王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
数年後の夏の終わり、麦冠王国の王都は、建国以来の歴史において最も大きな歓声に包まれていた。
大通りという大通りには色とりどりの旗がたなびき、街角の噴水からは、今日という最高の日を祝うために、ほのかに甘い麦汁のアロマを纏った清らかな水が勢いよく吹き出している。
王宮の広大な大広間では、第一王子レオンハルトの新国王即位を祝う、威厳ある戴冠式の準備が整えられていた。
だが、その厳かなはずの式典会場は、大陸のどの国の歴史書にも記載されていないほど、無法な光景で満たされていた。
「ちょっと、そこの給仕! 樽の交換が遅いわよ! このピルスナーは初速の炭酸のキレが命なの! 喉が渇いて式が始まる前に干からびちゃったらどうしてくれるの!」
絢爛豪華な社交界のドレスに身を包んだ清泉王国の王女クララが、豪快に大ジョッキを煽り、泡を口に付けたまま給仕を怒鳴り散らしていた。彼女の足元には、すでに空になったピルスナーの小樽が何本も転がっている。
「おお…見よ、この完璧なる泡の白さと、透き通る金色の対比! 新国王の誕生という歴史的瞬間にふさわしい、圧倒的な洗練! 手帳のページがいくらあっても足りん!」
その隣では、かつて白湯の気品を誇っていた隣国の重鎮、ジュリアン公爵が、羽ペンを猛烈な勢いで走らせながら、狂ったように手帳に情熱的なレビューを書き殴っていた。彼が手にしているジョッキからは、フルーティーで芳醇なエステルの香りが立ち上っている。
「シスター・アンナ、今日の式典用のヘイジーペールエール、タンクからの移送状態は完璧です! ホップの香気成分も、酵母の粘性の中に飽和状態で閉じ込められています!」
「よしよし、トビーくん! 私たちの愛しい酵母ちゃんたちも、新国王の誕生を祝福してタンクの中で元気にダンスしているわ! さあ、王宮の貴族どもにも、この濁りの真髄をたっぷり味わわせてやりましょう!」
いまや王国最高の醸造長へと上り詰めた青年トビーと、聖女としてその名を馳せるシスター・アンナが、誇らしげに自作の『ヘイジー』の樽を磨き上げている。彼らの周りには、かつてトビーを落ちこぼれと笑っていた王宮の古い醸造士たちが、今や尊敬の眼差しで群がっていた。
そして、その狂乱の輪の中心で、純白の完璧な礼服を纏った一人の美青年が、静かに、しかし熱っぽく語り合っていた。
「ジュリアン公爵。私が遠国の最新医学と統計学に基づいて執筆した論文をご覧になりましたか? アルコールを完全に排したこのノンアルコール・ヘイジーの摂取は、国民の脳細胞を一切破壊することなく、血流を滑らかにし、腸内を完璧に整え、結果として我が国の年間生産性を五割以上引き上げるという確実なデータが出たぞ」
かつて禁酒法を引っ提げてレオンハルトと真っ向から対立した第二王子、フェルディナンドであった。
彼の片手には、今やしっかりと、アルコールゼロでありながら濃厚な白濁を帯びたノンアルコール・ヘイジーのジョッキが握られていた。あのお堅い正論と論理的な思考はそのままに、彼は完全に「ノンアルコールビールの熱狂的な推奨派」として、斜め上の進化を遂げて改心していたのだ。
「うむ! 素晴らしいぞフェルディナンド! アルコールという名の刺激を過去の遺物へと葬り去り、ホップの香りと麦の栄養だけを極限まで享受するこの液体もまた、我々がかつて夢見た至高の水分補給だ! 今日も私の胃腸は完璧なコンディションを保っている!」
「まさにその通りだ。友よ。アルコールなきこの飲み物こそが、真の規律と健康をもたらす最高の発酵食だ」
かつて白湯の誓いを交わした二人の知性は、アルコールゼロのビールという奇跡の産物によって、より強固で熱い友情へと昇華されていた。
参列した平民も、貴族も、他国の重鎮も、全員が片手に極上のジョッキを持ち、いまかいまかと主役の登場を待ちわびている。
そして、王宮のパイプオルガンが鳴り響き、新国王の入場を告げるファンファーレが、大広間の天井を震わせた。
格式高い儀仗兵たちが長槍を掲げ、大扉がゆっくりと開け放たれる。
…しかし。
レッドカーペットの向こう側には、誰もいなかった。
静まり返る大広間。ファンファーレの残響が虚しく消えていく。
「…またですか」
壇上で補佐官アルフレッドの、トレードマークである眼鏡の奥の瞳が、一瞬で氷のように冷え切った。彼の額には、太い青筋が浮き上がっていく。
アルフレッドは無言で大広間を後にし、王子の控室へと向かった。
重々しい扉を、バンッと音を立てて開け放つ。
広い室内に、新国王となるはずの男の姿はどこにもなかった。豪華な衣装掛けには、今日のために仕立てられた最高級の王衣が、虚しくポツンと掛けられているだけだった。
アルフレッドの視線が、机の上に落とされた。
そこには、一枚の羊皮紙の破片が、雑に置かれていた。
『白兎亭と鉄槌亭がコラボした新作のビールが出たらしい。下町の職人どもの魂がこもった仕込みを、一番美味い瞬間に味わうこと以上に大切な公務などこの世に存在しない。戴冠式と新作ビール、どちらが重要か。お前なら分かるだろう。探さないでくれ。 レオンハルト』
手紙を読み終えたアルフレッドの白手袋が、メリメリと音を立てて握りしめられた。眼鏡のレンズが、怒りの高熱によって白く曇っていく。
「戴冠式に決まってるだろーーー!!! レオンハルト王!!!」
補佐官の地獄の底から響くような絶叫が、王宮の回廊を突き抜け、式典会場全体へと轟き渡った。
大広間にいた参列者たちは、その叫びを聞いた瞬間、一斉に顔を見合わせ、それから誰もが慣れ親しんだ愛おしいものを見るような笑顔を浮かべた。
「あら、いつものサボり癖が出たわね! 頼もしい新国王だわ!」
「ハハハ、ならば我々も飲む時間を引き延ばせるというもの! 乾杯だ!」
誰一人として腹を立てる者はいない。むしろ、王宮の重苦しい威厳などよりも、どこまでも麦の情熱に忠実な主君の姿に、人々は盛大なジョッキの打擲音で応えていた。
同じ頃。王都の喧騒から少し離れた下町の細い路地裏。
創業以来の古びた木造の看板を掲げる老舗の酒場「白兎亭」の店内は、熱気と麦汁の香りで満ち溢れていた。
「プハァーッ! これだ、これ! 樽から注がれた直後の、この微かな木香とフレッシュなホップの立ち上がり! 豪華な王宮で飲む酒も悪くないが、やっぱり仕込みの現場に近い下町の酒場で飲む生ビールが、一番五臓六腑に染み渡るぜ!」
店内の一番奥の席で、ボロ布のような旅装に変装したレオンハルトが、大きな木製ジョッキを勢いよく干して、満足気にお腹を叩いていた。
彼の前には、王都の名門醸造所である白兎亭と鉄槌亭が共同で仕込んだという、期間限定の特別コラボレーションビールが並んでいた。柑橘のような爽やかなアロマと、しっかりとした麦芽の旨味が絶妙なバランスで調和した、職人たちの情熱の結晶である。
「うう…どうしよう」
レオンハルトのすぐ隣の席で、頭を抱えて唸っている若い青年がいた。
使い古された革の鞄を抱え、服にはまだ地方の田舎町の泥がついている。今日、長年の夢だった王都での仕事を求めて上京してきたばかりの、純朴な青年だった。
青年は、目の前に置かれた分厚い品書きの羊皮紙を穴が開くほど見つめながら、困り果てた顔で生唾を飲み込んでいた。
「あの…すみません。お隣のお兄さん」
青年は、まさか自分の隣に座っている豪快な男が、今日これから一国の王として即位する第一王子レオンハルトであることなど知る由もなく、藁にもすがる思いで声をかけてきた。
「ん? 俺にか? どうした若者、浮かない顔をして」
「はい…僕、今日生まれて初めて酒場に入ったんです。大人の仲間入りをしたくて、ずっとビールというものを飲んでみたかったんですけど。僕、昔から苦い食べ物がすごく苦手で。でも、周りの人たちはみんな楽しそうに飲んでいて。メニューを見たら、見たこともない名前がたくさん並んでいて、一体何を頼めばいいのか、さっぱり分からなくなっちゃって…」
青年は申し訳なさそうに肩をすくめた。周囲の客たちが豪快にジョッキを空ける中、自分だけが頼むものすら決められず取り残されていることに、強い焦りと恥ずかしさを感じているようだった。
レオンハルトは、青年のその真っ直ぐで不安げな瞳を見つめた。
その瞬間、色々なビールとの記憶が王子の胸の中に温かく蘇ってきた。
レオンハルトはニタリと笑い、自身のジョッキを軽く傾けながら、青年の肩を力強く叩いた。
「苦味が怖いならバナナのように優しく香るヴァイツェンや、果汁のようにジューシーなヘイジーを選べばいい。喉越しを楽しみたいなら水晶のように澄んだピルスナーだ。度数の高いトラピストもあれば、アルコールのないノンアルコールだってある。だがな、どれを選んでも間違いじゃない。世界には星の数ほどのスタイルがある。泡も、濁りも、アルコールの有無すらもすべてがビールだ」
レオンハルトは続けて、
「お前が直感でこれだと思い、一口飲んで美味いと笑ったその一杯こそが、お前にとっての正解さ。正解は法律や教科書が決めるんじゃない、お前の舌が決めるんだ。さあ、まずはその目の前の一杯から、果てなき麦の旅を始めようじゃないか」
王子の言葉は、まるで魔法のように青年の胸の奥の仕切りを吹き飛ばしていった。
苦しむ必要などなかったのだ。大人の嗜みだからと無理をして苦いものを耐える必要も、誰かの決めた正解に合わせる必要もない。ただ、自分の心が惹かれた一杯を試し、自分の舌で楽しめばいいのだと。
「自分の…自分の舌が決める正解」
青年は深く頷き、ぱっと顔を輝かせた。不安の影は消え去り、その瞳には未知の世界へ踏み出す冒険者のような輝きが宿っていた。
「すみません、店主さん! 注文をお願いします! その、メニューの一番上にある、バナナの香りがするというヴァイツェンをひとつください!」
「あいよ! ヴァイツェン一丁!」
店主の威勢の良い声が響き、青年は嬉しそうに胸を撫で下ろした。
まさに、その瞬間のことだった。
ドドドドド…ッ!
地鳴りのような猛烈な足音が路地裏から近づいてきたかと思うと、白兎亭の頑丈な木製の扉が、文字通り衝撃波によって叩き開けられた。
「見つけましたよ…我が国の、新国王陛下ぁぁぁッ!!!」
肩で激しく息を乱し、額に青筋を幾重にも浮かべた補佐官アルフレッドが、白銀の王宮警備兵を引き連れて店内に乱入してきた。彼の後ろには、面白そうに追ってきたクララ王女やジュリアン公爵、そして、呆れ顔のフェルディナンドたちの姿もあった。
「げっ!? アルフレッド! 」
「あなたの行動パターンなど、私の頭脳の中に全て計算済みです! さあ、観念して王宮へ戻り、王冠をお被りなさい!」
アルフレッドは容赦なく踏み込むと、まだ未練たらしくジョッキを握りしめていたレオンハルトの両脇を、警備兵たちと共にガッチリと締め上げた。
「待て! 待てアルフレッド! あと一杯! このコラボビールの限定樽をもう一杯だけ飲ませろ! これを、王の初仕事とする!」
「却下です! 国王の初仕事は、式典の壇上で国民に顔を見せることです! ほら、引っ張りますよ!」
「うわあぁぁぁ! 俺のビールがぁぁぁ!」
一国の王となるはずの男が、補佐官と警備兵たちによって首根っこを掴まれ、ズルズルと酒場の外へと引きずられていく。酒場の中は、そのあまりにも情けなくも微笑ましい光景に、爆笑と大歓声の渦に包まれた。
レオンハルトは引きずられながらも、最後に必死で腕を伸ばし、先ほどの青年の方向へと振り返った。
「おい、若者! 次会うときは君が見つけた好きなビールで乾杯しよう!」
「…え!?」
連れ去られていく王子の背中を見送りながら、青年は口をぽかんと開けて呆然としていた。
今、引きずられていった男の服の隙間からチラリと見えたのは、王家の紋章が刻まれた金色のペンダント。そして、追ってきた人々が彼を「新国王陛下」と呼んでいた声。
(あ、あの人…今日、戴冠式をするレオンハルト国王様だったの!?)
あまりの衝撃に立ち尽くす青年の前に、店主が泡をなみなみと盛り上げた、一脚の木製ジョッキを差し出した。
「はいよ、お兄さん! お待ち、特製のヴァイツェンだ!」
ジョッキの中で、小麦由来のクリーミーな白い泡が、シュワシュワと心地よい音を立てて弾けている。そこからは、本当に熟したバナナのような、甘く優しいフルーティーなアロマがふわりと立ち上っていた。
青年はゴクリと生唾を飲み込んだ。
先ほど去っていった新国王の言葉が、胸の中で温かく響いている。
『正解は法律や教科書が決めるんじゃない、お前の舌が決めるんだ』
青年は、少し緊張した手つきで大きなジョッキを両手で持ち上げた。
手の中でずっしりと重い木肌の感触を感じながら、自分の意思で選んだ、人生で最初の一杯を、ゆっくりと口元へと運んだ。
とろりとしたきめ細やかな泡が唇を包み、優しく甘い小麦の風味が、滑らかに舌の上を滑り落ちていく。
苦味はどこにもない。ただ、果実のように豊かな香りと、胸が躍るような心地よい爽快感だけが、口いっぱいに広がっていった。
青年は、喉を鳴らしてそれを飲み干すと、自然と顔をほころばせ、パッと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「…美味しい!」
自分の舌で味わい、自分の心で感じた、初めての正解。
青年の弾んだ声が、王都の賑やかな歓声の中に溶けていった。
本編はこれで終わりです。
番外編を後日投稿します。