王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
地下醸造所へと続く重い鉄の扉を開けると、ひんやりとした湿った空気が二人の肌を刺した。
地上のはじけるような夏の暑さとは打って変わり、そこは発酵途中の麦芽が放つ、どこか果実に似た重厚な香りが低く立ち込める異世界だった。
部屋の中央に鎮座するのは、黒光りする巨大な鉄の醸造タンクだ。レオンハルトはその冷たい側面にそっと掌を当て、愛おしそうに目を細めた。
「さあ、始めろ、クララ。この樽の芯まで、お前の魔力で凍てつかせてみせろ。不純な水分を、氷の牢獄へ閉じ込めるんだ」
クララは小さく息を呑み、一歩前へ出た。彼女は自分の両手を見つめ、それから怒り狂ってこちらへ向かっているという白湯男の顔を思い浮かべるように、奥歯を強く噛み締めた。
彼女は意を決して、タンクの鉄肌に両手を強く押し当てた。
瞬間、地下室の空気が激しく震えた。
クララの指先から、眩いばかりの青白い光が奔流となって漏れ出す。鉄の表面に、パキパキと小気味よい音を立てて霜が這い回り、瞬く間に巨大なタンク全体を白い氷のベールで覆い尽くしていった。
クララの頬が、極限の集中と魔力の消費によって赤く火照り、そこから流れる一筋の汗が、室内の冷気に触れて白く煙る。彼女の唇は紫色に震え、タンクの内側からは、ミシミシと膨張する氷が鉄壁を押し広げる不気味な地鳴りのような震動が伝わってきた。
レオンハルトはその光景を、一秒たりとも見逃すまいと、ただじっと見つめ続けていた。彼の瞳には、王族としての冷徹さと、醸造家としての純粋な狂気が奇妙に同居している。
「もっとだ、クララ。中心にある、凍ることのない魂だけを残すんだ」
レオンハルトの低い声が、吹雪のような冷気の中に響く。
クララはもはや声を返す余裕もなく、ただひたすらに自身の魔力のすべてをタンクへと注ぎ込んだ。彼女の華奢な背中は小刻みに震え、吐き出される息は完全に真っ白だ。
やがて、地下室の全ての光が彼女の指先に吸い込まれるかのような錯覚の後、部屋を包んでいた青白い光がふっと収まった。
クララはその場に力なく膝をついた。彼女の肩は激しく上下し、冷え切った床に手を突いて、荒い呼吸を繰り返している。
レオンハルトは彼女の横を静かに通り過ぎ、完全に凍りついたタンクの下部にある、小さな真鍮製の栓に手をかけた。彼は指先に慎重に力を込め、その栓をゆっくりと回した。
そこから流れ出したのは、かつて誰も見たことのない液体だった。
それは、ビールの常識を遥かに超えた、蜂蜜のような粘度を持っていた。
グラスの底に落ちる音はトプンと重く、その色は深い、あまりにも深いルビー色。
手元の蝋燭の光を近づけて透かしてみても、その中心には絶対的な密度の暗闇が居座り、光を頑なに拒んでいる。
それと同時に、狭い地下室の中に、爆発的な香りが広がった。
それは、じっくりと煮詰めたプラムや干し葡萄、濃厚なダークチョコレート、もしくは、何十年も眠っていた古い木樽のような、重厚で圧倒的な威厳を持つ芳香だった。
「アイスボック、お前の魔法が、ビールの魂を限界まで呼び覚ましたのだ」
レオンハルトは、その琥珀色に近いルビーの液体が注がれた小さなグラスを、床にへたり込んだままのクララの前に差し出した。
彼女は、まるで魔法の薬を受け取るかのように震える手でそれを受け取り、おそるおそる、その香りを胸いっぱいに吸い込んでから唇を寄せた。
ほんの一口。その重い液体が舌の上に乗った瞬間、クララの瞳が驚愕に大きく見開かれた。
喉を通る感覚は、もはや水分ではない。熱を帯びた最高級の絹の塊が、食道をゆっくりと滑り落ちていくかのようだった。
アルコール度数、十四パーセント以上。通常のビールの三倍近い密度が、彼女のすべての感覚神経を容赦なく蹂躙していく。
クララの顔が、一瞬にして耳の付け根から首筋まで真っ赤に染まった。
彼女はグラスを握ったまま、ふらりと大きく体を揺らした。彼女の視線は定まらず、焦点は天井の古い梁をぼんやりと追いかけながら、ぐるぐると円を描いている。
「あ、あつい。お腹の中に、小さな火竜が住み着いて、暴れてるみたい」
クララは見たこともないような力ない笑みを浮かべると、目の前にいたレオンハルトの襟元を、縋るように強く掴んで引き寄せた。
彼女の吐息からは、先ほどのアイスボックが持つ芳醇な果実と酒精の香りが、容赦なく漏れ出している。彼女の指先は、先ほどまでの氷のような冷たさを完全に失い、熱に浮かされたように熱くなっていた。
「王子。これ、すごいわ。世界が、三倍くらい濃い色に見える。これなら、あの激怒したジュリアンだって、絶対に黙る。黙らせて、お湯の中に沈めてやるんだから」
クララは呂律の回らない声でそう呟くと、突然、糸の切れた人形のように膝の力が完全に抜けた。
レオンハルトは、前方へ倒れ込んできた彼女の小さな体を、横から素早く両腕で支えた。腕の中に収まった王女は、すでに幸福そうな、それでいて全ての緊張から解放されたような深い寝息を立て始めている。
背後でその様子を無表情で見守っていたアルフレッドが、手元の帳簿にさらさらと素早い手つきでペンを走らせた。彼の眼鏡の奥の瞳には、主たちへの同情や呆れなどは一切なく、ただ算出された数字への絶対的な確信だけが宿っている。
「魔法による凍結抽出。殿下、このアイスボック一滴あたりの価値を金貨に換算すれば、清泉王国の高級白湯百杯分、いえ、それ以上になりますね。来航するジュリアン公爵には、この一滴の重みを、その身をもって十分に味わっていただきましょう」
レオンハルトは、腕の中の温かな重みと、そこから伝わる微かな呼吸を感じながら、残されたルビー色の液体を自ら一口啜った。
喉を優しく焼くような、それでいてどこまでも甘美な熱さ。
それは、近づきつつある宿敵との決戦、そして麦冠王国の未来に向けた、最高の火種となるに違いなかった。