王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます   作:高校ジャージ10年目

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麦冠王国の秘密兵器

 清泉王国の端、静寂だけが価値を持つとされるジュリアン公爵邸の一室。

 

 主の好みを厳格に反映したその部屋には、華美な絵画も、きらびやかな金細工の置物も一切存在しなかった。あるのは、規則正しく磨き上げられた白い大理石の床と、部屋の中央に置かれた簡素な机だけだ。

 

 窓から差し込む午後の光の中で、ジュリアン公爵はガラスの器をそっと持ち上げた。

 

 器の中で揺れるのは、淡く白濁した神秘的な液体だ。

 

 ジュリアンは目を細め、器の縁から立ち上るわずかなシトラスの香りと、異国を思わせるスパイスの芳香を、惜しむように鼻腔へと吸い込んだ。

 

 彼はゆっくりと器を傾け、その絹のように滑らかな液体を一口、喉へと滑らせる。

 

「やはり、麦冠王国のレオンハルト王子は、私の数少ない理解者だったようだね」

 

 ジュリアンは満足げに息を吐き、机の上に器を置いた。彼の細い指先が、ガラスの表面に残った冷たい結露をなぞる。

 

「酒というものは、理性を焼き、魂を濁らせる悪しき泥水だ。しかし、彼が送ってくれたこの『白い水』はどうだ。苦味という雑味を完全に排し、薬草の清涼感だけが凝縮されている。飲むたびに、胸の奥が洗われていくのが分かるよ」

 

 ジュリアンは、隣に直立不動で控える側近の騎士に笑みを向けた。

 

 だが、騎士の顔は青ざめ、額からは冷や汗が幾筋も流れ落ちていた。その手は、先ほど届いたばかりの密偵からの報告書を握りしめたまま、小刻みに震えている。

 

「公爵、た…大変申し上げにくいのですが」

 

 騎士の声は、喉の奥で引き攣っていた。

 

「その、公爵が毎朝『聖なる白い水』としてお召し上がりになり、心の拠り所にされているその液体ですが。大変な、あまりにも残酷な事実が判明いたしました」

 

 ジュリアンは器を再び手に取ろうとした動きを止め、眉を微かにひそめた。彼の整った顔立ちに、不快な冷淡さが宿る。

 

「どうした。私の純粋な思考を妨げるような報告なら、後にしてくれないか」

 

「それが、その液体は『ベルジャンホワイト』と呼ばれる、大麦と小麦をふんだんに使った伝統的な『ビール』…つまり、立派な酒にございます!」

 

 騎士の叫びが、静謐な室内の空気を容赦なく引き裂いた。

 

 ジュリアンの身体が、彫刻のように完全に凝固した。

 

 ガラスの器を口元へと運ぼうとした姿勢のまま、彼の美しい瞳が、限界まで見開かれる。器の中の白い液体が、彼の小刻みな震えに合わせて細かく波立った。

 

「今、何と言った」

 

 ジュリアンの声から、先ほどまでの優雅な声色が完全に消え失せていた。

 

「さ、さらに、麦冠王国に滞在中のクララ様ですが、毎日『まずはピルスナー!』と叫びながらジョッキを空け、浴びるようにビールを飲んでいるとのこと。レオンハルト王子は、公爵を欺き、その尊い白湯哲学を嘲笑うために、その酒を『白いお湯』と偽って送りつけたのです!」

 

 ゴボリ、と不穏な音がジュリアンの喉から響いた。

 

 次の瞬間、ジュリアンは口に含んでいたベルジャンホワイトを、目の前の真っ白な壁に向かって盛大に吹き出した。

 

 美しい白濁の液体が、放物線を描いて壁を汚し、無残な模様を作って流れ落ちる。

 

 ガラスの器は手から滑り落ち、大理石の床で高い音を立てて砕け散った。

 

 ジュリアンは自分の胸元を狂ったように掴み、激しくむせ返った。彼の顔は、恥辱と怒りによって、茹で上がった蟹のように真っ赤に染まっていく。

 

「おのれ、おのれ、レオンハルト!」

 

 ジュリアンは拳を机に叩きつけた。あまりの衝撃に、頑丈な木製の机がみしりと悲鳴を上げる。

 

「私に、この私に、泥水を白湯と偽って飲ませていただと! 一生の不覚! 我が清廉なる肉体に、麦の毒が染み付いてしまったわ!」

 

 彼は狂ったように何度も口を拭い、床の破片を憎々しげに踏みつけた。

 

「クララもクララだ! あんな野蛮な国で、麦の毒に溺れるなど、我がジュリアン家の婚約者として断じて許せん! 今すぐ最後通牒の書状を用意しろ! 私が自ら乗り込み、あの変態王子と不実な王女に、本物の白湯の鉄槌を下してやる!」

 

 数日後。麦冠王国の王宮談話室。

 

 冷房魔石が放つ涼気すら一瞬で吹き飛ばすような、クララの絶叫が響き渡った。

 

「完全にバレてるじゃないのよ、糞ビール変態王子!」

 

 クララは、ジュリアンから届いたばかりの、怒りの炎で焦げ付きそうな最後通牒をテーブルに激しく叩きつけた。彼女の指先は小刻みに震え、編み込まれた金髪の先が、肩の激しい上下に合わせて不安げに跳ねている。

 

「読みましたか、殿下」

 

 補佐官アルフレッドが淡々と告げ、床に落ちた手紙を拾い上げた。その眼鏡の奥の瞳は、事態の深刻さを冷徹に捉えている。

 

「ジュリアン公爵は、ご自身がビールを飲まされていた事実に大変お怒りです。来週、彼は自ら軍勢を引き連れるような勢いでこの国へ乗り込んでくるそうです。王女を連れ戻し、一生、朝から晩まで沸騰した白湯しか与えない白湯攻めに処す、とのことです」

 

「白湯攻め!? そんなの拷問よ! 私の人生から、ピルスナーのあの突き抜けるキレも、喉を潤すあの最高の瞬間もすべて消え失せて、ただの温い無味無臭な余生になっちゃうわ!」

 

 クララは絶望を形にしたようにソファのクッションに顔を埋めた。

 

 その向かい側で、第一王子レオンハルトは、不敵な笑みを浮かべていた。

 

「なるほど。ベルジャンホワイトの優しさでは、あの男の頑固な脳味噌を完全に溶かすには至らなかったか。だが、面白い。騙されたと知って怒り狂う純白主義者には、もはや小細工など不要。圧倒的な密度の『力』をぶつけてやるのが礼儀というものだろう」

 

 レオンハルトは立ち上がり、壁に掛けられた古びた醸造所の地図を指し示した。彼の瞳には、未知の実験を前にした学者特有の、冷徹で燃えるような光が宿っている。

 

「クララ。お前のその氷魔法、ピルスナーを冷やすためだけに使うのは、宝の持ち腐れだと思わないか」

 

 クララはソファから顔を上げ、涙目のまま眉を寄せた。

 

「何が言いたいのよ。私の魔法は、アンタの変態的なこだわりを満たすための道具じゃないわ」

 

 レオンハルトは動じず、棚から一冊の分厚い古書を取り出し、重々しい音を立てて机に広げた。

 

「アイスボック。かつての醸造家が、極寒の夜に樽を外へ置き忘れたことから生まれた、偶然の産物だ。水はアルコールよりも先に凍る。ならば、凍った水分だけを削ぎ落とせば、後に残るのは何だと思う」

 

 レオンハルトは不敵に笑い、地図の一点を強く指差した。

 

「水分を捨て去り、麦の旨味と酒精だけを凝縮した究極のビール。これこそが、アイスボックだ」

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