力を上げた。アイシャが声を漏らした。問いへの返答を求める余裕がなくなった。
腿の内側の処置が三十分続いた頃、アイシャはもはや声を堪えようとしていなかった。最初の十分は堪えていた。奥歯を噛み締めて、眼鏡の縁を指で押さえて、研究者の顔を保とうとしていた。次の十分で、眼鏡がずれた。指が地面を掴んでいた。呼吸が声になっていた。最後の十分は、全部が声だった。
アリスの指先が付け根に達するたびに、アイシャの腰が動いた。逃げようとして、求めようとして、どちらかが分からない動き方で動いた。
「……っ、アリス——」また名前を呼んだ。昨日より切迫した声だった。「もっと、奥まで——」
「魔力が足りません」
「嘘だ。昨日と同じ嘘だ」
「……」
「お前が手加減していることは、昨日記録した。今日も同じだ」
「処置として必要な量を流しています」
「足りない。もっと深く入れろ」
アリスは少しの間、止まった。アイシャの腿の内側が濡れていた。昨日より多く濡れていた。その濡れがアリスの指先に触れていた。アリスの体が、その接触に対して答えた。手加減をやめたら、何が起きるかを、把握していた。把握した上で、手を動かした。
*
付け根の奥まで、指先を進めた。昨日は付け根に達して止めた。今日は、その先まで進めた。
アイシャの体が、完全に反れた。背中が地面から浮いた。布の裾を握っていた手が、地面の草を掴んだ。眼鏡が飛んだ。
声が出た。昨日より大きな声だった。昨日は「止められなかった声」だったが、今日のは「そもそも止めようとしていない声」だった。
アイシャの腿の内側から、濡れが広がった。体が震え続けていた。震えながら、アリスの手首を掴んでいた指の力が、ゆっくりと抜けていった。
*
手を引いた。
アイシャが、地面に横たわったまま、荒い息をしていた。眼鏡がない。眼鏡なしの目で、空を見ていた。しばらく沈黙があった。
やがてアイシャが言った。「……魔法が、使えない」声が、さっきとは全く違った。荒い息の中に、別の質が混じっていた。
「使えない」もう一度言った。「昨日まで使えた古代魔法の術式が、今、一つも起動しない」
「……」
「回路に、何か起きた。魔力の補充は確かにされた。だが同時に、何か別のことも起きた」
アイシャは上体を起こした。眼鏡を探した。見つけて、かけた。アリスを見た。
「お前が仕込んだのか」
「……」
「仕込んだんだな」
「魔力の補充をしながら、同時に回路の構造を書き換えました」
「書き換え」
「あなたの古代魔法のスキルを単独で起動できないようにしました。俺の魔力を通じてでしか起動できない構造に変えました」
沈黙が落ちた。森の鳥の声だけが続いた。アイシャは少しの間、アリスを見ていた。眼鏡の奥の目が、何かを計算していた。
「……それはつまり」
「あなたの古代魔法の知識と演算能力は、俺の魔力なしでは機能しません。俺が必要な時に必要な量だけ供給することで、あなたは魔法を使えます。俺なしでは使えない」
「私を、あなたの道具にしたということか」
「道具ではありません。共同作業者です」
「同じことだ」
「拒否するなら、制限を解除します」
アイシャの目が、細くなった。「解除できるのか」
「できます。ただし——」
「ただし、何だ」
「解除した場合、あなたの古代魔法の回路は、昨日の転移事故の損傷を修復しないまま動き続けます。遅くとも三ヶ月以内に、回路全体が焼き切れます」
「三ヶ月以降は」
「魔法が使えなくなります。永続的に」
「今も使えないが」
「今は俺が近くにいれば使えます。三ヶ月後に回路が焼き切れれば、俺が近くにいても使えなくなります」
アイシャは長い時間、自分の手を見ていた。
*
沈黙が続いた。アリスはアイシャを見ていた。眼鏡をかけた小柄な褐色肌の女が、森の地面に座って自分の手を見ている。腿の内側が濡れていることは、今のアイシャには関係のないことになっていた。
「聞いていいか」アイシャが言った。
「何ですか」
「お前は何のためにそれをした」
「あなたの古代魔法の知識が、俺のクエストに必要だからです」
「クエストとは」
「魔王の討伐です」
「魔王を倒してどうなる」
「元の世界に帰れます」
アイシャは少しの間、アリスを見た。「帰る場所があるのか」
「ええ」
「帰ることが、お前の目的か」
「そうです」
「そのために私の魔法回路を書き換えた」
「はい」
「私の同意なしに」
「はい」
アイシャはまた自分の手を見た。「……私は天才だ」
「ええ」
「古代魔法において、私の右に出る者はいないと思っていた」
「ええ」
「だが今、自分の手が何もできない事実を確認している」
「ええ」
「お前のせいだ」
「そうです」
「それを」アイシャが顔を上げた。眼鏡の奥の目で、アリスを正面から見た。「許すかどうか、まだ分からない」
「分からなくても構いません」
「なぜ」
「俺が必要な時に魔力を供給します。それが続く限り、あなたの魔法は機能します。許すかどうかは関係ない」
「関係ないのか」
「俺には」
アイシャは少しの間、アリスを見た。それから、また自分の手を見た。「……お前の魔力が途絶えたら、私は三ヶ月で廃人になる」
「そうです」
「お前が死んだら」
「そうです」
「お前が私を捨てたら」
「クエストが完了するまでは、捨てません」
「クエストが完了したら」
「その時に考えます」
*
長い沈黙があった。アイシャは自分の手を見続けていた。アリスは待った。
やがてアイシャが口を開いた。「一つだけ聞く」
「何ですか」
「今日、腿の内側の処置中に、手加減をやめた瞬間があった」
「……ええ」
「あの瞬間に、何を感じていた」
アリスは答えなかった。
「お前は感じていたはずだ。私には分かる。魔力の質が変わった。あれは感情が混入した瞬間の変化だ」
「……」
「感情が混入していたのか」
「俺の内側の問題です」
「それは答えだ」
アイシャは少しの間、アリスを見た。「感情が混入していたにもかかわらず、回路の書き換えを実行した」
「はい」
「感情と計算が、同時に存在していた」
「……そうです」
「お前も、今日の腿の内側の濡れを見ていた」
「……見ていました」
「見て、どう感じた」
「処置の過程として確認しました」
「嘘だ」
アイシャが立ち上がった。小柄な体で、アリスの前に立った。眼鏡を直した。「今日、私の声を聞いて手加減をやめた。あれは計画上の判断ではない。お前の体が答えた結果だ」
「……」
「そのことを、お前は認識しているか」
「認識しています」
「認識した上で、回路を書き換えた」
「はい」
「なぜ」
「帰るためです」
「帰るためだけか」
「……それ以外に理由はありません」
「嘘だ」
アイシャはアリスに一歩近づいた。「お前は今も、手加減をやめた瞬間を覚えているだろう」
「……ええ」
「どんな感触だったか」
「処置中の話です」
「答えろ」
アリスは少しの間、アイシャを見た。眼鏡の奥の目が、揺れていた。研究者の目と、それ以外の目が、混在していた。「……腿の内側が、濡れていた」
「それだけか」
「付け根に達した時に、あなたが名前を呼んだ」
「それだけか」
「それで手加減をやめました」
アイシャは少しの間、アリスを見た。「名前を呼ばれたから、手加減をやめた」
「……結果的にそうなりました」
「計画上の判断ではなく」
「……はい」
アイシャの唇の端が、微かに上がった。研究者の笑みではない。もっと個人的な何かを含んだ笑み方だった。「データとして記録した」
「するな」
「記録した。お前がアリスという名前を呼ばれると手加減をやめるという事実を」
「……」
「今後、処置中に名前を呼んでもいいか」
「……処置中は呼ばないでください」
「なぜ」
「手が止まらなくなるので」
「それは処置に支障をきたすか」
「……支障をきたします」
「なるほど」
アイシャは少しの間、アリスを見た。「処置中は呼ばない。処置が終わったら呼んでもいいか」
「……それは」
「それは、何だ」
アリスは答えなかった。アイシャはその沈黙を読んだ。「記録した」
*
宿に戻ると、ノワールが入口で待っていた。アリスの顔を見た瞬間、獣耳がぴんと立った。
「どうだった」
「処置は完了した」
「それだけか」
「……回路の制限も完了した」
「アイシャは今どういう状態だ」
「単独では魔法が使えない。俺が必要な状態だ」
ノワールは少しの間、アリスを見た。「泣いたか」
「……泣かなかった」
「怒ったか」
「……怒ったが、すぐ収めた」
「それで今、アイシャはどこにいる」
「宿に戻った。部屋で考えている」
「何を考えている」
「許すかどうかを、と言っていた」
「そうか」
ノワールは少しの間、その答えを持っていた。「今日、アイシャが名前を呼んだか」
「……ああ」
「処置中に」
「ああ」
「その時、顔が動いたか」
アリスは答えなかった。ノワールの目が細くなった。「動いたんだな」
「……処置に支障が出るほどではなかった」
「動いた、ということだ」
「……ああ」
「セシリアに名前を呼ばれた時と同じか」
「……種類が違う」
「どう違う」
「セシリアは処置中だった。アイシャは、名前を呼ぶことを意図してやった」
ノワールは少しの間、その差異を処理した。「意図して呼んだ」
「ああ」
「実験として」
「……そうだ」
「それでも動いた」
「……ああ」
「今夜」ノワールがアリスの腕を掴んだ。「私が名前を呼ぶ。意図して呼ぶ。アイシャが意図してやったのと同じように」
「……」
「その時に顔が動くかどうかを確かめたい」
「セシリアの時とアイシャの時で、種類が違うと言った」
「ああ」
「私の時は、どの種類になるか」
アリスは答えなかった。ノワールはその沈黙を把握した。「今夜、確かめる」
*
その夜、アリスの顔は四回動いた。四回目は、ノワールが名前を呼んだ瞬間だった。処置中ではなかった。
*
翌朝、アリスは一つのことを確認した。
セシリアの処置中に名前を呼ばれた時。アイシャが意図して名前を呼んだ時。ノワールが意図して名前を呼んだ時。
三つの種類が、全部違った。
セシリアは命令でも要求でもない声で呼んだ。アイシャは実験として呼んだ。ノワールは確かめるために呼んだ。三つとも動いた。動いた種類が違う。
その事実を、アリスは翌朝初めて整理した。整理した結果が出た。出た結果の意味を、認めたくなかった。
*
その日の午後、アイシャが宿に来た。
部屋に入ってきて、アリスを見た。眼鏡を直した。
「昨日の処置の続きが必要だ」
「今日は予定していない」
「私が必要だと言っている」
「……明日の朝に来てください」
「今日だ」
アリスはアイシャを見た。昨日の怒りはない。「許すかどうか分からない」という言葉も、今日のアイシャの顔には出ていない。代わりに、別の何かがある。
「昨日、処置が終わった後に、名前を呼ぶと言った」
アリスは答えなかった。
「今日の処置が終わった後で呼ぶ。だから今日の処置をしろ」
「それが来た理由か」
「それが来た理由だ」
アリスは少しの間、アイシャを見た。「……分かった」
アイシャは眼鏡を直した。「今日、名前を呼んだ時、昨日と同じ顔をするか」
「……処置が終わるまで分からない」
「では終わってから確かめる」
アリスは答えなかった。アイシャは答えを待たずに、床に座った。処置の体勢に入った。眼鏡の奥の目が、アリスを見ていた。
「早く来い」
アリスは膝をついた。
今日の処置が終わった後に、アイシャが名前を呼ぶ。その時に顔が動くかどうかを、今のアリスにはまだ分からなかった。だが動くだろう、という予測は、今朝の整理が終わった時点でできていた。
その予測の意味を、アリスは膝をつきながら、認めたくなかった。
読んでくださってありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
励みになりますので、よろしければ感想・高評価・お気に入りなど、よろしくお願いします。