王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
その日の麦冠王国は、どんよりとした灰色の雲に覆われていた。
王宮の政務室では、レオンハルト王子が人生最大級の危機に直面している。目の前に積み上げられたのは、新型ビールの研究予算案でも、醸造所の視察報告書でもない。
「…越冬用の石炭、および王宮公用馬車の車輪新調に関する予算配分、およびその優先順位の再検討。アルフレッド、これは何の嫌がらせだ?」
「公務です、殿下」
アルフレッドは、澱みのない動作で新たな書類を山の上に置いた。
「昨日の『バナナ関税引き下げ騒動』により、貴族院から『王子は果実の味に惑わされ、国家の屋台骨であるエネルギー問題を軽視しているのではないか』との疑念が呈されました。それを払拭するための、健全なデスクワークです。今日は一歩も外に出しません」
レオンハルトは、羽根ペンを剣のように握り締め、白紙の書類を睨みつけた。
「私は、石炭の配分を決めるために生まれてきたのではない。石炭の如き漆黒の液体、その深淵に隠された真実を解き明かすために生きているのだ」
「石炭のような液体を飲んだら死にますよ。さあ、ペンを動かしてください」
アルフレッドの監視は、もはや鉄壁だった。
部屋の四隅には近衛兵が立ち、窓の外には「鳥一羽逃がさない」という気概に満ちた見張りが配置されている。前回、甲冑に化けたり通気口へ逃げたりした前科が、完全に裏目に出ていた。
しかし、レオンハルトは諦めていなかった。
彼は知っている。完璧な警備には、必ず一点の「死角」があることを。
「…アルフレッド。喉が乾いた。至急、王室専用の『超熟成エール』を持ってきてくれ。ただし、温度は十二度。泡の比率は三対七、グラスは三回磨き上げたクリスタルでなければ、私は一行たりとも書類にサインしないぞ」
「…はぁ、分かりました。十五分ほど時間をいただきます。その間、逃げようとしても無駄ですよ。この部屋の扉は、外から鍵をかけますから」
アルフレッドが部屋を出て、重厚な扉が閉まる音が響く。鍵がかかった。
レオンハルトは即座に立ち上がった。
彼は扉ではなく、部屋の隅にある巨大な「洗濯物回収用のシュート」へと向かった。王宮の各階からリネン類を地下の洗濯場へ落とすための垂直の穴だ。
「…普通の人間なら、ここを通ろうとは思うまい。だが、昨日のIPAの苦味を耐え抜いた私の精神は、この程度の闇に屈することはない!」
彼は脱ぎ捨てたマントをロープ代わりにし、自身の体を縛り上げると、迷うことなくシュートの中へと身を投げた。
滑り落ちる感覚。シーツや枕カバーの柔らかな弾力。そして、埃っぽい石鹸の匂い。
数秒後、彼は地下一階の「汚れた洗濯物の山」の上に、華麗に(あるいは雪崩のように)着地した。
「勝った。自由だ」
頭に乗った執事用の予備の靴下を払い落とし、レオンハルトは地下の秘密通路…かつて先代が「お忍び」のために作ったとされる、今は忘れられた脱出口へと駆け出した。
たどり着いたのは、王都の北側、職人たちが夜通し汗を流す「鍛冶屋通り」の奥深くにある酒場だった。
その名は『鉄槌亭(てっついてい)』。
入り口の扉は煤で汚れ、店内の明かりは煤けたランプだけだ。これまでの華やかな酒場とは違い、ここには筋肉隆々の大男たちが、言葉少なに重厚なグラスを傾ける、硬派な空気が満ちていた。
「いらっしゃい。見慣れない顔だな。ここはお貴族様が来るような場所じゃないぞ」
店主は、片目に眼帯をした傷だらけの男だった。その太い腕は、何千回と鉄を打ってきた者のそれだ。
「…身なりで判断するな。私は今日、この街で一番『深い闇』を味わいに来たのだ」
レオンハルトは、カウンターの一角に腰を下ろした。
「噂に聞く『スタウト』を出してくれ。光を一切通さず、魂まで塗りつぶすようなやつを」
店主はニヤリと笑った。
「ほう。あんた、分かってるな。…いいだろう。ちょうど、北部炭鉱の連中に送るはずの特注品が樽に入ったところだ」
店主が重厚なポンプを引く。
グラスに注がれたのは、まさに「夜」そのものだった。
漆黒。
一筋の光さえも反射しない、完璧な黒。その上には、まるでカプチーノのように濃厚で、きめ細かな「焦茶色」の泡が分厚く盛り上がっている。
「…これが、スタウトか」
レオンハルトは息を呑んだ。
かつて、荷運び人(ポーター)たちが好んで飲んでいたという、焦げるまでローストされた麦芽を贅沢に使ったビール。それがさらに進化し、より強く、より濃厚になったのがこの『スタウト』だ。
彼は慎重に、その黒い深淵に唇を寄せた。
一口。
「……ッ!!」
衝撃が走った。
苦い。だが、IPAの「青臭い苦味」とは全く違う。
それは、コーヒー豆を直接噛んだような、もしくは高級なカカオを煮詰めたような、香ばしくも力強い「ロースト感」だった。
鼻に抜けるのは、燻製された木材のような香りと、わずかなキャラメル、そして深い土の香り。
味わいは極めて濃厚(フルボディ)だ。口の中で液体が重厚な重みを持ち、まるで絹の毛布が舌を包み込むような、クリーミーな感触がある。
「…なんだ、この包容力は」
レオンハルトは二口目を飲んだ。
今度は、奥にある隠れた甘みが顔を出した。苦味の背後に潜む、麦芽の濃厚なコク。それは、厳しい冬を乗り越えるために蓄えられた、大地のエネルギーそのもののように感じられた。
「店主。…これはビールではない。これは、液体になった『暖炉』だ」
「暖炉、だと?」
「そうだ。凍える体、すり減った心。それをこの漆黒の闇が、温かく、力強く癒してくれる。…スタウトの黒さは、絶望の黒ではない。すべてを包み込み、再生を待つための『土壌』の黒なのだ」
店主は驚いたように目を見開いた後、ハハハ! と豪快に笑った。
「面白いことを言う兄ちゃんだ。…ああ、その通りだ。炭鉱の野郎どもは、真っ暗な穴蔵で一日中働いた後、この一杯を飲むために地上へ戻ってくる。この黒い酒が、連中の誇りなのさ」
「誇り。なるほど、これこそが、国を支える労働者たちの血なのだな」
レオンハルトは感極まり、三口目を豪快に飲み干した。
「私は今、確信したぞ。麦冠王国の本当の強さは、王宮の華やかなシャンデリアの下ではなく、この煤けた酒場の、底の見えないグラスの中にあったのだと!」
「…その感動的な演説に水を差して申し訳ありませんが、見つけましたよ…殿下」
聞き慣れた、そして今この瞬間、世界で一番聞きたくなかった声がした。
いつの間に潜入していたのか、隣の席にはボロボロの布を頭から被った男が座っていた。
男が布を取ると、そこには完璧に整えられた髪と、氷のように冷徹な瞳を持つアルフレッドがいた。
「…あ、アルフレッド!? なぜ、ここが分かった。私はシュートを通って、地下通路から…」
「殿下の行動パターンは、もはや予測の範疇です。洗濯物のシュートから脱出するなど、前々からやりそうだと思って、地下に監視を置いていました」
「何だと!? では、なぜあの時捕まえなかった!」
「汚れた洗濯物の山に突っ込んだ殿下の姿が、あまりにも滑稽で…。いえ、一度泳がせて、どのスタイルのビールを求めるかを特定した方が、今後の警備計画に役立つと判断したためです。…で、今回はスタウトでしたか。好みが渋いですね」
アルフレッドは、店主が気を利かせて出した水のグラスを手に取り、一口飲んだ。
「殿下。王宮の政務室には、今頃『完璧な比率のエール』が置かれています。あれを私がどれほどの苦労で準備したか、お分かりですか?」
「ふむ…すまない、アルフレッド。だが、見てくれ。この黒い真理を! 私は今、労働者たちの魂と共鳴しているのだ!」
「共鳴するのは結構ですが、予算書類の山とはいつ共鳴してくださるんですか。さあ、立ってください。帰りはシュートではなく、馬車ですよ」
「待て! せめてあと一杯。この『狂おしいほどのロースト感』を、もう少しだけ…」
「ダメです。今ここで立ち上がらなければ、明日の朝食は、そのスタウトよりも苦い『薬草粥』一択になります」
「…卑怯だぞ、アルフレッド。食の好みを利用するとは」
「殿下こそ、王族の地位を利用して洗濯シュートをアトラクションにしないでください」
アルフレッドは王子の腕を掴み、半ば強引に椅子から引き剥がした。
「店主、代金だ。いいビールだったようだな」
「ああ、そこの兄ちゃん…いや、王子様か? 飲みっぷりは最高だったぜ」
店主の言葉に、レオンハルトは去り際に親指を立てて応えた。
「…また来る。次は、石炭の予算案を書き上げた後に、勝利の美酒としてな!」
「はいはい、威勢だけはいいですね」
帰り道の馬車の中。
レオンハルトは、心地よい酒精に身を任せながら、揺れる車窓から街の灯りを眺めていた。
口の中に残る、チョコレートのような甘い余韻。
「…アルフレッド。私は決めたぞ。王宮の石炭配分を増やす。特に、炭鉱に近い地域の冬の食料支援もセットだ」
「…ほう? 理由を伺っても?」
「あのスタウトを飲んだからだ。…あんなに力強い酒を醸す者たちが、寒さに震えていては、国の損失だからな」
アルフレッドは、暗い車内でわずかに口角を上げた。
「…ビールを飲んで政治のやる気が出るなら、安い投資かもしれませんね。ただし、明日の午前中までに書類を終わらせることが条件です」
「分かっている。今の私には、スタウトの如き粘り強さが備わっているからな」
「だといいのですが。あ、殿下。その服、まだ少し石鹸の匂いがしますよ。洗濯シュートのせいで」
「うるさい…これは『清潔な王子』の証だ」
麦冠王国の夜は、漆黒のビールの如く深く、そして優しく、酔っ払いと補佐官を包み込んでいく。
王子の、真実の一杯を求める旅。それはいつしか、国そのものを少しずつ変え始めていた…かもしれない。
作者は黒は苦手です。