王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
麦冠(ばくかん)王国の王宮大広間は、かつてない緊張感と、そして特有の「熱気」に包まれていた。
いや、正確には熱気ではない。この国が誇る最高級の、しかし常温に近いエールが放つ、芳醇で重厚な香りの「飽和状態」である。
「殿下、背筋を伸ばしてください。今日は隣国・清泉(せいせん)王国からの親善使節団を迎える、極めて重要な式典なのですから」
隣で補佐官アルフレッドが、小声で、しかし鋼のように冷たい声で囁く。
第一王子レオンハルトは、首元まで詰まった礼装の襟を指で広げながら、眉間に皺を寄せた。
「分かっている、アルフレッド。だが、この広間の温度管理はどうなっている。エールの香りを引き出すには十五度から十八度が適温だが、人が多すぎて一度ほど上昇している。これではフルーティーなエステル香が、野暮ったい甘みに変わってしまうではないか。民に失礼だ」
「そんなことを気にしているのは、この広い王宮内で殿下ただ一人です。窓の外を見て『あそこの醸造所の煙突の煙、色が少し濃いな。焙煎を強めたか?』などと思案するのも禁止です。いいですね?」
レオンハルトは小さく鼻を鳴らした。
清泉王国。その名の通り、豊かな水源に恵まれたその国は、麦冠王国とは異なるビール文化を持っている。彼らが愛するのは、低温でじっくりと発酵させる「ラガー」だ。
やがて、大扉が重々しく開かれた。
「清泉王国第二王女、クララ・フォン・クリスタルベルク殿下、御入国!」
現れたのは、黄金色のツインテールを激しく揺らし、軍靴の音をカツカツと響かせて歩く少女だった。彼女の瞳は澄み渡った青色で、まるで冷たい泉の底を覗き込んでいるかのような透明感がある。
クララは壇上の国王の前まで進むと、深々とした礼…ではなく、首を大きく左右に振って広間を見渡した。
「うわー! 広い! 天井高い! でも、なんかこの部屋、むわっとして酒臭くないですか!?」
広間にいた重臣たちが一斉にずっこけそうになる。老臣の一人が「無作法な…」と泡を吹きかけるが、クララは気にせずレオンハルトの前まで歩み寄った。
「あなたがレオンハルト王子? 噂は聞いてます。ビールが好きすぎて、仕事中に樽の中に隠れてたんですって?」
「…それは、民の麦を知るためのフィールドワークだ。樽の内部構造を身体的に理解せねば、醸造の真理には辿り着けん」
「へー、言い訳までエールみたいにモタっとしてるんですね」
クララは傍らにあった歓迎会用のビールを手に取ると、一口も飲まずに顔をしかめた。
「ねえ、これ。どうしてこんなに『ぬるい』んですか? まさか、北の山から切り出した氷をケチってるんですか?」
「ぬるい、だと…?」
レオンハルトの瞳に、静かな、しかし確かな「職人の怒り」が宿った。
「これは我が国が誇る『麦冠プレミアムエール』だ。液温十五度。この温度こそが、上面発酵酵母が生み出した複雑な香りの層を、一枚ずつ丁寧に剥がして楽しむための黄金律なのだ。冷やしすぎれば、香りは閉じてしまう。君たちは、ビールの魂を凍え死にさせるつもりか?」
「えー、理屈っぽーい! 十五度とか、もはやお風呂じゃないですか!」
クララは無邪気に、しかし残酷に言い放った。
「ビールは! 北国の氷室でキンキンに冷やして! 喉がバチバチするくらいの刺激で飲むもの! 鼻をクンクンさせて哲学するなんて、おじいちゃんの趣味ですよ!」
「お風呂ではない! 液体状のパン…いや、液体の芸術だと言っているだろう!」
式典の最中であることも忘れ、王子と王女は至近距離で睨み合った。
アルフレッドは天を仰いだ。今日の外交は、すでに終わったのだと確信した。
式典の合間の休憩時間。レオンハルトは執務室へ戻るフリをして、いつもの隠し通路の前に立っていた。
だが、そこには先回りしていたクララがいた。
「逃げるんですか? さっきの決着、ついてませんよ」
「…逃げるのではない。私はこれから、街の醸造所に異常がないか、抜き打ち検査に行くところだ。王族としての抜き差しならぬ公務だ」
「じゃあ私も行きます! 私の愛する『ラガー』の素晴らしさを、その凝り固まったエール脳に叩き込んであげますから!」
結果として、レオンハルトが王女を「護衛」するという名目で、二人は(そして死んだ目をしているアルフレッドを含めた三人は)、王宮を抜け出して城下町の『金狼亭』へと向かった。
「ここです。ここが、私の聖域だ」
レオンハルトが胸を張って案内した店内で、クララはカウンターに座るなり叫んだ。
「店主さん! この店で一番冷えてるピルスナーを二杯! あと、ジョッキも氷室でキンキンに冷やしておいたやつを!」
「凍らせたジョッキ、だと…!? 炭酸が過剰に跳ねて、繊細なホップの苦味が台無しになるぞ! 香りが死ぬと言っているだろう!」
「いいから黙って飲んでください!」
運ばれてきたのは、これまでレオンハルトが愛してきた琥珀色のエールとは、似ても似つかぬ液体だった。
透き通るような黄金色。一点の曇りもない透明感。そして、グラスの表面には、極限まで冷えている証拠である白い水滴がびっしりとついている。
「はい、どうぞ。これが、世界を変えたビール『ピルスナー』です!」
レオンハルトは戦々恐々としながら、その冷たいグラスを手にとった。
「…冷たすぎる。指が凍りそうだ。これはビールというより、冬の洗礼ではないか?」
「大げさですね。いいから、喉を開いて、一気に流し込むんです!」
レオンハルトは覚悟を決めた。一口、ではない。クララに促されるまま、ゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲み込んだ。
「…………っ!」
衝撃が走った。
まず、暴力的なまでの冷気が喉を駆け抜け、意識を覚醒させる。
次に感じたのは、一切の重たさがない、驚くべき「キレ」。
エールのような「余韻を楽しむ」時間を与える前に、その液体はスッと消えていく。だが、鼻の奥には、草原を思わせるノーブルホップの清々しい香りが、一瞬だけ鋭く残る。
「…なんだ、これは。雑味が、全くない。まるで磨き上げられた水晶のような喉越しだ」
「でしょ? これが下面発酵酵母、通称ラガー酵母の力です! 十度以下の低温で、じっくり時間をかけて発酵させることで、酵母が不純物を全部食べ尽くしてくれるんです。エールが積み上げられた『足し算の美学』なら、ラガーは徹底的に無駄を削ぎ落とした『引き算の美学』なんですよ!」
クララは得意げに胸を張る。
「世界中のビール乗りたちが腰を抜かしたんです。それまでのビールは全部濁ってて重かったのに、こんなにキラキラして爽快な飲み物が現れたんですから!」
レオンハルトは無言でグラスを見つめた。
認めざるを得なかった。この「キレ」の背後には、徹底した温度管理と、気が遠くなるような低温貯蔵(ラガーリング)の忍耐が必要であることを。
「…確かに、この清潔感は…認めよう。夏の日差しの中で、あるいは過酷な労働の後にこれを飲めば…それは…救いになるかもしれん」
「やった! 王子様、意外と素直!」
クララは嬉しそうに笑うと、レオンハルトの肩をガシガシと叩いた。
「さあ、ここからは親善試合です! 店主さん、次はピルスナーのおかわりと、あっちの黒いラガー、シュバルツも!」
「待て、まだ一杯目だぞ…私の味蕾(みらい)はまだピルスナーの衝撃を分析中だ…」
「ビールは楽しく、自由に、喉を鳴らして飲むもの! 難しく考える前に、次のグラスが待ってますよ!」
そこからは、まさに嵐のような時間だった。
クララのペースは異常だった。一杯、二杯、三杯と、彼女はまるでお茶でも飲むかのように、黄金の液体を体内に吸い込んでいく。
「あはは! この国のヴァイツェンも美味しいですね! でもやっぱり、最後はピルスナーに戻っちゃう! あの『バチッ』とくる炭酸が最高!」
「…君は、どれだけ飲むつもりだ。王女としての品位は…それに、そんなに冷たいものばかり飲んで、お腹を壊さないのか?」
「美味しいものに品位なんて関係ありません! 美味しいか、もっと美味しいか、それだけです!」
レオンハルトも意地になって付き合った。
エール王子のプライドにかけて、隣国の小娘に飲み負けるわけにはいかない。
IPAの歴史を語り、スタウトの重厚さを説きながら、彼は冷たいグラスを空け続けた。
だが、五杯目を過ぎたあたりで、レオンハルトの視界が歪み始めた。
「…アルフレッド。あそこに、巨大なホップの精霊が見える。しかも、あいつは氷の鎧を纏っている…」
「殿下、あれはただの観葉植物です。いい加減にしてください」
「違う…あの精霊は…私に『もっと冷やせ、もっとキレを磨け』と言っている…私は…まだ修行が足りなかったのか…」
一方で、クララは七杯目を飲み干しながら、依然としてケロッとしていた。彼女の肌は透き通るような白さを保っており、酔っている気配すらない。
「あれー? 王子様、もうおしまいですか? ラガーの爽快感について、あと三時間は語り合えると思ったのに!」
「…私は…敗北した…」
レオンハルトは机に突っ伏した。
ビールの知識では負けていない。だが、「ビールを楽しむ体力(および肝臓)」において、彼は自分よりも遥かに強大なモンスターを呼び込んでしまったことを悟った。
翌朝。
王宮の会議室には、重苦しい沈黙と、そしてかすかな「薬草粥」の香りが漂っていた。
「…アルフレッド。日光を遮れ。カーテンを閉めろ。光が…私の脳細胞を直接焼いている。昨日飲んだラガーの冷気が、今になって氷河となって脳内を削っている…」
レオンハルトは、執務机の上に泥のように溶けていた。
隣の席では、クララ王女が同じように、机に突っ伏してツインテールを力なく垂らしている。
「…私もです…ツインテールを動かすだけで、頭の中で大麦の収穫祭が始まったかのような騒ぎが…ラガーのキレが、今度は私のこめかみを切り裂いています…」
二人は昨日、あの一杯の後も、さらに数軒の酒場を「視察」し、最終的に「エールとラガーの混合(ハーフ&ハーフ)」という、禁断の和解案にまでたどり着いた。その結果が、この凄惨な二日酔いである。
アルフレッドは、キンキンに冷えた(しかしアルコールは一滴も入っていない)湧き水を二人の前に置いた。
「おはようございます、殿下。そして王女殿下。お二人の熱心な『外交努力』のおかげで、昨夜の酒場界隈では『王子と王女が肩を組んで、ビール万歳と叫びながら街を練り歩いていた』という噂が広まっています。外交としては、これ以上ない成果ですね。…領収書の額以外は」
「…皮肉はやめろ」
「…お水、美味しいです」
レオンハルトは、震える手で水を飲み干すと、少しだけ顔を上げてクララを見た。
彼女もまた、薄目を開けてレオンハルトを見返した。
「…王子。昨日の…最後の酒場での合意、覚えてますか?」
「…ああ。エールとラガーに、上下はない。ただ…『今、この瞬間に飲みたい一杯』があるだけだ、という結論だったな」
「そうです…でも、今の私が一番飲みたい一杯は…」
二人の声が重なった。
「「…冷たいトマトジュース」」
「…気が合いますね」
二人は力なく笑い合い、そして再び机に沈んだ。
麦冠王国と清泉王国の友好関係は、かつてないほど「深い傷跡」を伴って成立した。
老臣たちが会議室を覗き込み、「おお、なんと深い絆…。朝まで国の未来について議論を戦わせていたのでしょうな」と感銘を受けていたが、アルフレッドだけは無言で、山のような領収書を眺めていた。
麦冠王国の午後は、今日も少しだけ酒臭く、そして平和だった。