王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
麦冠王国の夏は、さらにその熱を増していた。
王宮の回廊を、一通の重々しい手紙を携えた侍従が通り過ぎる。その手紙に押された封蝋は、清泉王国の名門中の名門、ジュリアン公爵家の紋章であった。
「…なんですって、これ!」
冷房魔石の効いた談話室に、クララの絶叫が響き渡る。
彼女が投げ捨てた手紙を、レオンハルトはティーカップならぬジョッキを片手に拾い上げた。
「どれ…。『親愛なるクララ。君が麦冠王国で野蛮な麦の毒に侵されていると聞き、心を痛めている。酒は理性を焼き、魂を濁らせる泥水だ。真に知的な貴族が嗜むべきは、魂を浄化する清らかな白湯のみ。一日も早く、その濁った生活を捨て、私と共に熱い白湯を啜る静かな日々を始めよう』…くっ、ははは! これは傑作だ!」
「笑い事じゃないわよ、王子! この男、ジュリアンは本気なのよ。彼にとって『味』があるものはすべて不純物。人生の楽しみをすべて沸騰したお湯に溶かして捨てちまうような男なんだから!」
レオンハルトは笑いすぎて涙を浮かべながら、手元のビールを一気に飲み干した。
「白湯、か。確かに究極の純粋さではあるが、人生という劇場の幕を下ろすには早すぎるな。…しかし、クララ。このジュリアンという男、ある意味では最強の敵かもしれんぞ。ビールの苦味も、アルコールの高揚も、すべて『悪』と断じる鉄の意志。…ふむ、面白い」
「面白がってる場合!? このままじゃ、私は本国に連れ戻されて、朝から晩まで『今日のお湯の沸き加減は最高だね、クララ』なんて会話を聞かされる羽目になるのよ!」
「それはそれで、面白そうだな」
クララは絶望に打ちひしがれ、テーブルに突っ伏した。
そこへ、いつものように冷徹な足取りでアルフレッドが歩み寄り、新しいグラスを二人の前に置いた。
「殿下。清泉王国のジュリアン公爵家からは、すでに『王女の不摂生を正すための特別予算』として、多額の寄付金……という名の圧力が届いております。このままでは、当王宮としても殿下を匿い続ける大義名分が失われかねません」
「アルフレッド、お前まで見捨てるの!?」
「いえ。私は単に、現在の状況を『収支報告』として述べているだけです。…ですが、殿下。もしこのジュリアン公爵という御仁がビールの価値を認めれば、事態は一変するのでは?」
レオンハルトの瞳に、怪しい光が宿った。
「…。その通りだ、アルフレッド。白湯しか飲まぬ男に、いきなりラオホの煙臭さやIPAの殺人的な苦味を叩きつけても、拒絶反応で即死するだけだろう。…ならば、お茶のように優しく、果実のように華やかで、白湯のように清らかな『白』をぶつけてやるまでだ」
「…白? 王子、また変なビールを出すつもりね」
「変とは失礼な。…アルフレッド、例の『白い魔法』の準備をしろ。白湯男の価値観を、根底からひっくり返してやる」
数日後。レオンハルトが醸造所の奥から運び出してきたのは、これまでのビールとは一線を画す、神秘的な外見の一杯だった。
「これは…。白濁しているわね。というかヴァイツェンじゃないの」
クララが覗き込んだグラスの中には、淡く、白く、絹のように霞んだ液体が揺れていた。
それは、レオンハルトがこの日のために仕込んだ特別なスタイル、ベルジャンホワイトであった。
「いいか、クララ。これはお前が愛するピルスナーとも、私が愛する重厚なエールとも違う。大麦だけでなく、あえて発芽させていない小麦を大量に使うことで、この独特の白濁と、口当たりの柔らかさを生み出しているのだ」
レオンハルトは、誇らしげにグラスを掲げた。
「さらに、ここには秘密の魔法が二つかかっている。…オレンジピールと、コリアンダーシードだ」
「オレンジ…? ビールに果物の皮を入れたの?」
「そうだ。このベルジャンホワイトは、数世紀前、とある醸造家たちがビールの味をより華やかに、より飲みやすくするために編み出した知恵の結晶だ。…嗅いでみろ。白湯には逆立ちしても真似できない、天上の香りを」
クララが鼻を近づけると、そこにはビールの概念を覆すような、爽やかなシトラスの香りと、どこかエキゾチックでスパイシーな芳香が漂っていた。
「…っ。すごい、お花畑にいるみたい。これ、本当にビールなの? あの苦い飲み物の仲間とは思えないわ」
「飲んでみろ。苦味は極限まで抑えてある。ジュリアンのような『純粋主義者』でも、これなら『ハーブの抽出液』として認識できるはずだ」
クララは恐る恐る、その白い液体を口に含んだ。
瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。
「…! 柔らかい! 舌の上を雲が通り過ぎていったみたい。…それに、後味がすごく爽やかで、ほんのり甘酸っぱいわ。…これなら、ビールの苦味が苦手な人でも、それこそ白湯しか飲まない偏屈男でも、一口で黙らせられるかもしれない……!」
「だろう? ベルジャンホワイトは、ビールという名の『庭園』なのだ。攻撃的な苦味で敵を倒すのではない。香りと優しさで、敵の武装を解除させる。…これこそ、平和外交に最もふさわしい一杯だ」
レオンハルトは、その場でジュリアン公爵への返信を書き始めた。
手紙にはこう記された。
『親愛なるジュリアン公爵。君の白湯への情熱には敬服する。しかし、我が国には「聖なる白い薬草水」という、精神を沈静化させ、知性を高める秘薬が存在する。一度、君の自慢のお湯と飲み比べてみてはどうか。もし、君の心がこれによって乱れるというなら、私は二度とクララに麦を勧めないと誓おう』
手紙と共に、厳重に魔力で温度管理されたベルジャンホワイトのボトルが清泉王国へと送られた。
一週間後。王宮に届いたのは、ジュリアン公爵からの驚愕の返信であった。
『レオンハルト王子。…私は、自分の無知を恥じるばかりだ。君が送ってくれた「白い水」を一口飲んだ瞬間、私の頭の中に、今まで見たこともないような広大な果樹園が広がった。…苦味という名の雑味がなく、ただ純粋な香気と、小麦の慈愛に満ちた味わい。これこそが、私が求めていた「進化した白湯」の姿なのかもしれない』
「…勝った。勝ちましたよ、殿下!」
アルフレッドが、珍しく興奮した様子で報告した。
「ジュリアン公爵は、この『白い水』の定期購入を条件に、クララ殿下の滞在を一年間延長することを認めるとの回答を寄せました。…さらに、清泉王国の貴族たちの間で、このベルジャンホワイトが『飲む美容液』として大流行し始めています!」
「…。まさか、あの白湯男をあそこまで丸め込むなんてね」
クララは呆れ半分、感心半分といった様子で、手元のベルジャンホワイトを飲み干した。
しかし、レオンハルトの表情はどこか複雑だった。
「…一年か。短すぎるな」
「えっ?」
「このベルジャンホワイトの流行を足がかりに、清泉王国の市場を完全にビールで制圧するには、最低でも三年は必要だ。…アルフレッド! 次の仕込みに入るぞ。今度は、もっと香りを強化した『特濃ベルジャン』だ。白湯男を完全にこちらの『沼』に引きずり込む!」
「殿下、それは外交というより、もはや宗教の布教に近いですが……。まあ、売上は伸びていますので、良しとしましょう」
アルフレッドは冷徹に、清泉王国への「特許使用料」と「輸出関税」の計算を始めた。
「…ところで、王子。さっき『一年じゃ短すぎる』って言ったの、もしかして私が帰るのが寂しいからだったりする?」
クララが少しだけ頬を赤らめ、上目遣いで尋ねた。
レオンハルトは一瞬、言葉に詰まったが、すぐにいつもの不遜な笑みを浮かべて答えた。
「は?馬鹿を言え。お前がいなくなれば、清泉王国との有力な『外交窓口』が閉ざされてしまうだろう? お前は、私にとって最高に都合の良い『広告塔』なのだよ」
「…。やっぱり、アンタは最低のビール変態ね!」
「褒め言葉として受け取っておこう」
二人の言い争いは、ベルジャンホワイトの爽やかな余韻をかき消すように、熱く、騒がしく続いていく。