鋼の隣人 ―石の世界の副読本(バイブル)― 作:微糖コーヒー
第22話:1.3秒の彼方から ―予測(プリディクト)ハッキング―
1. 月面着陸、そして沈黙
月面、「静かの海」。着陸船ヨハネス号が砂塵を上げて静止したその瞬間、船内の全システムが「Why?」という無数の文字で埋め尽くされた。
「……クソっ、着陸した瞬間にこれか! 千空、コンソールが死んだぞ! 船外ハッチが開かねえ!」
龍水の叫びが、月面の静寂を切り裂く。
地球から月までの距離は約 380,000 km。電波が往復するだけで約 2.6秒 の時間がかかる。
ホワイマンが月面で直接システムを書き換えている今、地上の蓮が異常を察知して命令を送っても、その対策が届く頃には、船内の酸素供給すら止められている可能性がある。
2. 蓮の切り札:ラグ補償型「自律防壁(オート・ガード)」
地上の管制センター。蓮は、モニターに映るノイズの波形を凝縮し、キーボードを叩き壊さんばかりの勢いで入力していた。
「……ラグは想定内だ。1.3秒後の未来を叩くのが、エンジニアの仕事だろ!!」
蓮が事前にヨハネス号のサブコンピュータに仕込んでおいたのは、**「予測実行(スペキュレイティブ・エクセキューション)」**を応用した、対ホワイマン専用の迎撃プログラムだった。
蓮の「超遠距離」戦術:
ラグ補償プロトコル: 月面からのエラー信号が届く前に、ホワイマンの「攻撃パターン」を統計的に予測し、先回りでパッチ(修正プログラム)を送信し続ける。
物理レイヤーの強制割り込み: ソフトウェアが乗っ取られたなら、蓮が地上から送る「特定の高周波信号」で、船内のリレー回路を物理的に振動させ、強制的にハッチのロックを解除する。
3. 無線(ワイヤレス)の喧嘩
「ゼノ、計算を回せ! 次のハッキング・ベクトルの予測地点は、生命維持装置のバイオスフィア・ログだ! ……千空、聞こえるか!? 2.6秒後のお前の足元に、俺が作った『裏口(バックドア)』を開けてやる!」
蓮の指先から放たれるコードの奔流が、目に見えない電波の槍となって宇宙を駆ける。
ホワイマンが「論理」でシステムを支配しようとするなら、蓮は「ノイズ」と「物理干渉」でその論理をバグらせる。
「……ハハ、……見えたぞ。ホワイマン、お前の命令体系には『一貫性』がありすぎる。……それは、現場のイレギュラーに対応できない、脆いシステムだ!」
蓮が送信した、1テラバイト相当の「無意味なノイズデータ」。それがホワイマンの演算リソースを一時的に飽和(パンク)させた。
4. ハッチ開放:月面の一歩
コンマ数秒の隙。
ヨハネス号の重厚なハッチが、電子制御を無視して「物理的」に跳ね上がった。蓮が地上から送った共振信号が、ロック機構を力技で震わせたのだ。
「ククク、100億%届いたぜ現場監督! てめーが地上のコンソールで踊ってる姿が目に浮かぶようだ!」
千空が月面へ最初の一歩を踏み出す。
そこには、石化装置メデューサが文字通り「山」をなして積み上がっていた。
「……蓮。……ここからが本当のデバッグ作業だ。この『石化の山』の根源、ホワイマンのコアを……俺たちの科学でハックし尽くしてやる」
5. 地上の「共犯者」
月面からの映像が届き、管制センターに歓声が上がる。
蓮は、汗で張り付いたシャツを脱ぎ捨て、モニターを見つめたまま不敵に笑った。
「……あぁ、やってこい千空。……お前たちが月で『正解』を見つけるまで、俺はこの1.3秒の絶望を、世界一安全な『回線(パス)』に変えて守り抜いてやる」
月と地球。
38万キロの距離を繋ぐのは、冷徹な計算と、熱い信頼。
現場監督・蓮による「超遠距離サポート」が、神の領域(月面)に立つ科学者たちを支え続けていた。
科学的ポイント:
通信ラグ(2.6秒): 地球・月間の光速の限界。NASAの月面ミッションでも常に最大の課題でした。
予測実行: コンピュータが「次に必要になるデータ」を予測して事前に処理しておく技術。
共振破壊: 特定の周波数をぶつけることで、電気的にではなく物理的に機械を動かす(または壊す)手法。