王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
麦冠王国の作戦会議室。そこはつい先日、清泉王国のジュリアン公爵と「アイスボック」を巡る死闘が繰り広げられた場所であり、今はまた別の、しかし同様に不穏な熱気に満ちていた。
上座に座る第一王子レオンハルトの前に、補佐官アルフレッドが一通の、黒い蝋で封印された報告書を厳かに差し出す。
「殿下。お遊びはここまでです。王都の治安を揺るがす深刻な事態が発生いたしました」
「ほう。アルフレッド、お前がそのように真面目な顔をする時は、大抵ろくでもない税制改正か、我が国に新しい麦の病気でも流行った時だが」
レオンハルトは椅子の背もたれに深く寄りかかり、気怠そうに指先でペンを転がした。クララが清泉王国へと帰国してから数日、彼の心は完全に「仕込みロス」の状態にあり、退屈な政務に対していつも以上に非協力的だった。
アルフレッドは眼鏡のブリッジを親指で押し上げ、冷徹な声を室内に響かせる。
「後者であればどれほど救いがあったか。巷で『闇ビール』なるものが横行しているという確実な噂を、我が国の隠密が掴みました」
「闇ビール?」
ペンが、ピタリと止まる。
レオンハルトの瞳の奥に、怪しい、しかし強烈な光が灯った。その変化をアルフレッドは見逃さなかったが、もはや止めることはできないと諦めたように溜息を吐く。
「はい。王都の目の肥えた、いや、口の肥えた酒徒たちの間で、ここ数ヶ月、出所不明の奇妙なビールが極秘裏に流通しているとのこと。それは通常のビールよりも遥かに高く、濃厚で、一口飲めば天国のような泥酔へと誘われる劇薬…、と噂されております。王宮に登録されていない醸造酒の密売は、明らかな国家法違反。かつ、出所の分からない不審な液体が流通するなど、城下の治安維持の観点から看過できません」
アルフレッドが言い終わるか終わらないかのうちに、レオンハルトは勢いよく椅子を蹴って立ち上がった。その顔には、ここ数日見たこともないような、生き生きとした不敵な笑みが浮かんでいる。
「素晴らしい! そうか、そうか、城下の治安維持は、我が王族の最も神聖なる義務だ! アルフレッド、事態は一刻を争う。今すぐ現地の潜入捜査に赴くぞ!」
「…、殿下。お顔の筋肉が『美味い酒が飲める』と歓喜に震えておりますが」
「気のせいだ。これは悪を許さぬ、正義の武者震いだ」
大義名分という名の、最高の大人の玩具を手に入れた変態王子は、止める間もなく上着を引っ掴んで歩き出した。アルフレッドは天を仰ぎ、「これもお仕事です」と己に言い聞かせながら、監視と護衛のためにその後に続くしかなかった。
昼下がりの王都、下町の路地裏に佇む一軒の酒場。
普段は職人や労働者たちで賑わうその店も、この時間は客もまばらで、油の匂いと古びた木の香りが気怠く満ちていた。
その最奥の席に、場違いなほど姿勢の良い二人の男、平民の服に変装したレオンハルトとアルフレッドが陣取っていた。
「おい、店主。まずはピルスナーを二つ」
レオンハルトが声をかけると、カウンターの奥から、恰幅のいい、しかしどこか油断のない目を光らせた中年店主がジョッキを二つ運んできた。
大理石のように白い泡が乗った黄金色の液体が、円卓に置かれる。
「へい、お待ち。で、お貴族様のような佇まいのお二人さんが、ウチのような寂れた店に何の御用で?」
店主の目は、二人の衣服の下にある鍛え上げられた身体と、ただ者ではない雰囲気を敏感に察知していた。
レオンハルトは、運ばれてきたピルスナーをまずは一口、贅沢に喉へと流し込んだ。喉を鳴らし、ふぅ、と満足げに息を吐く。
「美味いな。基本に忠実だ、だが、俺たちが今日探しているのは、この光り輝く黄金ではない。もっと、こう…、影の中に隠された、漆黒、あるいは濃厚な琥珀の液体だ。単刀直入に聞く、巷で噂の『闇ビール』について、何か知っているな?」
レオンハルトの低い、しかし確信に満ちた言葉に、店主の眉がピクリと跳ねた。
しかし、店主はすぐに顔を大雑把に歪め、わざとらしい笑い声を上げた。
「ハハハ! 旦那、何をおっしゃる。闇ビールだなんて、そんなお伽話みたいな密造酒、ウチのような堅気な店が知るわけねぇでしょう。ウチにあるのは、このお国が定めた健全なビールだけですよ」
「そうか? お前の目は、知らない人間の目ではないが」
「へへ、そいつは旦那の気のせいだ。ほら、そいつを飲んだら、早くお帰りになりな。ウチは夕方から忙しくなるんでね」
店主はそう言うと、逃げるようにカウンターの奥へと引っ込み、執拗にグラスを磨き始めた。これ以上の追及は無駄だと、その背中が物語っている。
「殿下、完全に隠蔽されておりますね。やはり組織的な密造の可能性が…」
アルフレッドが耳元で囁くが、レオンハルトはどこ吹く風で、二杯目のピルスナーを注文していた。
「焦るな、アルフレッド。捜査において最も重要なのは、現地の空気(ビール)に深く馴染むことだ。店主、おかわり」
「殿下は…ただ飲みたいだけでしょう」
「高度な心理戦だと言っている」
結局、夕方になり、夜が更けるまで、二人はその酒場で「捜査」という名の飲み歩きを続け、有力な口頭証言は一つも得られないまま、店を後にすることになった。
月が天頂に昇り、王都の騒がしい大通りも完全に静まり返った深夜。
冷たい夜風が吹き抜ける、人気のない寂しい路地裏を、二人の男が歩いていた。
「収穫ゼロですね。殿下が余計なアルコールを摂取したという最悪の収穫以外は」
アルフレッドが呆れたように手帳を閉じる。
「そうか?収穫なら、今、向こうから風に乗ってやってきた」
レオンハルトの足が、突如としてピタリと止まった。
彼の鼻腔が、夜の冷気の中でピクピクと微かに動く。彼の瞳は、暗闇の中で獲物を見つけた獣のように鋭く細められていた。
「ふむ、間違いない。これは、通常の三倍、いや四倍以上の濃度のモルトの甘み。それに、イチジクやレーズンをじっくりと煮詰めたような、重厚で芳醇な熟成香…。そして、わずかに混ざる、クローブのような高貴でスパイシーな野生酵母の匂いだ。この近くで、未知の至高のビールが呼吸している」
「殿下、あなたの嗅覚は本当に人間のものではありませんよね」
アルフレッドが呆れるのも構わず、レオンハルトは気配を消して、先ほどの酒場の裏口へと続く細い泥道へと滑り込んだ。アルフレッドも無言で木陰に身を潜める。
路地裏の、壊れかけた街灯の微かな光の下。
そこには、昼間の酒場の店主と、全身を不気味な黒いフード付きのマントで覆った、小柄な何者かが立っていた。
「おい、今月分はこれで全部か?」
店主の低い声が聞こえる。
「はい…教会の目を盗んで仕込めるのは、これが限界です。聖堂の屋根を直すための費用、確かに頂けますか?」
フードの奥から聞こえたのは、意外にも、鈴を転がすような澄んだ、しかし酷く緊張に震える若い女の声だった。
黒いフードの人物は、大切そうに抱えていた小さな木樽を店主に手渡し、代わりにずっしりと重い、金貨の入った革袋を受け取った。
「よし、取引成立だ。おい、このビールは本当にヤバい。常連どもが『あの神の雫をくれ』って夜な夜な群がってきて、ウチの売り上げは倍増だ。来月も頼むぜ、聖職者様」
「神様、どうかお許しください…」
フードの人物は小さく祈るように胸元で手を合わせると、足早に路地の闇へと歩き出した。
「アルフレッド、行くぞ。現行犯だ」
「了解しました」
二人の動きは電光石火だった。
闇を裂いて飛び出したレオンハルトが、フードの人物の行く手を阻む。
「動くな。麦冠王国の治安維持部隊だ。深夜の密売行為、および未登録酒類の流通容疑で身柄を拘束する」
「なっ…!?」
フードの人物は短い悲鳴を上げ、咄嗟に翻って逃げようとした。しかし、その退路にはすでに、アルフレッドが冷徹な表情で立ち塞がっていた。
「諦めなさい。あなたに逃げ道はありません」
アルフレッドの放つ冷たい魔力の威圧感に、フードの人物はすくみ上がり、バランスを崩して地面に激しく転倒した。その拍子に、彼女が必死に抱えていた、一本の美しいガラス瓶が泥の上に転がる。ボトルのラベルには、厳格な聖堂の紋章が刻まれていた。
レオンハルトは素早く間合いを詰め、抵抗を封じるために、その人物の細い両手首を背後でがっしりと取り押さえた。普段は書類仕事ばかりの二人だが、こういう実力行使の瞬間だけは、恐ろしいほどのコンビプレーを見せる。
「しまっ…! 離してください! 私は、私はただ…!」
必死に暴れ、掴まれた手を振り払おうとする容疑者。その激しい動きの中で、彼女の頭を深く覆っていた黒いフードが、不意にハラリと後ろへ滑り落ちた。
月光が、その顔を白く照らし出す。
「…あ?」
レオンハルトの手の力が、思わずわずかに緩んだ。
そこにいたのは、成人したばかりであろう、まだあどけなさを色濃く残した一人の少女だった。
艶やかな亜麻色の髪が夜風に揺れ、大きな瞳には涙が一杯に溜まっている。彼女の衣服は、黒いマントの下に隠されていたが、それは間違いなく、神に仕える清貧な修道女(シスター)の着る、汚れなき修道服だった。
「女の子? しかも、修道女、ですか?」
背後でアルフレッドが、珍しく驚きに目を見開く。
少女は地面に這いつくばったまま、怯えたようにレオンハルトを見上げ、しかしその瞳には、自分の罪を受け入れるような、悲痛なまでの強い覚悟が宿っていた。
「…私は、聖ローラン修道院のアンナです。捕まえるなら、私一人にしてください。修道院の皆は、何も知らないのです…!」
アンナと名乗った少女は、泥に汚れたボトルのビールを愛おしそうに見つめながら、ぽろぽろと大粒の涙を流した。
そのボトルの奥で揺れる漆黒の琥珀色の液体の正体とは…
神聖なる修道院の禁忌と、謎の少女アンナとの遭遇により、レオンハルトの新たな麦の深淵への扉が、今、不穏に開かれようとしていた。
朝から飲みます