王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます   作:高校ジャージ10年目

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決着

 ジュリアンは、迷うことなくグラスを傾けた。

 

 漆黒のルビー、アイスボックが彼の唇を湿らせ、口内へと滑り込んでいく。

 

 完璧な『無』を追求した白湯の探求者と、限界まで『有』を凝縮したビールの変態。その二つの究極が、今、ついに正面から激突した。

 

 ジュリアンの身体が、目に見えて大きく震えた。

 

 グラスを掴んだ彼の細い指先が、大理石のように硬直する。彼の脳裏には、今までに経験したことのない、圧倒的な鮮烈さを持った幻影が強制的に描き出されていた。

 

 それは、地を削るような猛吹雪が吹き荒れる、果てしない極寒の雪山。

 

 そして、その絶対的な冷気の中央に毅然と聳え立つ、赤々と、狂おしいほどの熱量で燃え盛る巨大な暖炉の炎。

 

 彼が誇る氷清水の冷徹な防壁が、クララの魔法によって極限まで引き締められた、モルトの圧倒的な甘みの質量によって一瞬で粉砕されていく。防壁の破片を飲み込みながら、さらに奥へと押し寄せるのは、じっくりと煮詰めたプラムやドライフルーツを思わせる、濃厚で芳醇なコク。そして、彼の喉を内側から愛撫するように激しく焼く、酒精の圧倒的な熱量。

 

 それは、引くことを極め、静寂の中にのみ美を見出してきた彼が、生まれて初めて出逢った、完璧に統制された『圧倒的な有』の暴力だった。

 

 雑味ではない。不純物でもない。そこにあるのは、無駄な水分をすべて削ぎ落とされた、美しく、獰猛なまでのビールの『骨格』そのものだった。

 

「これが、これが、水からすべてを削ぎ落とした、ビールの真の姿だというのか…」

 

 ジュリアンはグラスを持ったまま、ガクリと膝をついた。

 

 大理石の床に彼の膝が当たる、高く重い音が静まり返った部屋に響き渡る。彼の端正な顔は、信じがたい現実を突きつけられた驚愕と畏怖によって激しく歪み、その切れ上がった瞳は、自身の哲学を根底から粉砕された敗北の感触に、じっと濡れていた。

 

 上座の椅子から立ち上がったレオンハルトは、その様子を見下ろし、フッと満足げに口元を歪めた。

 

「白湯男。クララの氷魔法で水分だけを凍らせて捨て去り、残った魂の結晶がそれだ。どうだ、お前の言う『純粋』の対極にある、この圧倒的なコクの重みは」

 

 ジュリアンは床に両手を突いたまま、荒い呼吸を繰り返していた。しかし、その瞳から怒りの色は完全に消え去っていた。代わりに宿ったのは、恐ろしいほどの忘我の輝きだった。

 

 突然、ジュリアンは狂ったように懐をまさぐると、一本の羽ペンと、革張りの小さな手帳を引っ張り出した。そして、床に這いつくばった姿勢のまま、猛烈な勢いで何かを書きなぐり始めた。紙を削るカリカリという鋭い音が、静かな室内に響く。

 

「初速において氷清水の無を強襲する焦糖の豪雨! 中盤、舌の側面を蹂躙するプラムの如き濃厚な酸、そして収束に向けて、十四パーセントを超える酒精が喉を灼熱の絹の如く滑り落ちる…。これほど緻密に構築された、美しき引き算の液体を、私は他に知らん!」

 

 ジュリアンは顔を跳ね上げ、恍惚とした表情で叫んだ。

 

 そのあまりの豹変ぶりに、レオンハルトの背後に隠れていたクララは「な、なによあいつ、急に怖いんだけど!」とさらに身を引いた。

 

 しかし、レオンハルトだけは違った。彼はジュリアンが書きなぐった手帳のページを覗き込み、その恐ろしいほど緻密で、詩的で、ビールの本質を完璧に言語化した文章に目を細めた。

 

「…お前、ただの頑固な白湯男かと思えば、とんだ『言語化の変態』だな。ビールのレビューの才能が天才の領域にある」

 

「天才だと? 当然だ! 私は完璧な液体しか認めない男だからな!」

 

「面白い」

 

 レオンハルトは不敵に笑い、床のジュリアンに向かって手を差し伸べた。

 

「ジュリアン公爵。その異常なまでのこだわりと観察眼、白湯だけに閉じ込めておくのは世界の損失だと思わないか。是非、お前の国、清泉王国でその筆刀を振るい、このビールの深淵を広めてはくれないか。お前のような極端な男が仕掛ける流行なら、一国を塗り替えるのも容易いはずだ」

 

 アイスボックの衝撃によって、脳内の味覚回路を完全にビール仕様へと書き換えられてしまったジュリアンは、差し出されたレオンハルトの手を強く握り返した。彼の頬は興奮で紅潮している。

 

「いいだろう! この完璧な引き算の芸術を、我が国の無知なる民どもに叩き込んでやる! まずは王宮の夜会を、この漆黒のルビーで血に染めてくれるわ!」

 

 がっしりと握手を交わし、凄まじい熱量で「清泉王国ビール流行計画」の作戦会議をその場で始めようとする二人の変態。

 

 その光景を目の当たりにしたクララは、額を押さえて深い、深い溜息を吐き出した。

 

「はぁ…。なんなのよ、この性急すぎる展開は。さっきまで殺し合いそうな雰囲気だったじゃないの…」

 

 あまりに勝手に話を進める二人を呆然と見つめていたクララだったが、やがてジュリアンの手帳の、文字の狂いぶりに視線を落とした。彼はすでに、ビールの魅力に取り憑かれて少し理性が飛んでいる。

 

「…仕方ないわね。ジュリアン、私もあなたと一緒に清泉王国へ帰るわ。手伝ってあげる」

 

「何、君が私を? しかし、君は麦の毒に…」

 

「うるさいわね! あんた一人に任せておいたら、白湯を混ぜてビールを台無しにしかねないでしょ。私が横でちゃんと監視しながら、美味しいビールの飲み方を教えてあげるわよ。それこそが、一番の布教になるんだから!」

 

 クララは胸を張り、ふんっと鼻を鳴らした。その瞳には、かつてこの国に居座り始めた時のような、強固な意思が再び灯っていた。

 

 

 

 数日後。麦冠王国の城門前。

 

 清泉王国の紋章が入った豪華な馬車が、出発の時を待っていた。ジュリアンはすでに馬車に乗り込み、手帳に新たなビールの論文を猛烈な勢いで執筆している。

 

「じゃあね、変態王子。私のピルスナーのストック、ちゃんと清泉王国まで定期便で送りなさいよ。一本でも切らしたら、氷魔法でアンタの国ごとを永久凍土にしてやるから」

 

 馬車のステップに足をかけたクララが、ぶっきらぼうに言い放った。

 

 レオンハルトは腕を組み、いつもと変わらない冷淡な態度でそれを見送っていた。

 

「恐ろしいことを言うな。心配せずとも、ジュリアンからの発注分と一緒に送る。お前も、向こうで派手に暴れてこい」

 

「言われなくてもそうするわよ」

 

 クララは一度馬車に乗り込もうとしたが、ふと動きを止め、レオンハルトの方へと視線を戻した。彼女は顔を少し背け、耳の付け根まで真っ赤に染めながら、蚊の鳴くような、風に消えそうな小さな声で呟いた。

 

「…ありがと。アンタのおかげで、退屈だった人生が、少しだけ美味しくなったわ」

 

 レオンハルトは眉を微かにひそめ、耳元に手を当てた。

 

「あ? 何か言ったか? 馬のいななきで聞こえなかった」

 

「な、なんでもないわよ、このお馬鹿! 一生ビールと結婚してなさい!」

 

 クララは顔を真っ赤にして叫ぶと、逃げるように馬車の中へと飛び込み、勢いよく扉を閉めた。御者が鞭を振るい、馬車は砂煙を上げて賑やかに去っていく。

 

 レオンハルトは、遠ざかる馬車をしばらく眺めていたが、やがて首を小さく振ると、自らも背を向けて歩き出した。

 

 

 さらに数日後の午後。麦冠王国の作戦会議室。

 

 円卓の上には、隣国との関税に関する極めて重要かつ退屈な書類が、山のように積み上げられていた。

 

 補佐官アルフレッドは、手にした羽ペンを動かすことなく、上座にある主の席をじっと睨みつけていた。

 

 そこにあるのは、もはや見慣れた、完璧なまでに『もぬけの殻』の椅子だった。

 

 アルフレッドの眼鏡の奥の瞳が、ピキリと冷たく光る。彼は静かに立ち上がると、手元の書類をトントンと机に叩いて揃え、恐ろしいほどの無表情で部屋を出て行った。

 

 同じ頃。王都の片隅にある、昼間からガヤガヤと活気に満ちた下町の酒場。

 

 職人や商人たちが大声で笑い合うその喧騒の特等席に、麦冠王国の第一王子レオンハルトは堂々と座っていた。彼の前には、美しく黄金色に輝くピルスナーのジョッキが置かれている。

 

 レオンハルトは、きめ細やかな白い泡を口元につけながら、喉を鳴らしてその冷えた液体を飲み干した。プハァ、と満足げな吐息が漏れる。

 

「やはり、我が国が仕込んだビールを、この騒がしい酒場で飲むのが一番の特等席だな。王宮の静かな部屋など、ビールの旨さが半減する」

 

 彼が二杯目のジョッキに手を伸ばそうとした、その瞬間。

 

 バァン! と、酒場の年季の入った扉が、信じられないほどの力で押し開けられた。

 

 ガヤガヤとしていた店内が一瞬で静まり返り、荒くれ者たちの視線が入り口へと集まる。そこに立っていたのは、高級な仕立ての衣服を完璧に着こなし、周囲の油臭い空気をすべて拒絶するようなオーラを放つ男、アルフレッドだった。

 

 アルフレッドは額にこれでもかと青筋を浮かべ、手にした「未決済の書類の山」を、まるで武器のように握りしめている。その眼鏡の奥の瞳は、完全に据わっていた。

 

「…殿下。このような場所で、またしても現実逃避ですか」

 

 アルフレッドの、地を這うような低い声が酒場に響く。

 

「ちっ。アルフレッド…、なぜここが分かった」

 

 さしもの変態王子も、この悪鬼のような補佐官の登場には、わずかに頬を引き攣らせた。アルフレッドは大股でレオンハルトのテーブルへと歩み寄り、ドサリと恐ろしい音を立てて書類の山を置いた。

 

「当然です。殿下が城を抜け出すときの麦の残香を追えば、この店に辿り着くなど子供の使いでも分かります。さあ、ビールはそこまでです。この関税書類三十枚に署名するまで、一滴たりとも次の酒は許しません。城へ戻りますよ」

 

 アルフレッドはレオンハルトのジョッキを冷酷に奪い取ると、彼の襟元を掴んで強引に立ち上がらせた。

 

「待て、アルフレッド! せめてこの残りの泡だけでも飲ませろ! 泡もビールだという判例がだな…!」

 

「却下です。そんな不毛な議論は、執務室でたっぷりと聞いてあげますから」

 

 引きずられていく王子と、それを冷徹に連行する補佐官の姿を見送りながら、酒場の客たちはドッと大きな笑い声を上げた。

 

 新たな麦の香りが、遠い隣国へと広がり始める予感を孕みながら、王子の賑やかな戦場は、あいもかわらず続いていくのだった。

 

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