王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
麦冠王国の作戦会議室。そこは夏の酷熱を冷房魔石で和らげた、本来であれば重臣たちが穏やかな議論を行うための場所だった。
磨き上げられた円卓の表面には、窓外の青空が涼しげに映り込んでいる。しかし、その円卓の中央に置かれた一つのグラスだけが、室内の穏やかな空気を完全に拒絶していた。
グラスの底に溜まるのは、前夜、王女クララが自らの魔力を限界まで絞り出し、第一王子レオンハルトと共に完成させたばかりの液体、アイスボックだ。
漆黒に近い、あまりにも深いルビー色の液体は、部屋のわずかな明かりをすべて吸い込んで、そこに絶対的な質量が存在するかのような、不気味なほどの重厚感を放っていた。蝋燭の光を近づけても、その中心にある闇は頑なに光を透かそうとはしない。それはまさに、ビールの常識をすべて引き剥がし、魂の骨格だけを凝縮した禁断の果実だった。
その張り詰めた静寂を、城門の方から響く無骨な喧騒が切り裂いた。
金属が擦れ合う音、衛兵たちのうろたえる叫び。それらは急速にこの会議室へと近づいてくる。
数秒の後、作戦会議室の重厚な扉が、凄まじい衝撃と共に内側へと蹴破られた。バキッと乾いた木音が高らかに響き、引きちぎられた扉の破片が室内の大理石の床を無残に転がっていく。
そして、一人の男が嵐そのものとなって踏み込んできた。
「レオンハルトォォォ! 貴様、よくも私を、この私を騙したなあああ!」
鼓膜を震わせるほどの怒号と共に乱入してきたのは、清泉王国の名門ジュリアン公爵だった。
普段の、一本の髪の乱れすら許さない高雅で冷徹な姿はどこへやら、今の彼は白い外套を大きく羽のように羽ばたかせ、美しく整えられていたはずの金色の髪を激しく振り乱している。その端正な顔は怒りと、それ以上の辱めを受けた羞恥心によって、一瞬で茹で上がった蟹のように真っ赤に染まり、額やこめかみには青筋が恐ろしく浮かび上がっていた。
彼の背後に控える清泉王国の騎士たちも、主のあまりの激昂ぶりに完全に気圧され、青ざめた顔のまま、壊れた扉の枠外で直立不動のまま立ち尽くしている。
「おのれ、おのれ、おのれ、あの爽やかな柑橘の香りと、絹のように滑らかな小麦の優しさに満ちた液体が、大麦と小麦の毒をふんだんに使ったビールだったとは! 我が清廉なる肉体に、泥水を白湯と偽って流し込ませた罪、万死に値する! 一生の不覚! 昨日からどれだけ口を濯いでも、あの邪悪な麦の残香が鼻腔から消えんのだ!」
ジュリアンは怒りのあまり肩を激しく上下させながら、床を鳴らして大股で円卓へと詰め寄った。その切れ上がった瞳は完全に血走っており、レオンハルトを今すぐにでも引き裂かんばかりの敵意が宿っている。
あまりの剣幕と室内を支配する圧倒的な威圧感に、円卓の傍らにいたクララは「ひえっ、やっぱり完全にバレてた!」と短い悲鳴を上げた。彼女は素早くレオンハルトの椅子の背後へと回り込み、その広い背中に隠れるようにして身を縮めた。彼女の白い指先は小刻みに震え、編み込まれた金髪の先が、心細げにぴょこぴょこと跳ねている。
「クララ! 君も君だ! 我がジュリアン家の婚約者たる身でありながら、この野蛮な麦の国で、毎日『まずはピルスナー!』などと品性の欠片もない雄叫びを上げ、浴びるように麦の毒に溺れているという報告が我が元に届いているぞ! 今すぐその汚れた口を沸騰した白湯で根こそぎ洗浄し、清泉王国へ連れ戻してやる!」
ジュリアンは狂ったように拳を円卓に叩きつけた。ドン、と重い衝撃音が会議室に響き渡り、アイスボックのグラスがわずかに揺れる。
しかし、その怒りの嵐の正面に立つ第一王子レオンハルトは、眉一つ動かさずに椅子に深く腰掛けたままだった。彼は指先で、冷房魔石から生み出した小さな氷の粒を器用に弄びながら、冷徹で、どこか愉悦を帯びた瞳でジュリアンを静かに見据えた。
「吠えるな、白湯男。お前が騙されたのは、我が国のビールの持つあまりの華やかさと、完成度の高さを見抜けぬほど、お前の言う『純粋な味覚』とやらが節穴だったからだ。お前はただ、己の無知と味覚の貧しさを棚に上げて逆上しているにすぎん。それを泥水とは、最高の醸造家たちへの侮辱だな」
「何だと…!」
ジュリアンは怒りのあまり声を裏返らせ、腰の剣の柄に手をかけた。カチャリと金属音が鳴り、彼の指先が屈辱と怒気で激しく震える。
「ふぅ…いいだろう」
レオンハルトは静かに立ち上がり、机の上のアイスボックのグラスを指し示した。その瞳には、獲物を罠に追い詰めた猛禽のような光が宿っている。
「ならば、お前のその澄み切った味覚とやらが本物かどうか、試させてもらおう。もしお前がこの一滴に屈したら、クララの滞在延長を認め、そのガバガバな門を叩き直すまで大人しく待っていろ」
ジュリアンは激怒しながらも、レオンハルトの容赦のない挑発に、自らの最も神聖なプライドを刺激されたように、ぴたりと動きを止めた。彼は怒りで震える唇を歪め、ふっと冷たい笑みを口元に浮かべると、剣の柄からゆっくりと手を離した。そして、静かに自らの外套の内側、懐へと手を伸ばした。
「片腹痛い。不純物をどれだけ積み重ねようが、どれだけ魔力で引き締めようが、それは汚泥の密度を上げただけにすぎん。真の純粋とは、無駄なものを徹底的に削ぎ落とした『無』の中にこそある」
ジュリアンが懐から取り出したのは、精緻な銀細工が施された、手のひらに収まるほどの小さな小瓶だった。その表面には清泉王国の王宮魔導師たちの紋章が深く刻まれており、小瓶が空気に触れた瞬間、周囲のわずかな湿気が白い霜となって幾何学模様を描き、はらはらと大理石の床へ落ちていく。
「特別に見せてやろう。これが我がジュリアン家に伝わる隠し玉、絶界の「氷清水」だ。我が国の、人間など誰も足を踏み入れぬ極寒の霊峰の最奥にて、私の魔力をすべて注ぎ込み、地脈の雑味を分子の一個に至るまで削ぎ落とした水」
ジュリアンは小瓶の細い栓を、静かに引き抜いた。
瞬間、彼の周囲の空気が一変した。部屋全体を包んでいたわずかな熱すらも、彼の足元から広がる目に見えない波紋のように一瞬で消え失せていく。
ジュリアンは小瓶を傾け、中の無色透明な液体を自らの舌の上に、正確に一滴だけ落とした。
その一滴が染み渡ると同時に、彼の瞳は、限界まで研ぎ澄まされた氷の刃のように、極限の鋭さと絶対的な透明感を取り戻していった。先ほどまで恥辱と怒りで狂っていたはずの彼の精神が、その『氷清水』によって、あらゆる雑音を遮断する絶対的な「無」の領域へと強制的に引き上げられたのだ。
「これを口に含んだ私の味覚は、今、世界で最も澄み切った、一点の曇りもない無の状態にある。私のこの五感の前では、酒の雑味などただの不快な汚泥にすぎない。さあ、その薄汚い最高傑作とやらを出しやがれ。我が白湯の鉄槌で、その傲慢ごと粉砕してやる!」
怒りと絶対的な自信をその全身からみなぎらせたジュリアンは、円卓の上のアイスボックのグラスへと、その細く白い手を伸ばした。
対するレオンハルトは、すべてが計算通りだと言わんばかりの、深く不敵な笑みをその口元に刻んでいる。椅子の後ろでは、クララが息を止め、二人の一挙手一投足を見守っていた。
ジュリアンが怒りに震える手でそのグラスをしっかりと掴み、一気に口元へと運ぶ。
完璧な「無」を追求した白湯の探求者と、限界まで「有」を凝縮したビールの変態。その二つの究極が、今、ついに正面から激突する。
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