王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます   作:高校ジャージ10年目

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トラピストビール③

 静まり返った作戦会議室。円卓の中央に置かれた一本のガラス瓶から、濃厚なモルトの甘みと、干しぶどうを思わせる熟成香、そしてクローブの妖艶なスパイシーさが、目に見えぬ霧のように音もなく広がっていく。

 

 それは、教会のハゲ頭どもの鼻腔を容赦なく蹂躙し、その厳格な理性を根底から揺るがす、アンナの仕込んだ禁断の『クアドルペル』だった。

 

 マルセル枢機卿は、自らの放った「密造酒」という一言によって、自ら神聖な法廷から世俗の法廷へと引きずり降ろされた事実を、未だ信じられないというように凝視していた。彼の誇り高き白い髭が、屈辱と焦燥で小さく痙攣している。

 

「さあ、どうした、枢機卿。我が国の酒税法に基づく正当な【検収】だ。まさか、聖ローラン修道院の最高位ともあろうお方が、王族から差し出された『液体』の毒見を恐れるわけではあるまい?」

 

 レオンハルトは、細長い銀のゴブレットに漆黒のルビーのごとき液体をたっぷりと注ぎ込み、それを枢機卿の鼻先へと滑らせた。円卓の上を滑る銀の底が、チリリと高い音を立てる。

 

 アルフレッドは眼鏡の位置をミリ単位で修正し、手帳を構えたまま、獲物の息の根を止める瞬間を待つ猛禽のように冷徹に見つめていた。

 

「くっ…、愚かな王子め。そのような小細工で、このマルセルが揺らぐと思うたか! 神の真理は、不純な液体などに宿りはせん!」

 

 枢機卿は、背後の聖堂騎士たちの手前、ここで引き下がるわけにはいかなかった。彼は震える右手を伸ばし、銀のゴブレットを鷲掴みにした。その節くれだった指先に、凄まじい怒気が籠もる。

 

「我が喉を通る時、これがただの『悪魔の劇薬』であることを、私の言葉をもって証明してくれよう!」

 

 マルセル枢機卿は、覚悟を決めたようにゴブレットを高く掲げ、その漆黒の液体を一気に口内へと流し込んだ。

 

 瞬間。

 

 老聖職者の身体が、落雷に打たれたかのように激しく硬直した。

 

 ゴブレットを握る指が白く染まり、カチカチと銀が震える音が響く。彼の脳裏には、数十年前に本山の最も深い地下書庫で一度だけ目にした、創創期の聖人たちが残したとされる禁断の幻影が、圧倒的な質量を伴って蘇っていた。

 

 それは、どこまでも高く、どこまでも清らかな、天界の聖堂。

 

 しかし、その冷徹な大理石の床を叩き割るようにして湧き出す、地熱を孕んだ、濃厚で甘美な麦汁そのもの。

 

「な、なんという…、これは…!」

 

 枢機卿の喉が、ドク、ドクと大きな音を立てて液体を飲み干していく。引き剥がそうとしても、身体が、いや、彼の味覚という名の魂が、その一滴の終わりすら拒絶していた。

 

 アルコール度数、十パーセント。通常のビールを遥かに凌駕するその酒精は、彼の喉を焼く劇薬などではなかった。極限まで贅沢に使用された麦芽の、焦がした砂糖のような深い甘みと、数百年もの間、古い聖堂の壁に住み着いてきた野生酵母だけが醸し出せる、豊潤なプラムの酸味。それらが完璧な調和を保ち、酒精のトゲを全て滑らかな絹のドレスで包み込んでいた。

 

 重厚で、あまりにも優雅。

 

 それは、日々の清貧な労働を耐え抜いた修道士たちにのみ許される、神聖なる『栄養源』の究極の姿。引き際は、どこまでも清らかなハーブの香気と共に、奇跡のようにふっと消えていく。

 

「これは…大罪、いや、しかし…、この気高き香気は…!」

 

 マルセル枢機卿は、大理石の床に力なく膝をついた。その顔は、自らの信仰と、口内に残る圧倒的な「神聖さ」との間で引き裂かれ、激しく苦悩に歪んでいた。

 

 彼ほどの高位聖職者であれば、分かってしまうのだ。これが、悪魔の誘惑などではなく、一人の純粋な少女が、神への絶対的な祈りと労働の果てに到達した『奇跡の結晶』であるということが。

 

「どうだ、ハゲ頭」

 

 レオンハルトは上座の椅子に再び深く腰掛け、愉悦に満ちた声をかけた。

 

「それをただの『俗世の不純物』と言い切れるか? それが神の加護なき密造酒だと、お前たちの神の前に誓って断言できるか?」

 

「…」

 

 枢機卿は何も答えられなかった。ここで「ただの密造酒だ」と嘘をつくことは、彼の生涯の信仰そのものを裏切ることに他ならなかったからだ。背後の聖堂騎士たちも、主のその崩れ落ちた姿を見て、完全に戦意を喪失し、静まり返っていた。

 

 勝負は、決した。

 

 

「アルフレッド、書類を」

 

「はい、殿下。すでに用意してございます」

 

 アルフレッドは待ってましたとばかりに、トントンと机に一枚の、真新しい羊皮紙の契約書を滑らせた。そこには、事前にレオンハルトが彼に書かせておいた、恐るべき法律の罠が記載されていた。

 

「マルセル枢機卿。我が国の酒税法に基づき、この『聖なる液体』は、その高い品質と神聖性を鑑み、王家が永久に保護・管理を行うこととする。……、すなわち、聖ローラン修道院の辺境支部を『第一王子直轄・国定神聖醸造所』として登録する。修道院の敷地は不可侵のままだが、そこで造られる全てのビールは、我が王家との共同管理物となる」

 

 アルフレッドは冷酷に羽ペンを枢機卿の前に突きつけた。

 

「これに署名すれば、修道女アンナの行為は『国家法に基づく、公式な返礼品の製造』となり、罪は全て消滅します。本山としても、王家からの巨額の『聖なる寄付金(修理費)』を合法的に受け取ることができる。悪い話ではないでしょう?」

 

 枢機卿は、震える手で羽ペンを握りしめた。彼はレオンハルトを、まるで本物の悪魔を見るような目でにらみつけたが、口内に残るクアドルペルの、あまりにも甘美な余韻に抗うことはできなかった。

 

「おのれ、変態王子め。神の雫を、俗世の政治に利用するとは…。この借りは、必ずや本山が返してやるぞ…!」

 

 ガリガリと、呪詛のような音を立てて、枢機卿は契約書にその名を刻んだ。

 

 王族でも手出しできない歴史の壁が、ビールの美味さと法律の抜け穴によって、完全に粉砕された瞬間だった。

 

 数日後。王都の喧騒から遠く離れた、緑豊かな森の奥に佇む聖ローラン修道院。

 

 そこでは、崩れかけていた聖堂の屋根に新しい木材が組まれ、活気に満ちた大工たちの声が響いていた。

 

 その薄暗い地下醸造所。数百年もののオーク樽が並ぶ静謐な空間で、アンナは新しい仕込みのための大麦を丁寧に選別していた。彼女の亜麻色の髪が、窓から差し込む一筋の光に透けて輝いている。

 

「あ、レオンハルト様! アルフレッド様!」

 

 入り口の扉が開き、変装した二人が入ってくると、アンナは嬉しそうに顔を綻ばせて駆け寄ってきた。その瞳からは、数日前のような怯えは完全に消え去っていた。

 

「調子はどうだ、アンナ。我が国の最高級のホップと麦芽は、お前の『酵母たち』の口に合ったか?」

 

「はい! 皆さん、新しい麦の甘みに大喜びです! 『これなら、次の冬にはもっと度数の高い、素晴らしい仕込みができる』って、樽の中からプチプチと元気な声が聞こえます!」

 

 アンナは樽に耳を当て、我が子の機嫌を伺うように愛おしそうに微笑んだ。

 

「殿下。彼女の『発酵の加護(変態的嗅覚)』は、本当に私たちの想像以上ですね」

 

 アルフレッドが感心したように呟く。

 

「よし、アンナ。次はあのハゲ頭どもが二度と文句を言えないような、さらに神聖で、かつ人を狂わせるような最高峰の『トリペル』を仕込むぞ。国家予算はいくらでも使っていいからな」

 

「はい、レオンハルト様!神様と、子供たちのために、世界一のビールを造ります!」

 

 アンナの清廉な、しかしビールへの狂気を孕んだ笑顔と共に、地下醸造所には、新たな発酵のプチプチという神聖な音が、賑やかに響き渡り始めるのだった。

 

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