王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
麦冠王国の会議室は、本日も重厚な静寂に包まれていた。
壁に掛けられた歴代国王の肖像画が見守る中、円卓を囲む重臣たちの表情は険しい。今日の議題は、隣国との果物貿易における関税率の調整、平たく言えば、南国産のバナナとリンゴをどれだけ安く仕入れるかという、極めて実務的な議論だった。
第一王子レオンハルトは、配られた資料をめくりながら、密かに溜息を吐いた。
バナナ。それは確かに、栄養豊富で甘美な果実だ。だが、この大麦の香りとホップの苦味を愛する麦冠王国において、果実などというものは、あくまで食卓を彩る脇役に過ぎない。
「…バナナの税率を二パーセント引き下げる案ですが、これにより民の家計は潤うものの、国内のリンゴ農家からの反発が予想されます」
老臣の声が、子守歌のように鼓膜を揺らす。
レオンハルトの意識は、すでに会議室の窓の外、風に乗って流れてくる煮沸中の麦汁の香りに奪われていた。
バナナ、バナナ、バナナ。
高貴な麦の国において、これほどまでに南国の果実について論じ続けなければならないとは、王族の責務とは時に酷なものだ。
バナナは皮を剥けばそれでおしまいだが、ビールは醸造という知の結晶を経て無限の表情を見せる。比べるまでもない。
そう結論づけようとした時、一人の重臣がふと、余談を口にした。
「そういえば、近頃街の若者の間では『バナナの香りがする酒』というものが流行っているとか。果実酒の一種だそうですが、ビール離れが進まぬか懸念する声もございますな」
その瞬間、レオンハルトの指先が止まった。
「…何?」
「はあ。若い娘たちの間でも、苦くないから飲みやすいと評判だそうで」
レオンハルトの眉間に、深い皺が刻まれる。
バナナの香りがする酒。この国において、ビールという絶対的な存在がありながら、軟派な果実酒に心を売る輩がいるというのか。
それは由々しき事態だ。ビールの誇りを守るため、そして王位継承者として民の嗜好を正しく導くため、その「不届きな酒」の実態を調査せねばならない。
というか、純粋に気になる。
「殿下、資料の三ページ目についてご意見を…」
「ああ、すまない。重要かつ急ぎの案件を思い出した。これより現場の視察に向かう」
「またですか、殿下!」
アルフレッドの鋭い指摘を背中で弾き、レオンハルトは流れるような動作で会議室を脱出した。
しかし、今日のアルフレッドは一味違った。
レオンハルトが正門へ向かおうとすると、そこにはすでに近衛兵の隊列が組まれ、王子の脱走を阻止するための鉄壁の布陣が敷かれていた。
「…ふん。私を誰だと思っている。この程度の包囲網、想定の範囲内だ」
レオンハルトは進路を変更し、王宮の回廊を抜けて記念品保管庫へと向かった。
そこには、先代国王がかつての戦役で使用した、巨大な全身甲冑が展示されている。
数分後。
カポーン。カポーン。カポーン。
静まり返った廊下に、不自然な金属音が響き渡った。
重厚な鋼鉄の塊が、左右に揺れながら、ぎこちない動きで進んでいく。
それは紛れもなく、展示されていた先代国王の記念甲冑だった。
「…よし。この中に潜んでいれば、誰も王子だとは気づくまい。私は今、己を律するために鉄の殻に閉じこもっているのだ。これは修行であり、断じて脱走ではない」
甲冑のバイザーの隙間から、必死に前方を監視しながらレオンハルトは進む。
鎧の継ぎ目が擦れるたびに、鼓膜を震わせる金属音が響くが、彼はそれを「勝利への足音」と解釈した。
しかし、曲がり角に差し掛かったところで、一人の男が立ちはだかった。
「殿下。何をしているんですか、その姿で」
冷ややかな声の主は、アルフレッドだった。
「…私は甲冑だ。レオンハルトではない。貴公の知る王子は今、精神を統一するために地下深くで瞑想している」
「バレバレです。第一、その記念甲冑は身長二メートル近い大男用ですよ。殿下が着ると、足の位置が合わずに膝の部分がガクガクしているじゃないですか。あと、脇の隙間から『世界ビール紀行』の冊子がはみ出しています」
「…しまった、これは戦略的なミスだ」
甲冑が動きを止める。
次の瞬間、ガシャン! という凄まじい音と共に、空の甲冑が床に崩れ落ちた。
アルフレッドが駆け寄るが、甲冑の中はもぬけの殻だった。
「…いつの間に」
崩れた甲冑のそばには、地下通気口の蓋が外れているのが見えた。
レオンハルトは土壇場で中身だけをすり抜け、ダクトを滑り落ちていったのだ。
「殿下ァァァ! 後で絶対に捕まえますからね!」
遠ざかる補佐官の絶叫を聞きながら、レオンハルトは王宮の外、自由の空気を吸い込んだ。
たどり着いたのは、王都の目抜き通りから一本入った場所にあるパブ『白兎亭(しろうさぎてい)』だった。
ここは前回の『金狼亭』とは対照的に、パステルカラーの装飾が施され、窓からは明るい陽光が差し込む、実に華やかな雰囲気の店だ。
客層も若く、彩り豊かな衣装を纏った女性たちが賑やかにグラスを掲げている。
場違いな高級マントを翻し、レオンハルトはカウンターに腰を下ろした。
「店主。例の…バナナのまがい物を。この国のビール文化を脅かす不届きな酒を出してもらおう」
「まがい物…? ああ、もしかしてヴァイツェンのことかな?」
店主は困惑気味に、しかし手際よく背の高いグラスを準備し始めた。
「ヴァイツェン? そのような果実酒の名前は聞いたことがないな」
「果実酒じゃないですよ。これはれっきとしたビールです。南方の古くからの伝統を持つ『白ビール』ですよ」
レオンハルトは鼻で笑った。
「嘘を言うな。ビールの原料は麦とホップと水だけだ。バナナの香りがするということは、貴様、さてはバナナを絞って隠し味に混ぜたな?」
「まあまあ、まずは飲んでみてください。うちのヴァイツェンは自慢の一品ですから」
まもなく、目の前に注がれた液体を見て、レオンハルトは絶句した。
「…白い。いや、濁っているのか?」
それはこれまでに見てきた澄んだ琥珀色のエールとは全く異なる、乳白色を帯びた、絹のように美しい濁りを持ったビールだった。
頂上には、ケーキの生クリームのようにきめ細かく、分厚い泡が鎮座している。
レオンハルトは警戒しつつ、グラスに鼻を近づけた。
そして、衝撃が走った。
「…ッ!? バナナだ。バナナすぎる!」
驚異的な香りだった。
グラスから立ち上がるのは、完熟したバナナの甘いアロマ。
それに、クローブのようなスパイシーな香りが僅かに混ざり合い、複雑で芳醇な世界を形成している。
「店主! 正直に言え! どのタイミングでバナナを投入した!? 煮沸工程か? それとも発酵中か?」
「だから、バナナなんて一切入ってませんって。原材料は大麦の麦芽、それに小麦の麦芽。あとはホップと水、そしてヴァイツェン酵母だけです」
「小麦…? 大麦だけでなく、小麦を使ったというのか?」
レオンハルトはグラスを掴み、一口飲んだ。
その瞬間、彼の脳内で大麦の肖像画たちが一斉にひっくり返った。
「…なんだ、この優しさは」
口当たりはどこまでも滑らかで、クリーミーだ。
前回飲んだアイ・ピー・エーのような刺すような苦味は微塵もない。
代わりに、小麦由来の柔らかな甘みと、フルーティーな酸味が口いっぱいに広がる。
苦くない。苦くないのに、これは紛れもなく「ビール」の構造をしている。
「…説明しろ。なぜ麦からバナナが生まれるのだ。これは錬金術か?」
「酵母の働きですよ。ヴァイツェン酵母という特別な酵母が、発酵中に成分を作るんです。それがたまたま、バナナの香り成分と同じなんですよ」
「…そうか。分かったぞ」
レオンハルトは呆然と呟き、二口目を飲んだ。
「店主、それは科学的な説明に過ぎない。私は今、もっと深い真実を悟ったぞ」
「はあ」
「これは…麦の魂の叫びなのだ。小麦という、大麦の影に隠れがちだった存在が、発酵という極限状態の中で『私は本当はバナナになりたかったんだ!』と、前世の記憶を呼び覚ましている声なのだ。その切実な願いが、この美しい香りと味わいとなって結実している。ああ、美しい。小麦よ、お前はバナナになれたのだな…」
「ただの酵母の働きだって言ってるんですけど」
店主のツッコミも虚しく、レオンハルトの瞳には薄っすらと涙さえ浮かんでいた。
彼は一人でグラスを掲げ、バナナになれなかった小麦の悲哀と、バナナの香りを手に入れた奇跡について、三十分にわたり熱弁を振るい続けた。
「殿下、もういい加減にしてください」
いつの間にか背後に立っていたアルフレッドが、冷たいトングのような手つきで王子の首根っこを掴んだ。
「あ、アルフレッドか。見てくれ、このバナナを…いや、この小麦の魂を! 私は今、植物の輪廻について重大な発見を…」
「はいはい、輪廻でも何でもいいですから帰りますよ。会議室では大臣たちが、バナナの関税をどうするかでまだ揉めてるんです」
「関税…? そんなものはゼロにしろ。バナナは小麦の理想郷なのだ。敬意を表さねばならん」
「支離滅裂です。ほら、立ちなさい」
無理やり椅子から引き剥がされる間も、レオンハルトは名残惜しそうにグラスを見つめていた。
「…バナナ。私は明日から、朝食のバナナを見るたびにこのビールを思い出すだろう」
「迷惑な話ですね。明日の朝食はパンとミルクだけにしてもらいますよ」
「それだけはやめてくれ! バナナは『固形のヴァイツェン』なのだ! あれを摂取しないと、私のビールのインスピレーションが枯渇してしまう!」
「意味が分かりません。さあ、行きますよ」
王宮への帰り道。
レオンハルトは幸せそうな、しかしどこか虚ろな表情で街を歩いていた。
ふと、道端の果物屋に山積みになったバナナが目に留まる。
レオンハルトは立ち止まり、その黄色い果実を凝視した。
「…あれは、ビールの味がする果物か?」
「違います」
アルフレッドが即答する。
「…いや、そうに違いない。南国の太陽を浴びて、バナナの姿を借りたビールがそこに…」
「殿下、いい加減にしないと本当に朝食抜きにしますよ」
「…すまない」
レオンハルトは肩を落とし、すごすごと歩き出した。
だが、その背中には、新たな知識を手に入れた者の矜持が漂っていた。
翌日の会議。
バナナの関税率について問われたレオンハルトは、真剣な面持ちでこう答えたという。
「バナナは、いわば理想的な芳香成分の体現者である。よって、その輸入を促進することは、我が国の醸造精神の向上に直結する。税率は三パーセント下げよ。それが、麦の願いだ」
重臣たちは「流石は殿下、深い…!」と感銘を受けたが、その横でアルフレッドだけが、静かに天を仰いでいた。
麦冠王国の午後は、今日もバナナの香りと共に、少しだけおかしな方向へ更けていく。