王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます   作:高校ジャージ10年目

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大ビール祭り開幕②

 「殿下、もう一度だけ、私の錆びつきかけた理性を総動員して伺います。…なぜ、我々は今、王都の快適な執務室ではなく、家畜の鳴き声と草木の香りが充満する辺境の修道院にいるのでしょうか」

 

 麦冠王国の最果て、深い森に囲まれた聖ローラン修道院の裏手にある「国定醸造所」

 

 アルフレッドは、泥と麦汁で薄汚れた極上の仕立て服の袖を忌々しげに睨みつけながら、手にした帳簿の角で、自身のこめかみを激しく叩いていた。彼のトレードマークである眼鏡は、醸造所内に立ち込める濃厚な熱い麦汁の湯気によって、完全に白く曇りきっている。

 

 その隣で、長靴を履いて巨大な木製の櫂(オール)を抱え、文字通り全身で発酵タンクの中身をかき混ぜていた第一王子レオンハルトは、白い歯を見せて豪快に笑った。

 

「人聞きが悪いな、アルフレッド! これは正当な醸造だ。あのトビーが偶然造り出した『ヘイジーIPA』を夏の終わりの大ビール祭りで数万人の民衆に浴びせるためには、王宮のあのちっぽけな試作醸造所では圧倒的にキャパシティが足りん。だから、我が国が誇る最強の生産拠点であるアンナの修道院を利用した。これのどこが不満なんだ?」

 

「不満しかありません。王宮の正規の醸造長たちが『第一王子が落ちこぼれの新人を連れて、秘蔵の新型ホップと共に夜逃げした』と泣きながら私のオフィスに抗議文を叩き込んできたのです」

 

「ハハハ、気にするな! それよりトビー、オーツ麦と小麦の比率はどうだ? ちゃんと計算通りに投入したか?」

 

 レオンハルトが振り返ると、そこには巨大な麻袋を抱え、生まれたての小鹿のように膝をガタガタと震わせている新人醸造家、トビーの姿があった。

 

 王宮の最果てから、いきなり第一王子によって国家最高機密の「国定醸造所」へと連行された気弱な青年は、今にも気絶しそうな顔で、抱えた袋の数値を読み上げた。

 

「は、はい…! レオンハルト殿下の指示通り、大麦モルトに対して、タンパク質が豊富な小麦モルトを2割、そして極上の滑らかな口当たりを生み出すためのオーツ麦を1割、正確に配合しました…! でも、本当に良いんでしょうか。こんなに小麦やオーツを入れたら、ビールの濾過器が数分で完全に目詰まりを起こして、ドロドロのゼリーみたいになってしまいます!」

 

「それで良いんだよ、トビーくん! むしろ、その目詰まりを起こす寸前のトロみこそが、私の可愛い酵母ちゃんたちがホップの油分と激しく愛を育むための、最高のダンスステージになるんだから!」

 

 醸造所の奥から、おたまをバチンのように鳴らしながら飛び出してきたのは、この醸造所の最高責任者であり、度数10%のトラピストビールを造り出した狂気のシスター、アンナだった。

 

 彼女の目は、未知の醸造技法を目の当たりにした興奮で、レオンハルトに負けないほどの不吉な輝きを放っている。

 

「ひっ、シ、シスター・アンナ…!?」

 

 トビーは思わず後退りした。

 

 王宮の醸造士たちの間でも「辺境に、麦と酵母の声を聴いて会話する本物の魔女がいる」と噂されていた伝説の聖女が、今、恐ろしいほどの笑顔で自分に詰め寄ってきているのだ。

 

「さあトビーくん! 怯えている暇はないわよ! 麦汁の糖化は完璧、温度は65度でピタリとキープ! ここからがあなたのやらかした『ドジ』の再現、発酵中の狂気のドライホッピングの始まりよ!」

 

 

 

「いいか、トビー。ここからが『ヘイジーIPA』を芸術の域へと引き上げるための、俺とアンナの共同戦線だ」

 

 レオンハルトは櫂を置き、植物魔導師から力ずくで奪った『魔雷(マライ)ホップ』の山を指差した。乾燥しているにもかかわらず、部屋中の空気を一瞬で南国の果樹園に変えてしまうほどの、暴力的なまでのシトラスとマンゴーのアロマが放たれている。

 

「通常、ホップは麦汁を煮沸している時に投入する。そうすることで、ホップに含まれるアルファ酸が熱によって『イソ化』し、ビール特有の心地よい苦味へと変化する。だが、お前が間違えてやったように、発酵の最中…つまり温度が20度前後に下がったタンクの中にホップをぶち込むと、何が起きるか分かるか?」

 

「え…ええと、熱が加わらないから、苦味成分は溶け出さない、はずです」

 

 トビーは恐る恐る答えた。レオンハルトは深く頷き、その瞳に「醸造の天才」としての冷徹で熱い光を宿らせた。

 

「その通りだ。苦味は一切抽出されない。だが代わりに、ホップの奥深くに眠る『精油』、すなわちライチやパッションフルーツの香気成分だけが、熱によって破壊されることなく、ダイレクトに液体の中へ飽和状態で溶け出していく。さらに、ここからがアンナの野生酵母の出番だ」

 

 アンナが、怪しく輝く小さなガラス瓶を掲げた。中には、彼女がこの森の奥で見つけ出し、何世代にもわたって手懐けてきたという、驚異的なエステル(フルーティーな香り成分)を生成する独自の修道院野生酵母がうごめいていた。

 

「発酵中の酵母はね、ただ糖分をアルコールに変えているだけじゃないの。ホップの成分と出会うことで、化学反応を起こすのよ! 酵母がホップの香りをさらにジューシーな桃やアプリコットのような香りに『化けさせる』の。トビーくん、あなたが王宮の古びたタンクで偶然起こした奇跡を、この私の最強の酵母たちで、何十倍もの規模に増幅させてみせるわ!」

 

「か…化学反応」

 

 トビーの脳内に、衝撃が走った。

 

 自分が「ただの温度管理のミス」と「投入タイミングの間違い」だと信じ込み、人生の終わりだと絶望していたあの行為は、現代の、いや、この世界の最先端の醸造科学の常識を覆す、極めてロジカルで、極めて美しい「奇跡の化学反応」の連続だったのだ。

 

「殿下…シスター…。僕、ただのドジじゃなかったんですね。僕の仕込みは、間違っていなかったんだ…」

 

「間違っているわけがあるか。お前は麦の神に愛された男だ、トビー。さあ、日和っている時間は終わりだ。あのハゲ頭のマルセル枢機卿や、王宮の頭の固い老人どもの鼻を明かすための『魔霧(ネクター)の爆弾』を仕込むぞ! ホップを全量、タンクへ投下せよ!」

 

「はいッ!!!!!」

 

 トビーの顔から、ついに弱気な新人の影が消え去った。

 

 彼は大きな麻袋を担ぎ上げ、勢いよく発酵タンクのハッチを開けると、緑色の魔導ホップの山を、シュワシュワと泡立つ濃厚な小麦の麦汁の中へと豪快に注ぎ込んだ。

 

 ドォン、と、まるで錯覚かと思うほどの、爆発的なトロピカルアロマの衝撃波が醸造所内を吹き抜けた。

 

「…うっ、何ですかこの匂いは。私は今、南国の楽園でフルーツを丸かじりしているような錯覚に陥りました」

 

 入り口で書類を書いていたアルフレッドが、思わず手帳で鼻を押さえる。

 

 しかし、レオンハルトとアンナ、そしてトビーの三人は、そのアロマの嵐の中で、狂ったように笑い合いながら、次々と樽の蓋を閉め、魔導の封印を施していった。

 

 

 

 それからの数日間、聖ローラン修道院は、文字通り「不眠不休の戦場」と化した。

 

 トビーはレオンハルトの厳しい指導のもと、発酵タンクの温度を1度単位でコントロールし、ホップが酵母と完全に融合する「完璧な瞬間」を見極めるために、何度も試飲を繰り返した。アンナはタンクにへばりつき、「がんばれ酵母ちゃん、もっとドロドロに濁るのよ!」と呪文のような声援を送り続けていた。

 

 そして、その狂乱の陰で、ただ一人「現実」と戦い続けている男がいた。

 

「殿下、これが今回の『極秘出張醸造』に費やされた、オーツ麦、小麦、および魔導ホップの購入費用、並びに修道院の設備減価償却費の総額です」

 

 アルフレッドが提示した書類には、恐ろしいほどの桁数の数字が並んでいた。国営化による黒字の山が、みるみるうちに「ホップ代」という名のブラックホールに吸い込まれていく。

 

「…通常のIPAの十倍以上のホップを使用するなど、正気の沙汰ではありません。いくら財政が過去最高とはいえ、この支出を王宮の会計監査にどう説明すれば良いのですか。『第一王子が辺境で、見た目の汚い濁り泥水を大量生産するために金貨の山をドブに捨てました』とでも書けば良いのですか」

 

「おいおい、アルフレッド。お前はまだ、このヘイジーの真の価値を理解していないようだな」

 

 レオンハルトは、完成したばかりの、最初の樽から注がれたジョッキをアルフレッドの前に突きつけた。

 

 それは、向こう側が一切透けない、まるで濃厚なフレッシュマンゴージュースのような、白濁した神々しい黄金色の液体だった。泡は絹のように細かく、グラスの縁にねっとりと絡みついている。

 

「飲んでみろ。お前のその乾ききったお役人脳に、麦の神の雷を落としてやる」

 

「…私は、見た目の美しくないものを口にするのは趣味ではないのですが」

 

 アルフレッドは冷ややかに言い放ちながらも、主君の命令には逆らえず、渋々とジョッキを口元へと運んだ。

 

 一口、その濁った液体が、彼の舌の上に滑り込む。

 

「──ッ!!!?」

 

 アルフレッドの眼鏡の奥の瞳が、恐怖に似た衝撃でカッと見開かれた。

 

 彼が知るIPA(インディア・ペールエール)とは、ホップの強烈な苦味が喉を容赦なく直撃する、ある種のマニア向けの、男らしいビールだった。しかし、この液体は違う。

 

 苦くない。

 

 喉を刺すような嫌な苦味は完全に置き去りにされている。代わりに口の中に広がるのは、ライチ、桃、パッションフルーツをそのまま丸ごと絞り込んだかのような、圧倒的なまでの「果汁感(ジューシー)」。そして、小麦とオーツ麦がもたらす、まるでネクターのようにとろりとした、絹の泡の口当たり。

 

「な…なんですか、これは。濁っているのに、これほどまでに雑味がなく、清らかで、かつ狂気的なまでにフルーティーだなんて…。これは、ビールの皮を被った、別の何かです!」

 

「そうだろ? 濁りこそが、ホップの香りを閉じ込めるための最高の檻。このギャップこそが、見た目だけで物事を判断する奴らを奈落の底へ突き落とす、俺たちの最高の武器だ」

 

 レオンハルトは不敵に笑った。トビーはその王子の背中を見つめながら、自らが造り出した奇跡の重さに、静かに拳を握りしめていた。

 

 

 

「しかし、殿下。喜んでばかりはいられません」

 

 アルフレッドは味覚の衝撃からどうにか立ち直ると、表情をいつもの鉄の仮面へと戻し、手帳の別のページを開いた。

 

「王都の隠密からの報告です。前回の敗北を根に持っているマルセル枢機卿が、何やら不穏な動きを見せています。本山から、中央教会の最高権威である『聖裁審問官』をわざわざ王都へと呼び寄せたようです」

 

「聖裁審問官だと?」

 

 レオンハルトが眉をひそめる。それは、教会の法律や教義に違反した者、あるいは「不浄な行為」を行った者を、国家の法律を超越して裁くことができる、最もお堅く、最も冷酷な教会の最高権力者たちだった。

 

「どうやら彼らは、今回の『大ビール祭り』を『国民を堕落させる不浄な宴』として、政治的に完全に圧殺しにくる構えです。先日のように『飲ませて法律でハメる』という手口を警戒し、今回は『絶対に飲まない』という鉄の意志を持って、見た目や規模だけで罪を捏造して中止に追い込むつもりのようです」

 

「なるほどな。飲んだら美味すぎて負けると、あのハゲ頭もようやく学習したわけか」

 

 レオンハルトはククク、と低く笑った。その笑みには、恐怖など微塵もなかった。あるのは、敵が仕掛けてくる巧妙な罠を、さらに巨大な熱量で粉砕せんとする、狂気的なまでのワクワク感だけだった。

 

「いいだろう。飲まないなら、飲ませなければいい。今回は論破もしない。ただ、俺たちの造ったこの『魔霧のネクター』の圧倒的な熱量で、あのハゲ頭どもを王都市民ごと、狂乱の渦に置いてきぼりにしてやるだけだ」

 

 王子は振り返り、醸造所の中心に堂々と並んだ、数百本ものヘイジーIPAの樽を見つめた。

 

「トビー、アンナ、アルフレッド! 準備はすべて整った。この濁りきった黄金のネクターを引っ提げて、王都へ打って出るぞ! 夏の終わりを締めくくる、歴史上最もハッピーで、最も無法な『大ビール祭り』の開幕だ!」

 

「「「おおおおおーーーーッ!!!!!」」」

 

 トビーの、アンナの、そしてどこか諦めたようなアルフレッドの声が、辺境の醸造所に響き渡った。

 

 

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