王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます   作:高校ジャージ10年目

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大ビール祭り開幕

 

「信じられません。いったい何が起こっているのか…」

 

 麦冠王国の作戦会議室。いつもは冷徹な鉄の理性を保っている第一王子補佐官、アルフレッドが、眼鏡の奥で、その瞳をかつてないほど激しく泳がせていた。彼の細い指先が、小刻みに震えている。

 

 上座にふんぞり返り、自らのブーツの先を磨いていた第一王子レオンハルトは、退屈そうに片目を上げて愛すべき補佐官を一瞥した。

 

「おいおい、アルフレッド。優秀なお前の頭脳が、たかが数字の羅列に怯えてどうする。何が書いてあるんだ? 紙切れには」

 

「数字の羅列、などという生易しいものではありません、殿下」

 

 アルフレッドはトン、と大きな音を立てて帳簿を円卓の中央へと滑らせた。そこには、王国の財務官が見れば腰を抜かして失神するほどの、眩いばかりの純金貨の純利益が、恐ろしいほどの行数で記録されていた。

 

「シスター・アンナを保護し、聖ローラン修道院の辺境支部を国営化してから、わずか数週間。そこで試験的に製造され、我が国の特例として隣国の富裕層や王宮へ密かに流された、度数十パーセントのトラピストビール『クアドルペル』の売り上げです。…外貨の流入が止まりません。我が国の国庫は今や、過去最高、建国以来見たこともないほどの異常な黒字を記録しております。辺境の全修道院の屋根を今すぐ純金箔で葺き替え、さらに孤児院の子供たちに毎食最高級の肉を食わせても、お釣りが信じられないほど余る金額です」

 

「ハハハハハ! 見たかアルフレッド! これが『麦の神』がもたらす本物の奇跡だ!」

 

 レオンハルトは椅子から勢いよく立ち上がり、天井が震えるほどの突き抜けた笑い声を響かせた。彼の脳内は、すでに次の「美味なる悪巧み」に向けて、回転を始めている。

 

「これだけの予算、そして国民の懐の温まり方。おい、アルフレッド。俺の天才的な直感が、今、最高に不敬で最高にハッピーな国家プロジェクトを告げているぞ」

 

「嫌な予感しかしません。殿下、その口を閉じてください。今すぐ公務に戻るのです」

 

「却下だ! 決定事項を告げる! 夏の終わりを締めくくる、下町のしがない平民から王宮の高慢な貴族、さらには隣国のあの白湯を愛する変態公爵までをも強制的に巻き込んだ、我が国最大規模の『国を挙げた大ビール祭り』を開催する! 予算はすべて、この黒字の山から捻出しろ!」

 

「…は?」

 

 アルフレッドの顔から、一瞬で生気が引き裂かれた。

 

「大ビール祭り、だとおっしゃいましたか? 殿下、正気ですか。先日の枢機卿との一件が片付いたばかりで、王都の治安維持部隊の疲弊はピークに達しているのです。それなのに、街全体を巨大な酒場に変えるなど…」

 

「お前は相変わらず数字は読めるが、民の心が読めない男だな、アルフレッド。人間、美味い酒を腹一杯飲んでいる時は、誰かを裏切ったり悪巧みをしたりする余裕などないのだ。つまり、この祭りは完璧な治安維持活動でもある! 異論は認めん。最高のピルスナー、最高のヴァイツェン、そしてあらゆる麦の恵みを王都に集めろ!」

 

 レオンハルトの瞳には、これまでのどの戦いよりも、見たこともないような『醸造の愉悦』の炎が狂おしく燃え上がっていた。アルフレッドは「これ以上言っても無駄だ」と天を仰ぎ、凄まじい速度でペンを走らせて祭りの予算書を、作成し始めた。

 

 

 

 

 王都の華やかな喧騒から遠く離れた、王宮の最果て。普段は誰も近づかない、古い資材置き場の奥にひっそりと佇む『第三試作醸造所』。

 

 そこは、王宮お抱えの天才醸造家たちから「落ちこぼれの物置」と揶揄される、設備も古びた薄暗い空間だった。

 

 その冷たい石畳の床の上で、一人の青年が文字通り、頭を抱えてガタガタと震えていた。

 

 彼の名はトビー。今年、弱輩ながら王宮の醸造士として採用されたばかりの、極度に気弱で繊細な新人醸造家だった。

 

「終わった…。僕の醸造家人生は、開幕と同時に永久凍土に埋まった。いや、処刑だ。王室の資産を破壊した罪で、僕は殺されるに違いないんだ…」

 

 トビーの目の前には、十ガロンもの容量を持つ、旧式の銅製発酵タンクが鎮座していた。そのタンクのバルブの隙間からは、通常のビール造りでは絶対にあり得ない、形容しがたい「暴力的なまでのシトラスと熱帯果実の甘い香気」が、不穏な煙のようにモウモウと立ち上っている。

 

 事の発端は、数日前のことだった。

 

 トビーは、レオンハルト王子が宣言した『大ビール祭り』の片隅で、新人の自分にしか造れない、誰も見たことのない新しいIPA(インディア・ペールエール)を出展し、先輩たちを見返したいという密かな野望を抱いていた。

 

 そのために彼は、王宮薬草園を管理する風変わりな植物魔導師の老人に頼み込み、魔力によって品種改良されたという、狂気の新型ホップ『魔雷(マライ)ホップ』を、極秘裏に一袋だけ譲り受けていたのだ。

 

 そのホップは、乾燥しているにもかかわらず、指で触れただけで、もぎたてのライチや完熟したマンゴーのような、脳を狂わせる芳醇な香りを放つ、まさに魔法の植物だった。

 

 しかし。

 

 本番の仕込みの夜、トビーを襲ったのは、天才たちの影に隠れ続けてきた焦りと、極度の緊張だった。

 

「どうして…どうしてあんなミスをしちゃったんだ!」

 

 トビーは自らの髪をかきむしり、涙をポロポロと零した。

 

 ビールの世界において、ホップは通常、麦汁を「煮沸」する工程で投入される。煮沸の初期に入れれば爽快な「苦味」となり、終了直前に入れれば「香り」が残る。それが、数百年続く醸造の絶対的な鉄則であり、法だった。

 

 だが、トビーは仕込みの最中、計器の見間違いによって発酵タンクの温度管理を劇的に誤り、さらに、恐ろしいパニックに陥った結果、あろうことかその貴重な魔雷ホップを、煮沸時ではなく「酵母が元気に活動している発酵の真っ最中」という、ドロドロとした濁流の中に、袋ごとすべて間違えてぶち込んでしまったのだ。

 

 発酵中の酵母は、未知のホップの成分と激しく結合し、タンクの中でシュワシュワと、まるでおぞましい音を立てて暴走した。

 

 トビーが恐る恐る、タンクの底からバケツへと抜き取ったその液体は…

 

 ビールとしての「美徳」を、その根底から全否定するような、最悪のビジュアルをしていた。

 

 

 

「不透明だ。向こう側が、一ミリも透けて見えない…」

 

 トビーは、その液体を絶望の目で見つめた。

 

 本来、王宮で造られる極上のピルスナーやエールは、水晶のごとき透明度を持ち、鮮明に見えることこそが「洗練の証」とされていた。濾過が不十分な濁った酒は、平民の酒場でも下等品として扱われ、王宮においては「不純物(毒物)」とみなされて即座に廃棄されるのが常識だった。

 

 しかし、トビーの目の前にある液体は、まるですり潰した小麦とオーツ麦の泥水を黄金色に染め上げたかのような、クリーミーで、ドロリと濁りきった、完全に「失格」の泥水だった。

 

「濾過を、濾過を何度も試したのに…! 小麦とホップの油分が混ざり合って、どうしてもこの『濁り』が消えない」

 

 トビーはへなへなとその場に崩れ落ちた。

 

 魔導ホップを通常の十倍以上も、しかも発酵中にぶち込んだのだ。ビールの常識で考えれば、これは喉を焼くような不快な極苦の液体か、あるいは完全に腐敗した化学兵器のどちらかでしかなかった。

 

「これで、僕の人生は終わりだ。祭りに出展するどころか、不浄な液体を王宮内で製造した罪で、地下監獄にぶち込まれて、二度と太陽の光を見られなくなるんだ。お父さん、お母さん、不孝者のトビーを許してください…」

 

 トビーが自らの膝に顔を埋め、完全に罪人として世界の終わりを待っていた、その時だった。

 

 嗅覚を、鋭く突く気配があった。

 

 醸造所の外から、通常の人間のものではない、まるで獲物の血の匂いを察知した野生の狼のような、凄まじい「麦の執念」を孕んだ足音が、ズシン、ズシンと近づいてくる。

 

 バァン!!!

 

 古い木製の扉が、蝶番が悲鳴を上げるほどの猛烈な力で蹴り開けられた。

 

 トビーが恐怖に身をすくめて顔を上げると、長い影を引いて入り口に立ち塞がっていたのは、仕立ての良い上着を乱暴に肌けさせ、目をギラギラと血走らせた、この国の第一王子レオンハルトその人だった。

 

「おい、新人の若造。今、この王宮の最果てから、俺の嗅覚を容赦なく蹂躙し、脳の血管を一本残らず沸騰させるような、ただ事ではない『未知のホップの咆哮』が聞こえたのだが…」

 

 王子の鼻腔は、トビーの足元にあるバケツから漏れ出る、ライチやシトラスの狂気的なアロマを、すでにミリ単位の狂いもなくロックオンしていた。

 

 

 

「ひっ、あ、悪魔…じゃなくて、レオンハルト殿下!?」

 

 トビーは飛び上がり、腰を抜かして床を這いずりながら、必死にバケツを自らの貧弱な身体で隠そうとした。

 

「あ、あの! これは違います! これはただの失敗作でして! 僕の温度管理のミスと、ホップの投入タイミングの間違いによって、濾過もできずに不純物でドロドロに濁ってしまった泥水です! 今すぐ下水に廃棄します! 部屋を汚してすみませんでした! だから、どうか処刑だけは勘弁してください!」

 

「廃棄だと? 馬鹿を言え。ビールの価値を決めるのはお前の臆病な心ではない、この俺の舌だ」

 

 レオンハルトはトビーの弁明など一切耳に入っていない様子で、大股で彼との距離を詰めると、トビーの身体をひょいと片手で退けた。

 

 王子の大きな手が、醸造所の棚にあった木製のひしゃくを掴む。そして、ためらうことなく、その濁りきった黄金の「泥水」を、なみなみと掬い上げた。

 

「殿下、いけません! それは毒物かもしれません! 苦すぎて舌が溶けるか、あるいは」

 

 トビーの悲鳴のような制止の声は、レオンハルトがその液体を一気に口内へと流し込んだ音にかき消された。

 

 静寂が、薄暗い醸造所を支配した。

 

 レオンハルトの身体が、落雷に打たれたかのように硬直する。ひしゃくを握る王子の大きな手が白く染まり、その瞳は、まるで見たこともない魔法の深淵を覗き込んだかのように、限界まで見開かれていた。

 

 トビーは恐怖のあまり息を止めた。「終わった、王子の舌を腐らせた、僕は終わりだ」と。

 

 しかし。

 

 レオンハルトの喉が、ドク、ドクと大きな音を立てて、その濁った液体を最後の一滴まで、狂ったように飲み干していった。

 

「…っ!!!!! 素晴らしい、美味すぎるッ!!!!!」

 

 突如として、レオンハルトの突き抜けた咆哮が室内に響き渡った。

 

 王子は空になったひしゃくを床に叩きつけると、腰を抜かしているトビーの胸ぐらをがっしりと掴み、自らの顔を数センチの距離まで近づけた。その瞳には、変態的な愉悦の炎がパチパチと狂おしく燃え上がっている。

 

「おい、トビーと言ったな! お前は自分が何をしたか分かっているのか!? お前は今、数百年続く世界のビールの歴史を、その根底からブチ壊し、新たなる神の一ページを刻んだんだぞ!」

 

「え、ええっ!? ぼ、僕がですか!?」

 

「そうだ! 通常のIPAであれば、これだけのホップを入れれば、喉を刺すような暴力的な苦味で飲めたものではないはずだ。だが、お前が発酵の真っ最中にホップを投入したことで、苦味を置き去りにして、果実の『香気』だけが、奇跡的な飽和状態で液体の中に溶け込んでいる!」

 

 レオンハルトは、まるで宝物を見つけた子供のように、目を血走らせてまくし立てた。

 

「そして、お前が失敗だと言ったこの小麦とオーツ麦の『濁り』だ! これこそが、ホップの香気成分とタンパク質を結びつけ、本来なら揮発して消えてしまうはずの熱帯果実の香りを、液体の中に永遠に閉じ込めるための『最高の檻』になっているんだ! 苦くない、重厚なのにどこまでもジューシー! これはビールではない、ホップという名の果実の魂をそのまま啜る、飲む爆弾だ!」

 

「飲む…爆弾」

 

 トビーは呆然と王子の言葉を聞いていた。自分が犯した壊滅的な「大ドジ」が、この醸造の天才の口から語られると、まるで緻密に計算された奇跡の技法であるかのように聞こえる。

 

「このビールの名は、そうだな『ヘイジーIPA』だ! これを、今回の『大ビール祭り』の、我が王室の秘密兵器として出陣させるぞ!」

 

「何を勝手なことをおっしゃっているのですか、変態殿下」

 

 冷酷極まりない事務的な声と共に、醸造所の入り口にアルフレッドが姿を現した。彼は手帳を片手に、バケツの中の濁った液体を、ゴミを見るかのような冷たい目で見下ろした。

 

「国営化の件で予算に余裕があるとはいえ、このような見た目の汚い、泥水のような不透明な酒を国を挙げた祭りで配るなど、正気の沙汰ではありません。国民は『王室が我々に毒水を配って処分しようとしている』と勘違いし、一瞬で暴動が起きますよ。即刻廃棄し、トビー醸造士には通常の透明なピルスナーを仕込み直させなさい。それが、この国の法律であり、常識です」

 

 アルフレッドの至極まっとうな、しかし冷徹な正論に、トビーは再びビクッと身をすくめた。

 

 だが、第一王子レオンハルトは、補佐官に向かってニヤリと、悪魔のような不敵な笑みを深く刻んだ。

 

「常識だと? アルフレッド。お前は麦の未来が読めない男だな。いいか、人間は『見たことのない美味さ』に出会った瞬間、すべての法律も、常識も、見た目の偏見すらも忘れて狂喜乱舞する生き物なのだ。この『ヘイジーIPA』の濁りこそが、今回襲いかかってくるであろうお堅いハゲ頭どもを、跡形もなく吹き飛ばす最大の爆弾になる。トビー、俺を信じろ。お前は落ちこぼれなんかじゃない、新時代の扉を開けた天才だ!」

 

 王子のそのあまりにも破天荒で、しかし圧倒的な熱量に満ちた言葉に、トビーの目から、先ほどとは違う温かい涙が溢れ出していた。

 

「は、はい…! 僕、殿下のためにこの『ヘイジーIPA』を、祭りのために全力で仕込みます!」

 

 王宮の最果ての薄暗い醸造所に、新星の濁りと、王子の不敵な笑い声が響き渡る。

 

 国を挙げた大ビール祭りの開幕まで、あとわずか。しかし、この偶然生まれた「濁り酒」が、後に王都全体を巻き込む凄まじい狂乱の濁流へと化すことを、この時のアルフレッドはまだ、知る由もなかった。

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