王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます   作:高校ジャージ10年目

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ビール全振りの小説です。よろしくお願いします。


王子はアイピーエーに敗北する

 

 その会議室には、一国の命運を左右するような、重苦しくも熱い空気が流れていた。

 

大陸一の醸造技術を誇る平和国家――麦冠(ばくかん)王国。この国の最高意思決定機関である「大麦円卓会議」では、今日も今日とて、国民の生活に直結する「極めて深刻な問題」が議論されている。

 

「…以上の理由から、今年の秋の収穫祭における、官営醸造所の標準レシピは『二条大麦七、六条大麦三』の比率に固定すべきかと。これにより、雑味を抑えつつも、国民が好むスッキリとした喉越しを確保できます」

 

老臣の声が、静まり返った会議室に響く。並み居る重臣たちは、まるで隣国からの宣戦布告書でも読み解くかのような、険しい表情で手元の資料、麦芽の糖化率グラフを凝視していた。

 

この国に、戦争はない。飢饉もない。内乱の兆しすらない。

あるのは、「最高の一杯をどう提供するか」という、あまりにも平和で、そしてあまりにも酔狂な情熱だけだった。

 

(…長い。話が長い)

 

第一王子レオンハルトは、頬杖をつきそうになるのを理性で抑え、窓の外を見つめていた。

窓の向こうには、午後の柔らかな光に包まれた王都の街並みが広がっている。醸造所の煙突からは、麦芽を煎る香ばしい香りが立ち上り、風に乗って城の中まで届いていた。

 

(この香り、このロースト加減…さては西区の第三ブルワリー、新作のシュバルツでも試作しているな? 昨日の風向きなら東区のペールエールだったが、今日は少しキャラメルモルトの甘みが強い…)

 

「…殿下。レオンハルト殿下」

隣に控える補佐官アルフレッドが、表情一つ変えずに低い声で呼んだ。

「聞いておいでですか。六条大麦の配合比率について、大臣がご意見を求めておられます」

 

レオンハルトは、コンマ一秒で「完璧な王子の顔」を作って正面を向いた。

「ああ。配合比率については、六条を四パーセントまで引き上げるべきだと考えている。近年の気候変動により、二条大麦のタンパク質含有量が僅かに低下しているからな。泡持ちの維持と、ボディの厚みを補填するには、その微調整が不可欠だ」

 

一瞬の静寂。その後、重臣たちが「おお…!」「流石は次期国王…!」と感嘆の声を漏らし、一斉にメモを取り始めた。

アルフレッドだけが、冷ややかな視線で王子を見つめている。彼は知っていた。王子が今、頭の中で「仕事が終わった後のビール」のことしか考えていないことを。

 

「では、この件は可決ということで。本日の会議を終了…」

 

老臣が言葉を終えるより早く、レオンハルトは席を立っていた。

「すまない、アルフレッド。急用を思い出した」

「殿下、三分後に貴族院との面談が」

「三十分後にしてくれ。いや、いっそ明日にしてくれてもいい」

「殿下!」

 

レオンハルトは流れるような動作でマントを翻し、会議室を後にした。その足取りは、戦場へ向かう英雄のように力強く、そして、学校をサボる子供のように軽やかだった。

 

   

 

「…なぜ、そこまでして『樽』にこだわりたいのですか」

 

王宮の搬出口。並べられた大型の空樽の一つから、ひょっこりと金の髪を覗かせたレオンハルトに対し、アルフレッドは深く、深いため息をついた。

 

「これは戦略的撤退だ、アルフレッド。正門から出れば、近衛兵たちに捕まり、また『新麦の作柄についての講義』を三時間は聞かされることになる。だが、この樽に隠れて荷馬車に揺られれば、私は公的な記録を汚すことなく、市井の風に触れることができるのだ」

 

「わざわざ樽の底に隠れなくても、普通に変装して裏口から出れば済む話でしょう。その樽、さっきまで黒ビールが入っていたんですよ。殿下の服、今すごく麦臭いです。しかも、その荷馬車は王宮の家畜舎へ向かう予定ですよ」

 

「…何だと?」

 

レオンハルトは慌てて樽から這い出ると、誇らしげに、しかし少しバツが悪そうに埃を払った。

 

「ビールの香りは、王族の香水よりも価値がある。…アルフレッド、付いてくるなら黙っていろ。今日は『金狼亭』だ。あそこには、私の矜持を賭けて挑まねばならない相手がいる」

 

「…挑む? 酒場で喧嘩でもするおつもりですか」

「いや。相手は液体だ。…アイ・ピー・エーだよ」

 

その言葉を聞いた瞬間、アルフレッドの眉が僅かに動いた。

 

「アイ・ピー・エー。…殿下、確か苦いのは苦手だったはずでは?」

 

レオンハルトの足が止まった。彼は遠く、王都の広場を見つめ、悲劇の主人公のような顔で言った。

 

「苦手ではない。…ただ、これまでは『理解』が及んでいなかっただけだ。だが、この国を統べる者が、ホップの苦味という試練から逃げ続けていいはずがない。これは、開拓の味なのだからな」

 

「ただ単に、新しいもの好きの好奇心ですよね」

 

「…仕事だ。王族としての、義務なのだ!」

 

   

 

 王都の路地裏にひっそりと佇む『金狼亭』。ここは、真の愛好家だけが集う、いわばビールの聖域だ。

 

重厚なオーク材の扉を開けると、そこにはカウンターで静かにグラスを傾ける職人たちの姿があった。

 

店内は煮沸された麦汁と、乾燥したホップの香りが壁に染み付いており、呼吸をするだけで酔いが回りそうな空間だ。

 

「いらっしゃい…おや、またあんたか。今日はえらく麦臭いな。樽の中にでも落ちたのか?」

店主が、フードを深く被ったレオンハルトを見て苦笑した。

「今日は何にする? いつものペールエールか?」

 

「いや」

レオンハルトは、決闘を申し込む騎士のような厳粛さで椅子に座った。

「…新作のアイ・ピー・エーを。シングルホップの、一番尖ったやつを頼む」

 

店内の空気が、一瞬だけ止まったような気がした。店主は少しだけ目を見開き、やがて「…覚悟はいいんだな?」と短く問い、奥の樽へと向かった。

アルフレッドは隣で、呆れを通り越して観察モードに入っていた。

 

「殿下。無理をして飲み干した後に、王宮の噴水で口をゆすぐのはやめてくださいね。見苦しいですから」

「黙れ。私は今、全神経を舌の上にある味蕾(みらい)に集中させているのだ。余計な雑音はいらん」

 

まもなく、琥珀色の液体が満たされたパイントグラスが差し出された。

美しく盛り上がったきめ細かな泡。そして何より、グラスを置いた瞬間に周囲へ広がる、暴力的なまでの香り。

 

シトラス、グレープフルーツ、そして松の木を思わせる、強烈なホップのアロマが鼻腔を突き抜ける。

 

「…これが、アイ・ピー・エーか」

レオンハルトは息を呑んだ。

 

かつて、海を隔てた島国から南方の灼熱の開拓地へビールを運ぶ際、数ヶ月に及ぶ過酷な船旅に耐えられるよう、強力な防腐作用を持つ「ホップ」を通常の数倍も投入したのが始まり。その歴史の重みが、この琥珀色の液体に凝縮されている。

 

「…いただく」

 

彼は意を決し、グラスを傾けた。

 

一口。

まず感じたのは、鮮烈な柑橘の香り。だが、その直後。

 

舌の奥に、かつて経験したことのないような、凄まじい「苦味」が襲いかかった。

 

「…っ!!」

 

レオンハルトの顔が、瞬時に歪んだ。

それは、薬草をそのまま噛み潰したような、あるいは人生の挫折を全て煮詰めたような、容赦のない苦さだった。

 

胃に落ちるまでの数秒間、彼の脳裏には歴代国王たちの肖像画が走り馬灯のように駆け巡り、先祖代々受け継いできた「穏やかなエールへの愛」が崩壊していく音が聞こえた。

 

「ゴホッ、ガハッ…!」

「殿下!」

 

アルフレッドが背中を叩く。レオンハルトは涙目で、震えながらグラスを置いた。

 

顔は真っ赤。目には涙。呼吸は乱れている。

 

「…大丈夫…だ…。これは…計算通り…だ…」

「どこがですか。今、完全に魂が半分抜けてましたよ。店主、この人にあまり刺激の強いものを出さないでくださいと言ったでしょう」

 

「店主…この苦味、数値にするとどれほどだ…?」

「数値?ああ、苦味単位(IBU)でいえば70ってところだな。うちの新作『狂犬の涙』だ。南方の開拓地へ送る前に、樽の中でホップが暴れたような味だろ?」

 

「狂犬…なるほど…。噛みつかれた…ような感覚だ…」

 

レオンハルトは咳き込みながらも、再びグラスを見つめた。

 

不思議なことが起きていた。あれほど強烈な苦味に襲われたというのに、数秒後、口の中には何とも言えない爽やかな清涼感が残っていた。

 

グレープフルーツの皮のような、心地よい苦みの余韻。そして、次の一口を求めてしまう、奇妙な中毒性。

 

「…ほう」

 

レオンハルトは再び、グラスを口にした。

 

二口目。今度は、苦味の奥にある麦芽のしっかりとした甘みが見えてきた。

三口目。ホップの香りが、単なる「香り」ではなく、荒波を越えて未知の土地を目指した開拓者たちの物語として脳に響き始めた。

 

「…分かったぞ、アルフレッド。この苦味は、孤独だ」

「あ、はいはい、始まりましたね。ビールの擬人化哲学が」

 

「いや、違う。孤独を愛し、腐敗という運命に抗う、孤高の麦だ」

 

店主が困惑した顔でアルフレッドを見たが、アルフレッドは「気にしないでください、いつもの病気です」と手で制した。

 

「…いいか、このビールは、人生そのものだ」

 

レオンハルトは、誰に頼まれたわけでもないのに、朗々と語り始めた。

 

「最初は苦い。あまりにも苦くて、逃げ出したくなる。だが、その苦味に耐え、じっくりと向き合った者だけが、その奥にある真実の甘みと爽快感に辿り着けるのだ。つまり、このビールは、王族が民を導く際の苦悩を…」

 

「殿下、いい話のところ申し訳ありませんが、貴族院の面談、もう始まってますよ。さっき、窓の外を近衛兵の巡回が通り過ぎるのが見えました。彼らに見つかる前に撤収します」

 

アルフレッドが懐中時計をパチンと閉めた。

 

「…何?」

「移動時間を考えると、あと一分でここを出ないと、殿下の『外交上の信頼』もこのビールのように苦い結末を迎えます。さあ、立ってください。物理的な拘束手段を使わせないでくださいね」

 

「…あと一口。この余韻を、国民に伝える義務が」

「ありません。帰りますよ」

 

アルフレッドは、抵抗する王子の首根っこを掴むようにして席を立たせた。

 

「店主、代金はここに。…殿下、せめて足元をしっかりしてください。千鳥足の王子など、歴史書に書きたくありません」

 

「…アイ・ピー・エー。恐ろしいビールだ。…明日も、調査に来なければなるまい。この苦味の向こう側にある、さらなる真理を掴むために」

 

「仕事してください、本当に」

 

   

 

 王宮へと戻る馬車の中。

レオンハルトは窓の外に沈む夕日を眺めながら、満足げに微笑んでいた。

口の中には、まだあの強烈なホップの香りが残っている。

 

「アルフレッド。私は今日、また一つ、民に近づいた気がする。開拓者たちの苦労を、舌で理解したのだ」

 

「殿下。私は今日、また一つ、殿下への信頼を失った気がします。そして、殿下の礼服から漂うビールの匂いを消すために、洗濯係になんと説明すべきか頭を悩ませています」

 

二人の会話を乗せた馬車が、王宮の門をくぐる。

会議室では、今頃「麦の配合比率」を巡って、重臣たちがまだ頭を抱えていることだろう。

 

だが、王子は知っている。レシピの数字よりも大切なものが、あの路地裏の、泡立つグラスの中にあったことを。

 

「…明日は、何にする? アルフレッド。黒くて重厚な、歴史の重みを感じるようなやつがいい」

「明日は、丸一日『公務』という名の拘束をさせていただきます。一滴の水も漏らさぬ監視体制を敷きますので、ご期待ください」

 

「…聞いてくれ、アルフレッド。スタウトの芳醇さは、夜の静寂によく合うのだ…」

「聞きません」

 

麦冠王国の夜は、今日もどこからか漂う麦芽の香りと共に、平和に更けていく。

 

 

王位継承者レオンハルトの、真実の一杯を求める旅は、まだ始まったばかりであった。

 

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