王子ですが、今日も城を抜け出して飲んでいます 作:高校ジャージ10年目
麦冠王国の四月末。春の終わりを告げる日差しは、すでに初夏の暴力的な輝きを帯び始めていた。
王宮の裏手に位置する広大な王立模範農場。そこでは今、およそ王族とは思えない格好をした男が、泥にまみれて絶叫していた。
「…アルフレッド! 腕が、腕がもう自分のものとは思えん! この鍬(くわ)は、実は一トンの重さがあるのではないか!?」
「殿下、それはただの標準的な農具です。あと、まだ十メートルも進んでいませんよ」
第一王子レオンハルトは、煤けたシャツの袖をまくり、額の汗を泥だらけの腕で拭った。その顔は、数日前の「無免許醸造事件」のショックと、連日の奉仕活動による肉体的疲労で、目に見えてやつれている。
元々は、王宮内の排水溝清掃が刑期だったはずだ。しかし、王子があまりにも「下水に流した我が子の残り香(=密造したビールの匂い)」を求めて排水溝に顔を突っ込み、うっとりと恍惚の表情を浮かべるため、危機感を覚えた補佐官アルフレッドが刑罰を「野外労働」へと切り替えたのである。
「いいですか、殿下。昨日のあなたは、排水溝に向かって『お前たちは下水の中で、新たなる発酵の旅に出るのだな…』と語りかけていました。あれは、控えめに言って異常事態です。一度、土に触れ、太陽を浴び、健全な労働の尊さを骨の髄まで叩き込む必要があります」
「私は…私はただ、生命の循環について思案していただけだ! それを、こんな灼熱の農場に送り込むとは…。アルフレッド、君は私の忠実な補佐官ではなく、麦の神が遣わした試練の悪魔か何かか!?」
アルフレッドは、涼しい顔でパラソルの下に立ち、キンキンに冷えた(ただの)水を一口飲んだ。
「なんとでも。さあ、そこを耕し終わらない限り、今日の『水分補給』はありませんよ」
「鬼だ…! ここに冷徹な鬼がいるぞ!」
レオンハルトは、折れそうな心を奮い立たせ、再び鍬を振り下ろした。
乾いた土が舞い、太陽が容赦なく体力を削っていく。喉は砂漠のように乾き、視界の端には幻のビールが泡を立てて踊っている。もはや極限状態だった。
正午を告げる鐘が鳴り響いた。
農場で働くベテラン農夫たちが、一斉に作業を止め、大きな木の木陰へと集まっていく。
「…休憩だ。ようやく、救いの時間が来た…」
レオンハルトは、ゾンビのような足取りで、農夫たちの輪へと近づいていった。
農夫たちは、年季の入った大きな木樽から、素焼きのジョッキになみなみと何かを注いでいた。
レオンハルトの「ビールの嗅覚」が、瞬時に反応した。
(…待て。あれは、水ではない)
それは、少し濁りのある、明るい琥珀色の液体だった。
王宮で飲む透明なラガーのような「完璧な清澄感」はない。しかし、木陰に吹く微風に乗って届いたその香りは、王子の脳細胞を一瞬で覚醒させた。
「…フルーティー。だが、ヴァイツェンのような重厚なバナナではない。もっとこう…野草の香り、シトラスの皮、そして…胡椒のようなスパイシーな刺激臭?」
レオンハルトは吸い寄せられるように、農夫の元へ歩み寄った。
「…おい、そこの誇り高き大地の守り手よ。君たちが飲んでいる、その『黄金の液体』は何だ? 私にも、一口…いや、一滴でいい。その正体を解き明かす権利を与えてくれないか」
農夫たちは、泥だらけの「自称・修行中の貴族(王子だとは気づいていない)」を見上げ、豪快に笑った。
「なんだい、兄ちゃん。お貴族様の口に合うもんじゃないぜ? これは俺たちの『命の水』さ。さあ、飲みな!」
差し出されたジョッキを、レオンハルトは両手で受け取った。
温度は、キンキンではない。地下の貯蔵庫で冷やされていたのだろうか、ひんやりとはしているが、ビールの個性を消さない程度の「涼しさ」を保っている。
レオンハルトは、儀式のように深呼吸をし、その液体を喉に流し込んだ。
「…………ッ!!!」
衝撃。
それは、これまでに経験したどんなビールとも違う「喉越し」だった。
「…なんだ、このドライなキレは! 水のようにスルスルと入っていくのに、舌の上には強烈な個性が残る。…柑橘系の爽やかさの後に、農場そのものを凝縮したような、土っぽくも芳醇な余韻…。そしてこの、喉を刺激するスパイシーな感覚は、まさか…」
レオンハルトは、空になったジョッキを見つめ、震える声で叫んだ。
「セゾン(Saison)だ! これは、農家たちが愛した、伝説の『季節のビール』ではないか!」
驚く農夫たちをよそに、王子の「解説モード」が暴走を始めた。
「アルフレッド! 聞け! これこそがセゾン(農場のビール)だ! かつて、冷蔵技術のない時代、農家たちは冬の間に、夏の過酷な農作業の間に飲むためのビールを仕込んだ。保存性を高めるためにホップを贅沢に使い、さらに高めの温度で発酵させることで、独特のスパイシーな風味を生み出したのだ!」
彼は再びジョッキを満たし、太陽にかざした。
「いいか。これはただの酒ではない。水が不衛生だった時代、農夫たちが安全に水分を補給し、かつ失われたエネルギーを補給するための『機能的飲料』なのだ! この少しの酸味、この爽快なキレ、そして複雑なアロマ…。これこそが、大地の労働と一対一で向き合うための正解だ!」
農夫の一人が、感心したように頷いた。
「へえ、詳しいんだな。まあ、理屈は分からねえが、こいつを飲まねえと夏の野良仕事はやってられねえ。こいつは俺たちの『誇り』そのものよ」
「…誇り。そうか、誇りか」
レオンハルトは、自分の泥だらけの手を見つめた。
「アルフレッド! 鍬を持ってこい!」
「…は?」
急に立ち上がったレオンハルトに、アルフレッドが怪訝な顔を向けた。
「私は理解した! セゾンを本当に理解するためには、セゾンの背景にある『労働』という名のスパイスを、己の肉体に刻み込まなければならない! このビールは、怠惰な王子のためにあるのではない。土を愛し、麦を慈しむ、戦士たちのためのものだ!」
そこからのレオンハルトの変貌ぶりは、農場の歴史に残るものだった。
これまでのヘロヘロな動作はどこへやら、彼は猛然と鍬を振るい、誰よりも深く土を掘り返した。一列終わるごとにセゾンを一口飲み、「うおおお、酵母が…セゾン酵母が、私の筋肉の中で再発酵しているぞ!」と叫びながら、再び畑へと戻っていく。
「殿下、そんなに飛ばすと後で動けなくなりますよ」
「構わん! 私は今、農夫たちの魂と一体化しているのだ! 見ろ、アルフレッド、このジャガイモの苗を! 彼らもまた、セゾンの香りに誘われて地上を目指しているではないか!」
「…苗はまだ植えていませんよ、それはただの雑草です」
茜色に染まる空の下、レオンハルトと農夫たちは、最後の一樽を囲んでいた。
労働を終えた後の沈黙。ただ、風が麦の穂を揺らす音だけが聞こえる。
「…………っ、染みる。染み渡るぞ…」
レオンハルトは、ゆっくりとセゾンを味わった。
昼間の荒々しい飲み方とは違う。一日の労働を労う、慈しむような一口。
「アルフレッド。私は今、真理に一歩近づいた気がする。ビールとは、単なる嗜好品ではない。それは、人間の営みを肯定し、明日への活力を与える『聖なる燃料』なのだ。王族として贅沢な暮らしをしていた私には、この『汗とビールの等価交換』の尊さが、分かっていなかったのかもしれん」
アルフレッドは、少しだけ、本当に少しだけ、優しい目で王子を見つめた。
「…少しは更生の甲斐があったようですね。その言葉、忘れないでくださいよ」
「ああ、忘れないとも。…だから、私は決めた」
レオンハルトが、力強く立ち上がった。その手には、先ほどまでの謙虚な農夫の姿はなく、いつもの「ビールの暴走王子」としての光が宿っていた。
翌朝。
筋肉痛で一歩も動けないはずのレオンハルトは、這うようにして執務室へ現れ、アルフレッドに一枚の紙を突きつけた。
「アルフレッド! 緊急の提案だ! 私は昨夜の思案の結果、一つの結論に達した。我が国の農業振興とビールの品質向上を同時に達成するため、『王立・農耕文化及び特殊発酵技術試験醸造所』を、この農場内に設立する!」
「…はい?」
「これは、あくまで『農業研究』の一環だ! 特定の農作物を、液体状の保存食へと変換するプロセスの最適化。そう、これは学術研究なのだ! 研究施設には、当然ながら『国家免許の例外規定』が適用されるはずだ。つまり、私はここで、合法的に、思う存分セゾンの品種改良(醸造)ができるというわけだ!」
アルフレッドは、無言で書類を受け取ると、そのままゴミ箱へとシュートした。
「…殿下。セゾンに出会って『労働の尊さ』を学んだのではなかったのですか?」
「学んだぞ!だからこそ、最高の労働環境(=醸造所)が必要だと主張しているのだ!」
「却下です。昨日の労働で、殿下は『一週間分の奉仕活動』をわずか一日で終わらせてしまいました。よって、今日からは新しい刑罰…いえ、更生プログラムです」
「な、なんだと…?」
「『清泉王国の王女・クララ殿下による、ラガービール十番勝負の再戦・立ち会い』です。彼女、昨日の市民との飲み比べで負けたのが相当悔しかったらしく、今朝から王宮の門前で『ピルスナーを冷やして待ってるわよ!』と叫んでいますよ」
「…あ、あの女…。二日酔いの頭に、キンキンのラガーは毒だと言っただろう…!」
「さあ、行ってらっしゃいませ。これもまた、王族としての立派な『労働』ですから」
レオンハルトの叫び声が、今日も麦冠王国の空に響き渡った。