王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
「樽の封印をすべて解除しろ!今ここで、広場のお前ら全員にタダで配り尽くしてやるッ!!」
第一王子レオンハルトの、王都の夜空を叩き割るような大号令。それが、未曾有の祝祭を狂乱の濁流へと叩き落とす合図となった。
王宮の財務を預かる補佐官アルフレッドが「ああ、我が国の金貨がホップの霧となって消えていく…」と頭を抱えて血涙を流す間にも、特設ブースに並んだ数百本ものオーク樽のバルブが、職人たちの手によって次々と力任せに開放されていった。
シュワシュワと心地よい不穏な音を立てて、数万人の民衆が掲げる木製や陶器のジョッキへと注ぎ込まれていく液体。それは、彼らがこれまでの人生で見たこともない、向こう側が一切透けて見えない濃厚な白濁を帯びた、神々しいまでの黄金色の液体だった。
「おいおい…これ、本当にビールなのか? まるですり潰した小麦の泥水じゃないか」
「いくらタダ酒だからって、こんな濁った下等品を飲ませて、本当に俺たちを毒殺する気じゃ…」
広場を埋め尽くす平民や職人たちの間に、最初は戸惑いと躊躇の囁きが広がった。教会の言う「不浄な泥水」という言葉が、彼らの足を引っ張っていたのだ。
台車の影で、新人醸造家トビーは自身の爪が皮膚に食い込むほど強く拳を握りしめ、今にも心臓が停止しそうな恐怖で民衆の反応を見つめていた。
だが…
一人の、喉をカラカラに乾かせた下町の頑固な石工の親方が、意を決してその濁ったジョッキを口元へと運び、豪快に喉を鳴らした。
ゴク、ゴク、ゴク、プハァッ…
親方の身体が、落雷に打たれたかのように硬直した。ジョッキを握ったまま、大木のように静止する親方。
「おい、親方!? 大丈夫か!? 本当に毒が入って──」
周囲の仲間が慌てて駆け寄ろうとした、その瞬間だった。
「なんじゃ、これはぁぁぁーーーーーッッッ!!!!!」
親方の咆哮が、テントの屋根を震わせた。彼は血走った目で、信じられないというように自身のジョッキを見つめ、それから狂ったように叫び始めた。
「苦くない! ビールなのに、あの喉を刺すような嫌な苦味がどこにもねぇ! なのに何だこの匂いは! まるでもぎたてのライチや完熟したマンゴーの果汁を、そのまま樽の中で爆発させたみたいに口ん中がジュースで一杯になっちまう! それにこの泡、絹みたいにトロトロで、喉を滑り落ちていきやがる! 美味い、美味すぎるぞチクショー!!」
その絶叫が、導火線となった。
親方の姿を見た周囲の民衆たちが、我先にと濁ったジョッキを口へと運んでいく。そして次の瞬間、王都中央広場は、人類の味覚の歴史上、最も激しい「幸福のパンデミック」となった。
「本当だ! 苦くない! なのにめちゃくちゃに香る!」
「ジュースみたいにゴクゴク飲めるのに、ガツンとアルコールが回ってくるぞ! 魔法の酒だ!」
「トビー! この酒を造ったのはトビーって若造か!? 天才だ! 麦の神の申し子だ!!」
一瞬にして、数万人の民衆が理性をかなぐり捨てて狂喜乱舞を始めた。広場全体の空気が、ヘイジーペールエールから立ち上る爆発的なシトラスのアロマで完全に満たされ、人々の脳内をダイレクトに快楽の泥酔へと誘っていく。
特等席のテントでは、もはや王族としての最低限の品位すらも無くなってしまった清泉王国の王女クララが、自身の頭より大きな樽を両腕で抱え込み、ダイレクトにその濁り酒を喉へと流し込んでいた。
「ぷはぁーっ!! 何よこれ! 何なのよこれ!! 私が愛するピルスナーの、あの引き締まった透明感とは真逆の、凶暴なまでの暴力的なジューシーさじゃない! 脳みそが、脳みそがホップの果汁で直接洗われていくみたいに気持ちいいわ!! おかわり! この樽ごと私の国によこしなさい!」
クララは完全に野生の獣と化し、空になった樽を地面に叩きつけて次の獲物を探している。
そしてその隣では、かつて「白湯の美学」を極めていたはずの隣国の変態重鎮、ジュリアン公爵が、もはや椅子から滑り落ちて大理石の床に四つん這いになりながら、凄まじい執念で手帳に羽ペンを突き立てていた。
「ああ…あああ! 脳髄を蹂躙する、濁濁たる黄金のホップ! 通常の醸造法における『苦味』という概念を、すべて過去の遺物へと葬り去る、圧倒的な奇跡! 濁りという名の完璧なる檻の中に、ホップの持つ『果実の魂』だけが幽閉されている! これほど優美なものを私は他に知らんッ!!」
ジュリアン公爵は白目を剥きながら、常人には理解不能なレビューを書き殴り、そのまま恍惚の表情で床に突っ伏して震えていた。他国の王族や重鎮までもが、トビーの造った「泥水」の前に完全敗北し、その美味さの奴隷と化しているのだ。
「あ…あ、」
台車の影で、トビーの目から、大粒の涙がポロポロと床に零れ落ちた。
自分の犯した致命的な大ドジ。温度管理のミス。投入タイミングの間違い。王宮の先輩たちから「落ちこぼれの泥水」と笑われ、廃棄されるはずだったあの液体が、今、数万人の民衆を、そして他国の偉大な指導者たちを、これほどまでに熱狂させ、幸せにしている。
「トビー、見たか」
いつの間にか隣に立っていた第一王子レオンハルトが、トビーの華奢な背中をパァンと力強く叩いた。
「これが、お前が世界の歴史に刻んだ『神の一ページ』の光景だ。お前の仕込みは、何一つ間違っていなかった。胸を張れ、お前は今日、この国のすべての醸造長を超える、最高の輝きを放っている!」
「殿下! 殿下ぁぁ…ッ!!」
トビーは子供のように声を上げて泣き崩れた。しかしその涙は、絶望の涙ではなく、一人の醸造家が世界の中心で自らの存在を証明した、至高の歓喜の涙だった。
「…お、おい! 何をしているお前たち! その不浄な泥水を飲むのを止めろ! それは毒水だ! 悪魔の王子の甘言に惑わされるな!」
広場の中央で、マルセル枢機卿は顔を真っ赤に怒張させ、自身の持つ豪華な杖を振り回しながら、狂乱する民衆に向かって必死に怒号を張り上げていた。
だが、彼の声は、数万人の民衆が地面を踏み鳴らして歌う即興のビール賛歌と、「トビー最高!」「レオンハルト殿下万歳!」という地鳴りのような大歓声にかき消され、一ミリたりとも周囲の平民たちの耳には届いていなかった。
「神の罰が下るぞ! この祭りを中止しろ! 従わねば、本当にこの国を破門に…」
最高権威であるはずの聖裁審問官の老人も、魔法で増幅した声を限界まで張り上げた。
しかし、彼らの目の前を、完全に泥酔して理性を失った下町の樽職人たちが、「ハゲ頭の旦那も飲めやぁーッ!」と、ヘイジーペールエールがなみなみと注がれたジョッキを掲げて、肩を組みながら笑って通り過ぎていく。
「(飲んだら美味すぎてハメ殺されるから)絶対に飲まない」という鉄の意志を持って挑んできた教会側だったが、レオンハルトは彼らを論破することすら最初から放棄していた。
ただ、圧倒的な美味さとタダ酒という名の熱狂の濁流を解放することで、広場全体を「完全なる無法地帯」へと変えてしまったのだ。
「し、審問官様…これは、その、どうすれば」
マルセル枢機卿が、唇を震わせながら隣の老人に助けを求めた。
聖裁審問官の老人は、自身の胸元の十字架を握りしめたまま、恥ずかしさと怒りで顔をワナワナと震わせていた。
誰も、自分たちを見ていない。
誰も、教会の破門という脅しを恐れていない。
数万人の人間が、自分たちを完全に「背景の空気」として扱い、ただ目の前の濁ったビールを貪り、笑い、踊り狂っている。
権威とは、人々がそれを恐れ、従うことで初めて成立する幻だ。誰も教会の言うことを気に留めないこの無法のハッピー空間において、審問官たちの掲げる絶対法は、ただの「虚しい独り言」へと完全に形骸化させられていた。
「…帰るぞ、マルセル」
審問官の老人は、蚊の鳴くような掠れた声で、ポツリと呟いた。
「え!? しかし審問官様、まだ破門の正式な手続きが…」
「これ以上、この狂人たちの前で杖を振り回して、我々の高貴な法衣を麦汁の香りで汚されてたまるか! ここにいる連中は、神の教えではなく、あの王子の造る麦の悪魔に魂を売った狂徒どもだ! 早く私を、このシトラスの臭いが充満する地獄から連れ出せ!!」
審問官は、自身の耳を両手で塞ぎながら、逃げるようにして広場から走り去っていった。コソコソと騎士たちの後ろに隠れて退散していくしかなかった。
「飲んで美味さに降伏する」のではなく、「存在を完全に無視され、熱狂の渦に置いていかれる」という、歴史上最も惨めで、最もコメディな教会の完全敗北だった。
翌朝。王都の中央広場には、夏の終わりの爽やかな風が吹き抜けていた。
昨夜の狂乱が嘘のように静まり返った作戦会議室。そこには、アルフレッドの姿があった。
「殿下。今回の『大ビール祭り』における、ヘイジーペールエールの無料解放による損失の計算が終わりました」
「お…おいおい、アルフレッド。そんな朝から怖い顔をして数字を睨むな。民衆があれだけ喜んだんだ、多少の赤字など」
「赤字、などと一言も言っていません、殿下」
アルフレッドはトン、と手帳を叩いた。
「…昨夜、あのヘイジーペールエールをタダで浴びた清泉王国の令嬢たち、および隣国の商人、貴族たちから、今朝の夜明けと同時に『あの濁り酒を我が領地へ優先的に回せ』という注文書が、殺到いたしました。彼らが提示してきた前払金の総額は、昨夜の無料解放の損失を補填し、さらに我が国の国庫をもう二回りほど巨大に膨らませるほどの、狂気的な暴利を記録しております」
「ハハハハハ! 見たかアルフレッド! これが新時代のビール、ヘイジーの経済効果だ!」
レオンハルトは椅子の背もたれを叩いて大笑いし、隣で恥ずかしそうにしているトビーの頭を乱暴に撫で回した。
「トビー、お前は今日から、王宮特級醸造士だ。これからは俺の専属の悪巧みコンビとして、さらに変態的な麦の深淵を仕込むぞ!」
「は、はい! 殿下、僕、一生ついていきます!」
落ちこぼれだった青年が、今や王国の財政を支える時代の寵児へと成り上がった。教会の驚異を退け、新たなビールの文化を築き上げた作戦会議室は、完全なる大勝利の幸福感に満ち溢れていた。
コン、コン、コン。
その時、会議室の頑丈なオークの扉が、極めて規則正しく、非の打ち所のない完璧なリズムで叩かれた。
レオンハルトが「ん?」と眉をひそめる暇もなく、扉が静かに開け放たれる。
朝の清烈な光を背に受けて室内に足を踏み入れてきたのは、一人の、非の打ち所のない眉目秀麗な青年だった。
仕立ての歪み一つない純白の礼服を纏い、黄金の髪を完璧に整えたその青年は、下町で泥酔していたレオンハルトとは対極に位置する、気品と教養の塊のようなオーラを放っていた。
「長旅からたった今帰国いたしました、兄上。ずいぶんと、賑やかなお祭りをされていたようですね」
青年は、透き通るような爽やかな笑顔を浮かべ、完璧な角度の礼を取った。
「…フェルディナンド」
レオンハルトの口から、珍しく警戒を孕んだ低い声が漏れた。