王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
夏の終わり、麦冠王国の王都中央広場は、天を衝くような熱気と、地を震わせるほどの喧騒に包まれていた。
広場全体を埋め尽くすように設営された巨大なテントの群れ。無数の提灯が吊り下げられ、夕暮れ時の王都を黄金色の光で幻想的に照らし出している。
補佐官アルフレッドがその不眠不休の事務処理能力を限界まで注ぎ込んで完成させた、国を挙げた大ビール祭り。そこは今や、身分制度の壁すらも溶かし尽くす、巨大な歓喜の場と化していた。
「プハァーッ! これよ、これ! 麦冠王国の夏を締めくくるのは、この喉を切り裂くような冷たさとキレでなきゃ駄目だわ!」
テントの最前列、特等席に陣取った清泉王国の王女クララが、お忍び?の旅装のまま、黄金色のピルスナーがなみなみと注がれた大ジョッキを豪快に煽っていた。彼女の白い唇の端にはきめ細やかな泡がこれでもかと付着しており、その瞳は純粋な泥酔の幸福感で限界まで潤んでいる。
「…見事だ。実に見事と言うほかない。初速において舌の全細胞を覚醒させる炭酸の突撃。そして、鼻腔へと抜けていくホップの爽快な余韻。不必要な雑味を限界まで削ぎ落とした、これぞ美しき引き算の極み…!」
その向かい側では、かつて白湯の純粋性を謳っていたはずのジュリアン公爵が、一本の髪の乱れすら気にする余裕もなく、猛烈な勢いで羽ペンを走らせていた。彼の前には、すでに空になった数本のジョッキが転がっており、手帳のページは興奮のあまり歪んだ筆跡のビール論文で埋め尽くされている。
「二人とも、我が国の祝祭を存分に楽しんでいるようで何よりだ。だが、まだ慌てるな。今回の祭りの真打ちは、これから登場するのだからな」
平民の服に変装した第一王子レオンハルトが、不敵な笑みを浮かべて二人の前に現れた。その背後には、今回の祭りのためにアンナの修道院で極秘裏に大量仕込みを終えた、数百本もの頑丈なオーク樽が台車に乗せられて次々と運び込まれてきている。
特設ブースの裏手では、今回の主役であるはずの新人醸造家トビーが、今にも胃袋の中身をすべてぶちまけそうな顔で、自身の華奢な身体を小さく丸めていた。
彼の目の前にあるのは、数日前にレオンハルトやアンナと共に、文字通り泥塗れになって仕込んだ『ヘイジーペールエール』の詰まった大樽だ。
「レ、レオンハルト殿下…やっぱり僕、怖いです。お腹が痛くて、今すぐ地下の肥溜めに飛び込みたいくらいです」
トビーはガタガタと膝を震わせ、台車の影に隠れようとした。
「何を怯える必要がある。お前は新時代の扉を開けた天才醸造家だぞ」
「だって、見てくださいよあの樽の隙間から漏れている液体を! 向こう側が一切透けて見えない、ドロドロに濁りきった黄金色の泥水です! 今のところ、民衆はみんな透明で綺麗なピルスナーを飲んで大喜びしています。あんなに澄み切った美しさを愛する人たちの前に、こんな不浄にしか見えない濁り酒を出したら、一瞬で『王室が毒水を配った』って暴動が起きます!」
トビーの絶望は、醸造士としての常識に基づいた真っ当なものだった。この世界において、濁った酒は濾過技術の低い下等品、あるいは腐敗の兆候とみなされるのが一般的だったからだ。
しかし、レオンハルトはトビーの貧弱な肩をがっしりと掴むと、その顔を覗き込んで、悪魔のような笑みを浮かべた。
「常識などという、過去の遺物に縛られるなと言ったはずだ。人間という生き物はな、本物の果実の衝撃、すなわちホップの狂気的なアロマに出会った瞬間、見た目の偏見など脳内から一瞬で消し飛ぶのだ。お前が仕込んだその濁りこそが、香りを飽和状態で閉じ込めるための最高の檻。真打ちの登場に、民衆がどんな顔をするか、特等席で見ているがいい」
王子の確信に満ちた言葉に、トビーは生唾を飲み込んだ。
まさに、レオンハルトがヘイジーペールエールの樽の封印を解き、王都市民へとお披露目しようとした、その瞬間のことだった。
広場全体に響き渡っていた楽しげな楽団の音楽が、前触れもなく、ピタリと鳴り止んだ。
歓声に沸いていた中央広場に、冷酷な冷気が大通りの向こうから音もなく流れ込んできた。
民衆たちが怪訝そうに振り返る中、整然とした金属音を響かせながら、白銀の甲冑に身を包んだ聖堂騎士の軍勢が、広場を真っ二つに引き裂くようにして進軍してきた。
その中央を歩くのは、黒と金糸の法衣を纏ったマルセル枢機卿。そして、その隣には、本山の最高権威の象徴である、氷のように冷たい眼光を放つ老聖職者、聖裁審問官が静かに佇んでいた。
「楽しい泥酔の宴はここまでだ、迷える子羊どもよ」
聖裁審問官が胸元の十字架を掲げると、魔法によって増幅された地を這うような低い声が、広場にいた数万人の民衆の鼓膜を容赦なく震わせた。楽しげだった祭りの空気が、一瞬にして分厚い氷の壁に閉じ込められたかのように凍りつく。
「我が教会の絶対法に基づき、この祭りを国民を堕落させる不浄な宴と認定する。さらに、そこの王宮の若造が製造したという、その悍ましい液体を見よ」
審問官の細く白い指が、トビーのブースにある樽を正確に指差した。
樽のバルブから、わずかに漏れ出たヘイジーペールエールが、夜の灯りに照らされてドロリと濁った黄金色の軌跡を描いている。
「向こう側すら見えぬ、不浄なる泥水。これは神聖なる醸造の教義に対する明白な冒涜であり、国民を毒害せんとする不純物の疑いがある。王子レオンハルトよ、直ちにこの毒水をすべて下水へと廃棄し、祭りを全面中止せよ。さもなくば、我が修道院の本山はお前たち麦冠王国全土に対し、国家破門を宣告する用意がある」
国家破門。その最悪の単語が突きつけられた瞬間、広場のあちこちから、平民や貴族たちの悲鳴のような動揺が広がっていった。
レオンハルトの隣に立つ補佐官アルフレッドの顔から、目に見えて血の気が引いていく。彼の有能な頭脳は、即座に相手の「冷徹な戦術」を見抜いていた。
「…殿下」
アルフレッドは額に冷や汗を流しながら、レオンハルトの耳元で消え入るような声で耳打ちをした。
「相手はハナから、こちらの言葉に耳を傾ける気がありません。前回の敗北で、殿下の出す酒は美味すぎて、一度でも口にすれば論理的にハメ殺されると学習したのでしょう。今回は何があっても絶対に一滴も口にしないという鉄の意志を持って、見た目の濁りという視覚的な不浄だけを理由に、政治的圧力で押し潰しにきています。飲む拒否をされたら、こちらの美味さによる洗脳が使えない…!」
アルフレッドの焦りは正しかった。マルセル枢機卿の老いた顔には、「飲まなければ負けない」という絶対的な確信に基づいた、卑劣で傲慢な笑みが深く刻まれていた。彼らはトビーの樽から漂う、ライチやマンゴーの爆発的なアロマに内心激しく動揺しつつも、頑なに目を瞑り、鼻を塞ぎ、ただ教会の権威だけを盾にして立ち塞がっている。
「僕の…僕の造ったビールのせいで、国が破門に…」
トビーは恐怖と罪悪感のあまり、その場にへなへなと崩れ落ちそうになった。自分の犯した失敗が、ついに国家の終焉を引き起こす大罪になってしまったのだと、絶望が彼の心を黒く塗り潰していく。
広場を埋め尽くす数万人の民衆も、教会の権威の前に怯え、ジョッキを握る手を震わせていた。
しかし。
その絶対的な絶望の静寂の正面に立つ第一王子レオンハルトは、怯えるどころか、その肩を微かに震わせ始めていた。
「ククク…ハハハハハ!」
突如として、静まり返った広場にレオンハルトの突き抜けた笑い声が響き渡った。
マルセル枢機卿の眉が不快げに跳ね上がり、聖裁審問官の冷徹な目にも、わずかな動揺が走る。
レオンハルトは壇上の一歩前へと出ると、頑なに口をつけようとしない枢機卿たちを冷たい目で見下ろした。彼の瞳には、これまでのどの戦い以上の、狂気的なまでの愉悦の炎が燃え上がっていた。
「なるほどな、ハゲ頭ども。今回は飲まないことで、美味さの敗北から逃げ切ったつもりか。お前たちのその浅知恵、随分とお安く見積もられたものだな」
「不敬な王子め! 神の審判を拒絶するか!」
激昂する審問官を無視し、レオンハルトは広場に集まった何千、何万という飢えた酒徒たちに向かって、その両腕を堂々と広げた。
「おい、お前ら! よく聞け! あそこにいるお偉い聖職者様たちが、このトビーの造った新時代のビールを、汚い泥水だから今すぐすべてドブに捨てろと言っているぞ! だがな、この俺の舌が保証する。これは泥水なんかじゃない。これまでの常識をすべてブチ破り、苦味をどこか遠くへ置き去りにして、果実の美味さと香りの魂だけを極限まで閉じ込めた、新時代の奇跡の酒だ! ……なぁ、お前ら。教会の命令に従って、この至高の酒がドブに流されるのを、醸造の国に生きる男として、女として、指を咥えて黙って見ていられるか!?」
王子の煽動に、民衆の目の奥に宿っていた恐怖が、一瞬にしてギラギラとした「飢え」の炎へと書き換えられていった。
「「「できるわけねぇだろうがァーーーッ!!!」」」
地鳴りのような怒号が、王都の夜空を叩き割った。
「よろしい、ならば戦争だ。飲まないお前たちに、飲ませるための説得などもうしない。──アルフレッド、トビー! 樽の封印をすべて解除しろ! この『魔霧のネクター』を、今ここで、広場のお前ら全員にタダで配り尽くしてやるッ!!」
王子の宣戦布告とともに、ヘイジーペールエールの樽が一斉に民衆に向けて解放された。教会の絶対的な権威を、民衆の圧倒的な熱狂によって物理的に無効化するための、無法なるハッピーフェスティバルの火蓋が、今、激しく切って落とされた。