王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
麦冠王国の作戦会議室。そこはつい先日、治安維持という名の大義名分を手に入れた第一王子レオンハルトが、謎の修道女アンナを保護し、至高のトラピストビールを国営化しようと画策した、まさにその場所だった。
しかし、今日の室内に漂う空気は、いつものようなビール談義の軽妙さは微塵もなく、まるで分厚い氷の壁に閉じ込められたかのような、重苦しく、そして冷徹な緊張感に支配されていた。
上座のレオンハルトの正面、円卓を挟んだ対面に立ち塞がっているのは、黒と金糸で彩られた、およそこの世の権力の最高峰を体現したかのような、豪奢でありながら厳格な法衣を纏った一人の老人だった。
彼の背後には、白銀の甲冑に身を包んだ、王国の騎士団とは明らかに異なる紋章、神聖なる十字と盾を刻んだ聖堂騎士たちが、一言の私語すら交わさずに整然と立ち並んでいる。
「レオンハルト王子。我が聖ローラン修道院の歴史を、お前たち新興の王族ごときが踏みにじることは、決して許されん」
老人の声は低く、しかし謁見の間の高い天井へ向かって恐ろしいほど明瞭に響き渡った。彼の名はマルセル枢機卿。大陸全土に数百万人の信徒を抱え、王国の法律すら超越した権力を持つ「聖ローラン修道院・本山」から遣わされた、最高位の特使だった。
聖ローラン修道院。それは、麦冠王国がこの地に建国される遥か昔、暗黒の時代から人々の信仰を支えてきた、超法規的な神聖組織である。その影響力は王権を容易に凌駕し、もし彼らが「この国は神の敵である」と一言宣言すれば、王国は全隣国からの経済封鎖と、国内の信徒たちによる大規模な暴動によって、一瞬にして崩壊の危機に瀕することになる。すなわち、王族であっても絶対に手出しができない、不可侵の領域だった。
「我が本山は、修道女アンナが俗世の穢れである『ビールの密売』に手を染め、聖なる教義を汚したという確実な証拠を掴んでいる。王子よ、直ちにその罪人の身柄を我が方に引き渡し、お前の言う『直轄保護』とやらを全面撤回せよ。さもなくば、我が修道院はお前たち王家を『神敵』と見なし、破門を宣告する用意がある」
国家としての宗教的孤立、撤回せねば王家の終焉。最悪の脅迫が室内に突きつけられた瞬間、レオンハルトの隣に立つ補佐官アルフレッドの顔から、目に見えて血の気が引いていった。彼の有能な頭脳は、即座に「勝率ゼロ」の計算を弾き出していた。
「…殿下。今回ばかりは相手が悪すぎます」
アルフレッドは額に冷や汗を流しながら、レオンハルトの耳元で消え入るような声で具申した。
「相手は歴史そのものです。彼らの持つ宗教権力の前では、我が国の法律などただの紙切れ同然。ここでアンナを引き渡さねば、我が国は本当に滅びかねません。ここは、一時撤退を」
アルフレッドの言葉は、常識的な政治家として当然の判断だった。マルセル枢機卿もまた、王族が自らの権威に恐れをなし、平伏するのを確信したように、傲慢な笑みをその老いた顔に深く刻んでいた。
しかし。
その絶対的な絶望の嵐の正面に立つ第一王子レオンハルトは、怯えるどころか、その肩を微かに震わせ始めていた。
「ハハハハハ!」
突如として、作戦会議室にレオンハルトの突き抜けた笑い声が響き渡った。
マルセル枢機卿の眉が不快げに跳ね上がり、アルフレッドは「ああっ、また殿下の変態スイッチが入ってしまった!」と絶望して天を仰いだ。
レオンハルトは椅子の背もたれから勢いよく身体を起こし、机の上の書類を乱暴に払いのけた。彼の瞳には、これまでのどの戦い以上の、見たこともないような『変態的な愉悦』の炎が狂おしく燃え上がっていた。
「面白い。王族でも手出しできない歴史だと? 国家を滅ぼす破門だと? マルセル枢機卿、お前たちは相変わらず、その神聖なるヴェールの裏に隠された『真実』を、随分とお安く見積もっているようだな」
「何だと…? 不敬な王子め、神の権威を愚弄するか!」
激昂する枢機卿を冷たい目で見据えながら、レオンハルトは大股で円卓を回り込み、枢機卿の目の前へと詰め寄った。その圧倒的な体躯と、ビールへの異常な執念が生み出すプレッシャーに、聖堂騎士たちが思わず腰の剣に手をかける。
「お前たちは、アンナが『俗世の商業』に手を染めたから罪人だと言ったな。だが、お前たちの崇める大聖堂の古代教典、その第三章第十二節を今ここで思い出してみろ。そこには何と書いてある?」
レオンハルトは指を突きつけ、教会の最高位である枢機卿に向かって、逆にその教義を説き始めた。
「『労働は神への祈りであり、自給自足によって生み出された余剰を、困窮する他者に分け与えることは、神の慈悲の体現である』…違ったか? ハゲ頭の枢機卿。アンナがやっていたことは、寒さで死にかけている修道院の孤児たちを生かすための『労働の祈り』だ。そして、彼女が街の酒場に持ち込んだのは商品ではない。困窮した修道院を救おうとした人々からの『聖なる寄付』に対する、神聖な返礼品だ!」
「詭弁を言うな!」
マルセル枢機卿は顔を真っ赤にし、杖を床に激しく叩きつけた。
「そのような、人を惑わす高アルコールの劇薬が、神の慈悲なわけがあるか! それはただの密造酒だ!」
怒号が響いた瞬間。
それまで青ざめていた補佐官アルフレッドの眼鏡の奥の瞳が冷酷に、そして妖しく光った。
「…ほう。今、何とおっしゃいましたか、枢機卿」
アルフレッドは一歩前へ出ると、手にした手帳をパラパラと恐ろしい速度でめくり、冷徹な声を室内に響かせた。
「『密造酒』…すなわち我が王国の酒税法第十二条、および醸造管理法に違反した物品、という意味ですね。素晴らしい。聖職者たる皆様が、我が国の法律をそこまで深く尊重し、それを根拠に議論を進めてくださるとは夢にも思いませんでした」
「な…何だと…?」
マルセル枢機卿の顔から、一瞬で余裕が消え失せた。
レオンハルトはクククと低く笑い、完全に形勢逆転の不敵な笑みを深く刻んだ。
「お前たち教会は『王法すら超越する神聖な存在』として、アンナを教会法で裁くために連れて行こうとしたはずだ。だが、お前自身がそれを『我が王国の法律違反(密造酒)』だと言うなら、それは我が国の警察権、および司法権の領分だな? 我が国の法律を犯した罪人を、なぜ他国の組織であるお前たちが連行していく必要がある? それは我が国の主権に対する明白な侵害だ」
「し、しまっ…!」
枢機卿は自らの失言の大きさにようやく気づき、顔を青くしたり赤くしたりして狼狽し始めた。背後の聖堂騎士たちも、ざわざわと動揺を隠せない。
「い、いや! 言い間違いだ! あれは神の教えにおいて大罪の酒であると言おうと…!」
「公式な外交の場で、今さら発言の撤回は認められません」
アルフレッドが冷酷無比な事務処理で、枢機卿の逃げ道を完全にシャットアウトした。
レオンハルトは、懐から泥に汚れた美しいガラス瓶を取り出すと、ドン、と重い音を立てて円卓の中央に置いた。それこそが、アンナが命がけで仕込んだトラピストビール『クアドルペル』だった。
「さて、お前が『我が国の法律(密造酒)』を盾にするなら、俺たちも我が国の法律に従おう。我が国の酒税法第十八条。『出所不明の不審な酒類を発見した場合、王族または担当官は、その安全性を確認するために【検収(試飲)】を行う権利を有する』。おい、ハゲ頭。今すぐこれを飲め。お前がこれをただの不純な『密造酒』と言い切るなら、今すぐアンナを監獄にぶち込んでやる。だが、もし一滴でも神聖さを感じたら……、お前たちの負けだ」
王族の命運をかけた「聖なる試飲(検収)バトル」の幕が、今、完全にレオンハルトの主導によって、激しく切って落とされた。