王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
月光が、路地裏の湿った泥の上にひざまずく少女の姿を、残酷なほど鮮明に白く照らし出していた。
フードの奥から現れたのは、まだ成人したばかりであろう、あどけなさを色濃く残した修道女、アンナだった。彼女の艶やかな亜麻色の髪には路地裏の埃が薄く混じり、大きな瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちて大理石の破片を濡らしている。
手首を掴むレオンハルトの大きな手の中で、彼女の細い腕は小刻みに、しかし激しく震えていた。
「…聖ローラン修道院の、アンナ、と言いましたね」
アルフレッドが、手帳を片手に冷徹な、しかしどこか困惑の混ざった声をかけた。
「はい。…捕まえるなら、私一人にしてください。修道院の院長様も、他のシスターたちも、子供たちも何も知らないのです。私が、私が勝手にやったことです!」
アンナは必死に声を絞り出し、地面に転がった一本のガラス瓶を、自らの身体で庇うようにして抱きしめた。そのボトルの表面には、およそ俗世の酒場には似つかわしくない、厳格な十字架と聖堂の紋章が深く刻まれている。
レオンハルトはアンナの手首をゆっくりと離し、その場に屈み込んだ。彼の鼻腔は、先ほどから彼女が抱え込んでいるボトルから漏れ出る、ただ事ではない「麦の気配」を敏感に察知し続けていた。
「おい、アンナと言ったか。そのボトルを一度、俺に見せてみろ」
「嫌です! これは、これは神様へ捧げる、私たちの祈りの結晶なのです! 汚さないでください!」
「拒否権はありませんよ、修道女。我々は一応、この国の治安維持部隊ですからね」
アルフレッドが淡々と告げると、レオンハルトはアンナの抵抗を物ともせず、その細い腕の中から滑らかなガラス瓶をひょいと抜き取った。
アンナは「ああっ!」と悲鳴のような声を上げたが、レオンハルトはすでに彼女の言葉など耳に入っていない様子だった。彼はボトルの栓を、親指の魔力で静かに弾き飛ばした。
シュボッ、と短い破裂音と共に、路地裏の濁った空気の中に、一筋の「奇跡」が解き放たれた。
「…っ!」
レオンハルトの喉が、大きく鳴った。
それは、これまで彼が出会ってきた、どのビールとも異なる異質な香りだった。通常の三倍から四倍はあろうかという贅沢なモルトの濃厚な甘み。それが、長い年月を経て漆黒の琥珀へと熟成されたかのような、深みのある糖の香りと混ざり合っている。だが、何より特筆すべきは、その奥から立ち上る、イチジクや干しぶどうのような濃厚な果実香、そしてクローブやシナモンを思わせる、複雑で高貴なスパイシーさだった。
「仕込み水に、微かなハーブの香気…。そしてこの、鼻腔を狂わせるような独特の果実香は、通常の麦冠王国の酵母ではない。聖堂の古い壁に、何百年も住み着いてきた野生の『菌』の仕業か」
レオンハルトは我慢できず、ボトルの口を自らの唇へと運んだ。
「勝手に飲まないで…!」というアンナの制止の声は、王子の喉を鳴らす音にかき消された。
液体が舌の上を転がった瞬間、レオンハルトの脳内に、厳かなパイプオルガンの重低音と、ステンドグラスから差し込む神聖な五色の光が、圧倒的な鮮烈さで描き出された。
度数は高い。おそらく九パーセント、いや十パーセントに近いハイアルコールだ。しかし、その強烈な酒精の熱さを、極限まで濃縮された麦芽の甘みと、酵母が醸し出したフルーティな酸味が見事に包み込み、恐ろしいほどの滑らかさで喉へと滑り落ちていく。
重厚でありながら、引き際はどこまでも清らかで、神聖。それは「闇ビール」などという卑俗な名で呼ぶにはあまりにも不敬な、至高のトラピストビール、その中でも最高峰の『クアドルペル』の領域だった。
「…美味い。美味すぎる。これを、お前が造ったのか?」
レオンハルトはボトルを持ったまま、目を血走らせてアンナの顔を覗き込んだ。その変態的な熱量に、アンナは恐怖で小さく身をすくめた。
「は、はい。私が、修道院の古い地下醸造所で。でも、それは飲むためではなく、ただ、神様への労働の祈りとして…」
「労働の祈りが、なぜ下町の酒場で金貨と引き換えに闇取引されているんですかね」
アルフレッドが眼鏡の奥の目を光らせ、鋭く突っ込んだ。
アンナはガクガクと唇を震わせ、再び大粒の涙をポロポロと零した。
「…仕方がなかったのです。私たちの聖ローラン修道院は、辺境の貧しい場所にあります。冬の寒さで聖堂の屋根が崩れ落ち、このままでは、身寄りのない子供たちや、年老いたシスターたちが次の冬を越せなくなってしまいます。教会の上層部に何度も修理費をお願いしましたが、あの方々は『信仰が足りぬからだ』と、一払いもしてくれませんでした」
アンナの拳が、泥の上で固く握りしめられる。
「だから、私が…。修道院に伝わる、門外不出のビールの製法を使って、屋根の修理費を稼ごうとしたのです。でも、教会では『ビールを売って商業を営むなど、俗世の穢れであり大罪だ』と厳しく禁じられています。だから、夜な夜なフードを被って、街の酒場に密売するしか…。神様、どうかお許しください…」
彼女は胸元で十字を切り、完全に罪人として天の裁きを待つ姿勢をとった。その健気で、しかしあまりにも切迫した事情に、いつもは冷徹なアルフレッドの鉄の理性が、わずかに揺らいだ。
「…殿下。これは、単なる快楽目的の密造酒とは、事情が異なるようです。成人したばかりの聖職者が、孤児たちの命を救うために法を犯した。もしこれを厳罰に処せば、王室の威信にも関わりかねません」
「ああ、そうだな。こんな至高の液体を造る天才を、薄暗い監獄に閉じ込めるなど、世界の損失以外の何物でもない」
レオンハルトは立ち上がり、ニヤリと、ジュリアンを罠に嵌めた時と同じ悪魔の笑みを浮かべた。彼はアンナに向かって、再びその大きな手を差し伸べる。
「アンナ。お前のその『発酵の才能』と、修道院の危機、俺がすべて買い取ってやろう」
「え…?」
アンナは涙に濡れた顔を上げ、呆然と王子を見つめた。
「お前の言う通り、教会の上層部に知られれば、お前は破門、修道院は取り潰しだ。だが、もしその修道院が『第一王子直轄の、国家最高機密醸造所』という裏の顔を持てばどうだ? 屋根の修理費どころか、最高級の麦と、最新の醸造設備を、国家の予算でいくらでも回してやる」
「こ、国家予算でビールの密造を!? 殿下、何を考えているのですか!」
アルフレッドが叫んだが、レオンハルトはそれを完全に無視した。
「条件は一つ。その『神の奇跡』の製法を、俺と共にさらに研究し、我が国の新たな最高峰のビールとして完成させることだ。どうだ、アンナ。神の罰なら、この俺が半分背負ってやる。俺と一緒に、教会のハゲ頭どもの鼻を明かしてみないか?」
アンナは、差し出された王子の手をじっと見つめた。
彼の言葉は、あまりにも不敬で、破天荒で、しかし、目の前の絶望的な暗闇をすべて吹き飛ばすほどの、圧倒的な熱量と輝きに満ちていた。
「…本当に、助けてくれますか?」
「王族の言葉に、二言はない」
アンナは、自分の泥に汚れた小さな手を、レオンハルトの手へと、恐る恐る重ねた。
その瞬間、彼女の味覚と発酵の魔力が、レオンハルトの変態的なビールへの情熱とがっちりと結びついた。
「…やむを得ませんね」
アルフレッドは深い溜息を吐きながら、手帳に素早くペンを走らせた。
「本日の捜査記録。『治安維持のための潜入調査中、辺境修道院における国家特例の財政支援物件を発見。これに伴い、第一王子の直轄領として保護を適用する』。…殿下、これで書類は偽造できましたが、次の査問会議の言い訳は、すべてあなたが考えてくださいよ」
「頼りにしてるぞ、アルフレッド。さあ、アンナ、まずはその聖ローラン修道院とやらに案内してもらおうか。新しい仕込みの現場を、一刻も早く拝みたいからな!」
夜の路地裏に、王子の不敵な笑い声が響き渡る。
クララが去った麦冠王国に、新たな麦の香りと、より深く、より危険な『トラピストビール』の深淵が、今、賑やかに幕を開けるのだった。
ウェストマールとか好きですよ。スーパーに置いてくれないかな。