王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます   作:高校ジャージ10年目

5 / 10
ビールを造ろう

 麦冠(ばくかん)王国の午後は、今日も平穏そのものだった。

 

 高く澄んだ青空、のどかに回る風車の羽根、そして街の至る所から漂う、炊き立ての麦のような香ばしい匂い。

 

 しかし、王宮の一角にある執務室だけは、まるで嵐の前の静けさのような、重苦しい空気に支配されていた。

 

「…アルフレッド。私は、絶望している」

 

 第一王子レオンハルトは、窓の外を遠い目で見つめながら、重々しく口を開いた。

 

「それはまた唐突ですね。今朝の朝食のバナナが、少し熟しすぎていましたか?」

 

「違う。…いや、それも一因ではあるが、本質ではない」

 

 レオンハルトは振り返り、机の上に並べられた数種類の市販ビールを、親の仇でも見るかのような鋭い眼差しで指し示した。

 

「これを見ろ。この国で愛されているビールたちだ。確かにどれも素晴らしい。喉越しも良く、品質も安定している。…だが! どれもこれも『優等生』すぎるのだ!」

 

「…はあ」

 

「いいか、アルフレッド。商業的なビールは、多くの人に愛されるために『妥協』を強いられている。苦味を抑え、香りを整え、誰もが飲みやすいように角を削っている。…だが、私の魂が求めているのは、そんな丸くなった液体ではない! もっと、こう…喉を焼き、脳髄を揺さぶり、飲んだ瞬間に前世の記憶が蘇るような、究極の個性を放つ一杯なのだ!」

 

 アルフレッドは、溜息を吐きながら手元の書類にペンを走らせた。

 

「殿下。世の中には『普通に美味しい』を求めている人が九割九分なんです。前世を思い出したい人は、教会か怪しげな占い師のところへ行きます」

 

「ならば私が作るしかない! 既存の枠組みに囚われない、私の、私による、私のための『完璧なビール』をな!」

 

「…嫌な予感がします。具体的に何をしようとしているんですか?」

 

 レオンハルトはニヤリと不敵に笑うと、机の下から巨大な麻袋を引っ張り出した。

 

「二条大麦の最高級麦芽(モルト)、そして秘密のルートで取り寄せた希少な三種類のホップだ。…私は今日から、この執務室を『聖域(ラボ)』とする! 私は醸造家(ブリュワー)レオンハルトとして、歴史に名を残すのだ!」

 

「却下です。掃除が大変ですし、何よりここは仕事をする場所です。だいたい、殿下にビールが造れるわけがないでしょう。飲む専門のくせに」

 

「くっ…侮るなよ、アルフレッド! 私はこれまで、数え切れないほどのビールと対話してきた。理論は完璧だ! 麦の叫びを、酵母の溜息を、私はこの耳で聞き取ることができるのだ!」

 

 結局、レオンハルトの「作らせてくれないなら、次回の予算会議で全項目に『ビール代』と記入する」という最低な脅しに屈し、アルフレッドは王宮の隅にある、今は使われていない古い備品倉庫を「実験場」として開放することに同意した。

 

   

 

 数日後。

 

 かつて埃を被っていた倉庫は、レオンハルトの手によって、奇妙な実験室へと変貌を遂げていた。

 

 中心には、特注の巨大な銅製の大鍋。その周囲には、温度計、計量器、そして怪しげなガラス瓶が所狭しと並んでいる。

 

 レオンハルトは、普段の豪華な礼装ではなく、煤けたエプロンを身に纏い、真剣な表情で大鍋の中をかき混ぜていた。

 

「…いいか、アルフレッド。ここが最も重要な工程だ。糖化(マッシング)…。麦芽を砕き、六十五度の温水に浸す。この瞬間、麦の中に眠っていた酵素たちが目を覚まし、澱粉を糖へと変えていくのだ。…熱すぎてもいけない、ぬるすぎてもいけない。酵素たちが一番気持ちよく働ける温度を、私は維持しなければならないのだ」

 

「…殿下、もう三時間もその鍋をかき混ぜてますよ。書類の山が寂しがっています」

 

「黙れ! 今、麦が私に話しかけているんだ。『今だ、今まさに甘くなっているぞ』とな! …おお、見ろ、この黄金色の液体。これがビールの赤子、麦汁だ。なんと愛おしい…」

 

 レオンハルトの瞳は、もはや狂気と言っても差し支えない輝きを放っていた。

 

 彼は煮沸の工程に入ると、今度はホップの投入タイミングに異常なまでのこだわりを見せた。

 

「…ビターホップは最初に入れる。苦味の骨格を作るためだ。だが、香りを司るアロマホップは…そう、残り五分のこの瞬間だ!これが 『レイト・ホッピング』! これにより、ホップの繊細な香油成分を揮発させず、液体の中に閉じ込めるのだ! 嗅げ、この香りを! 柑橘と松脂、そして大地の吐息が混ざり合った、香りだ!」

 

「…ただの草の匂いです」

 

「貴公には風雅というものがないのか! このホップのルプリン(黄色い粉末)の一粒一粒に、どれほどの可能性が詰まっていると思っている!」

 

 煮沸が終わると、レオンハルトは液体を急速に冷却し、あらかじめ準備していた発酵容器へと移した。

 

 そして、最後の仕上げ…「酵母(イースト)」の投入である。

 

「さあ、我が愛しき労働者たちよ。思う存分、この甘い海で踊るがいい。糖を喰らい、アルコールと炭酸ガスを吐き出し、この液体を『聖水』へと変えるのだ。…私は君たちを信じているぞ」

 

 レオンハルトは、まるで我が子を寝かしつける親のように、発酵容器を毛布で包み込み、優しく撫でた。

 

   

 

 それからの二週間、レオンハルトは公務の合間(という名の隙間時間)を縫っては、倉庫へと通い詰めた。

 

 容器に取り付けられたエアロックが、発酵中に発生するガスで「ポコ…ポコ…」と音を立てるたび、彼は小躍りして喜んだ。

 

「…聞こえるか、アルフレッド。酵母たちの合唱だ。彼らは今、歴史を作っているのだ。既存のビールが『静寂』だとするなら、私のビールは『歓喜の歌』だ」

 

「殿下の脳内ではそう聞こえるんでしょうね。私には、ただガスが抜ける音にしか聞こえませんが。…それより殿下、地下から異臭がするという報告が近衛兵から上がっています。『王子が地下で魔物の死骸を使って禁忌の儀式をしている』という噂が広まっていますが、どう責任を取るつもりですか?」

 

「儀式? 失礼な。これは『醸成』という名の、最も高潔な対話だ!」

 

 そしてついに、その日がやってきた。

 

 発酵が終わり、数日間の低温熟成を経て、レオンハルトの「魂の一杯」が完成したのである。

 

 彼は震える手で、蛇口からグラスへと液体を注いだ。

 

「…………おお」

 

 そこには、驚くほど濃厚な、赤銅色の液体が湛えられていた。

 

 泡はきめ細かく、ムースのように盛り上がっている。

 

 グラスを近づけるだけで、完熟した果実のような芳醇な香りと、暴力的なまでのホップの香りが鼻腔を突く。

 

「…完成だ。これこそが、私が夢に見た『レオンハルト・インペリアル・エール』…! アルフレッド、見届けよ。歴史が変わる瞬間を!」

 

 レオンハルトは覚悟を決め、その液体を一口、大きく含んだ。

 

「…………ッ!!!」

 

 衝撃が、彼の全身を駆け抜けた。

 

 まず、襲いかかってきたのは凄まじい苦味だ。

 

 しかし、それは不快なものではなく、一本の太い芯のように味を支えている。

 

 続いて、麦芽の濃厚な甘みが波のように押し寄せ、最後に鼻を抜けるのは、草原を吹き抜ける風のような爽やかな香り。

 

 アルコール度数は八パーセントを超えているだろうか。

 

 喉を通る瞬間の熱さが、内臓を直接温めるような感覚。

 

「…うまい。うますぎる。…なんだ、これは。私が造ったのか? 本当に? …アルフレッド、これは奇跡だ! 私は今、麦の神と握手をしたぞ!」

 

 レオンハルトは感極まり、瞳に涙を浮かべてグラスを掲げた。

 

「これだ、これこそが私が求めていた『深淵』だ! すぐに国中の醸造所に通達を出せ! 明日から我が国のスタンダード・ビールはすべて、このレシピに変更すると!」

 

「…殿下。それを決める前に、こちらの書類を読んでいただけますか?」

 

 アルフレッドが、いつになく冷ややかな手つきで一冊の分厚い法典を取り出した。

 

「書類? そんなものは後だ! 今はこの勝利を祝…」

 

「いいえ、今すぐです。『麦冠王国酒税法・第十二条』…殿下の指しているページです」

 

 レオンハルトは、不機嫌そうにそのページを覗き込んだ。

 

「…なになに? 『王国内における酒類の製造は、国家の認可を受けた免状所持者に限る。無許可の製造は、王族といえども密造罪に問い、製造器具および製品を速やかに没収する』…。…なんだ、この野暮な法律は」

 

「法律です。そして、殿下。…確認ですが、殿下は『醸造免許』をお持ちですか?」

 

「…………へ?」

 

「国家試験をパスし、衛生管理の講習を受け、年間製造予定量を税務局に届け出た、あの『醸造家免許』です」

 

 レオンハルトの動きが、完全に止まった。

 

「…いや、私は王子だぞ? この国の麦は、いわば私の…」

 

「法律に例外はありません。むしろ王族であれば、模範を示すべき立場です。…残念ながら、ここに並んでいる液体は、法的にはただの『違法な密造酒』に分類されます」

 

「…………なっ」

 

「そして、無免許での製造が発覚した場合、器具はすべて没収。製品は下水へ廃棄。さらに、製造者には多額の罰金と、一週間の奉仕活動が課せられます」

 

 アルフレッドは、事務的な手つきで背後の近衛兵に合図を送った。

 

「…没収です。運び出してください」

 

「待て! 待ってくれアルフレッド! 私の…私の愛しき酵母たちが! 彼らは今、命を懸けてこの傑作を造り上げたんだ! それを捨てるなんて、そんな…そんな非人道的なことが許されるのか!」

 

「法的に許されないのは、殿下のほうです。…さあ、あきらめてください」

 

「アルフレッドォォォ!! 私に一杯…せめて、あと一杯だけ飲ませてくれ! この『レオンハルト・エール』を、私の血肉に刻ませてくれ!」

 

「ダメです。証拠物件の私的利用は禁じられています」

 

 近衛兵たちが、無情にもタンクを運び出していく。

 

 レオンハルトは、崩れ落ちた甲冑(二話参照)のように床に膝をつき、運び去られる麦の香りを、必死に追いかけようと手を伸ばした。

 

「…私の…私のビールが…」

 

   

 

 翌日。

 

 王宮の掲示板には、前代未聞の告知が貼り出された。

 

『第一王子レオンハルト殿下、無免許醸造の疑いにより厳重注意。および、一週間の王宮内排水溝清掃の刑を課す』

 

 レオンハルトは、泥だらけになりながら排水溝をデッキブラシでこすっていた。

 

「…アルフレッド。私は今、確信している」

 

「…またですか。今度は何です」

 

「排水溝から漂うこの匂い…。これは、私のエールが下水の中で、新たなる発酵の旅に出た香りだ。…いつか、この街の地下から、私の意志を継いだ最強のワイルドエール(野生酵母ビール)が湧き出してくるに違いない…」

 

「…妄想してないで、手を動かしてください。まだ十メートルも残ってますよ」

 

 アルフレッドは、手元の水差し(ただの水)を王子に差し出した。

 

 レオンハルトは、悔しそうに水を飲み干すと、空になったコップを見つめて呟いた。

 

「…次は、絶対に免許を取ってやる。そして、国を挙げて『ビールフェスティバル』を開催するんだ…」

 

「二度とさせませんよ」

 

 麦冠王国の午後は、今日も少しだけ騒がしく、そして王子の「醸造免許への挑戦」という、新たなる火種が生まれた瞬間でもあった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。