王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
それは、歴史ある醸造の王国にとって、まさに魂を抜き取られたかのような暗黒の数日間であった。
第二王子フェルディナンドが持ち込んだ最先端の論理的医療科学と、国王の心を完璧に掌握した正論。それによって電撃的に発令された禁酒法は、王都の景色を一瞬にして塗り替えてしまった。
かつては夕暮れ時ともなれば、あちこちの酒場から小気味よいジョッキのぶつかり合う音が響き、平民も貴族も弾けるような笑顔で一日の疲れを癒やしていた大通り。それが今や、まるでお通夜の最中の墓地のように静まり返っている。
全ての酒場には強固な木板が打ち付けられ、その中央には国家規律違反の冷酷な赤い印が押されていた。
街を行き交う民衆の姿は、フェルディナンドの狙い通り、確かに健康的で規則正しいものになっていたかもしれない。朝早くから乱れることなく職場へ向かい、夜は騒ぐことなく真っ直ぐ家に帰る。しかし、その誰しもが、どこか光を失った、死んだような魚の目でトボトボと歩いていた。日々のささやかな楽しみと救いを奪われた人間が、どれほど無機質な存在になるかを示す、生きた証明がそこにあった。
「素晴らしい成果だ。アルフレッド、君の執行計画書は期待を遥かに超える完璧さだよ。これほど迅速に、街からあの不浄な劇薬を一掃できるとはね」
王宮の回廊から、静まり返った街を見下ろしながら、第二王子フェルディナンドが爽やかな笑みを浮かべていた。彼の背後には、裏切り者となった第一王子補佐官、アルフレッドが、一分の狂いもなく手帳を構えて直立している。
「恐れ入ります、フェルディナンド殿下 。私はただ、無駄と不経済を排除するという規律に従ったまでです。第一王子レオンハルトの直轄であった国定神聖醸造所、並びに王宮の試作醸造所は、すべて私の手によって完全に封鎖いたしました。あそこにいた新人醸造家や生意気な修道女も、今はただ恐怖に震えて地下に引き籠もっております」
アルフレッドの声には、一切の慈悲も、かつての主君への未練も感じられなかった。その眼鏡の奥の瞳は、どこまでも冷徹で、機械のようだった。
「よろしい。明後日には、押収した大量のビール樽を中央広場へ集め、国民の目の前で一斉廃棄する。これによって、我が国の禁酒の誓いは絶対のものとなるだろう。兄上…レオンハルトがどんなに泣き叫ぼうとも、もう二度とあの濁った不浄の酒が日の目を見ることはない」
フェルディナンドは勝ち誇った高笑いを残し、軽やかな足取りで立ち去っていった。
彼の背中を見送ったアルフレッドは、口元が微かに、ほんの微かにだけ動いたのを、気づく者は誰もいなかった。
同じ頃、王宮の最深部。かつて物置として使われ、今や完全に忘れ去られた地下の秘密の隠れ家では、厚い石壁の向こうで三人の男女が息を潜めていた。
「うう、ひっく…。僕たちのヘイジーペールエールが…せっかくみんなが美味しいって笑ってくれた僕のビールが、明後日には全部ドブに捨てられちゃうんだ。アルフレッド様、あんなに冷たい目をして僕たちの醸造所を鎖で縛るなんて…」
新人醸造家のトビーは、即席の木箱に腰掛けたまま、自身の膝に顔を埋めてボロボロと涙を流していた。彼の華奢な身体は、国家反逆罪という巨大な罪の重さと、絶対的な相棒の裏切りに対するショックで、未だに小さく震え続けている。
「トビーくん、泣くんじゃないわよ! 涙を流す暇があったら、あのクソ真面目な第二王子の純白の礼服を、野生酵母のドロドロの泥水で真っ黒に染め上げる呪いの儀式でも手伝いなさい!」
その隣では、シスター・アンナが愛用のガラス瓶を両腕で強く抱きしめながら、今にも怨霊を呼び出しそうなほどの暗黒のオーラを全身から放っていた。彼女の手の中で、瓶の中の酵母たちが主人の怒りに呼応するように、プチプチと不穏な泡を立てている。
「二人とも、そこまでにしておけ。せっかくの素晴らしい麦の香りが、お前たちの陰気な涙と呪詛で台無しになる」
地下室の奥、薄暗いランプの光に照らされながら、第一王子レオンハルトが、ニヤリと悪魔のような深い笑みを浮かべて立ち上がった。彼の前には押収されたはずのヘイジーペールエールの樽が一本、静かに鎮座していた。
「殿下…どうしてそんなに落ち着いていられるんですか? 公式な醸造権も奪われて、アルフレッド様にも裏切られて、もう僕たちには何も残されていないのに」
トビーが涙目のまま見上げると、レオンハルトは机の上に、フェルディナンドが突きつけてきたあの禁酒法の公文書を乱暴に叩きつけた。
「いいか、トビー。アンナ。あの完璧主義者のフェルディナンドと、それに乗っかったアルフレッドが作り上げたこの法律にはな、完璧すぎるがゆえの、致命的な死角が存在するのだ」
「死角…ですか?」
「そうだ。この条文をよく読め。ここで厳格に禁止されているのは、平民の理性を奪い、脳細胞を破壊し、国家の生産性を下げる酒精──すなわちアルコール分が含まれた飲料のことだ。…ならば、その酒精とやらを、この液体から完全に消し去ってしまえばどうなる?」
レオンハルトの言葉に、トビーは一瞬、何を言われたのか理解できずに目を瞬かせた。
「酒精を、消し去る…? アルコールをゼロにするってことですか? でも、そんなことをしたら、それはもうビールじゃなくて、ただの酸っぱくて甘い、発酵前の不味い麦の汁になっちゃいます!」
「普通に造ればそうだな。だが、俺たちには、お前が偶然造り出したあのヘイジーの技術と、アンナの野生酵母の神秘がある。アルコールが完全にゼロでありながら、脳がとろけるほど美味い、世界初のノンアルコールビールを密造する。あいつらがアルコールを国家の敵だと言うなら、俺たちはそのアルコールだけを綺麗に消し去り、合法的な健康飲料として、この世におくりだす!」
「アルコールだけを、ビールから抜き取る…。殿下、そんな魔法みたいなことが、本当に可能なんですか?」
トビーは恐る恐る尋ねた。醸造の世界において、一度発酵して生まれたアルコールを後から取り除くなど、これまでの常識では考えられない暴挙だったからだ。
しかし、レオンハルトは地下室の奥から、銅製の奇妙な形をした密閉式の加熱魔導装置を引きずり出してきた。その瞳には、変態醸造家としての狂気的な知性がギラギラと輝いている。
「魔法ではない、純粋な温度の理律だ。トビー、お前はビールの大部分を占める水の沸点を知っているな?」
「はい、当然です。水が沸騰して気体になるのは、100度です」
「では、酵母が作り出す酒精の沸点は何度か知っているか?」
「え…? ええと…」
トビーが答えに詰まると、隣からアンナがおたまをチリンと鳴らして手を挙げた。
「はいはい! 私の可愛い酵母ちゃんたちが大好きな酒精はね、水よりもずっと熱に弱いの! 確か、78度あたりで我慢できなくなって、シュワワってお空に飛んでいちゃうはずよ!」
「その通りだ、アンナ」
レオンハルトは不敵に笑い、装置のレバーを握った。
「水の沸点は100度。アルコールの沸点は約78度。つまり、この一度完成した極上のヘイジーペールエールを、78度以上、100度未満の絶妙な低温加熱でじっくりと沸騰させれば、水や麦の旨味成分を残したまま、アルコールだけを効率的に気化させて外へと解き放つことができるはずだ」
「なるほど…! 加熱してアルコールだけを飛ばすんですね! それなら確かに、アルコールはゼロになります!」
トビーは一瞬、希望の光を見たかのように声を弾ませたが、すぐにハッと表情を曇らせた。
「…でも、それは理論上だけの話です。僕たち醸造士にとって、一度完成したビールを加熱するなんて、絶対にやっちゃいけない大禁忌です! ビールに熱を加えたら、ホップのあの瑞々しい鮮烈なアロマは一瞬で熱によって破壊され、大麦モルトの爽快な風味も熱劣化して、酷く不味くて臭い、ただの濁った泥水に変貌しちゃいますよ!」
トビーの指摘は、醸造家として完璧に正しかった。熱はビールの最大の敵であり、繊細なビールの風味を跡形もなく破壊する行為に他ならないからだ。
「だからこそ、お前の出番なんだよ、トビー」
レオンハルトはトビーの肩を強く押し、発酵タンクの前に立たせた。
「お前が偶然造り出したあのヘイジーの構造を思い出せ。大量の小麦とオーツ麦から抽出されたプロテイン、研究されたホップの油分が結合して生まれた、あの濁りの檻だ。あの濁りには、香気成分を液体の内側に強力に引き留める特殊な粘性がある。さらに、この密閉装置の中に魔導で気圧を下げる空間を作り出す。気圧を下げれば、アルコールの沸点はさらに下がり、60度以下の、ホップの香りが壊れないほどの低温でも、アルコールだけを効率的に気化させることができるんだ!」
「60度以下で、アルコールだけを飛ばす……!」
トビーの脳内で、バラバラだった醸造の知識が、凄まじい速度で一本の美しい数式のように噛み合わさっていった。王子の言う通り、ヘイジー特有の濁りの檻と、魔導による減圧低温加熱を組み合わせれば、ビールの風味を熱劣化から完全に守り抜いたまま、アルコールだけを綺麗に消し去ることができるかもしれない。
「やってみせろ、トビー。王宮の老人どもに落ちこぼれと笑われたお前のその精密な温度管理の才能で、この熱の呪いを完全にコントロールしてみせろ!」
「…はい! やります! 僕のすべての魔力と技術をかけて、ビールの魂を救ってみせます!」
実験は、困難を極めた。
少しでも温度が上がればホップのフルーティーな香りが焦げ付き、逆に温度が低すぎればアルコールが液体の中にしがみついて離れない。地下室には、気化して排出された純粋なアルコールの強い匂いと、熱せられた麦汁の濃厚な香りが混ざり合い、息をするだけでも頭がクラクラするような濃密な空間が形成されていた。
「トビーくん、そこよ! 今、酵母ちゃんたちの檻が緩んで、酒精が逃げ出したがっているわ! 温度をあと0.5度だけ下げて、気圧をキュッと絞り込みなさい!」
「魔法回路の維持が…! でも、負けない! 麦の栄養と、ホップの果実の魂を、この濁りの中に閉じ込めるんだ…!」
トビーは全身から大粒の汗を流し、血の滲むような集中力で装置の熱量をミリ単位でコントロールし続けた。レオンハルトはその様子を鋭い目で見守り、絶妙なタイミングで、アンナが修道院から持参してきた熱に強く、香りを再生成する神秘の野生酵母の抽出液をタンクへと滑り込ませていく。
そして、加熱を開始してから数時間が経過した頃。
装置の底にある冷却管から、一本の細いガラス瓶へと、トトト……と静かに液体が注ぎ込まれていった。
それは、向こう側が一切透けない、あの祭りでお披露目した時と全く変わらない、濃厚でクリーミーな白濁を帯びた黄金色の液体だった。
「完成…したのか?」
トビーは疲れ果ててその場に膝をつきながら、恐る恐るその瓶を見つめた。
レオンハルトは無言でその瓶を手に取り、まずは自身の鼻腔へと近づけた。その瞬間、王子の眉がピクリと跳ね上がる。
「…香りは、完全に生きているな。いや、アルコールが消えた分、ホップの純粋なライチとパッションフルーツのアロマが、より鮮明に、より狂気的に研ぎ澄まされていやがる」
王子は迷うことなく、その液体を喉へと流し込んだ。
ゴク、ゴク。
「殿下、どうですか…!? 味は、味はどうなっちゃいましたか!?」
トビーが縋り付くように尋ねると、レオンハルトは瓶を机に叩きつけ、地下室全体を震わせるような、今日一番の大爆笑を炸裂させた。
「ハハハハハ! 完璧だ! 完璧すぎるぞトビー! アルコールは完全にゼロ、法律上はただの健やかな麦ジュースだ! だがな、口当たりはあのヘイジー特有のとろけるような絹の泡そのもの! アルコールのトゲが消え去ったことで、麦の濃厚な旨味とお腹を健やかに整える野生酵母の神秘的なコクが、ダイレクトに脳髄を突き刺しにきやがる! そう…これは酒ではない!アルコールの力を借りずとも、人間を極限の幸福へと導く、世界初のノンアルコール・ヘイジーだ!!」
「やった…やったぁぁぁーーっ!!!」
トビーとアンナは抱き合って歓喜の声を上げた。熱による劣化を完全に克服し、アルコールゼロでありながら、脳がとろけるほど美味い未知の飲料が、ここに誕生したのだ。
「よし、これで武器は揃った」
レオンハルトは不敵に笑い、地下室の壁に掛けられた王都中央広場の地図を指差した。
「明後日、フェルディナンドの指示によって、広場には押収された数千本のビール樽が集められる。そして、そのすべての樽の管理と移送を担当しているのは、他でもないあの男だ」
「アルフレッド様…」
「そうだ。あいつの事務処理能力と、第二王子の絶対的な信頼を逆手に取る。明日の夜、広場に集められた本物のビール樽の中身を、この地下室の魔導ラインを使って、すべてこのアルコールゼロの奇跡の健康飲料へとすり替える。フェルディナンドが勝ち誇って廃棄しろと叫ぶその瞬間、俺たちが仕掛けた法律の抜け穴の罠を、あいつの正論を根元から木っ端微塵に粉砕してやるんだよ!」